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「少年自然の家って言うとさ、私も、なんていうか……つらい体験したことがあるんだけどね」
居酒屋で、少年自然の家(山にある児童宿泊施設。小中学校のレクリエーションに使ったりする)にまつわる怪談をしていた際、出てきた話。
耳や鼻にいくつもピアスをつけ、カラコンを入れているタイプの、ヤンチャめなお姉さんがそう切り出した。
名前を仮に、Oさんとしておこう。
「もちろん、今みたいになってない頃の話ね」
小学5年の時だという。
全何泊の行事だったかは忘れてしまったものの、確か2日目の夜だった。
予定されていた肝だめしが、急に中止になったという。
雨も降っていないし風も強くない。もちろんクマが出ただの崖が崩れただのいう災禍もない。理由もわからぬまま、突然取り止めになった。
「でさ、代わりにやったのがね、体育館みたいなホールで先生が、なんか本とか朗読すんの。つまんなそうでしょ?」
実際ひどくつまらなかった。
肝だめしの予定が潰れたので朗読会は夜である。日中動き回ったのに暗くなってからおとなしく座っているのは、だいぶかったるかった。
教師の目が光っているので友達とお喋りすることもできず、Oさんは昼間とのギャップもあり余計に疲れを感じた。
「で、やっと終わって、『つまんなかったね~』とか言い合いながら部屋に戻ってね。あ、もちろん個室じゃないよ。畳に布団でもなく、洋室ね」
部屋の左右に2段ベッドが2組ある、8人が眠れる部屋である。
中央の通路はひどく狭く、荷物を置いたらスペースの大半は埋まってしまう。本当に寝るためだけの部屋だった。
「昼は外で活動して、夜はつまんねー朗読会でしょ。子供心に『あ~、これはすぐ寝ちゃうなぁ』と思ってた」
寝つきはよく、眠りの深いOさんだった。このまま朝までぐっすりだろうな、と布団をかぶると、友達とのお喋りもそこそこに案の定、すぐさま眠りに落ちた。
目が覚めた。
目が慣れるまでしばらくかかるくらいの暗闇だった。11時は回っているだろうか。もしかすると深夜1時とか2時かもしれない。
尿意を感じているわけでもないのに、割箸が綺麗に割れたみたいにパキッ、と目が覚めてしまっていた。
はじめて泊まる場所とは言え、昨日はよく眠れたし、こんな経験あんまりないんだけどな、どうしちゃったんだろう……
しばらく下段のベッドの中にいて、上のベッドの裏の木目などを意味もなく眺めていた。
すると。
誰かが廊下をぺたぺたと歩いてきた。
誰だろう、こんな夜中に。あぁ先生の見回りか。みんなちゃんと寝てるかどうか……
その足音は部屋の前で止まった。Oさんがこっそりそっちを見やると、入口のドアが開いた。
ところがドアを開けただけで、やって来た誰かは顔を見せない。
起きているか確認するのなら、ちょっとくらい身を入れてきても変ではないのに。物音や会話だけ聞いている感じでもない。
おかしいな。部屋が真っ暗で、話し声もしないなら、すぐに次の部屋に向かってもいいはずなのに。
そのうちに、妙なことがわかった。
「……………………ククッ…………フフフフッ…………ンフフッ…………」
入口の陰にいる人物は、笑っていた。
正確には笑いをこらえようとしてこらえきれず、吹き出している。
「フフッ……ククククッ……ふふふっクックッ、クッ…………」
中年の女の笑い声だった。
この笑い声。うちの学校の先生方の声ではない。
今回の宿泊は自分たちの学校だけのはずだし。
中年女性──確かここの施設には、若い女の人とおじいさんくらいしかいなかったはずだ。
じゃあこの人は、誰なのか。
そもそも何に笑っているんだろう。
少し怖くなりはじめた時、姿を見せない女は、洩れ出る笑いのスキマからこう言った。
「フフフッ……クククッ……き……きゅうにん、いる……!」
…………9人いる?
いるわけない。
ここは左右に、ベッドが上下二段ずつの8人部屋だ。ベッドは満員だ。
この人の笑っている意味がわからない。
女はクスクス吹き出しながら、9人いるゥ……!9人……!と幾度か繰り返して、ようやっとドアを閉めた。ぺたぺたとあっちへ歩いていく。
──「ぺたぺた」と?
普通こういう施設の大人なら、スリッパか内履きを履いて行動するだろう。
どうして裸足なんだ?
寝直そうにも女のことが頭から離れなかった。かと言って誰かを起こすのも悪い。
この施設の夜番の人だろうか。でも何故裸足なのだろう。9人いるとはどういうことなのか。どうしてそんなに可笑しいのか。
モヤモヤ考えながら何度も寝返りをうっていると、またぺたぺたと向こうから歩いてくるのがかすかに聞こえてきた。
さっきから5分と経っていない。部屋の見回りにしても早すぎるし──
足音はまた、部屋の前で止まった。
ドアが開く。
今度もまたドアは開いただけで、女は中を覗かない。
そのうちまた、笑いはじめた。
「ククク……ンフフッフフッ……クフフフッ……9人……!9人いるゥ……!!」
声はもうかなり大きく、この部屋のみんなが目覚めてもおかしくないくらいだ。なのに同室の誰も、誰一人として身じろぎもしない。
異様な状況だった。
そのうちまたドアが閉まって、ぺたぺたと女は遠ざかっていった。
たぶん、あれはまた来るだろう、とそう思った。
…………怖い。
Oさんは耐えきれなくなってきて、一人か二人を起こそうと考えた。
下段だから簡単に動ける。起こすなら女が来ていない今しかない。
彼女はゆっくりと体を動かして、隣か向かいの同級生に声をかけようと、一度ベッドの外に出ようとした。
Oさんの心臓は一瞬、止まってしまった。
左右に並んだベッドの狭間。
人ひとりが通れるくらいの通路。
そこに、見たことのない女の子が寝ていた。
白い服を着ていた。夏なのに長袖だった。入院着のようにも見えた。
女の子は両腕をまっすぐ頭の脇に伸ばして、背伸びでもするように通路に横たわっている。
白い顔には表情がまるでない。感情も浮かんでいない。死んだような目で、ぼんやりと天井を見つめていた。
えっ、この子、なに、どうして……?
Oさんの頭の中はグチャグチャにかき乱れた。理解のできないことが一気に押し寄せてきて悲鳴も出てこない。
そこに、中年女の声が響いた。
「うふふふふっクックックッフフフフッやっぱりィ、9人いるよねェ…………!」
声がしたのはドアの方からではなかった。
Oさんがいるベッドの近く。外に面している窓とカーテンのすぐ向こうだった。
「クククッ……ねーェ?やっぱりいるよねェ!フフフッ9人……!9人いるよねェ?」
女の声はもう独り言ではなくなっていた。
誰かに話しかけているような口調になっていた。
Oさんの恐怖心が限界を越えた。
通路で寝ている知らない子も怖いが、とにかく誰かを起こしたい。自分ひとりでは恐ろしくて無理だ。
「ねぇ……ちょっと……ちょっとっ……!」
出来る限り小声で隣のベッドに呼びかけたものの、反応がないのでこらえきれず身体を起こして隣を覗いた。
ギョッとした。
隣のベッドの子は、布団をかぶりながらブルブル震えているのだった。
そうか、とOさんは思った。
この子も笑ってる女に気づいてたんだ。
私と同じように怖くて怖くて、でも声も出せないんだ。
だから布団をかぶって、恐怖で震えて──
違う。
そうではない。
確かに布団はブルブルと震えている。
でもその下から、声が、息遣いが聞こえる。
ふふふふっククックククッウフフッくふふふふふっ
この子、笑ってる。
笑うのを我慢してる。
Oさんがそのことに気づいた途端。
他の全てのベッドからも同時に、我慢しきれない笑い声が聞こえてきた。
くふふふふふっウフフフッふふふっ
ククククッひひっクククッ……きゅうにん……
ふふふふふふふふうふふふふふふふふふっふふふっ
うふふふっあっはっはックックックックックッ……
くふふふふっき、きゅうにん……きゅうにんいる……!
ククッウフフフッきゅうにん……いるよね……!
…………クックックッふふっ、ふふふっ……9人いるゥ……!
Oさんを除く7人と外の女の笑い声が、部屋中に渦を巻くように響いた。
うふふふふっ……!きゅうにん……!クックックッ!
ねぇ!9人!9人いるもんねェ!!
7つのベッドに寝ていた全員が跳ねるように起き上がる音がした。
そのまま失神してしまったらしい。
Oさんは朝、布団の中で無事に目が覚めた。
動悸を感じながらゆっくりと起きたが、すでに起床していた同室の友達には、何の変化もなかった。変わらない表情と態度で「おはよう」と言ってくる。
ドアにも窓にも変わった様子は見当たらなかったし、その後で会った先生や施設の人の反応も、昨晩と同じだった。
昨日部屋を覗いてきた中年女の声も、部屋の中央で横たわっていた女の子の顔も、大人たちや友達の中には見つけられなかった。
後々、長じてから自分なりに調べてみると、どうもその少年自然の家の近くにはその昔、「療養所」のようなものが建っていたらしいことだけがわかったそうだ。
ただ、そこがどんな療養所だったのか、事件や事故は起きたのか、死んだ人はいたのか、そのようなことはまるで不明だった。
「でもね。もっと嫌なのがさ」
Oさんはピアスを揺らしながらこう続けた。
「私、その翌日から、少年自然の家から帰るまでの記憶がね、ごっそり抜け落ちてるんだよね。だから何泊だったかわかんないの」
それにね。
「中学に上がった直後に、小学校の卒業アルバム、私が自分で捨てちゃってたんだって。
その体験以外は平和な学校生活だったのにさ。しかも捨てたこと、全然覚えてないんだ……」
あれって、なんだったんだろうね。
Oさんはあの夜の恐怖だけは、いまだに忘れられないのだという。
(了)