2chスレ・読み物

1000年前に自分がお坊さんだった記憶が鮮明に残っている…→記録を辿ったら本当に実在する人だった

前世の記憶が蘇った方のツイートが話題になっていました。先に言ってしまうと、前世は、平安時代を生きた第65代天皇「花山天皇(かざんてんのう)」だと思われます。

僕は本当であれば楽しいなと思いますし、何よりこの方の話す平安時代の様子が興味深いです。


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ある日、マグロジュースさんのツイートが話題に

ある日「1000年前に自分がお坊さんだった記憶が鮮明に残っている」というマグロジュースさん(@magurojuice)のツイートが話題になりました。

このツイートから、蘇った前世の記憶について語っています。非常にリアルで読み物として秀逸です。この方を病気だと決めつける方もいますが個人的には無粋だと思います(*^^*)

以下に前世関係のツイートをまとめます。

前世の花山天皇について

その前にこの方の前世と思われる花山天皇についてご紹介します。

▼第六五代目の天皇 花山天皇

花山天皇は平安時代に実在した第六五代目の天皇です。若くして妻を亡くし、その後、政敵にだまされて出家させられてしまいます。

なぜ出家させられたのかというと、外祖父の藤原兼家。彼の七歳の孫(居貞親王・三条天皇)を登極させるために藤原兼家が騙して天皇を出家させたのです。

出家の引き金となったのは、深く愛していた女御藤原忯子が妊娠中に亡くなったことです。
嘆きが大きかったのにつけ込み、蔵人として天皇の側にあった兼家の子の道兼が、自分も一緒に出家すると騙し、山科の元慶寺(花山の麓)に連れだし出家させたうえで、自分は逃げ出します

このとき、護衛をしたのが清和源氏三代目の多田満仲で、これがひとつのきっかけになって台頭していきます。

ともかく、出家してしまっては、天皇であることはできなかったので、藤原兼家の陰謀による結果を誰も覆させなかったのでした。

※以下、ウィキペディアより引用

花山天皇(かざんてんのう、かさんてんのう、968年11月29日〈安和元年10月26日〉- 1008年3月17日〈寛弘5年2月8日〉)は、
日本の第65代天皇(在位:984年9月24日〈永観2年8月27日〉- 986年8月1日〈寛和2年6月23日〉)。諱は師貞(もろさだ)。

花山源氏(神祇伯を世襲した伯王家、のち断絶)の祖。花山院(かさんいん)や花山法皇とも呼ばれる。

略歴

安和2年(969年)、父冷泉帝の弟叔父である守平親王の即位(円融天皇)と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。生後10か月足らずで立太子したのは、摂政であった外祖父伊尹の威光によるものだが、17歳で即位時には既に伊尹は亡くなっており、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。

関白には先代に引き続いて藤原頼忠が着任したが、実権を握ったのは、帝の外舅義懐と乳母子藤原惟成であった。義懐と惟成は荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化、武装禁止令、物価統制令、地方の行政改革など革新的な政治を行ったが、革新的な政策は関白である頼忠らとの確執を招いた。さらに皇太子懐仁親王の外祖父である右大臣藤原兼家も花山天皇の早期退位を願って、天皇や義懐と対決の姿勢を示した。そのため、宮中は義懐派・頼忠・兼家の三つ巴の対立の様相を呈して政治そのものが停滞するようになっていった。

ここに天皇の女性問題が加わる。藤原為光の娘・藤原忯子に劇的に心動かされた天皇は、忯子を女御にすることを望んだ。義懐の正室は忯子の実の姉であり、天皇は直ちに義懐に義父・為光の説得を命じた。娘婿の必死の懇願に為光も忯子の入内を決める。深い寵愛を受けた忯子は懐妊するが、寛和元年(985年)7月18日、17歳で死去した。これにショックを受けた天皇は、「出家して忯子の供養をしたい」と言い始めた。義懐は天皇の生来の気質から、出家願望が一時的なものであると見抜き、惟成や更に関白頼忠も加わって天皇に翻意を促した。

寛和2年(986年)6月22日、19歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『栄花物語』『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみに暮れる天皇と一緒に自身も出家すると唆し、内裏から元慶寺(花山寺)に密かに連れ出そうとした。このとき邪魔が入らぬように鴨川の堤から警護したのは兼家の命を受けた清和源氏の源満仲とその郎党たちである。天皇は「月が明るく出家するのが恥ずかしい」と言って出発を躊躇うが、その時に雲が月を隠し、天皇は「やはり今日出家する運命であったのだ」と自身を諭した。しかし内裏を出る直前に、かつて妻から貰った手紙が自室に残ったままであることを思いだし、取りに帰ろうとするが、出家を急いで極秘に行いたかった道兼が嘘泣きをし、結局そのまま天皇は内裏から出た。一行が陰陽師の安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。もうすでに…式神一人、内裏へ参れ」という声が聞こえ、目に見えないものが晴明の家の戸を開けて出てきて「たったいま当の天皇が家の前を通り過ぎていきました」と答えたと伝わる。天皇一行が寺へ向かったのを見届けた兼家は、子の藤原道隆や藤原道綱らに命じ三種の神器を皇太子の居所であった凝華舎に移したのち、内裏諸門を封鎖した。

元慶寺へ着き、天皇が落飾したのを見届けたのち、道兼は親の兼家に事情を説明してくるという理由で寺を抜け出し、そのまま逃げて出家はせず、ここで天皇は欺かれたことを知った。内裏から行方不明になった天皇を捜し回った義懐と惟成は元慶寺で天皇を見つけ、そこで政治的な敗北を知り、共々に出家した。この事件は寛和の変とも称されている。出家にともない懐仁親王(一条天皇)へ譲位し、太上天皇となる。

この事件は親王時代に学問を教え、当時式部丞になっていた紫式部の父藤原為時(以降長く出世が途絶える)や、尾張国郡司百姓等解文で有名な藤原元命(甥または叔父が惟成)のその後の出世にも影を落とした(「尾張国解文」項目参照)。

出家後

出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺(兵庫県宝塚市)でこの宝印を探し出し、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤め、大きな法力を身につけたという。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されており、各霊場で詠んだ御製の和歌が御詠歌となっている。

この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺とし西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。

花山院菩提寺の真南に位置する六甲山山頂付近の六甲比命神社の磐座群の中の仰臥岩に、花山法皇、仏眼上人、熊野権現連名の碑がある。

出家後の有名な事件としては、長徳2年(996年)花山法皇29歳のとき、中関白家の内大臣藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。同年1月半ば、伊周が通っていた故太政大臣藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君(藤原儼子。かつて寵愛した女御藤原忯子の妹)に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は自分の相手の三の君に通っているのだと誤解し、弟の隆家に相談する。隆家は従者の武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜く(さらに『百錬抄』では、花山法皇の従者の童子2人を殺して首を持ち去ったという話も伝わっている)。花山法皇は体裁の悪さと恐怖のあまり口をつぐんで閉じこもっていたが、この事件の噂が広がるのを待ち構えていた藤原道長に利用される形で、翌月に伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に左遷の体裁を取って流罪となった(長徳の変)。これにより、あの出家事件の首謀者であった兼家の孫で、道隆の子であった中関白家の伊周はライバルの道長に政治的に敗北することとなり、出世の道は途絶えた。

寛弘5年(1008年)2月花山院の東対にて崩御、紙屋上陵(現在の京都市北区衣笠北高橋町)に葬られた。享年41。死因ははっきりしないが悪性腫瘍によるものと考えられている。

乳母は橘則光の母右近尼。

逸話

父親の冷泉天皇も数々の逸話が残る人物であるが、花山天皇は当世から「内劣りの外めでた」などと評され、乱心の振る舞いを記した説話は『大鏡』『古事談』に多い。天皇に即位する前、高御座に美しい女官を引き入れ、性行為に及んだという話が伝わる。出家後も好色の趣味を止めることなく女性と関係を持ち、上記の「長徳の変」と呼ばれる逸話も出家後の話である。また、同時期に母娘の双方を妾とし、同時期に双方に男子を成している。その2人の子を世の人は「母腹宮」(おやばらのみや)「女腹宮」(むすめばらのみや)と呼んだ。

また、即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある[1]。こうした所業がただちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた2人の賢臣、権中納言藤原義懐と左中弁藤原惟成の献身的な支えによるところが大きい[1]。

その一方で、絵画・建築・和歌など多岐にわたる芸術的才能に恵まれ、ユニークな発想に基づく創造はたびたび人の意表を突いた。特に和歌においては在位中に内裏で歌合を開催し、『拾遺和歌集』を親撰し、『拾遺抄』を増補したともいわれる。

参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/花山天皇

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前世の記憶について

(マグロジュースさん):かなり慎重な性格なので脳の病気だという説は未だに捨ててません。

ただ自分の前世記憶と同じ行動をした人物が実在して、1000年前の記録に、残っている所まで確認しました…ほんとに…平安時代の文化とか、当時の人がどんな暮らししてたかとか、めっちゃ鮮明に話せます。

生まれは京都でした。宗教的に地位のある家柄でクソガキでしたけど周りの人に敬称で呼ばれてました。糞野郎でしたけど奥さんがどこまでも良い人で… その奥さんを結婚してすぐ亡くして、お坊さんルート入りました。でも寺稚児と恋愛してたんで生臭坊主ですね。信長に瞬殺されるタイプの坊主です。

いやでも信長だって森蘭丸きゅんと熱愛してたし俺がお坊さん時代に寺稚児という名の男の娘と恋愛関係だったとしても文句は言えないぞ。

以下から平安時代の様子について語られております。

平安時代の様子

平安時代の仏教・文化ついて

平安仏教を一言で表すとクリエイティブセンスの溢れる坊さん達が自由に、新しい仏教を作っていた時代

今みたいに伝統を受け継ぐ保守的感覚はあまり無くて、創造的。仏教建築も芸術も思想もアップデートしまくって自分たちで解釈して作るの。楽しいよ。

平安の坊さんは今みたいに静かに木魚でぽくぽくお経唱えるイメージではないです。
大人数で集まって鈴を鳴らしながら物凄い声量で唱えてました。坊さん密度めちゃ高いです。
なので坊さんの集まる上訴は今のデモ行進なんてもんじゃない、めちゃ怖いです。神々しさや威圧感でもう異次元です。

どこ行っても捨て子だらけでした。避妊しないしね。で、お寺で引き取って育てます。僧兵になる人は捨て子率高いです。

あとなよっとした子は舞踊やったり時に男色相手になったりします。女人居ないので、自然に女の子化するという…カオスな空間で何だかんだ皆幸せに生きてました。

あとかやぶき屋根って、そんな毎度毎度手入れしないので基本コケや草が生えてて緑色でした。屋根に変な瓜みたいな実がなってる時もありました。今の観光地にある茶色くて綺麗なかやぶきの家は、新築ですね…家の中にまで竹が生えまくってたりするのが普通です。

私が死んだ後に地元の人がやってくれたんだと思うんだけど…

自分と奥さんの墓が向かい合っていて、奥さんの墓の周りを当時の付き人達の墓が囲んで、
守るように立ってて。涙が止まらんかったです。みんなに優しくしといて良かった…

田舎の人の食事は、そばがきやヤマイモが多めです。
食べ方はとろろそばじゃないです、そばは丸めて単体で食べてたし、山芋は薄く切って焚火であぶって、ポテチみたいにして食べます。

遊戯王カード集める子供みたいに、風車コレクターはの子供はヒーローです。

バズったのもきっと何かの縁だと思いますので、気負わずに前向きに考えようと思います。自殺考えてたのは黒歴史なので知れ渡っちゃって若干はずいです。今は普通です。

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前世の記憶についての質疑応答に

以下は平安時代の様子の質問に答えた内容です。

平安時代のギャグ

@hawaiianrunrun

平安時代のギャグを教えて欲しいです!!

— るんるん (@hawaiianrunrun) 2018年1月17日

山門のギリギリんとこまでみんなフザけてて入った瞬間から急にシャンとするやーつ!

ガキ使の笑ってはいけないシリーズで敷地入った瞬間から笑っちゃダメみたいな感じで…そこでひと悶着あったりするじゃないですか。あんな感じです。

山法師の人達大好きだったんですけど面白い人多くて笑いのセンスは神がかってます、野性爆弾くっきーとか千鳥大悟とかバッドナイス常田さんみたいな人がいっぱい居ると思ってください。

お坊さんの旅は粛々としてありがたみが深い物だと思われがちですが、道中暇だし子供や若い人が多いので結構ふざけてわいわいしてました。

どこの出かも分からない人と、途中で出会って一行に加わったりもします。水曜どうでしょうをもっと大人数でやるような感じですかね、楽しいです。

前世との共通点

@aaa_taka_

前世と現世の自分は似ていますか?
見た目、性格、能力、好き嫌いなどです!
— ろむあか (@aaa_taka_) 2018年1月18日

はい、似てます。見た目は、肖像画が数枚残ってます。今の顔とほぼ変わりません。

昔の名前明かすと怖いので各々で調べてほしいですが…私のTLにある自撮り写真と比べてみると、似てますよ。ただ今の体の方がまつ毛長くてスネ毛が濃いですねw

人差し指をピーンと立てる癖があるんですが、肖像画の自分もガッツリ人差し指立ってて、あ、やっぱ俺やんってなりました。

性格もほぼ一緒です、が今のほうが幾分真面目です。昔は結構ふざけたり思い付きで行動する事が多くて周りに迷惑かけてました。そういう所で失敗して恥ずかしい思いしたり後悔が多かったので今は物凄く慎重で、目立ちたくないです。

前世と好き嫌いも似ている

能力も好き嫌いも一緒です。昔は色んな楽器弾いて 歌を詠んで 馬乗って 仏道極めて 旅してました…今はボカロで音楽作って ラップ作詞して バイク乗って 人文学研究して 旅してます、性的嗜好も同じです。想像ですけど遺伝子的に似てたり同じような性質の体にしか生まれてこれないんじゃないかって思います。

自分の詠んだ歌も残ってますが今も昔も、雰囲気がほぼ一緒です。個人的に、和歌や漢詩と日本語HIPHOPって妙に共通点を感じてしまいます。最小限のメロディーで押韻に合わせて日本語を綺麗に組み立てて歌う…同じ感覚で作ってますね。。

平安時代の生活の様子

@folkartinJPN

前世から現世まで好きな食べ物、好きだったけど現在では素材が変わってしまって味が違うものがあったら教えてください。

— 戌飼七々子Nanako (@folkartinJPN) 2018年1月17日

山芋と、そばです。今も昔も好きですが、山芋は薄く切って焚火で焼く、そばはこねた奴をちぎって汁物で食べるのが平安田舎流です。「そばがき」って奴です。

そば粉こねてちぎって鍋の具にでも入れてみてください、もちもちして超うまいです、なんで消滅したんですかね…何で細ーく切っちゃったんですかね。あと伊藤園のそば茶の味が異様に懐かしく感じます。

話し言葉について

@AmaneL_zatta_fu

話し言葉が気になります!
発音や文法など現代と何か違うところはありますか?
-太郎左衛門之介 @AmaneL_zatta_fu

言葉についての質問をとても頂いてるんですがごめんなさい、全然思い出せません。文献も忘れて?いて全然読めません。分かりにくいのが言葉や地名・人名。逆に分かりやすいのが人の顔や景色などです。

強いて言うなら、公家はめっちゃひそひそ話します。声がデカい奴は駄目みたいな暗黙ルールがあって鼻声でささやくようにしゃべります。この喋り方をする人が現代にいたら超じれったいですね。ハッキリ喋れよ!ってなりますね。

当時の女性について

@kurama_yu_haku

平安時代の女性は本当にオカメみたいな顔なんでしょうか?
現代のタレントさんでいうとどのようなお顔ですかね?

— (@kurama_yu_haku) 2018年1月18日

当時の女性についての質問も多かったですね、オカメ顔のぽっちゃり系がモテるのは本当です、今みたいに痩せている人が良いなんて感覚は1ミリもありません。真逆です。芸能人はみんな痩せているので中々難しいですね…。

浅田真央さん、剛力彩芽さん、を、太らせた感じです。皇族の秋篠宮姉妹のような丸顔も美人です。

平安女子はお菓子いっぱい食べても太るのを気にしなくて良いので食べるのが好きな人が多い。食欲あっても隠さなくてOKです。そんな事する意味が無いです。

今の女子は細い体になろうとして自分から飢餓状態を作っているじゃないですか、逆に現代の方が物凄い違和感があります。昔の人が飢餓を無くして健康に生きられる世の中目指して頑張って、ようやくその時代になったのに細くなろうとしてるなんて…とても複雑な心境です。

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平安時代の動植物

@weiss_katze_

はじめまして!とても興味深く、他の関連ツイートにもレスさせて頂いております。早速質問ですが、平安時代には現代に見かけない、動植物、昆虫などはいましたか?

— しろねこさんぽ (@weiss_katze_) 2018年1月17日

植物ですけど…瓜ですね。今は全くないですけどいろんなタイプの瓜です。草ボーボーのかやぶき屋根の上にも瓜が生えてたり。

お寺での一日

@yuki_neko_80

ff外からいきなりすいません。

お寺での一日はどんな感じでしたか?
今のお坊さんとどれくらい違うのか気になります……

たくさん質問が来ているので、余裕があればで大丈夫です……。

— れん (@yuki_neko_80) 2018年1月17日

朝が印象的です、私はいつも遅く起きます。働き手は子供が多いので子供がどたばた走り回る音で目が覚めます、みんな凄い働き者で起きる頃には支度が整ってます。

服まで着せてくれます。お礼に服や京菓子を送ると見た事無い位目を輝かせて喜びます。
たまに京都から偉い人が様子を見に来ます、山の上に寺があるんですけど、下りてこいって言うんですよ。凄く嫌な感じです。

山の下にいっぱい居る尼さんたちと相談して、登らせようぜって事になってメタボなおっさんを登山させていじめてました。すみません。

安倍晴明について

@sumi_sumi1989

歴史上の人物で遭遇された方がおられましたら詳細など..

— うしゃしゃさん (@sumi_sumi1989) 2018年1月17日

これはあまり言うと間接的に私が誰か分かってしまうので怖いんです…安倍晴明に会った事ありますかっていう質問も来たんですが…

はい…。彼はみんなの憧れです、彼は下手に出る人ですがじわじわ煽ってくるタイプのおじさんです。心の中ではコイツ面倒くさって思われてましたねきっと。でも優しいですよ、クライアントにはとても手厚い人ですので最後まで見放しません。

母親が狐だと言われていますが彼の母は知りません。普通のおじさんです。顔は…思ってるようなイケメンではないです、くしゃっとしたおじさんです。くしゃおじです。

藤原道長もあります。政治家としてやり手だったのは間違いないですけど、ただ和歌とかオシャレのセンス全然無いです、多分人に選んでもらってますね。ださいなーと思ってましたごめんなさい。

体裁の為に嗜んでいるので創作したり、オシャレをするという概念が無いっぽいですね、芸術家の感性ゼロです。仕事マンです。

彼の歌がどれだけ残ってるかは分かりませんが、多分うーん…って感じだと思います。あの時代はもっと情緒にあふれた凄い歌人がいっぱいいます。

陰陽師の仕事について

はじめまして。
陰陽師の仕事について、大まかにで良いのですが、当時はどの様に見えましたか?
(マグロジュースさんからの視点と、当時周りに居た方々の意見が知りたいです)
2018年1月18日

これは凄く話したかった、陰陽師は居ました。今はオカルト扱いですが平安時代は全然違います。

陰陽師のお家芸の占星術は星の動きを数学的、科学的に考察して法則を見つけて駆使しようとしたものです。科学的でもあり、オカルト的でもありますよね。概念としては同一でした。

これが科学でこれがオカルトだとい線引きする概念が当時はほぼ在りません。みんな同様に研究し、駆使する機関です。それが陰陽師。

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