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【洒落怖】飛騨川バス転落事故

飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、1968年(昭和43年)8月18日に、岐阜県加茂郡白川町の国道41号において生じた土砂災害によるバス事故である。

乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車(のちに合併により名鉄東部観光バスを経て現在は名鉄観光バス岡崎営業所となっている)所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した。

日本のバス事故史上における最悪の事故となった。

以下、Wikipediaより引用


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経緯

以下、時刻は全て24時間表記とする。概略については後述の#時系列表を参照のこと。

犠牲となった観光バスの乗客は、名古屋市で団地の主婦を対象に無料新聞を発刊していた株式会社奥様ジャーナル[注 1]が主催し、名鉄観光サービスが協賛した、「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーの参加者だった。お盆休みの週末という日程と、乗鞍岳からの御来光や北アルプスのパノラマ、小京都と喧伝された飛騨高山の観光を手軽に楽しめる家族旅行向けの企画ということもあり、申し込み数は主催者側の予想を上回り、名古屋市内の団地を中心に750人以上が参加した。

貸切バスは、依頼を受けた岡崎観光自動車だけでは調達しきれず、同社を中心に同業他社3社にも応援を要請し、合計4社から手配された。

予定では、名古屋市内の各団地でバスが乗客を拾い、愛知県犬山市の成田山名古屋別院大聖寺駐車場に21時30分に全車が集合し、休憩ののち22時に出発。その後岐阜県に入って飛騨川の日本ライン沿いに国道41号を北進し、美濃太田(美濃加茂市)、高山、平湯を経由して、翌朝4時30分に標高3000メートル近い乗鞍スカイライン畳平で御来光を迎え、夕方に犬山へ戻り、各団地ごとに解散という流れであった。車中泊を含む片道160kmの行程で、「定番コース」ということもあり、ベテランの運転手たちにとってはいわば通り慣れた道だった。

当時の天候

8月17日の名古屋周辺は、日本海を50km/hで北上する台風7号の影響で、朝からにわか雨の降るぐずついた天気だった。岐阜地方気象台は8時30分に大雨・洪水・雷雨[注 2]注意報を発表していたが、午後に入って小降りになり、場所によっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせ、17時15分に注意報を解除する。その後19時前に放送された天気予報は、岐阜県の天気は回復し翌朝は晴れる見込みだと報じた。実際に翌朝の岐阜市内は晴天だったが、当時は気象衛星による観測が端緒についたばかりで、重大な気象の変化までは把握しきれなかった。


現場付近の国道41号。事故当時と道路幅は余り変わっていない。山側も谷側も切り立っており、落石の危険がある道路でもある。

北海道西側の沖合い400kmまで進んだ台風7号は、勢力を落として温帯低気圧となった。しかし、大陸に横たわる冷たい空気との間で生じた寒冷前線が東北地方から北陸・近畿を経て九州付近にのび、それに向かって太平洋上の高気圧から暖かい湿った空気が「湿舌」のかたちで入り込んだため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、分水嶺南側を中心に直径数km程度の局地的かつ濃密な積乱雲が多数発生しはじめる。これをとらえた富士山レーダーからの連絡を受け、気象台は20時に雷雨注意報を発表し、22時30分には大雨・洪水警報に切り替えた。郡上郡美並村(現・郡上市美並町)で1時間雨量114ミリ、白川町三川小学校で100ミリ、そして奥美濃で149ミリの猛烈な雨が降り、過去の記録を大きく上回る集中豪雨となった。

日付が変わる前後から、家屋の浸水や土砂崩れ、高山本線上麻生駅 - 白川口駅での線路崩落(復旧に1ヶ月近くを要した)が発生するなど、岐阜県内各地で被害が続出する。

ツアーを主催する奥様ジャーナル社長は、標高の高い地点に観光客を誘導するだけに台風の動きを気にしていたが、19時の予報を岐阜の気象台に電話で問い合わせた上で、予定通りツアーを決行した。しかし、1時間後の20時に発表された注意報、さらに22時30分の警報は把握できなかった。注意報が解除されたのは、17時15分から20時までの2時間45分に過ぎなかった。

携帯通信が発達した現代と異なり、当時はリアルタイムに気象情報を把握することは不可能で、車載のラジオも就寝中の乗客がいる夜間に流すことは難しい状況であった。

出発から予定変更まで

ツアーの一行は、主催者の奥様ジャーナル社長らが乗った一号車を先頭に、十六号車まで15台(四号車は欠番[注 3])の車列を連ねて22時10分ごろに犬山を出発した。乗客725名、主催者・運転手・名鉄観光サービスの添乗員ら48名の、あわせて773名という大規模ツアーだった。しかし、出発直後から雨が降り出し、警報が出た22時30分ごろに美濃加茂を通過したあたりから激しい雷雨に遭遇したが、23時33分には、休憩地である益田郡金山町(現・下呂市)の76.5km地点(名古屋市東区泉1丁目高岳交差点にある国道起点からの距離。以下同じ)にある「モーテル飛騨」にほぼ予定通り到着する。運転手たちにとっては勝手知ったる道で、悪天候でも問題なく走れた。

しかし、毎時50ミリ以上という猛烈な豪雨に加え、前方の中山七里の入口にあたる78km地点付近で土砂崩れが発生しているなど、道路状況が悪いとの情報が対向車から入ってきた。主催者と添乗員・運転手たちが協議した結果、それ以上の北行を断念してツアーを1週間延期することとし、各号車の出発地まで引き返すことが決定された。目的地まではさらなる状況悪化が予想されたため、通過してきたばかりの道路を引き返し、乗客をとりあえずは帰宅させるという判断だったが、結果的には最悪の危険地帯に進路変更することとなった。

帰路

日付が変わり、8月18日の0時5分、岡崎観光自動車に所属する一号車から七号車を第1グループ、別会社の混成である八号車から十六号車を第2グループとし、15台のバスは激しさを増した雷雨の中で名古屋への帰路についた。同18分には、10kmほど先の白川口駅付近にある飛泉橋(66.4km地点)を通過したが、ここで五号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町消防団第二分団に呼び止められ、前方は溢水や落石の危険があるとして、運転見合わせを勧告される。しかし、まだ通行規制は敷かれていない上、一、二、三号車はすでに橋を通過していたため追尾することとし、六号車と七号車もこれに続いた。一方、やや遅れて走ってきた八号車を先頭とする第2グループは、消防団の警告に応じて白川口駅前広場で待機し、深夜の豪雨をやり過ごした。

第1グループは、直後の65.25km地点で小規模な崩落現場に遭遇し、運転手や添乗員がずぶ濡れになりながら土砂をスコップで除去した。しかし、上麻生ダムを過ぎ、1kmほど進んだ64.17km地点では大規模な崩落により道路が完全に寸断されていたため、やむなく白川口駅まで2kmほど戻ることにした。ところが木材を積載した大型トラックが左車線を塞ぐ形で身動きが取れなくなっており、また大型バスでは転回不能な道幅であったため、やむなく一~三号車は右車線をバックして移動を開始した。五号車が先頭になったものの、1時35分ごろには約600m後方の64.8km地点でも土砂崩れが発生した。


事故地点から約900メートル上流にある上麻生ダム。水位零作戦の前線司令部となった。

これにより、6台のバスは完全に道路の前後を塞がれ実質的に移動不可能となり、周辺の車両と共に完全に立ち往生する。

雷鳴と稲光が続く中、各号車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外し、崖を照射して鉄砲水の警戒にあたった。また、後方の様子を伝えるために三号車の運転手が先頭の五号車に向かい、六号車の運転手も対策を協議するため七号車に移動していた。

事故発生

立ち往生から40分ほど経った2時11分[1]、64.3km地点で、高さ100m、幅30mに渡る巨大な土砂崩れが発生した。ダンプカーにして約250台分の土石流が急斜面を滑り落ちて五、六、七号車を直撃し、七号車は1mほど横滑りしながらもガードレールに抑えられたが、五号車と六号車は15m下の増水した飛騨川へゆっくり転落していった。乗務員たちが混乱する傍らで、立ち往生の車内で就寝している乗客も多かったが、大音響と震動に各号車の車内は総立ちとなり、特に大惨事を目の当たりにした七号車は騒然となった。奇跡的に生還した五号車の運転手は、転落の瞬間に車内の子供たちが挙げた「アーッ!」という叫び声が耳から離れないと証言している。六号車の運転手は七号車から自車の最期を目撃し、五号車にいた三号車の運転手は消息を絶った。

難を免れた運転手と添乗員たちは乗客を車外に誘導して安全確保に努め、このうち4人が救助を求めるため、複数の崩落現場をくぐり抜け、対岸にある上麻生ダム見張所に向かった。見張所で当直にあたっていた発電所員は4人の要請を受け、直ちに通信線でダム本部に連絡するとともに、二次災害を防ぐために消防団員と共に残りの乗員・乗客や一般ドライバーたちを誘導し、見張所や水門機械室、資材倉庫に避難させた。

一報を受けた上麻生ダム経由で岐阜県警加茂警察署に通報が届いたのは、転落から3時間29分が経過した5時40分だった。

事故は朝のニュースで全国に速報され、世間の関心は飛騨川に集中した。

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事故後

水位零作戦

通報を受け、加茂警察署ほか4警察署機動隊、各地域の消防団、さらには陸上自衛隊第35普通科連隊[2]などが岐阜県から災害派遣要請を受けて救助活動にあたるなど、捜索活動を側面支援した。しかし、現場は飛騨木曽川国定公園にも指定されている名勝・飛水峡の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立った峡谷を形成していた。100名を越す乗員・乗客の安否はもちろん、車体すら発見できなかったが、事故翌日の8月19日10時30分ごろ、転落現場から約300メートル下流で、五号車がタイヤを上に押し潰された状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容された。このほか転落現場周辺で23名の遺体が発見されたが、六号車や他の行方不明者は発見できなかった。

飛水峡。切り立った断崖が両岸に迫り、捜索隊の救助活動を苦しめた。

普段から飛騨川は日本有数の急流として知られるが、豪雨に伴う激しい流れにより救助活動は難航する。しかし、行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。

これに応じて、上流にある名倉ダムも活用して上麻生ダムの放流を停止し、水が引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない六号車の捜索を行わせることになる。


上麻生ダムの上流にある名倉ダム。水位零作戦において役割を担った。

上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから「水位零(ゼロ)作戦」[注 4]と名付けられた。この「作戦」は、上流の名倉発電所が発電をしている限りは名倉ダムの満水到達時刻を遅らせられること、名倉ダムから上麻生ダム間の飛騨川は蛇行を繰り返すため洪水到達時間までおよそ一時間かかること、上麻生ダムのゲートが莫大な水圧に耐えられる構造であるために可能な作戦だった。しかし、上流で雨が降ればこの作戦は遂行できない。

「水位零作戦」は21日深夜、県・警察・消防・自衛隊との合同連絡会議において提案され、翌22日朝8時00分をもって決行されることになった。

これに先立って、バスを引き揚げる重機を操作するため陸上自衛隊豊川駐屯地から重車両部隊が、また水中の捜索に対応するため海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊が招集され、夜を徹して現場に急行した。朝8時00分、上流部で降雨がないことを確認し、作戦が始まった。以下に作戦の概要を時系列で記載する。

  • 8:00 - 上麻生ダムのゲートを全開にして、上麻生ダム湖の貯水を全て放流する。同時に上流の名倉発電所では全出力運転を行い、名倉ダム湖の貯水を可能な限り使用し下流への放水を抑える。
  • 9:50 - 名倉発電所の運転を急停止し、名倉ダムからの放流を開始する。
  • 10:00 - 上麻生ダムのゲートを全閉にして、貯水を開始する。同時に上麻生発電所はダム湖から可能な限り取水を行って全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。

このゲート全閉によってダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、ため池のような状態になった。そして、六号車が転落地点から900メートル下流の川底にて半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかった。30分後の10時30分、ダム湖が満水になり危険な状態となったため、捜索隊全員に退避命令を下し、再度上麻生ダムは放流を始めた。

上麻生ダムは中部電力の発電専用ダムであり、洪水調節機能は持たない。しかも1926年(大正15年)完成と当時でも古いダム[注 5]である上、総貯水容量はわずか24万トンしかなく、豪雨時にはいつもゲートを全開にしていた。

玄倉川水難事故の際にも取り沙汰されたが、洪水調節機能がなく貯水容量の少ないダムの場合、増水時におけるゲート閉鎖はダム本体の決壊という重大な影響を及ぼす可能性がある。しかし、この事故に際しては緊急事態であったこと、もはや生存者の発見は絶望的とはいえ、あくまで可能性がある人命救助のためという考え方による異例の緊急措置として行われ、難航する捜索活動に大きく貢献した。

水位零作戦は翌8月23日と24日にも再度実施され、ようやく六号車の引き揚げに成功する。しかし、車体は「く」の字に折れ曲がり、屋根や座席なども見る影もなく、五号車よりもさらに無残な状態で、子供の1遺体が発見されただけだった。この車体の破損状況から、濁流による水圧がどれほど凄まじいものだったかを、改めて捜索隊に見せつけた。

辛うじて残っていた1体以外の遺体がすべて流されていたため、さらに下流の捜索が必要となり、今度は川辺ダムの人造湖である飛水湖にまで捜索範囲を拡大し、川辺ダムの貯水を全放流して湖を空にした。これは1937年(昭和12年)に川辺ダムが完成して以来、初の試みである。こうして空になった飛水湖に捜索隊約1000名が入って捜索を開始した。


飛水湖。貯水を全て放流し捜索活動が行われた。

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被害と影響

行方不明者はすべて飛騨川に投げ出されており、事故の翌日には知多半島にまで遺体が漂着したため、捜索は下流の広い範囲にまで拡大された。最終的には、陸上・海上・航空自衛隊員9,141名を始め、警察・消防、バス会社・名鉄グループの関係者など、のべ36,683名が投入され、飛騨川・木曽川、さらには伊勢湾まで1か月以上にわたり捜索が続けられたが、難航する。

魚が死体を食っているという根拠のない風評被害で伊勢湾の漁業者が打撃を受けるほどだった。

多くの遺体は堆積した土砂に埋もれており、重機ですくっては消防車の高圧放水で洗い流すという措置までとられたが、最終的には9名の遺体が未回収となっている。収容された遺体も腕だけが発見されたりするなど航空機事故さながらに損傷が激しく、DNA鑑定のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルまで起きた。

結局、2台のバスに乗っていた3歳から69歳の乗員・乗客107名のうち104名が犠牲になるという、バス事故および交通事故史上最悪の惨事となり、死亡率もほぼ100%と前代未聞のものとなった。3名の生存者は五号車の運転手(当時30歳)と同じく五号車の添乗員(20歳)、家族4人でツアーに参加していた男子中学生(14歳)で、いずれも転落の途中に割れた窓から車外に投げ出されたことで立ち木などに引っ掛かり、奇跡的に生還している。助かった中学生は当時大幸住宅に両親と姉と共に住んでおり、家族全員をこの事故で失ったが、祖母や親戚の支えがあり、後に大学に進学している[3]。

乗客は大幸住宅、仲田住宅、千種東住宅、若水住宅、引山住宅、天神下住宅[注 6]の団地住民で、家族向けのツアーだったことから、4家族が一家全滅となった。そのうち、中日新聞の社員一家を除いた市営引山住宅の3家族は、いずれも旧満州からの引揚者だった。なお、生還した中学生と同い年であった別の団地住民の少年は、家族全員をこの事故で失い、事故から4年後の1972年6月に孤独感から自殺している[3]。

この事故は戦後の混乱が収まり、高度経済成長のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事だった。

産経新聞の記者が伝えたエピソードに次のようなものがある。

  • 事故の一報を聞いて、大阪からタクシーを飛ばして現地に派遣された記者が、はるばる仙台から遺体安置所に駆けつけた男性と遭遇する。取材すると、名古屋の実家に帰省していた妻と娘2人が事故に遭遇し、一家で彼一人だけが取り残されたという。敬虔なクリスチャンなのか、妻の遺体が入った棺を前に「神の与えた試練です」とインタビューにきわめて平静に応じていた。くだんの記者が「ちょっと冷たすぎるのでは?」と思うほどの落ち着き払った態度だった。数日後、新たに女の子の遺体が事故現場近くで引き上げられたという情報が遺体安置所に流れ、多くの人が現場に駆けつけたが、そのなかにあの男性もいた。彼は50メートル上の国道41号から、見る影もない遺体を見るや、瞬時に判別して娘の名を絶叫し、足場の悪い崖を一気に駆け下りて遺体に抱きつき、もらい泣きする周辺の救助隊員たちの手を借りることなく、号泣しながら道路まで駆け上がってきたという。

この男性のように、家族をすべて失った人は少なくない。大幸住宅に住んでいたツアー主催の「奥様ジャーナル」社長も、五号車に乗っていた妻と長男を失い、なおかつ大惨事の当事者として、被告人として法廷に立つこととなる。

原因

21世紀となってもなお、集中豪雨は降水量の正確な予報を出すことは難しい。また前述の通り、当時は気象警報の発表をリアルタイムで知ることが困難だった。

ただし、後述するように遺族らが訴訟を起こしたことからもわかる通り、国道の危険箇所に対する行政の対応は万全とはいえなかった。生存した運転手たちは、地元消防団の警告無視などを理由に業務上過失致死の容疑があるとして書類送検されたが、岐阜地裁は1972年に、運転手の判断に誤りはあったものの災害回避に全力を尽くしたなどの理由により、無罪の判決を言い渡した。さらに主催者「奥様ジャーナル」社長の状況判断も裁判で問われたが、過失の認定はされず、これも無罪となった。

偶発的な誤った判断に伴う人災に、悪い偶然が重なるという、自然災害によってもたらされる大惨事にありがちな悲劇だったといえる。

天心白菊の塔

1969年(昭和44年)8月18日、一周忌を迎えて事故現場から約300m下流の国道41号脇に、慰霊のため「天心白菊の塔」が建立された。題字は当時の内閣総理大臣であった佐藤榮作による。塔の横にある石碑には次の通り記されている。

天心白菊の塔
内閣総理大臣 佐藤榮作謹書

あゝ悲し逆天台風七号 昭和四十三年八月十八日未明 災禍の尊霊 遭難バス百四名 地元災害十四名

天心とは宇宙の根源なりここに在すみたまを偲び謹んで白菊を捧ぐ 岐阜県知事平野三郎

この塔は全国の善意と浄財によりて建立せり 昭和四十四年八月十八日 岐阜県白川町

飛騨川バス事故遺族会

また“天心白菊の塔の由緒”には次の通り記されている。

昭和43年8月18日午前2時11分この上流約300mの国道41号線上で折からの集中豪雨を避難していた観光バス2輌が、山上から流出落下してきた土石流に押し流され濁流渦巻く飛騨川に転落水没し一瞬にして乗客・乗務員104名の尊命が奪われるという一大惨事が発生しました。しかも、この中濃地方で時を同じくして災害のため14名の犠牲者が出ました。同年8月17日夜半から18日未明にわたり突如として襲った、異常にして激甚なる集中豪雨による災禍はまさにこの地方の機能を麻痺せしめ、各所に悲惨な被害と事故を惹きおこしたものでありました。この塔は、全国に浄財を求めもろもろの善意を結集し建立したもので遭難現場の天心に彷徨される災禍犠牲者118名のみたまを偲び、かくの如き惨事のふたたびくりかへされない様、永遠の平穏を祈念せんとするものであります。大自然の環境とともに在るこの聖地がいつまでも清浄に皆様のより美しい善意によって守護されることを希求してやみません。合掌
昭和44年8月18日建之 岐阜県加茂郡白川町

飛騨川バス事故遺族会

偶然にも、この日に現場から1キロメートル下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見された。乗客で唯一の生存者である中学生は、以下のような追悼文を朗読している。

お母さん、私は昨日も夢の中でお母さんに会いました。お星様の中からお母さんの優しい顔が私を見つめていたのです。いくら呼んでもお母さんは返事をしてくれません。悲しくなって目を覚ますと私の顔は涙に濡れていました。でも今日、亡くなった人たちのおうちができました。皆さん仲良く暮らしてください。二度とこのようなことがないように、塔の中からしっかり見守っていてください。

現場近くの上麻生発電所員により、毎月清掃活動が続けられている。なお、慰霊祭は毎年命日である8月18日に「天心白菊の塔」で行われてきたが、遺族たちも高齢化し、2002年に実施された33回忌を期に遺族会は解散した。事故から40年目にあたる2008年8月18日に、慰霊祭が白川町仏教会の主催で実施され、遺族のほか白川町長、町会議員など約60人が参列している。その際、2006年に死去した遺族会会長の息子により、かつてバス会社社長から遺族会に贈られたブロンズ製の母子観音像が初めて会場に安置された。

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対策

事故の責任をめぐり、不可抗力の天災か、主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災かが争点となった。当時第2次佐藤内閣の内閣総理大臣であった佐藤榮作は事故発生を知ると、その翌日には対策に乗り出し、「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置した。そのうえで、道路管理には瑕疵がないことを前提にした上で、自動車損害賠償責任保険(自賠責)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを関係省庁に検討させた。

だが、現地を調査した損害保険会社調査団や刑事責任の有無について現場検証を行った岐阜県警は、事故の原因となったがけ崩れは不可抗力であり、バス会社への業務上過失致死傷罪は問えず、自賠責保険は「無責」として支払いの対象外であるとの認識が下された。この岐阜県警の判断は9月26日に国家公安委員会が追認している。また岐阜地方検察庁も不起訴とした。

しかし、佐藤内閣は交通行政の主務官庁である運輸省に命じて独自の調査を行う。その結果、当時の運輸大臣であった中曾根康弘は10月11日に見解をまとめて閣議で報告した。その内容は、自賠責法第三条における完全無責の条件は業務上の過失がないことを完全に証明できた場合にのみ適用されるが、「飛騨川バス転落事故の場合は運転を行った岡崎観光自動車が事故発生を未然に防ぐための注意義務に欠けていたため、業務上過失責任は立証される」と解釈し、自賠責の対象とするべきであるとの結論であった。

この運輸省による結論は閣議で承認され、4日後の10月15日より特例での自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなった。この一件は、後に道路施設賠償責任保険が誕生する契機にもなる。

一方、遺族は10月に「飛騨川バス事故遺族会」を結成し、天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光サービス、および運転を担当した岡崎観光自動車の三社に対して損害賠償を求めた。交渉は半年近くに及んだが、翌1969年(昭和44年)3月9日、総額4090万円(当時の金額)での補償案に合意し、示談が成立した。

しかしながら、国が当初から道路管理は適正と主張していたことに対して不満を持っていた遺族会は、国道41号の整備が不良であるために起きた人災であるとして、国の国道管理に対する責任を問うため、一周忌に併せて開かれた遺族会において訴訟を行うことを満場一致で採択し、総額6億5000万円の国家賠償を求める訴訟を名古屋地方裁判所に起こした(飛騨川バス転落事故訴訟)。名古屋地裁は1973年(昭和48年)3月30日の第一審判決において、「国の過失六割、不可抗力四割」と認定して約9300万円の賠償を国に求める判決を下したが、原告の遺族会はこれを不服として控訴した。1974年(昭和49年)11月20日の名古屋高等裁判所の控訴審判決は、土石流を防止することは当時の科学技術の水準では困難であったとして道路自体の欠陥は否定しながらも、事故現場付近で斜面崩壊が起きる危険性は予測可能であったとし、通行禁止などの措置をとらなかったことを瑕疵と認めるなど原告側主張を全面的に認め、国に約4億円の支払いを命じている。国側は上告せず、結審した。

この事故は多くの教訓を残したが、特に異常気象発生時における国道の防災体制が整備される契機となった[4]。事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されていたが、これは後に「道路防災点検」として制度化され、5年ごとに実施されるようになる[4]。また雨量にもとづく事前通行規制も制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られるようになった[4]。この道路管理者による雨量通行規制は、現在は国道だけではなく都道府県道などすべての道路において、沿線に常住人口がいない山岳部の区間で実施されている。

現場の国道41号は連続雨量が150ミリを超えた場合、加茂郡七宗町中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになると定められている[注 7]。なお、この基準は道路や区間により異なる。

抜本的道路改良へ

現場付近の国道41号は、現在も事故当時と同じルートを通っており、度々土砂崩れ、落石、倒木等が発災している。上記の雨量にもとづく事前通行規制による通行止めによって人命にかかわるような大事故は起きていないものの、現場付近の上麻生規制区間の延べ通行止時間は国道41号線の規制対象区間中最多となっている[5]。このため平成30年度より転落事故現場を含む6.2km区間について、トンネルおよび橋梁を用いたバイパス新道(一部は現道を利用)により付け替える改良が事業化された(上麻生防災)[5][6]。この事業により飛騨川沿いを通る事故現場付近の道路はトンネルに置き換えられる[6]。なお旧道上になる「天心白菊の塔」は新道の直近になる見込みである[6]。

補足

この時の豪雨は地元の人間にとっても普段の比ではなく凄まじいものであった。

事故現場からほど近い国鉄(現JR東海)高山本線の白川口駅の当直助役は、経験のない程の豪雨に恐怖と不安を感じ、その豪雨の中やってきた岐阜駅発飛騨金山駅行き下り普通列車に青信号(進行現示)を出さなかった。その決断は事故前日22時31分である。列車が遅れており苛立つ乗客に詰め寄られても頑として拒んだという。その後、上述の通り白川口駅付近での路盤崩壊が発見された(上麻生駅 - 白川口駅間が9月12日まで不通となる)。そして駅から約300mと鷲原信号場[注 8]寄り約1kmの2か所で土砂崩れが起きていた。

また同じ頃、下油井駅でも、当直助役が高山駅発美濃太田駅行き上り普通列車の前途を心配し、一つ富山寄りの飛騨金山駅に当該列車の抑止を依頼した直後、付近の様子を見に行った消防団員から、下油井駅付近での土砂崩れ発生の連絡を受けた。当時の高山本線はまだCTCが運用されておらず[注 9]、両方ともそのまま進行現示を出していれば大事故になっていたであろうと言われている。結果、高山本線の被害は、土砂崩れ、浸水箇所の10か所にのぼった。また、これらの行動で事故発生を防いだ白川口・下油井両駅の当直助役には表彰状、消防団員には感謝状が、名古屋鉄道管理局から贈られた[7]。

なお、事故時点ではCTC整備中で、その1か月半後から監視がされており、白川口駅は白川町による簡易委託駅になっている。

現場付近の高山本線は国道41号の対岸を走っているため、事故当時の面影を車窓から確認できる。

事故発生から半世紀となる2018年、事故当日に現場のすぐ近くで立ち往生していた他のバスの運転手だった名鉄の社員(2004年に69歳で死去)が、事故から20年後の1988年に書いた回想の手記が公表された[8]。

類似の事故

  • 天竜川バス転落事故(1951年) - 飯田線で振替輸送を行っていた国鉄バスが天竜川へ転落。死者28人前後とみられているが、不特定多数の乗客であるため最終的な死者数が確定できていない。
  • 玉川岩盤崩落事故(1989年) - 福井県丹生郡越前町で国道305号を走行中のマイクロバスが岩盤崩落の下敷きとなり、乗客乗員15人全員が死亡した。当時悪天候などは見られず、岩盤も落石防護被覆(ロックシェード)を突き破って道路に到達した。
  • 竜ヶ水駅土石流事故(1993年) - 鹿児島県鹿児島市で日豊本線竜ヶ水駅に停車中の普通列車が豪雨による土石流の下敷きとなり、乗客3人が死亡した。事故直前に前後の線路は遮断されており、運転士も事前に乗客を避難させていた。事故に巻き込まれた乗客は運転士の指示に従っていなかった。
  • 豊浜トンネル岩盤崩落事故(1996年) - 北海道古平郡古平町の国道229号の豊浜トンネル内を走行中だった北海道中央バスの積丹町余別発小樽駅前行き路線バスと、後続の乗用車1台と、対向の乗用車1台の計3台がトンネル内部で岩盤崩落の直撃を受け、間一髪で脱出した乗用車運転の1名を除き、バスの乗客18名と乗員1名と乗用車1名の計20名が死亡した。

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