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・・・・と前ページまでの記述をよく見るのだが、この日誌内容、実は一種のコピペであり一般には事実無根であるとされている。
実際に残された航海日誌の最後の記述も、日付こそ同じだが、
というものである。それでも文章が途中で終わっているのは何とも気味悪いのだが……。
また、実際の日誌での食料が底を突き朝食が出なかった日~最後の記述までは
サメが釣れた・海鳥が捕れた・船員が病気で死んだ。等が淡々と記されているだけでこんな風に脚色されたものではない。
水葬の記述さえ存在しない為、後に様々な憶測を産むようにもなったのだが…
が、都市伝説云々を抜きにしても疑問視されるのは、太平洋を漂流していて
なぜ島の一つもみつからなかったのかという事。
そして何より、なぜ他の船舶と一回もコンタクトがとれなかったのかという事だ。
現に実際の日誌には、幾度となく他の船舶に遭遇し、あまつさえ船名まで確認できていた記述があるという。が、いずれも応答がなかったと記されている。
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しかし、アメリカのとある貨物船の船長は後に、「12月23日に太平洋上で良栄丸と遭遇、信号を送ったが応答はなかった。近付いたが、甲板や船室窓からこちらを見る船員達は何の反応もなく、馬鹿馬鹿しくなり引き上げた」と語っているのだ。
しかも12月23日の良栄丸の日誌に、この事は記されていない。
これが捏造情報か実際の情報なのかは不鮮明だが、これについても発見地点が日本から1600kmかシアトルから1000kmかで情報がはっきりしておらず、特に後者であれば漂流開始後たったの3週間でアメリカ西沿岸付近にたどり着き、そこで何か月も誰にも発見されずにうろうろしていたことになるため、現在ではデマとする意見が多い。
また余談だが、この日誌内容は事実無根だという情報の方が事実無根だとする都市伝説まで流れており、都市伝説の信憑性を語る上で引き合いに出される事も多い事件である。
このような都市伝説が発生した原因としては、とある児童書が原因という説がある。
1981年の『四次元ミステリー―キミは信じられるか』(佐藤有文著作)に掲載された文章は、ネットに流布している文章とほぼ同一である。
この本の作者である佐藤氏は、別の児童書に於いて、かの我が子を食らうサトゥルヌスを「ポルトガルの食人鬼ゴール」などという明らかに誤った(いい加減な)紹介をしていたこともあり、そういった例からも裏付けもとれていない噂レベルの話を勝手に書いてしまったという可能性は高い。
遭難の状態で人肉食をするというのは、アメリカの新聞の推測記事が発端である。
大漁旗が野蛮民の風習と紹介されたり、明らかに偏向報道としか思えない物もあったらしい。
乗組員の遺品を持ち帰国した谷阪壽雄は、新聞のインタビューに応じ、シアトルの新聞『Seattle Star』紙が排日的な姿勢で乗組員の行動について中傷記事を報じたことを語っている。これらは北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(1960)でも紹介されている。
実際に食人が行われたひかりごけ事件、また実際に船の乗組員が半狂乱になって日誌を残して死亡した事件としてドナルド・クローハースト事件があり、これと混同されている可能性もある。
他には船に残されていたのが乗組員連名で板に書いた遺書・船長の妻子宛の遺書・封筒に各自が入れた髪と爪・大漁旗程度だった為
また寄港先で補給に対して支払われる現金や書類が失われていたため、
船員全滅後に海賊船に襲われ遺体と船内を荒らされたという説も見られる。
さて、ここまで色々書いてきたものの、事実はわからない。
実際に残っている航海日誌と上記の内容が違っているとは言え、
長期の漂流生活では多少なりとも気が狂う者もいたのではないだろうか。
それに、食料が尽きれば食人行為が発生したとしても何ら不思議はないはずである。
そしてそういった事が本当に起きていたとしても、果たして逐一全てを航海日誌に刻むだろうか……。
今となっては真相は分からないが、良栄丸という漁船が漂流遭難したのは事実。
果たして船員達は、死に向かう漂流生活の果てに何を見ていたのだろうか。
以下ウィキペディアでの記述
良栄丸遭難事故
良栄丸(りょうえいまる)遭難事故は、日本の漁船良栄丸(良榮丸)が遭難した事故。
1926年(大正15年/昭和元年)12月に千葉県銚子の沖で、和歌山県の漁船良栄丸が遭難し、乗組員12人が全員死亡・行方不明となった事故
1960年(昭和35年)1月に静岡県の沖で、高知県の漁船第2良栄丸が遭難し、乗組員3人が行方不明、9人が救助された事故
がこう呼ばれるが、ここでは前者について述べる。
概要
漁業従事中にエンジンが故障し、北太平洋をおよそ11か月間漂流した。その間に乗組員は全員死亡したが、船体は北アメリカ大陸西岸に漂着した。海難事故で生存者がいなかった場合は、一般にその遭難の原因や経過を知ることが困難な場合がほとんどだが、当事故においては船体が沈没せず、克明に記された航海日誌が残されており、その漂流の経過が判明している。
事故の経過
遭難と漂流
遭難した良栄丸は和歌山県西牟婁郡和深村(現・東牟婁郡串本町和深)に船籍を持つ42トンの小型動力漁船で1924年(大正13年)秋に建造され、無水式焼玉機関を搭載した当時の優秀船であった。乗組員は船長の三鬼登喜造、松本源之助など12名。無線の設備はなかったが、当時の小型漁船には無線の装備がないことが一般的であった 。
12月5日神奈川県の三崎漁港を出港、銚子沖100キロメートルほどの海域でマグロ漁に従事したが、12月7日、低気圧の通過後に西寄りの季節風が強まり荒天となった。三崎漁港に戻るため航行していた良栄丸は12月12日午前、機関クランクシャフトが折れて航行の自由を失い、東方に吹き流された。日誌には「十二日午前中突然機カイクランク部が折れ、チョット思案にくれた。仕方なく帆を巻き上げしが折悪しく西風にて自由ならず舟を流すことにした」とある(機関は建造当初より不調で、製作した和歌浦鉄工所は遭難前後に倒産したようである)。季節風は15日には収まったが、良栄丸は銚子の東1,600キロメートル付近まで押し流されていた。乗組員らは、補助の帆(当時の小型船は機関出力が低く補助として帆走の設備があった)を上げるなどして西に戻ろうと努めたが、再び季節風が吹き出して徒労に終わった。救援も得られず、船長は漂流を決意し、船に積載した食糧や漁獲した魚などから4か月は食い延ばすこととし、船員らも同意した。
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その後も他船の救援なく、(日誌には漁船、貨物船、外航船を目撃しフライキ(大漁旗)や焚火で救難信号を出した記述がある)西への帆走も失敗。船長はアメリカへの漂着を考える。「二十日の朝八時にいたり風北にして穏やかなり、西風毎日強いゆえ思い切ってアメリカへ乗り出すといふ太いことを船長が相談を致したところまた落着かず、兎に角アンカ三丁あげることにした」との記述が残されている。12月26日にアメリカへの漂着を決め、東航を開始した。日誌にも「二十六日いよいよアメリカへ乗り出すことに決心し碇をあげ、帆を巻き上げ風を七、三に受けてノーイスに舵を向けて進みだした。二十六日十一時間風変わり流した」と書き残されている。その後、機関修理も行ったが失敗したようである(日誌には1月18日「機械の修理出来上がり一八日午後より乗込む」の記述があり、発見時には一つのシリンダー頭部が外されボルトが投げ捨てられていた)。食糧は次第になくなり、3月5日「本日朝食にて糧食なし」となる。以降は船体に繁殖した海草や魚、船に止まった渡り鳥が主食となり、栄養の偏りもあって、3月9日細井機関長が死亡。以降、次第に乗組員が死亡していった。3月6日に乗組員連名で板に遺書を書いている。
乗組連名 船長 三鬼登喜造
機関長 細井伝次郎
友取 桑田藤吉
寺田初造
直江常太郎
横田良之助
井澤捨次
松本源之助
辻内良治
三谷寅吉
詰光勇吉
上平由四郎
右十二名大正十五年十二月五日神奈川三崎出発営業中 機関クランク部破レ 食料白米壱石六斗ニテ今日迄命ヲ保チ汽船出合ズ何ノ勇気モ無クココニ死ヲ決ス 大正十六年新三月六日
板に遺書を書いたのは、船が沈んでも遺書だけは陸地に漂着して国に帰れることを願ったものと思われる。[独自研究?]また遺髪として髪と爪を各自記名した封筒に入れて保管していた。これとは別に、船長・三鬼登喜造は、罫紙2枚に鉛筆カタカナ書きで綴った妻子宛の遺書を残していた[3]。3月9日以降、死者は水葬(日誌には水葬の記述はない)に付したが[注 2]、後述の脚気など病気や栄養不良で衰弱し行動もままならず、遺体は船内に放置されたままとなる。
最後まで生き残ったのは船長と松本源之助の2名で、両名ともに重度の脚気と栄養失調により、身動きもままならない状態と日記の記述にある。日記は1927年5月11日分が綴られたところで終わっており、最後の記述は
であった。それ以降の状況は不明であり、両名とも数日のうちに死去したものと想像される。良栄丸はそのまま9名の遺体を載せて東へ漂流、1927年10月31日にシアトル沖でアメリカの貨物船マーガレット・ダラー号により発見された。
船長の遺書
船長の三鬼登喜造は妻子に宛てて遺書を書き残しており、おもに妻のつねと二人の子供の家族の今後の生活、子どもたちの将来を心配する内容である。特に長男のキクオには「大きくなっても漁師にはなるな」と重ねて書き記しており、どことも知れぬ海上で死を待つ身となった三鬼の無念さが伺える。
以下に現代書きに再構成したものを記載する(一部にみられる方言や誤記、脱字などは修正している)。
カツエ、お前の学校の卒業式を見ずにトッタンは帰れなくなりました。情けない。お前はこれから賢くなりて孝行もしたり、母に足しになりてやってくだされ。頼みます。賢く頼みます。母の言うことを聞いてくれ。トッタン。
キクオ、トッタンの言うことを聞きなさい。大きくなりても漁師はできません。賢く頼みます。母の言うことをよく聞きなされ」
事後の経過
良栄丸船体はアメリカで必要な調査を受け、三鬼船長と松本源之助と思われるミイラ化した遺体は現地で葬儀ののち火葬された。遺骨と遺品はすべて日本の遺族に返還されたが、船体は遺族の希望によりアメリカで焼却処分された。
調査
残された航海日誌を元に、気象学者・藤原咲平が調査研究を行っている。アメリカ西海岸への漂着を目指したことについて、藤原は「漁船にて米国に達せんとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見以上に困難なりと心得べし」と評している。
当事件に関するデマ
良栄丸の遭難と漂流に関しては、1965年以降(昭和40年代以降)の児童向ミステリー事件の紹介本、それらが情報源となっていると推察されるweb上の情報を中心に、事実無根の話が散見される。
その内容は「乗組員が半狂乱になって悶死した」「狂ったようになって仲間の死体を切り刻んだ」などで、web上に出回っている文章はほぼ同一である。児童書に慣れ親しんだ広い世代を通して、またひかりごけ事件と混同した誤解が長期にわたり語り継がれることになったと推測される。乗組員が残した日記にはそのような内容は一切なく、ほぼ流言飛語のようなものである。[独自研究?]そのような事実無根のデマが流れた要因として、事件そのものは不幸な漂流の遭難で人目を引く事件とは言えず、正確に再度紹介される機会は少なかったこと、デマの内容がタブーの食人行為を巡るものであったことが大きい。
「遭難の孤立状態で人肉食におよんだ」という話とその様子について描写したものの発端は、事件当時のアメリカの新聞の推測記事とみられ、アメリカでの報道には、当時のアメリカで「悲惨な遭難の結果人肉食に至った」事件として有名な「ドナー隊事件」と結びつけるネガティヴな記事があり、備品の大漁旗も野蛮民風習と紹介されるなど、事実無根な報道も一部にあった。
当事件について北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(1960)には、かなり正確に紹介されている。