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【洒落怖】ディアトロフ峠事件

ディアトロフ峠事件(ディアトロフとうげじけん)とは、1959年2月2日の夜、当時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件である。事件は、ホラート・シャフイル山(Kholat Syakhl、Холат-Сяхыл、マンシ語で「死の山」の意[1])の東斜面で起こった。事件があった峠は一行のリーダーであったイーゴリ・ディアトロフ(ディヤトロフ、ジャートロフ、ジャトロフ、Игорь Дятлов)の名前から、ディアトロフ峠(ジャートロフ峠、ジャトロフ峠、Перевал Дятлова)と呼ばれるようになった。

当時の調査では、一行は摂氏マイナス30度の極寒の中、テントを内側から引き裂いて裸足で外に飛び出したとされた。遺体には争った形跡はなかったが、2体に頭蓋骨骨折が見られ、別の2体は肋骨を損傷、1体は舌を失っていた[2]。さらに何人かの犠牲者の衣服から、高い線量の放射性物質が検出された。

事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が残されている[3][4]。当時のソ連の捜査当局は「抗いがたい自然の力」によって9人が死に至ったとし[3]、事件後3年間にわたって、スキー客や探検家などが事件の発生した地域へ立ち入ることを禁じた[2]。

ソ連を引き継いだロシア連邦の最高検察庁は2020年7月13日、雪崩が原因との見解を示した

事件発生まで

一行は男性8名女性2名からなり、スヴェルドロフスク州内のウラル山脈北部においてスキーでのトレッキングを計画していた。グループの多くはウラル科学技術学校 (Уральский Политехнический Институт, УПИ)、現在のウラル工科大学の学生か卒業生だった。メンバーは次の通りである。

  1. イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ (Игорь Алексеевич Дятлов)、一行のリーダー、1936年1月13日生まれ。
  2. ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ (Зинаида Алексеевна Колмогорова)、1937年1月12日生まれ。
  3. リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ (Людмила Александровна Дубинина)、1938年5月12日生まれ。
  4. アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ (Александр Сергеевич Колеватов)、1934年11月16日生まれ。
  5. ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン (Рустем Владимирович Слободин)、1936年1月11日生まれ。
  6. ユーリー(ゲオルギー)・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ(Юрий (Георгий) Алексеевич Кривонищенко)、1935年2月7日生まれ。
  7. ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ (Юрий Николаевич Дорошенко、1938年1月29日生まれ。
  8. ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ (Николай Владимирович Тибо-Бриньоль)、1935年7月5日生まれ。
  9. セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ (Семен (Александр) Александрович Золотарёв)、1921年2月2日生まれ。
  10. ユーリー・エフィモヴィチ・ユーディン (Юрий Ефимович Юдин)、1937年7月19日生まれ、2013年4月27日没

ディアトロフ峠事件の犠牲者の慰霊碑

一行の最終目的地は、事件発生現場から北に約10キロのオトルテン(ロシア語版)山に設定されていた。そのルートは、事件当時の季節においては踏破難易度がきわめて高いと推定されたが、一行の全員が長距離スキー旅行や山岳遠征の経験を有しており、この探検計画に表立って反対するものはいなかった。

1月25日、スヴェルドロフスク州北部の中心地イヴデリ(英語版)に一行の乗った列車が到着した。彼らはトラックをチャーターしてさらに奥地に入り、イヴデリから約80キロ北方にある最後の有人集落、ヴィジャイ(ロシア語版)に到着。そして1月27日、いよいよヴィジャイからオトルテン山へ向け出発した。しかし翌日、ユーリー・ユーディンが持病のリウマチの悪化から離脱、一行は9人になった。ユーディンと別れたあと、生前の一行と遭遇した人間は現在に至るまで見つかっていない。ここから先の一行の行動は、最後のキャンプ地で発見された日記やカメラに撮影された写真などを材料に推定されたものである。

1月31日、未開の原生林を北西方向に進んできた一行はオトルテン山麓に到達し、本格的な登山準備に入る一方で、下山までに必要と思われる食料や物資を取り分け、余剰分は帰路に備えて残置した。翌2月1日、一行はオトルテン山へ続く渓谷へと分け入った。適した場所で渓谷を北に越え、そこでキャンプを張ろうとしていたようだが、悪天候と吹雪による視界の減少によって方向を見失い、西に道を逸れてオトルテン山の南側にあるホラート・シャフイル山へ登り始めてしまった。彼らはやがて誤りに気づいたが、1.5キロほど下方の森林地帯に入って風雪を凌ぐのではなく、何の遮蔽物もない山の斜面にキャンプを設営することにした[2]。木々の中でのキャンプ設営は容易だが、難ルートを踏破しトレッキング第3級の条件を満たす斜面での設営に決めたともされている。たった1人の生存者であるユーリー・ユーディンは、「ディアトロフは、すでに登った地点から降りることを嫌ったか、この際山の斜面でのキャンプ経験を積むことに決めたのではないか」と述べている。

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捜索と発見

一行が登山を終えてヴィジャイに戻り次第、ディアトロフが速やかに彼のスポーツクラブ宛に電報を送ることになっており、おそらく2月12日までには電報が送られてくるだろうと予想されていた。しかし事前にディアトロフがユーディンに、もう少し遠征が長引くかもしれないと話していたこともあり、2月12日が過ぎて連絡がなかったにもかかわらず、誰もこのことに特に反応しなかった。こうした遠征では数日の遅れはつきものだったためである。2月20日になってようやく、一行の親族たちの要請で、ウラル科学技術学校はボランティアの学生や教師からなる最初の救助隊を送った[2]。その後軍と警察が腰を上げ、救助活動はヘリコプターや航空機を投入した大規模なものとなった。

2月26日、捜索隊がホラート・シャフイル山で、ひどく損傷して放棄されたテントを発見した。テントを発見した学生、ミハイル・シャラヴィンは「テントは半分に引き裂かれ、雪に覆われていました。中には誰もおらず、荷物はテントに置き去りにされていました」と述べている[2]。調べによると、テントは内側から切り裂かれていた。8つないし9つの靴下の足跡、片足だけ靴を履いた足跡、そして裸足の足跡が、近くの森(谷の反対側、1.5キロ北東)に向かって続いていたが、500メートル進んだところで雪に覆われて見えなくなった。捜索隊は森のはずれの大きなヒマラヤスギの下で、下着姿で靴を履いていないユーリー・クリヴォニシェンコと、ユーリー・ニコラエヴィチの遺体、そして焚き火の跡を発見した。木の枝が5メートルの高さまで折られていたことは、彼らのうちの1人が木の上に登って、何か(おそらくキャンプ)を探していたことを示すものだった。捜索隊はさらにヒマラヤスギとキャンプの間で、ディアトロフ、ジナイダ・コルモゴロワ、そしてルステム・スロボディンの3人の遺体を発見した。遺体はそれぞれ木から300メートル、480メートル、630メートル離れた位置で別々に見つかり、その姿勢は彼らがテントに戻ろうとしていた状態で亡くなったことを示唆していた。

残り4人の遺体を探すのにはさらに2か月を要した。残りの遺体は、ヒマラヤスギの木からさらに森に75メートル分け入った先にある渓谷の中で、4メートルの深さの雪の下から発見された。4人はほかの遺体よりまともな服装をしており、これはどうやら最初に亡くなったメンバーが、自分たちの服を残りの者たちに譲ったらしいことを示していた。ゾロタリョフはドゥビニナの人工毛皮のコートと帽子を被っており、同時にドゥビニナの足にはクリヴォニシェンコのウールのズボンの切れ端が巻かれていた。

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捜査

最初の5人の遺体が発見された直後、死因審問が始められた。検死の結果、5人は死に直接結びつく怪我は負っていなかったことがわかり、5人全員の死因が低体温症であることが判明した。スロボディンは頭蓋骨に小さな亀裂を負っていたが、これが致命傷になったとは考えられなかった。

5月に発見された4人の遺体の検死は事情が違った。彼らのうち3人が致命傷を負っていたのである。チボ=ブリニョールの遺体は頭部に大きな怪我を負っており、ドゥビニナとゾロタリョフの両名は肋骨をひどく骨折していた。ボリス・ヴォズロジデンヌイ博士 (Dr. Boris Vozrozhdenny) は、このような損傷を引き起こす力は非常に強いものであり、交通事故の衝撃に匹敵するとしている。特筆すべきは、遺体は外傷を負っておらず、あたかも非常に高い圧力を加えられたかのようであったことと、ドゥビニナが舌を失っていたことであった[2]。当初、先住民のマンシ人が、彼らの土地に侵入した一行を襲撃して殺害したのではないかとする憶測も流れたが、現場に一行の足跡しか残っておらず、至近距離で争った形跡がないという状況から、この説は否定された[2]。

気温が摂氏マイナス25度から30度ときわめて低く、嵐が吹き荒れていたにもかかわらず、遺体は薄着だった。彼らの内の何人かは片方しか靴を履いておらず、同時にその他の者は靴を履いていなかったか、靴下しか履いていなかった。何人かの足は、先に亡くなった者の衣服を引き裂いたらしい衣服の切れ端で巻かれていた。低体温症による死亡のうち、20%から50%はいわゆる矛盾脱衣と関連があり[7]、これは通常、人が失見当識状態や混乱状態、好戦的な状態に陥るような中程度から重度の低体温症のときに起こる。おそらくこれが彼らが服を脱いだ理由であり、服を脱げば脱ぐほど、身体から熱を失う速度は早まったのだろうと考えられる

1959年2月26日、救助隊が発見したテントの光景。テントは内側から切開されており、一行のメンバーたちは靴下や裸足でテントから逃げ出していた。

事件の原因

超常現象から軍の秘密兵器実験に至るまで(後述)、事件をさまざまな原因と結びつけようとする説が持ち上がったが、中でも有力な説明のひとつとみなされているのが雪崩である[10]。

この説に基づくシナリオのひとつは、押し寄せてきた雪が夜のうちにテントを潰し、メンバーはパニックに陥ったというものである。一行はテントを切り裂いて逃げ出したが、靴や余分な衣服を雪崩で失ってしまった。氷点下の中で湿った雪に覆われると、15分以内に極度の疲労や低体温症による意識喪失が起こり、生存に関わる危機を招く[11]。チボ=ブリニョール、ドゥビニナ、ゾロタリョフ、そしてコレヴァトフは、自分たちが人里離れた場所にいるにもかかわらず、助けを求めて移動し、渓谷に滑落した。彼らのうち3人の遺体がひどい骨折を負っており、かつ彼らが渓谷の中で4メートルの深さのところに横たわっていたのも、彼らが滑落したことの証左とみなしうる。

一方で、雪崩は傾斜30度以上で発生することが多く、この一帯は傾斜15度で雪崩の起こりやすい地域ではないという主張はある[12]。捜査当局がキャンプ地から続く足跡を見たことは、雪崩説を否定する根拠になる。さらに彼らから放射線が検出された謎や、遺体から眼球や舌が喪失していた点も雪崩だけでは解明できない。

ジャーナリストらは、入手可能な死因審問の資料の一部が、次のような内容であると報告している。

  • 一行のメンバーのうち、6人は低体温症で死亡し、3人は致命的な怪我を負って死亡した。
  • 9人以外に、ホラート・シャフイル山にほかの者がいた様子も、その周辺地域に誰かがいた様子もなかった。
  • テントは内側から切り開かれていた。
  • 一行は、最後に食事を摂ってから6 - 8時間後に死亡した。
  • キャンプに残された痕跡は、彼らが自ら進んで徒歩でテントから離れたことを示していた。
  • 先住民のマンシ人が一行を襲撃したという説を払拭するために、ボリス・ヴォズロジデニヤ博士は、3人の遺体が負った致命傷はほかの人間によるものではないとし、「非常に強い衝撃によるものであり、(その証拠に)遺体の軟部組織は何ら損傷を受けていなかった」と述べた。
  • 何人かの犠牲者の衣服に、高い線量の放射能汚染が認められた。
  • 発表された資料には、メンバーの内臓器官の状態に関する情報が含まれていない。

当局の最終的な調査結果は、全員が「抗いがたい自然の力」によって死亡したというものであった。死因審問は1959年5月に公式に終了し、「犯人はいない」と結論した。資料は機密文書保管庫に送られ、1990年代になってようやくコピーが公開されるようになったが、いくつかの資料が失われていた。

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研究者の中には、捜査当局が以下のような事実を見落としたか、意図的に無視したと主張している者もいる。

  • のちにエカテリンブルクに拠点を置くディアトロフ財団(下記参照)の理事長となる、当時12歳のユーリー・クンツェヴィチ (Юрий Кунцевич) は、一行のメンバーたちの葬式に出席しており、彼らの肌の色が「濃い茶褐色」になっていたと回想している。
  • いくつかのメンバーたちの衣類(ズボン2着とセーター)が高い線量の放射能で汚染されていた。
  • 事件のあった夜、事件の発生地点から南に50キロ離れた場所にいた別のトレッキング客の一行が、北(おそらく、ホラート・シャフイル山の方角)の夜空に奇妙なオレンジ色の光球を目撃したと報告している[2]。同様の「光球」は、1959年2月から3月にかけて、イヴデリとその隣接する地域で、それぞれ無関係の目撃者(気象・軍関係者を含む)によって目撃されている。これらは後に、R-7大陸間弾道ミサイルを発射した光であったことが、エフゲニー・ブヤノフ (Евгений Буянов) によって証明されている。
  • 一部の報告は、軍がこの地域を(何らかの目的で)密かに利用し、そのことの隠蔽に取り組んできたのではないかという憶測につながる大量の金属くずが、この地域に置かれていたことを示唆している。
  • ディアトロフ一行の最後のキャンプ地は、バイコヌール宇宙基地(ここから、R-7大陸間弾道ミサイルの試験発射が何度か行われた)から、ノヴァヤゼムリャのチェルナヤ・グバ(ソビエト連邦内の主要な核実験場だった)に直接通じる道の途上に位置していた。
  • テント内に残されたカメラのフィルムが現像された。彼らの姿を映したものが多数を占めたが、最後の1枚が判別不可能ながら「光体」のようなものであった。
  • アメリカのドキュメンタリー映画監督ドニー・アイカーは著作『死に山』において、現場のドーム状かつ左右対称の地形はヘアピン渦(カルマン渦)現象と呼ばれる特異な気象現象が起こるには理想的な環境であり、繰り返し起こった竜巻による強風と低周波音に晒されて一行がパニックに陥りキャンプを飛び出し、凍死や転落死に至ったのではないかと推測している。事件現場の近くには核実験場があるが、核ミサイルによる被ばくなら通常の2倍程度の放射線量では済まず、その程度の量なら大気汚染でもあり得ること(実験場から放射線が届いた可能性も)、また日焼けについても長時間雪原で日光に晒されていれば起こり得るとしている。同著にて、犠牲者の眼球や舌の喪失は、野生動物による捕食や、水に浸かっていたことによるバクテリアに起因するものだと推測されていた。

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その後

1967年、スヴェルドロフスク州の著述家でジャーナリストのユーリー・ヤロヴォイ (Юрий Яровой) は、この事件にインスピレーションを受けた小説『最高次の複雑性 (Of the highest rank of complexity, Высшей категории трудности)』[14]を出版した。ヤロヴォイはディアトロフ一行の捜索活動や、捜査の初期段階において公式カメラマンとして関与しており、事件に対する見識を有していた。小説は事件の詳細が秘匿されていたソビエト時代に書かれ、ヤロヴォイは当局の公式見解以外のことや、当時すでに広く知られていた事実以外のことを書くことは避けた。小説は現実の事件と比較すると美化されており、一行のリーダーだけが死亡する結末など、よりハッピーエンドになるよう書かれている。ヤロヴォイの知人によると、彼はこの小説の別バージョンをいくつか書いたようであるが、いずれも検閲で出版を拒否された。1980年に彼が亡くなって以降、彼の持っていた写真や原稿などの資料はすべて失われてしまった。

1990年になると、事件の詳細の一部が出版物やスヴェルドロフスク州の地元メディアで公にされるようになった。そうした最初の出版物の著者の1人が、アナトリー・グシチン (Анатолий Гущин) である。グシチンは、死因審問のオリジナルの資料を調査し出版物に使うことに、警察当局が特別許可を出したと報告している。彼は、事件の物品目録の中で言及されていた謎の「エンベロープ (envelope)」などに関する多数のページが、資料から消されていたことに気づいた。同じころ、いくつかの資料のコピーが、ほかの非公式な研究者の間に出回り始めた。グシチンは、著書『国家機密の価値は、9人の生命 (The Price of State Secrets Is Nine Lives, Цена гостайны – девять жизней)』の中で、調査結果をまとめている[3]。一部の研究者は、この本の内容が「ソビエト軍の秘密兵器実験」説に入れ込み過ぎていると批判したが、本は超常現象への関心を刺激し、公の議論を沸き起こした。実際、30年間口を閉ざしていた人々が、事件に関する新たな事実を報告したのである。

そうした中の1人が、1959年に公式の死因審問を率いていた警察関係者、レフ・イヴァノフ (Лев Иванов) であった。1990年の彼の著書[15]によれば、当時の捜査チームは事件を合理的に説明することができなかったうえ、地域の高級官僚から、死因審問を中止して捜査チームが見た「飛行する球体」に関する資料を機密にするよう、直接指示を受けたというのである。イヴァノフ個人は、何らかの超常現象、具体的に言えばUFOなどが起きたことを信じているという。

2000年、地元テレビ局がドキュメンタリー番組『ディアトロフ峠の謎 (The Mystery of Dyatlov Pass, Тайна Перевала Дятлова)』を制作した。制作にあたっては、エカテリンブルク在住の著述家で、事件をモデルにドキュメンタリー仕立てのフィクション小説[4]を執筆したアンナ・マトヴェーエワ (Анна Матвеева) が協力した。この小説の大部分は、事件の公式資料や犠牲者たちの日記、捜索に携わった者のインタビューや、映画製作者が集めた資料の引用から成っており、おおまかなあらすじは事件を解明しようと試みる現代に暮らすある女性(著者自身の分身)の、日常と考えを追うといった内容である。フィクション小説であるにもかかわらず、マトヴェーエワの著書は、公表されてきた情報源の中で最大級のものとして扱われている。また、事件の資料やその他の文書の写しが、熱心な研究者に向けてWebフォーラムで徐々に公開されはじめている。

エカテリンブルクでは、ユーリー・クンツェヴィチによってディアトロフ財団が、ウラル工科大学の助けを借りて設立された。財団の目的は、ロシア当局に対して事件の再調査を開始するよう求めることと、亡くなった者たちの記憶を保存するディアトロフ記念館を維持することである。

遺族からの要請を受け、ロシア検察は2018年に事件の再調査を開始[17]。2020年7月13日、ロシア検察は被害者の死亡は雪崩によるものとの見解を発表した。一方で遺族らで結成された民間団体の弁護士は、遺族はこの結論には納得しておらず、人為的な要因であろうと推測し、検察の結論には同意しなかった。

おまけ:ディアトロフ隊のメンバー詳細

イーゴリ・アレクセーエヴィチ・ディアトロフ

トレッキング・グループのリーダー。当時23歳。ディアトロフ峠は彼の名にちなんで名付けられた。
ウラル工科大学の5回生。エンジニアリングの能力に秀でる。

彼はサヤン山脈に登山した1956年、登山しながらラジオを組み立てた。――その必要があったかどうかは別として、優秀なエンジニアであったことは確かなようだ。1958年以来ディアトロフ自身が愛用し、最後のトレッキングでも使用されたミニストーブも彼のお手製である。

ディアトロフを知っていた人々は、彼を慎重で思慮深い人と評した。
ディアトロフは今回の旅にも加わったジーナに言い寄っていたが、ジーナもマンザラでなく、微妙な両思いだったらしい。グループ内でディアトロフは今回のようなトレッキングに熟練しているアスリートのうちの1人であった。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:森とキャンプ場の間 2番目に発見される。

死亡時は無帽。ポケット付きの毛皮コートを着用も、ボタンは外れていた。その下にセーター、長袖シャツ、パンツの上のスキーパンツを履いている。履き物はなし。ソックスあり――右は羊毛、左は綿。所持品はポケットナイフとジーナの写真。

・額の軽い擦傷。 左の眉毛より上に擦傷。茶色――赤色。
・両方頬にも擦り傷。茶色――赤色。
・唇に乾燥した血液付着。下顎からは切歯が失われているが、粘膜の状態から歯はこのトレッキングの以前に失われたと思われる。
・右前腕の下1/3および 掌に無数の小さなひっかき傷。赤暗色。
・右手の中手指節関節は、茶色の赤い挫傷。これは、格闘した際に見られる損傷である。

・左手は茶色がかった紫の打撲傷、また二番および五番の指に表在性創傷。膝には内出血を伴わない打撲。右脚の下1/3が挫傷。両足首関節に擦傷、明赤色、大きさ1×0.5cmと3×2.5cm。下の組織に出血。

・内部損傷はなし

死因:低体温
特筆:ドロシェンコの服を着ていた。

※体調不良でトレッキングの初期で脱落して村へ戻ったユージンは、ディアトロフの着ていた長袖シャツ見て、それがユージンのものであったと証言した。奇妙な事にユージンはそれをドロシェンコにプレゼントしたはずだった。これはシャツをプレゼントされたドロシェンコが死亡したあと、ディアトロフが遺体から服を剥ぎ取ったと考えられる。

ユーリー・ニコラエヴィチ・ドロシェンコ

当時21歳。ウラル工科大学の学生。

一時期、ジーナと恋仲にあり、彼女の両親に会うために、ロストフ州カメンスクまで出向いている。
恋愛関係が解消された以後も、ジーナやディアトロフと良好な関係を維持していた。
キエフに親戚が住んでいるというが、他に彼に関しての情報は少ない。

以前のトラッキングでは、クマを地質ハンマーだけで追い払うという武勇伝を残したらしい。豪の者かもしれない。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:ゲオルギーとともに森林のはずれの大きなヒマラヤスギの下。最初に発見される。

ドロシェンコは、ヒマラヤスギの下で見つけられた2つの遺体のうちの1人。彼のズボンは損傷が激しく、右側に1つの大きな穴(長さ23cm)、左にも穴があった(長さ13cm)。大腿の内側に裂け目あり。 足にはウールのソックス、うち左ソックスには燃焼の痕跡がみとめられた。靴は履いていなかった。
毛髪は、頭部の右側で燃やされている。
耳、鼻、唇は血液に覆われている。右腋窩には2×1.5cmの挫傷。右肩に出血のない2つの擦傷2×1.5cm。右前腕の上1/3、茶色――赤色の挫傷4×1cm、2.5×1.5cm、5×5cm。
両手の指は、皮膚を裂いていた。両下肢の上1/3の皮膚に打撲傷。
顔面と耳の凍瘡。右頬に、口から出たとおぼしき灰色の泡状分泌物。

※右頬に見つけられた泡だらけの灰色の流体は、何人かの医師によれば、死の直前に誰か――または何かが、彼の胸腔を圧迫したのではないかと推測された。これはヒマラヤスギに登ろうとして、あるいは登って落下した結果でもあるかもしれない。だがこれらは最終報告書において無視された。
死因:低体温。
特筆:薄着だったとされる。

ユーリー・アレクセーエヴィチ・クリヴォニシチェンコ “ゲオルギー”

当時24歳。ウラル工科大学を卒業したばかりだった。

ゲオルギーは宮廷道化師と揶揄されるほどいつもジョークを言い、マンドリンを奏で、友人たちを楽しませた。
1957年チェリャビンスクで核再処理施設が稼働中、キシュテム事故(ウラル核惨事)として知られる事故が起こった。

旧ソ連における南ウラル核兵器工場の放射線事故)
1957年9月29日に、南ウラルのチェリャビンスク-65(チェリャビンスク市の北北西71km、キシュテムの東15kmに位置するマヤク核兵器生産コンビナート)の再処理施設で、高レベルの硝酸アセテート廃液の入った液体廃棄物貯蔵タンクの冷却系統が故障したために、加熱による化学的な爆発がおこり、タンク内の核種7.4E17Bq(2,000万キュリー)のうち、約9割が施設とその周囲に、約1割にあたる7.4E16Bq(200万キュリー)が環境中に放出され、チェリャビンスク州、スヴェルドロフスク州、チュメニ州などのテチャ川の下流の町を300kmにわたり汚染した。このため34,000人が被ばくしたといわれる。

参照元:https://atomica.jaea.go.jp/data/detail/dat_detail_09-03-02-07.html

ゲオルギーはそれを除染するために送られた技術者の1人だった。その際にゲオルギーが被爆し、服も微量の放射能を帯びた――それがディアトロフ峠で回収された放射能汚染された着衣――という可能性もなくはない。だがゲオルギーは放射能についての高度な知識を持っていた技術者であり、その彼が汚染されているかも知れない2年前の服をトレッキングに着ていくか――と考えると可能性は薄いように思われる

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:ドロシェンコとともに森林のはずれの大きなヒマラヤスギの下。最初に発見される。

ゲオルギーはヒマラヤスギの下で見つかった2体のうちの1人遺体はほとんど下着姿だったと言われ、靴は履いていなかった。
手の傷とスギの木の状態から、木の登ったのではないかと推測される。

額に0.3×1.8cmの打撲傷。左側頭骨周辺に挫傷。側頭筋の損傷、右側頭および後頭部で出血。
鼻の先端が欠落。耳は凍傷。右胸部に挫傷7×2cmと2×1.2cm。
手の打撲傷、あざ。2cmの幅で左手背面にある表皮が剥離。右手表皮の一部は、死亡者の口内で見つかる。
大腿の打撲傷およびひっかき傷。左腰部の打撲傷10 x 3cm。左下肢の外側に擦傷6×2cmと4×5cm。左下肢の打撲傷2×1、2×1.5と3×1.3cm。
左下肢に火傷10×4cm。
死因:低体温。

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ジナイダ・アレクセーエヴナ・コルモゴロワ “ジーナ”

当時22歳。ウラル工科大学ラジオエンジニアリング専攻の四回生。

彼女も経験豊富なハイカーだった。過去のトレッキングで毒蛇に噛まれたとき、痛みに苦しみながらもグループの仲間に負荷をかけまいと荷物持ちの申し出を断り、そのままトレッキングを完遂するほどの精神力の持ち主。

性格は極めて外向的で、活動的。彼女を知るものは彼女を『大学のエンジン』と評した。アイデアに溢れ、様々な物に関心を寄せ、人には敬意を持って接していたので自然と人々は彼女に惹きつけられ、愛された。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:森とキャンプ場の間 2番目に発見される。
ヒマラヤスギの下で見つかった2人(ドロシエンコとゲオルギー)と比較して、服装はまともだった。
2つの帽子を所持。長袖シャツ、セーター、もう1枚ずつのシャツとセーター(袖の裂けたもの)彼女がそれを自分で裂いたか、あるいは別の誰かによるものかは不明。
ズボンは着用していた。綿のアスレチックパンツ・三つ穴の開いたスキーパンツ。3対のソックスを履いているが、靴は履いていない。

髄膜(脳と脊髄をカバーしている膜)の腫脹。低体温症でよくみられる特徴。
指骨の凍瘡。手と手掌に多数の打撲傷。
胴体右側で身体を囲むような長い挫傷29×6cm。
死因:低体温。

※ジーナは悲劇的なアクシデントによる低体温症で亡くなったと宣言された。検死の結果、彼女が死亡時に性的不活発(not sexually active)であったことも判明する。

ルステム・ウラジーミロヴィチ・スロボディン”Rustik”

当時23歳。1959年にウラル工科大学を卒業。

非常に優れたアスリートであったが物静かでもあった。
正直で折り目正しく、長旅の時はしばしば持参したマンドリンを弾いて皆を楽しませた。ロシアのテレビ局が2000年に制作した番組『The Mystery of Dyatlov Pass』のインタビューで、ルステムを知る人物は彼を『バランスマン』と評した。楽しい時も苦難の時も冷静に同じアプローチができる人物だったという。彼はどんな状況でも落胆しなかった。奇妙なドングリ帽子がシャレオツ。

■発見状況と検死
1959年2月26日発見 発見場所:森とキャンプ場の間 2番目に発見される。

長袖シャツ、別のシャツ、セーター、2対のズボン、4対のソックスを履いていた。他の遺体と違い、ルステムは右足にだけブーツを履いていた。
ポケットには310ルーブルとパスポート。さらにナイフ、ペン、鉛筆、櫛、靴下を片方だけ、マッチ箱などを所持。

額に褐色がかった赤い擦傷、2つのひっかき傷は、0.3cmの間隔で長さ1.5cm。
眼瞼に褐色がかった赤い打撲傷、内出血を伴う。鼻からの血液分泌物の痕跡。
腫れた唇。顔面右半分に不規則な形状の無数の小さい擦傷、腫脹。
右前腕から表皮の裂け。
両手の中手指節関節の挫傷、類似の挫傷は、格闘した際に見られる。これはディアトロフと同様。
左腕と左の手掌の内側側面に茶色いサクランボ形のあざ。左の脛骨の打撲傷2.5×1.5cmの大きさ。
側頭筋に損傷、頭蓋骨、前頭骨骨折。これは、外国の鈍器で叩かれたような破壊。
死因:低体温。
特筆:頭蓋骨骨折。

※上記頭部への強烈な打撃が遺体から読み取れるが、解剖所見ではこれ自体は直接的な死因ではなく、やはりルステムも低体温症で亡くなった。ただ頭部への打撃が低体温症の進行を早めたことは疑いないとする。
そしてルステムがどのようにして手足頭に怪我をしたか、全くの不明である。ルステムの遺体は奇妙な事が多いと所見では述べられている。

リュドミラ・アレクサンドロヴナ・ドゥビニナ “リューダ”

当時20歳。ウラル工科大学生、工学と経済学を学んでいた大学3回生。これ以降に発見される遺体は、損壊が酷くなり、妙な事実が混じり始める。

リューダは活発な性格で、歌ったり踊ったり、なにかを撮影するのが好きだった。ディアトロフ峠事件で見られる当時の写真の多くは彼女によって撮影されている。

彼女もジーナ同様タフだった。イースタン・サヤン山脈への遠征の際、他人がライフルの手入れをしている際に誤射し、その弾は近くにいたリューダにあたった。だが彼女はトラブルとなることをよしとせず、不満も文句も言わず、ただ耐えて乗り越えた。ちなみに、リューダは熱心な共産主義者。

■発見状況と検死
1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。
半袖シャツ、長袖シャツ、2着のセーターを着用。小さい帽子、2対の暖かい靴下、片方だけの靴下、下着、長靴下、2対のズボン。外側のズボンは燃焼によるダメージがあり、裂けていた。
リューダはセーターを二つに裂いて、それで足の保温を行おうとした痕跡がある。その片方は左足をくるんでいたが、もう片方は雪の上に落ちていた。ゲオルギーのズボンをはいていた。

舌は口底からまるごと失われている。
眼窩周辺から柔らかい組織が失われている。眉毛そして、左側頭領域の骨が部分的に露出。
眼球は失われている。
鼻の軟骨が折れ、平坦になっている。
右側2番 3番 4番、及び5番の肋骨が骨折。2本の骨折線が見える。
左側2番 3番 4番 5番 6番、および7番の肋骨が骨折。2本の骨折線が見える。
上唇の軟部組織は失われている。歯と上顎が露出。
心臓、右心房に大量出血。中間の左大腿の挫傷、大きさ10×5cm。
左側頭骨周辺に組織の損壊、大きさ4×4cm。

死因:心臓の致命傷。ないし低体温。
特筆:衣服から高いレベルの放射能が検出される。

※所見によれば、胃が約100グラムの凝固血を含んでいた。つまり、舌が抜かれた、ないし噛み切った時点で心臓は動いていたとされる。
死因は右心房の大量出血。複数の折れた肋骨により引き起こされた可能性が高い。舌は見つかっていない。

セミョーン(アレクサンドル)・アレクサンドロヴィチ・ゾロタリョフ “サシャ”

当時37歳。彼の2つ名は『不可解』だ。
最年長で、ガイドのようなことで生計を立てていたとされ、仕事として今回のラストトレイルに参加したものと思われる。

2つ名、などと上で表現したが、ゾロタリョフの名は2つでは収まらない。仲間たちには「サシャ」または「アレキサンダー」と呼ばせていたが、本名はセミョーンであるとされ、それすらも本当かどうかわからない。

彼が毎度異なる名で自己紹介した理由はいまだに判然としていない。多言語を話すことができ、確認できただけでも ロシア語、ポーランド語、ウクライナ語そしてドイツ語に通じていた。

見た目は穏やかで、なんだか婚活に本気を出しはじめたチャップリン――のようであるが、 『For the Defense of Stalingrad(スターリングラードの防衛のため)』『 For the capture of Konigsberg(ケーニヒスベルクの捕獲のために)』『For the Victory over Germany(ドイツの勝利のために)』『Red Star』という以上4つの勲章を授与されているタフな軍人でもあった。服の下には様々な入れ墨も彫られており、人は見た目ではないと我々を諭してくれる。

■発見状況と検死
1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。ゾロタリョフの2つの帽子と共に発見された。身につけていたのはスカーフ、シャツ、長袖シャツ、黒いセーター、上部のボタンが外れたコート。
ゾロタリョフはどうやら低体温症で亡くなったわけではない。下半身は下着と2対のズボン、スキーパンツによって保護されていた。
所持品は、新聞のコピー、硬貨、コンパスほか。
彼の足は、「ブルカ」として知られているソックスと暖かい革の手製の靴によって保護されていた。そして、首からカメラをさげていた。
これには途中で帰還したユージンは驚いたらしい。普段から使用していた物と別に、ゾロタリョフはもう1台カメラを所持していたことになるが、そんなことは隊の誰も知らなかったと。しかし2台目のカメラは内部が水浸しになっており、残念ながらゾロタリョフが何を撮影していたかは永遠に謎となった。

眼球は失われている。
左眉周辺の柔らかい組織は失われ、骨が露出。大きさ7×6cm。
動揺胸郭。 右側2番 3番 4番 5番 6番の肋骨が骨折。2本の骨折線。
頭蓋骨の右側上部に開放創。骨が露出、大きさの8×6cm。

死因:致命的な内部の破壊、ないし低体温。
特筆:ジーナのコートと帽子を着用。リューダとゾロタリョフは体型に大きな違いがあるにもかかわらず、似たような損傷をしている。衣服から放射能が検出される。

アレクサンドル・セルゲーエヴィチ・コレヴァトフ

当時24歳。ウラル工科大学で物理学を学ぶ4回生。

鉄金属の冶金学なども学び、優秀な学生として評価されている。原子力関連の研究室に身を置いたこともある。
彼の友人はコレヴァトフを『明白な統率力をもち、勤勉、衒学的、論理的であった』と評する。

■発見状況と検死
1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。
眉および眼窩周辺の軟組織が失われている。頭蓋骨の露出。
鼻の骨折。
耳に開放創耳、大きさ3×1.5cm。
頸部が変形。
死因:低体温と推察される。
特筆:コレヴァトフの解剖に関して、遺体が回収された時にすでに腐敗・分解が激しく、詳細な情報が得られなかった。

ニコライ・ウラジーミロヴィチ・チボ=ブリニョーリ ”コリャ”

当時23歳。ウラル工科大学で土木工学を学び、1958年に卒業。

共産党員の息子で、父親は スターリンの暗黒時代に処刑され、コリャは強制収容所で生まれた。

そんな暗い境遇を跳ね返すかのようにエネルギッシュでユーモアにあふれた明るい人物で、その率直な人柄や優しさで友人達にとても愛された。彼は気を配り、誰にも不快な思いをさせないことを誰もが知っていた。若く、体力のないメンバーがトレッキングに参加していると、その者の荷物を持ってやったり、いつも皆が快適に過ごせるように配慮する優しい人物だった。
コリャはこれを最後のトレッキングにする、と母親に約束していが、結局彼は帰らなかった。

■発見状況と検死
1959年5月4日発見 発見場所:大きなヒマラヤスギから75m離れた小さな峡谷。3番目に発見される。

頭蓋骨の側頭骨に対する多発骨折。拡張が正面のおよび蝶形骨に対してみられる。
左側上唇の打撲傷。
下部の前腕の出血、大きさ10×12cm。
死因:重度の頭蓋骨骨折、ないし低体温。

※剖検によれば、コリャの広範囲に及ぶ不可思議な骨折の理由は明確にできないが、岩からの偶発的な転倒は除外すべきとした。

※捜索後期に発見されたリューダ、ゾロタリョフ、コレヴァトフ、コリャ、以上の4人に関して、それぞれが骨への損傷が激しく、かつそれが広範囲に至っていたため、剖検は車に轢かれたような、と表現した。

ユーリー・エフィモヴィチ・ユージン

当時21歳。イケメン枠。
体調不良のため1月28日に引き返しため、難を逃れた。
ディアトロフ隊の持ち物や、内情について貴重な証言を残している。
2013年4月27日死去。

参照元: https://okakuro.org/%E8%B3%87%E6%96%99%E9%9B%86/dyatlov-p-i-doc/

事件を扱った作品

ノンフィクション

  • Donnie Eichar "Dead Mountain: The Untold True Story of the Dyatlov Pass Incident" Chronicle Books, 2014年10月 ISBN 978-1452140032
  • 『死に山: 世界一不気味な遭難事故《ディアトロフ峠事件》の真相』ドニー・アイカー著、安原和見訳、河出書房新社、2018年8月 ISBN 978-4309207445

参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/ディアトロフ峠事件

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