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帰ってきたウルトラマン「怪獣少年の復讐」
@31104423
「列車転覆事故は怪獣のせいだ。僕は見た」
と主張する少年。
しかし怪獣の痕跡は発見されず、少年が事故を起こした運転士(死亡している)の息子であったことから「父親をかばって嘘をついたのだ」とされる。
以来、少年は嘘ばかりつくようになり、また激しく社会を憎むように屈折する。
父を殺した怪獣エレドーダスが、いつか東京全体を焼け野原にすると信じているのだ。
二度目の列車事故が発生して、現場で少年らしい人影が目撃されたことで、MATの岸田は
「少年が自分のついた嘘を正当化するために、線路に石を置いたのではないか?あるいは前回の事故も少年の置き石が原因だったのかもしれない」
と推理する。つまり少年は、自分の悪戯で父を殺めてしまった…その罪悪感から逃れるために、存在しない怪獣をでっちあげているのではないか?というのだ。
郷は岸田の推理に納得できない。しかし怪獣の存在も信じられる証拠がない。
そこで郷は、少年が祖父と住む荒屋を訪ねる。
「一番好きな怪獣は何だい?」
「エレドーダス」
「じゃあ、一番嫌いな怪獣は?」
「エレドーダス」
「何だ?どっちも同じじゃないか!」
怪訝な表情の郷に対して少年は
「やっぱり、僕のことを信じてないんだ!」
と怒り、怪獣エレドーダスが再び現れて東京を火の海にする、と言い放つ。
「嘘をつくんじゃない!」
郷は少年を殴りつける。
「帰ってきたウルトラマン」の初期エピソードは、郷秀樹が超人ゆえに察知した怪獣等の情報を他の隊員に信じてもらえず、それが原因で組織内で揉め事が発生する、というものばかりだった。
「どうして信じてくれないんだ」
激しい非難に晒され、孤立していく主人公……という辛い展開に我慢ができずに、視聴をやめる子供も多かった。
回を重ねるごとに郷は成長し、意固地に意見を貫くことをしなくなるので、主人公と組織の対立のエピソードは減っていくが、代わりに周囲に「信じてもらえない人」を配したドラマが頻出するようになる。
ドラマは「怪獣」という虚構と現実の狭間の存在を扱いながら、常に現実(怪獣不在)の主張が有力である構造となり、かつてはその構造に苦しめられた主人公も、怪獣の存在を訴える少年を殴るのである。
結局、怪獣エレドーダスは少年の虚言が生み出した虚構だったのか?実際に存在したのか?はよくわからない。
劇中、怪獣は出現し、街を破壊し、ウルトラマンに倒されるが、全体に「現実寄り」のドラマは、
それをあくまで虚構であると、突き放しているようにも見える。
細部に矛盾が多く、視聴者を激しく混乱させ、揺さぶるエピソードである。
参照元:https://twitter.com/31104423/status/1672038365523480577
帰って来たウルトラマンは次郎くんも含めて少年が良く出ますね。ちょうど同世代なので見てて複雑でした
怪獣ドラマの基本
@31104423
「怪獣の存在を信じてもらえない」
だ。
それは主人公に限らないが、とにかく誰かが怪獣を目撃するのだが
「そんなものがいるはずがない」
と一笑に付されたり、精神を疑われたりする。
これは怪獣ドラマのきっかけとしては大変重要なのだ。
何故なら怪獣とは「信じられないようなモノ」だからだ。
劇中、初めから「信じられていてはならない」のだ。
その信じられないものが実際に現れるところが、怪獣モノのクライマックスになるわけだ。
ウルトラシリーズや東宝映画みたいに、常に怪獣が出現する世界観においても
「そんなものはいない!」
とする不信が、まず描かれる。
このステップがないと、怪獣の「怪」の部分が描けなくなる。
存在しないはずのモノがいた!という驚きを提供するのが怪獣映画の役割なのだから、まず「不信」を必ず配置しなければならない。
怪獣映画の多くが、どことなく暗くて、悲しいのも「不信」を描くためだろう。
「帰ってきたウルトラマン」のテーマは一貫して「不信」である(それは怪獣の存在を巡る不信だけではないのだが…)。
つまり「帰ってきたウルトラマン」は、番組の設定段階から怪獣ドラマとして「正統のスタイル」を構造的に組み込まれた作品だったと言えるだろう。
参照元:https://twitter.com/31104423/status/1672063323603607552
確かに怪獣なんて信じんられるモノではないよね。でも、毎回の様に子供とかが、怪獣を見たと言って信じない隊員達を見て、隊員達は全然成長しないんだな〜って、思ってたな〜。
新マンが毎回それで序盤に揉めてて見るのが嫌になったなあ。キッズ的には人間同士の揉め事が見たいわけではないんですよ。巨人のプロレスと景気の良い爆発が見たいんですよ。