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@zatsugakuinu
実際に会った実験:男の子を女の子として育てる実験
デイヴィッド・ライマーは乳児期の医療事故をきっかけに、女児として養育されました。
思春期に真実を知った後は男性として生きることを選びましたが、彼の人生は医療倫理の基準を動かし、性とは何かという問いを社会に突きつけました。

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1965年に一卵性双生児の兄として生まれた彼は、生後7か月の包皮切除手術で電気焼灼器による処置が失敗し、陰茎が回復不能な損傷を受けます。
将来の生活や性機能への不安から、両親は性発達研究で知られていた心理学者ジョン・マネーに相談しました。
心理学者ジョン・マネー

マネーは「女性として育てるほうが幸福につながる」と助言し、精巣摘出後、ブレンダへと改名されました。当時「性別は早期の環境で形成可能である」という見解が広まりつつあり、マネーはその立場の代表的存在でした。
「比較対象のいる双子」は、学説を検証するのに最適な存在でもあったのです。
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マネーは「再割り当て」は順調に進んでいると発表し、インターセックスの乳児に対し、早期に男女いずれかへ外科的に合わせるという医療方針を後押しました。
※インターセックス:染色体、生殖腺、性器など身体の性的特徴が、典型的な男性・女性の定義に当てはまらない状態で生まれた人々を指す。
「性別は柔軟で、適切な環境と医療介入によって再形成できる」という考えが一定の支持を得るようになります。
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しかし、本人の体験は報告内容と全く一致していませんでした。
ブレンダは幼少期から典型的な女児的行動に強く同一化せず、男児的な遊びや振る舞いを好み、学校では孤立していました。思春期にはエストロゲン投与が行われ、身体的には女性化が進みましたが、心理的な違和感は解消されませんでした。
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さらに後年、治療セッションの一部として、双子に性的行為の模倣をさせる行為があったと本人と弟が証言し、倫理的な問題として強い批判を受けました。
これらの内容は当初公表されておらず、事例の評価を大きく揺るがせる要素となります。
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14歳のとき、両親から出生時の経緯を告げられた彼は、男性として生きる決断をします。
自らデイヴィッドと名乗り、テストステロン投与、乳房切除術、陰茎形成術を受けました。
成人後は職を転々としながら生活し、1990年に結婚、妻の子どもたちを養子として迎えます。

1997年、性科学者ミルトン・ダイアモンドに協力し、自身の体験を公表しました。
医学誌での再検証と報道記事、そして書籍化によって、長年「成功例」とされていた物語は覆されます。
この公表は、乳児期の性別再割り当て手術の実施基準を見直す大きな契機となりました。
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2002年、弟が薬物過量摂取により亡くなり、2004年にデイヴィッドも38歳で自ら命を絶ちます。
彼が弟の墓を毎日訪れていたこと、仕事を失い、投資で損失を出し、
妻と別居状態になっていたことが伝えられています。
長年抱えてきた、人生の根に刺さった体験が影響を与えたかは定かではありません。

心理学者ジョン・マネーは公に反論を行うことなく2006年に亡くなりました。
彼は約2000本の著作を残し性科学の発展に寄与した一方で、その理論は今日も議論の対象となっています。
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【補足:実験終了の経緯】
思春期に入るころ、ブレンダとして育てられていたデイヴィッドの精神状態は急速に悪化していきます。幼少期から周囲との違和感はありましたが、身体が第二次性徴へ向かう時期になると、その齟齬はごまかしのきかないものになります。
彼は両親に対して、「もしまたあの医師のところに連れていかれるなら、自分は死ぬ」とはっきり告げました。これは単なる反抗ではなく、両親が本気で命の危険を感じるほどの切迫した言葉だったと伝えられています。
長年、専門家の判断を信じ続けてきた両親にとって、この瞬間は衝撃でした。
彼らはようやく、自分たちが「うまくいっている」と聞かされてきた物語と、目の前の子どもの現実との間に埋めがたい断絶があることを直視します。
担当していた内分泌医と精神科医は、これ以上真実を隠し続けることは危険だと助言します。そして1980年3月14日、14歳になっていた彼に、父親が出生時の事故とその後の処置のすべてを打ち明けました。この告白が、実験の終焉を告げる瞬間でした。