名作・神スレ

【名作スレ】私が初恋をつらぬいた話

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110:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:33:28.56 ID:+beSXCVE0
そのまま黙って二人でコーヒーを飲み終えた頃、先生は「渚さん」と私を呼んだ。
なんですか?っという視線で先生を見る。

「……………しばらくの間、このままココに居座っちゃいなさい。」

驚いて聞き返す。

「え!?」
「居座っちゃいなさい。」

先生は相変わらずニコニコしていた。

「でもそんな事バレたら先生が…ダメです、絶対にダメです!」
「大丈夫大丈夫。」
「大丈夫じゃありません!ダメです!私、先生の人生まで壊したくありません!」
「壊れる?僕の人生が?どうして??」

先生はわざとらしくキョトンとした顔をした。
私は一呼吸ついて、話を続けた。

「もしバレたら、先生は学校を辞めさせられるかもしれません。もしかしたら逮捕とかされちゃうかも知れないし…」
「逮捕?大丈夫大丈夫。仮にされたとしても、容疑がかかるだけです。すぐに釈放されますよ、現に何もやましい事はして無いんだから。」

先生はアハハと笑うと、そのまま続けた。

「それに………学校をクビになっても、別に人生終わりませんよ。それだけが僕の全てじゃ無いです。」
「でも…」
「稼ぐ方法なんていくらだってありますしね。僕、こう見えてもピアノが得意なんですよ。」

先生は自慢気にそう言うと、私を見つめてニコっと笑う。
私は思わずプッと吹き出した。

114:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:36:54.38 ID:+beSXCVE0
「……でも私…やっかいになれる位のお金、持ってません。」
「お金?ハハハッ、気にしないで。部屋はこんなだけど僕、実はかなーーーりお金持ちですから。」
「でもそんな訳には…。」
「子供はそんな事、気にしなくていいの。」

先生はそう言って笑うと立ち上がり、寝室に入っていった。

本当にいいのだろうか…大丈夫なんだろうか…そんな事を考えていると、先生はすぐに戻ってきた。
テーブルの上に、何も付いていない鍵を置く。

「はいこれ、渚さんの分。」

驚いて先生の顔を見る。

「しばらく居るんだから、無いと不便でしょう?」
「でもっ」
「いいからいいから。無くさない様に、大事に持ってて下さいね。」

先生はそう言って時計を見ると、大きく背伸びをした。

「あーもう朝だ。仕事に行く準備しなきゃ。」

時計は6時を回っていた。

先生との短い同居生活が始まった。

115:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:39:33.77 ID:+beSXCVE0
その日の朝。
先生が出掛けて少し経ってから、
私は周囲に人の気配が無い事を確認すると、そーっと先生の家を出た。

夏休みで学校は休みといえど、高校3年になった私は就職活動をしなければならない。
その為に必要な物と、あとは生活に必要な物を少しだけ取りに、私は一旦家に戻った。

家に着き、緊張しながらドアノブを回す。
鍵は掛かっていなかった。

「………」

注意深く家の様子を探る。

テレビの音だけが、かすかに聞こえた。

私はそっと足を踏み入れると、なるべく足音を立てないようにリビングに入った。

荒れ果てたリビングではボロボロになった母が、ぼーっとテレビを見つめていた。
母に動く気配は無い。
男と弟の姿も、どこにも無かった。

そんな母を無視するように二階に上ると、私は急いで荷物を詰め、またそーっと一階に降りた。
母は変わらず、テレビを眺めていた。

「………暫く戻らないから。」

私は何となく母に言った。

母はテレビを見つめたまま小さくコクっと頷いた。

なんともいえない胸の痛みが、気持ち悪かった。

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117:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:41:59.05 ID:+beSXCVE0
それからしばらくの間、私は本当に先生の家で過ごした。

バイトは休みを入れ、就職活動に必要な時のみ外に出た。

私は先生のベッドを宛がわれ、先生はソファで寝た。

洗濯物は3日に一回、先生と別々にして回した。
私が水道代の心配をすると、先生は「僕はお金持ちですから。」と言って笑った。

夕飯は先生が買ってきたものを食べた。
一応、朝昼分も用意しておいてくれたのだが、なんだか申し訳なくて食べられなかった。

お風呂は先生の居ない間に入る決まりになった。
理由は、先生が恥ずかしいからだそうだ。

少しずつ、ルールが出来ていった。

普段、先生と私は同じ空間に居ても、特にお話をしたりテレビを見たり遊んだり…という事は無かった。
先生は先生、私は私で好きに過ごし、夜中の一時位になると「寝ましょうか。」といって布団に入る。

先生は本を読んでいる事が多く、私は邪魔にならないようにイヤホンで音楽を聴いていた。
そんな不思議な生活を、送っていた。

118:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:44:30.12 ID:+beSXCVE0
先生の家に来て2週間ほど経ったある日。

夏休みはもうすぐ終わり。

いつものように先生が買ってきた夕飯を二人で食べると、私はイヤホンを耳に付けた。
先生は本を…と思ったが、その日は珍しくピアノの前に座ると、なにやら黒い点が一杯書いてある楽譜を広げた。

そのまま小一時間くらい何か弾いている後姿を眺めていると、先生はふいにこちらに振り返った。
首をかしげながら、イヤホンを外す。

「いつも、何聴いてるんですか?」
「え?」

私はMDプレーヤーを見た。

私には当時好きな映画があって、その劇中の曲をよく聴いていた。
その映画のサウンドトラックにはピアノ曲が数曲入っていて、私は特に好んでそれを聴いていた。

「〇〇って映画の〇〇って曲です。」
「ふーん……ちょっと聞かせて貰ってもいいかな?」

私は立ち上がって先生に近寄ると、イヤホンを渡した。
先生が耳に付けたのを見て、当時よく聴いていた曲に巻き戻すと、再生ボタンを押した。

先生はじーっと、丸々一曲分の時間くらい聴き入っていた。
曲が終わった頃にイヤホンを外すと、鍵盤の上に手を乗せる。

不思議に思っていると先生はその曲のサビのフレーズを、まったく同じように弾き始めた。

119:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:46:31.05 ID:+beSXCVE0
「…聴いたこと、あるんですか?」

ビックリして質問すると、先生は指を止める事無くニコニコしながら言った。

「いいえ、初めて聴きました。素敵な曲ですね。」
「…初めて聴いたのに、弾けちゃうんですか………。」

私がそう言うと、先生は手を止めて少し恥ずかしそうに笑った。

「言ったでしょう?僕、ピアノは得意なんです。」

私はプッと吹き出した。

「……ピアノの曲、好きなんですか?」
「はい。」
「…じゃあ一緒に弾いてみます?」

先生はニコっと笑う。
私は慌てて首を振った。

「出来ません!私、ピアニカ以外の鍵盤には触った事ないです!」
「大丈夫。簡単ですよ。」

先生は立ち上がり、私をなかば無理やりピアノの椅子に座らせた。
そして隣に立つと、私のちょうどまん前辺りにある鍵盤を指差した。

「渚さんはここから右半分、好きな音を指一本で鳴らしてくれればいいです。そうですね……大体同じテンポで弾いてください。」
「は…ハイ。」
「あ、白い鍵盤だけでお願いしますね。」

私が頷くと、先生は「じゃあどうぞ。」と言った。

120:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:48:28.29 ID:+beSXCVE0
恐る恐る鍵盤を押す。
先生はそれに合わせて、左手で伴奏をつけた。

適当に押しているだけの筈なのに、ただの音が音楽になっていく。
私は何とも言えぬ感動で、背中がゾクゾクとした。

ある程度弾いた所で、私は鍵盤から指を下ろした。
感動にほころんだ顔で、先生を見る。

「ね??ほーら簡単。」

先生はニッコリと笑った。

「凄い、どうやったんですか?」

嬉々とした声で、先生に尋ねる。

「アハハ、内緒です。ただ、凄い事をしてるように見えても、ある程度弾ける人には簡単に出来るんですよ。」

私が「そうなんですか?」と聞くと、先生はニコニコしながら頷いた。

「だから将来同じ事をされて、悪い人に引っかからないように!」

先生は笑いながら言ったが、私はその言葉に少しだけ胸が痛んだ。

122:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:50:43.55 ID:+beSXCVE0
「さてと、コーヒーでも入れましょうかね。飲みますか?」

私が頷くと、先生はキッチンに移動する。
私はそれを見て、ソファに戻った。

少しの間、なんともいえない心地良い空気が流れる。

先生が持ってきたコーヒーカップに口をつけると、私は質問をした。

「先生は何歳からピアノを始めたんですか?」
「うーん…3歳位かなぁ?気がついたらもう始めていたので、結構あいまいです。」

先生はカップを置くと、小さく笑った。

「母が厳しい人で、毎日何時間も弾かされていたんですよ。あの頃は凄く嫌だったけど、今となってはやっといて良かった!って思ってます。」
「先生のお母さんは、厳しい人だったんですか…」

私がそう言うと、先生はフッと悲しそうに、それでもニコニコしながら視線を落とした。

「……前に、少しだけ言った事がありましたよね。僕にも色々あったって。」

私は小さく頷いた。

先生は自分の半生を、ポツリポツリと語り始めた。

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123:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:53:09.04 ID:+beSXCVE0
先生の実家は京都。
地元ではちょっと有名な名家で、先生はそこの二人兄弟の次男だった。

仕事と称してあまり帰って来ない父。
長男を溺愛して、自分には厳しく当たる母。

長男は何でも思い通りに生活し、先生は母に言われるがまま習い事漬け。
かといって愛情を感じる事は、何一つされなかった。
それどころか、逆に罵られている事の方が多かったらしい。
それでも自分もいつかは愛されると信じていた先生は、文句一つ言わず母に従い続けた。

そんな中、たまに帰ってきては自分をめいっぱい可愛がってくれる父親の事が、先生は大好きだったそうだ。

だが高校生になったある日、先生の父は交通事故で亡くなった。

父の遺言書を見ると、財産の半分は先生に、あとの半分は長男と母で折半をしろと書いてあった。
半分と言っても、家やその他のものを入れると、軽く億には届いていた。

それをみた兄と母は、当然怒り狂った。
財産は長男である兄に継がせるべき、と。

その頃にはこの家はおかしいと目を覚ましていた先生は、ある程度のお金さえ貰えれば自分は満足だからと遺産を放棄し、
手切れ金の様な形で元の半分の金額だけを受け取り、もう自分には一切関わって来ないようにと、念書を書かせた。

兄と母は喜んでそれを書くと、先生を家から追い出した。
元々出て行く気だった先生は、逆にこれ以上揉めなくて良かったと、ホッとしたそうだ。

それ以来、本当に何の接触もしてこず、先生は今、平和に暮らしているらしい。

126:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:56:49.53 ID:+beSXCVE0
「だから僕、無駄にすごーくお金持ちなんですよ。」

先生は笑った。

私は何も言えなかった。

二人の間に不思議な空気が流れた。

「なんだかちょっと重い話に聞こえるかもしれないけれど、今となっては多分いい思い出です。だからそんなに難しい顔をしないで。」
「えっ?」
「眉間。すっごいシワ寄ってましたよ。」

先生はクスクス笑いながら、私のオデコを指差した。
ハッとして自分の眉間を触る。
先生はその様子を見て、今度は大きな声でアハハと笑った。

私は少し不貞腐れながら言い返す。

「先生こそ…そんな大変そうな話なのに、ニコニコしすぎです。」
「仕方ないです。この顔は産まれ付きなんですから。」

先生はわざとらしくニッコリして見せる。
その顔を見て、私も思わず笑ってしまった。

127:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 16:59:58.58 ID:+beSXCVE0
もう冷めてしまったコーヒーを一口飲むと、私はふと気になって先生に質問をした。

「……先生は、女性とお付き合いした事はあるんですか?」
「え!?」

突然の素っ頓狂な質問に、先生が大きく驚く。

「いや、その……先生は優しいし…背が高いし…ピアノ弾けるし…モテたのかなぁ?って…」

言葉尻がだんだんと萎んで行く。
そんな私を見て、先生は少し困ったような顔をしながら答えた。

「………そう、見えますか?」

私はゆっくり頷いた。

「モテた…という記憶はありませんが……そういう風になった女性なら、何人かは居ましたよ。」

胸がぎゅっと痛くなった。
でも「そういう風になった」という言葉が何かを濁しているような気がして、私は更に質問した。

「そういう風になったって言うのは…お付き合い自体はしていないという事ですか?」
「…そういう事になりますね。」

先生は苦笑いをした。

「…さぁ恋人になりましょう、という事は無かったです。物凄く曖昧な関係しか、経験した事がありません。」
「そうなんですか…」

何となくで聞いた事を、ちょっと後悔し始める。

先生は下を向いて少しだけ考え込むと、ハハっと小さく笑って話を続けた。

128:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:01:15.99 ID:e1YBe8Vo0
先生のセリフが堺雅人の声で脳内変換される…

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129:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:02:12.26 ID:+beSXCVE0
「まぁ……人って、いつかは離れていくじゃないですか。どんなに好きになっても、結局はどこか遠くへ行ってしまう。」

私は黙って聞いている。

「どこかに行ってしまうのは解っているから、何だか一線を引いてしまうんです。僕は弱虫なんで、自分が傷つくのは嫌なんですよ、怖いんです。きっ
とそんな気持ちが相手に伝わってしまうんでしょうね。気がついたらもう手が届かない場所に行っていた…っていう事ばかりでした。恋愛だけじゃなく
、他の事でも…。」

先生は気まずそうにアハハと笑った。

「…先生は…その人達の事が、好きだったんですか?」
「わかりません。」

私が小さく聞くと、先生は爽やかな声で即答した。
思わず先生をじっと見る。

「こんな人間が、優しい訳が無いです。」

先生はそう言うと、いつものようにニコっと微笑んだ。

その顔を見ていたら妙に心がざわついてきて、色々な思いが物凄い早さで頭の中を駆け巡っては、消えていった。
いつも穏やかに笑っている先生の顔がだんだんと、少し冷たい、哀しそうな笑顔に見えてくる。

笑顔の裏に隠れているであろう先生の本当の顔が、私には何も見えない。

ふと、先生の言葉を思い出す。

「誰からも必要とされた事があまり無かったので…」

その言葉の裏には、先生の様々な思いが込められていたのかもしれない…そう思った。

130:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:04:44.06 ID:+beSXCVE0
どうしようも無いもどかしさで、胸が一杯になっていた。

「…先生。」
「なんですか…?」
「……私は先生から離れません。」

何故だが気持ちが昂ぶって、私は思わず口に出していた。

「………私は先生が好きです。だから離れていったりなんてしません。」

先生は一瞬…本当に一瞬だけハッとした顔をした。
でもすぐにいつものニコニコ顔に戻って、大きくゆっくり、何かをかみ締めるように目を閉じる。

途端に後悔が襲ってきて、私は下を向いた。

自分でも、何でそんな事をこの場で言ってしまったのかが解らなかった。

いやに早い心臓の鼓動のせいで、体が自然と震えだす。
時間を戻せるなら、自分を引っぱたいて止めてやりたかった。

131:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:07:18.45 ID:+beSXCVE0
微妙な空気が流れる。
私の目にはいつの間にか、涙が溢れ出てきていた。

「……………僕は…ダメですよ。」

先生の穏やかな優しい声に、息が詰まった。
そう言った先生の、顔が見れない。

「……どうしてですか…?」

破れてしまいそうな喉の痛みを堪えながら、私はやっとで呟いた。

「……どうしても。」
「…答えに…なってません。」
「……僕の事を好きになったら、ダメです。」

泣き顔を見られないように、下を向いたまま聞き返した。

「…だからどうしてですか?」

先生の柔らかい溜め息が聞こえる。

「…どうしても、です。」

132:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:09:33.19 ID:+beSXCVE0
喉の痛みが激しくなる。
言いたい事、聞きたい事、山ほどあるはずなのに、私はそれを言葉に出来なくて黙り込んだ。
近くにいる先生が、とても遠くに感じる。

思い切って顔を上げて、私は先生を見つめた。
何故だか、目をそらしてはいけない気がした。

「……嫌です。」
「……ダメです。絶対にダメです。」
「嫌です。…無理です。」
「ダメです。」
「どうしてですか…」
「…ダメだからです……」
「答えになってません…!」

先生の顔が、だんだん苦しそうになっていく。

「…やめてください…」
「どうしてですか…!」
「やめて…」
「嫌です!」
「やめてお願いだから…」

押し問答を繰り返していると、もう笑顔は消えていた。
それどころか少し怯えた様な瞳で、苦しそうに私を見ている。

その事に気がついて、よく解らない痛みが胸をはしる。
それでも私は、何かを振り払うように首を振り続けた。

「嫌です私は先生が好きです!先生だって知ってた筈です!私はずっと…っ」

その瞬間、体がグイっと引っ張られる。

ふわっと先生の匂いがする。

私は先生の腕の中に居た。

135:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:13:45.34 ID:+beSXCVE0
ドキっとして、一瞬だけ世界が静かになる。

「…お願いだから……」

グイグイと、それでも優しく締め付けてくる腕に応える様に、私は先生の背中に手を回した。
抱きしめられた温もりと、拒否されている切なさで、心と体が混乱する。

「…どうしてですか…ダメって言ったりこんなことしたり…」

何故だろう…涙が止まらない。

「……わからない……」

耳元で先生の、苦しそうに震えた声がした。
胸が切りつけられているように痛んだ。

「……………だって俺は昔から知っていて……小さい頃から知っていて……………」

初めて聞くその声に、胸が張り裂けそうになる。

「せんせい…?」

先生は私の声なんて聞こえていないかのように、苦しそうに何かを呟いていた。

「ねぇせんせぇ…」

私は泣きながら先生をギュッと抱きしめた。

「ダメなんだよこんなの絶対……ダメなんだよ…なのにどうして…」

そう言いながらも先生の腕は、ギュウギュウと私を締め付けてくる。

私はもう何も言えなくなり、ただひたすら先生に抱きついていた。

136:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:15:08.51 ID:Fv6goezV0
キュンを通り過ぎて胸が苦しいです

137:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:16:29.02 ID:+beSXCVE0
抱き合ったまま、長い長い時間が流れた。

私は少し冷静になってきていて、先生はもう何も呟いていなかった。
時折、溜め息の様な深呼吸をする声だけが聞こえてくる。
少しでも体が離れてしまったら先生が消えてしまうような気がして、私は胸に顔を埋めた。

「…渚さん。」
「…はい。」

いつものように穏やかな、先生の声がする。

「……もう一緒には居られません。」

胸がギュッと痛くなる。
でも、なんとなく予想通りだったその言葉に、私は黙って頷いた。

「…明日…家に帰ります。」
「…そうしなさい。」

今まで固く締め付けていた先生の腕が、私から離れた。

「…もう遅いです。寝ましょうか…。」
「…はい。」

先生の顔を見ない様に下を向いたまま、私は小さく頷いて、スーッと静かに寝室へと入っていった。

138:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:16:33.86 ID:ZOSge41I0
どうしてくれるんだ…目から汁が出てきた…

139:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:18:49.76 ID:+beSXCVE0
翌朝。

私は携帯で6時になったのを確認すると、やっとの事で体を起こし、自分の荷物をまとめ始めた。
結局、一睡も出来ていなかった。

少ない荷物をまとめ終え、服を着替える。
大きく一回深呼吸をしてから、私は扉をそーっと開けた。

ソファから少しだけはみ出している先生の頭が見えた。

物音を立てないように慎重に部屋から出ると、先生の方をチラッと見る。
うずくまる様に毛布を体に巻きつけて横になっている先生は、どうやら眠っているみたいだった。

何故だか少しホッとしつつ、静かに玄関に向かう。

靴を履いた私は小さな声で「お邪魔しました」と言うと、玄関の外にでた。
早朝の生温い風が、気持ち悪かった。

140:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:20:53.64 ID:+beSXCVE0
久々の実家。
玄関の扉を開けると、ツンとお酒の臭いが鼻に付いた。

何だか嫌な予感がしながら、リビングに入る。

出て行った時のまま荒れ果てているその部屋で、母が横になってテレビを眺めていた。
酒瓶やビールの缶が、母の周りを取り囲んでいた。

「…お母さん。」

私が声をかけると、母はだるそうにこちらを見た。
そして声をかけたのが私だという事に気がつくと、ラリった様にニヤ~っと笑ってフラフラしながら立ち上がる。

「なぎぃ~~♪」

母は倒れこむように私に抱きついた。

「なぎぃ~おかえりぃ~♪」

息がむせ返るように酒臭い。

「…なにしてるの?」
「なぎが帰ってこないからぁ~テレビ見てたのお~」

母はテレビの方を指差し、突然ギャハハと笑い始めた。
何がおかしいのか、まったくわからない。

141:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:22:50.65 ID:+beSXCVE0
「あいつ等はドコに行ったの…?」

私がそう聞くと、母はぐしゃっと顔を歪ませて今度は大声で泣き始めた。

「なぎぃい~あんたはドコにも行かないよねぇ?行けないよねぇ?」

私にすがり付いて、泣きじゃくる。
母は壊れている……どこか他人事のように、私は思った。

「行かせないからねぇ…逃げようとしたら殺してやる…あんたを殺して私も死んでやるんだぁ」

何故かふと、昨日の先生の苦しそうな顔が頭をよぎる。

私の中で、何かがガラガラと崩れていく感じがした。

「…行かないよ……」

思っても無い事を口に出した。
私がそう言うと母はにっこりと微笑んで、私の体を今度は優しく抱きしめた。

私はもう、何も考えるのが嫌になってしまっていた。

143:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:25:33.35 ID:+beSXCVE0
夏休みが終わり、また学校が始まる。

先生とはあの日以来、連絡をしていない。

これから就職活動が本格的に忙しくなるからと、私はずっと続けてきたバイトを辞めた。
学校が終わると友達と出かけることも無く、ただ家で飲んだくれている母の世話だけをして過ごした。

毎日コロコロと機嫌が変わる母に翻弄されながら、
それでも特に苦痛は感じずに、毎日が淡々と過ぎていった。
私の心は、あの日から何も感じなくなっていた。

高校最後の文化祭が終わった頃。

夏休み中に訪問した5社のうち2社から、
その気があるなら席は空けて置くという、内定通知の様な連絡が届いた。

大手デパート内の飲食店と、中規模の一般企業。

私は内心、稼げればどちらでもいいや…という気持ちでその報告を聞いていた。

「まだまだ時間はあるから、ゆっくり考えて」という担任の言葉に従って、私はすぐに返事を返さなかった。

144:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:27:27.38 ID:+beSXCVE0
時間だけが気だるく過ぎていった。
ただそんな中でも漠然と、私の人生は元に戻ったんだな……なんて考えたりしていた。

2学期の終業式の後、私は担任に呼び出された。

いつもの様に職員室ではなく、会議室に呼ばれた事を疑問に感じながら扉をノックする。
会議室に入ると、なにやら担任が険しい顔で座っていた。

「あの…何ですか?」

何か悪い事したっけな?…そう思いながら質問をする。
先生は私を椅子に座るよう促すと、より一層険しい顔で話し始めた。

「…内定が取り消しになった。2社ともだ。」
「え!?」

頭が真っ白になる。

愕然としてる私をチラリと見た先生は、大きく溜め息をついた。

145:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:27:30.33 ID:LUqPOmqkP
つらい…

書き溜めだろうけど、書いてて辛くなったりしてないか?だいじょぶ?

146:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:29:36.78 ID:+beSXCVE0
>>145
大丈夫ですよ。お気遣い、ありがとうございます。

146:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:29:36.78 ID:+beSXCVE0
内定取り消し…正確にはまだ正式に内定通知書が来ていた訳ではないが、
本来ならもうすぐ2社から届くはずだった。

ところが先日、2社から内定通知書は送付できないと相次いで電話が掛かってきたそうだ。

1社だけならまだしも、立て続けにこんな連絡が入るのはおかしい。
そう思った担任は、担当者に掛け合ってみた。
すると2社とも、私の素行がかなり悪いという密告の様な電話が掛かってきたのだと、そう言った。

具体的にどういう事を言われたかまでは教えてもらえなかったが、
とにかくそんな人物を採用する事は出来ない…そう言われたそうだ。

話し終えると担任は「すまない…」と悔しそうに言った。
私は呆けつつも、黙って頷いた。

帰り道で色々考える。

一体誰がそんな電話をしたんだろう?
友人?私を嫌いな誰か?…まったくわからない。

これから先…どう生きていけばいいんだろう…

ただ漠然とした不安を抱えながら、私は家の玄関を開けた。

148:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:31:31.62 ID:+beSXCVE0
リビングに入ると、母はいつものように酒を飲みながらテレビを見ていた。

「お母さん。」

母がかったるそうに「ん」と返事をする。

「…就職、ダメになった。」

母の後姿が一瞬固まる。
でもその次の瞬間には物凄く嬉しそうな笑顔で、バッとこちらに振り向いた。

「あ~そお~?残念だったねぇ~困っちゃったね~アハハハハ」

妙に上機嫌だ…何かがおかしい。

私はハッとして自室に駆け上がり、机の引き出しを開けた。

「………」

入れていた筈の、2社から渡された封筒と担当者の名刺は、綺麗に無くなっていた。

様々な点が繋がる様に、私の疑問が結ばっていく。

私は脱力していく体を引きずる様に、階段を降りた。

149:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:33:45.15 ID:+beSXCVE0
「…お母さん。」

母は鼻歌を歌いながら、「なぁに?」と笑顔で返事をする。

「…何したの?私の部屋に勝手に入って、何をしたの?」

母が笑顔のまま固まる。

「机の引き出し開けたよね?中に入ってる物、どうしたの?何をしたの!!!」

私は思わず怒鳴りつけていた。
長いこと忘れていた怒りの感情が、ジワジワと沸いて来る。

母はしばらく目を右往左往させていたが、急に顔を歪ませ、
何やら泣き叫びながら私にしがみついてきた。

「だってぇ!だってあの紙なんて書いてあったと思う!?」
「紙?」
「そうだよ!あの紙!!!!!!寮って書いてあったんだよぉ?寮って寮でしょぉおお!?」

意味が解らない。

「だったら何なのよ!!!」
「許さない!!!!ここを出て行くなんて許さない!!!!許さないんだからああああ!!!!!!」

血走った母の目が、私を睨みつけている。
スーッと怒りが抜けていく感じがした。

この人から逃れるなんて、私には出来ない事だったんだな……

悔しさと絶望で、私の思考はまた止まって行った。

150:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:35:36.79 ID:+beSXCVE0
絶望に打ちひしがれていても、時間だけはあっという間に過ぎていった。

3学期が始まり2月に入ると、3年生は徐々に登校日は少なくなっていく。

そんな中で周りの生徒達は、確実にある未来に目を輝かせ、キラキラしている。
私にはそれが眩し過ぎて、その数少ない登校日にも学校に行くことが少なくなっていった。

何も考えられず、何もやる気が起きず、私はいつの間にか笑うことも話すことも殆ど無くなっていた。

友人達は心配してくれていたが、でもそんな状態の私にどう接していいのか解らなかったらしい。
少しずつ少しずつ、私から離れていくのが解った。

私の人生はこれでいい。これでようやく元に戻ったんだ……

毎日毎日、ただひたすらそんな事を考えて暮らしていた。

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152:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:38:57.67 ID:+beSXCVE0
卒業式を間近に控えたある日。

久しぶりの学校から戻ると、玄関には男物の綺麗な革靴が置かれていた。
中から母の嬉しそうな話し声と、男の人の声がする。

いつの間に男引っ掛けたんだ…?

そう思いながらリビングに入る。
母はもの凄い笑顔で私を見た。

「なぎお帰り~あ、この人ね、なぎを迎えに来たんだよ~」

はぁ?っと思いながら男を見る。
私と歳がそう変わらなく見えるチャラい感じの男が、これまた物凄い笑顔で私に頭を下げた。
つられて私も小さく頭を下げる。

「あー娘さん!お母さんに似て美人ですねー!これならもう余裕でオッケーっすよ。」

母と男が楽しそうに笑った。

「…迎えって何?」

かったるく母に聞く。

「なぎのね、面接してくれるんだって~だから今から一緒に行ってきて~♪」

はぁ?っと声に出すと、すかさず男が会話に入ってくる。

「いや~お母さんとは昔っからの知り合いでね、渚さん…でしたっけ?就職に失敗して困ってるって電話が来たもんだから。」
「そうそう~電話したの~♪」
「それならウチで働くのはどうかなぁ?って思って、ウチの店長に話してみたんっすよ。」
「そうそう~♪そしたらね~、じゃあ今日面接に来いって言ってくれたみたいで~」

母と男は楽しそうに話を続ける。

「そうなんすよ。だから今から一緒に来て、面接受けてください。店長待ってますから。」

153:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:40:35.38 ID:LUqPOmqkP
なんだよ…うそだろ…

どうなっちゃうんだよ…

154:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:40:43.06 ID:+beSXCVE0
何だか碌な予感がしない。

「…嫌です。」

私はキッパリ断った。
私がそう言うと、男はさっきまでの笑顔から一変、今度は物凄く険しい顔をした。

「…困るんすよねぇ来てくれないと。わざわざ店長まで待たせてますからねぇ。」

男がギロリとした目で、私と母を交互に見る。
母は焦った様に私に叫んだ。

「さっさと行って来ればいいの!早く用意して!」

行かなきゃ何だかエライ事になりそうだ…
私は諦めて頷いた。

直ぐに部屋に戻って制服から着替える。
下に戻るともうすでに男は消えていた。

「早く行って~外の車で待ってるって~」

私は母を無視して外に出ると、男が待っている車に乗った。

155:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:42:39.03 ID:sMVE+LP3i
なんだよこの展開は……

156:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:42:44.07 ID:+beSXCVE0
20分くらい走った車は、小さな雑居ビルの前で停まった。

「オレ、車置いてくるんでちょっとここで待っててください。」

私は言われるがままに降りると、辺りを見渡した。
場所は地元で有名な風俗街。
何となく予想通りの光景に、私は特に驚く事も無く男を待った。

「いや~お待たせしました。じゃ、入りましょっか。」

直ぐに戻ってきた男に促され、私はビルに入った。
ビルのタバコ臭い空気が気持ち悪い。
階段を降りてすぐの扉を開けると、男は「てんちょ~~~!」と大声で叫んだ。

男の後に続きながら、部屋全体を見回す。
部屋の真ん中に小さいステージがあって、その周りにはフカフカの少し汚いソファが並べられている。

ステージ脇の小さな扉から、ガラの悪そうなヒョロリとした男が顔を出した。

「あ、店長!連れて来ましたよ~。」

男がヘラヘラと笑いながら言うと、店長らしき男はじろりと私を見た。
そしてヘラ男を手招きで呼び寄せ、なにやら小声で話をしはじめた。
へラ男は何度か頷くと、走って私の元に戻ってきた。

157:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:44:36.80 ID:+beSXCVE0
「今からそこのステージに立って、少しだけ歌ってもらいますね~」

私はビックリしてヘラ男に聞き返す。

「歌ですか?」
「そうっすよ~なんでもいいんで、テキトーに歌ってください。」

私は促されるまま、ステージの上に立った。
適当に、当時流行っていた曲を歌う。

歌い始めて早々に店長は私を止めた。

「わかった。歌はもういいから、脱いで」

言われて思わず体が固まった。

「ほら、早く脱いで。下着もね!」

ヘラ男の焦った様な声がする。

あぁ…やっぱりこうゆう事か……私はなかば半笑いで服を脱いだ。

店長とヘラ男は、じーっと私を見ている。
不思議と、恥ずかしいとも嫌だとも思わなかった。

「OK、それならいけるね。もう帰っていいよ。」

店長はそういうと、またさっき出てきた部屋に戻っていった。
ヘラ男が嬉しそうに近づいてくる。

「いや~よかったね!あ、もう服は着ていいよ。家まで送るね。」

私はまた、そそくさと服を着た。

158:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:46:53.17 ID:+beSXCVE0
「渚さん、来週卒業式っすよね?終わったら連絡ください。待ってますから。」

私を家の前で降ろすと、ヘラ男はそう言った。
私は返事をせずに車のドアを閉めて、さっさと家に入った。

「おかえりなぎぃ~♪どうだった~~~??」

上機嫌で話しかけてくる母を無視して、足早に部屋に戻る。
久しぶりに部屋に鍵を掛けると、私はベッドに突っ伏した。

母がまた、わざわざ私の部屋の前まで来てギャーギャー叫んでいる。

私は鬱陶しくなって、MDのイヤホンを耳に付けた。

もうこのまま消えてなくなっちゃいたいな…

ひたすらそんな事を考えながら、目を閉じた。

160:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:50:10.63 ID:+beSXCVE0
卒業式が終わる。

当たり前のように、母は出席しなかった。
友人達は皆、泣いていた。

式が終わってすぐに少しだけ懇親会のようなものが予定されていたのだが、私はそれに出る事無く高校をあとにした。

家に戻るのがなんとなく嫌で、あてもなく街中をブラブラ歩く。

街の賑やかな喧騒が耐えられなくて、私は人気の少ない小さな公園に向かった。
その公園は地元では有名な心霊スポットで、街を一望出来る綺麗な場所なのに、普段から誰も近寄ることが無かった。

どっかりとベンチに腰を下ろす。
私は携帯の電源を落とすと、ただボーっと空を眺めた。

思えば最初は天国、最後は地獄の高校生活だった。

先生と再会出来た事、大事な友達が沢山出来た事……色々な思い出が、頭を駆け巡る。

何だか疲れちゃったな……

そう思いながらボーっとしていると、空はあっという間に暗くなっていった。

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161:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:52:56.40 ID:+beSXCVE0
辺りが完全に暗くなった所で、私は時間を見るために携帯の電源を入れた。

時間はもう6時過ぎ。

着信履歴は母からのもので埋まっていた。
ボーっとしながら履歴のページをめくっていく。
不思議な事に5時を過ぎた辺りで、母からの電話はピタッと止まっていた。

あーあ…やっちゃったー…なんか色々と大変な事になってるんだろうな…

そう思いつつも、まったく家に戻る気が起きない。

なんとなくそのまま無心で履歴をめくり続けていると、最後の方で堺先生の名前が出てきた。

それを見て、指が止まる。

先生とはあの日以来、連絡を取っていない。
メールが来ることも、こちらから送ることも無かった。

ふと、先生の言葉を思い出す。

ー 人って結局、いつかは自分から離れていくじゃないですか… ー

離れないと決めたはずなのに、私は簡単に先生から離れていった。
その時は本気で離れないと思ったはずなのに、結局は先生の言うとおりになっている。
先生の悲しそうな顔が、思い浮かんだ。

瞬間、離れるのが正しかった事なのだと、私は自分に言い聞かせた。

こんな自分の泥沼のような人生に、もう先生を巻き込んじゃいけない。
そう思いながらも心のどこかでは、先生に会いたくて、このまま離れたくなくて、ダダを捏ねてる自分が居る。

ダメ…でも…いや絶対にダメだ……私は久々に味わう心の痛みに、葛藤していた。

162:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:56:15.85 ID:+beSXCVE0
長い長い葛藤のあと、私は思いついた。

最後に一度だけ、先生に電話をしよう……それで心の踏ん切りをつけよう…と。

よくわからない緊張が、私を支配する。
コレが最後。と何度も自分に言い聞かせながら、私は思い切って携帯のボタンを押した。

「…………」

暫らく鳴らしても、先生は電話に出ない。

やっぱりそうだよな…出るわけ無いよな。でもかえってこれで踏ん切りがついた…。

そう思いながら電話を切ろうとしたその時、呼び出し音がブツっと急に止まる。

「……もしもし…」

先生の声がした。

「……もしもし…渚さん?」

久しぶりの柔らかい声に、胸が一杯になる。

「…お久しぶりです…先生。」

何とも言えない懐かしさで、私の心は一瞬で穏やかになっていった。

163:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 17:58:45.42 ID:+beSXCVE0
「お久しぶりです。元気にしてましたか?」
「はい。…先生こそ、元気でしたか?」

昔のように笑いあう。

「元気でしたよ。…渚さんは今日卒業式でしたよね?おめでとうございます。」
「…ありがとうございます。」

卒業という言葉に少しだけ現実を思い出して、胸が痛む。

「どうしたんですか?急に。」

先生はいつもと変わらぬ明るい声で、私にそう尋ねた。
先生の言葉に大きく一回深呼吸をして、私は勇気を出して話し始めた。

「…これが最後のつもりで、先生に電話をかけました。」
「……最後?」
「はい。…先生に電話を掛けるのも…今日で最後にします。」

電話の先で先生が黙り込む。

「…先生には沢山助けてもらいました。だから…今までありがとうございました。もう迷惑はかけません。」

165:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:01:06.93 ID:+beSXCVE0
先生からの返事は無い。
言い終えた私は、胸の痛みを必死で堪えていた。
自然と涙が溢れてくる。

「…今、どこにいますか?」

長い沈黙のあと、先生は私にそう尋ねた。

「…どうしてですか?」

私は泣いているのを悟られないように、明るく聞き返した。

またほんの少しの沈黙の後、先生は小さく「だって…」と言った。

「……これで最後にしますって言われて、しかもその連絡が電話だけ…っていうのは、なんか嫌じゃないですか。」

私は何も言えなかった。

「…これでもうサヨナラするのなら、最後に会って話をしましょう。僕はそうしたい。」

私は少しだけ考えて、「〇〇公園に居ます。」と応えた。
先生は場所にちょっと驚いたようだったが、「わかりました。すぐに行きますから。」といって電話を切った。

あの時のように、泣いてる顔なんて絶対に見せない。

私はそう決心をして、ひたすら何も考えないようにじっと夜景を眺めた。

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166:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:03:51.89 ID:+beSXCVE0
案外すぐに涙も止まり、不思議と穏やかな気分になっていた。

これでもう大丈夫…あとは何があっても普通に接していればいい…

心の中でひたすらそんな事を繰り返していると、先生は本当にすぐにやってきた。

「おまたせしました。…やっぱりココ、なんだか怖いですね。」

そう言いながら、私の横にちょこんと腰をかけた。
ラフなスーツ姿の、小学校の時と何も変わらない先生を見ていたら、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
私は少し笑って、「そうですね。」と返事をした。

「…仕事、あれからどうなりました?結構色々と見て回ってましたよね?」

胸がズキッと痛んだ。

「全部、落ちちゃいました。」

私は努めて明るく答える。
先生は凄く驚いた顔をした。

「なんで?あんなに頑張ってたのに…」
「ちょっと色々ありまして…残念でしたけど。あ、でももう仕事他に決まったんですよ。」
「そうなんですか?…ならよかった。どんなお仕事?」

胸がどんどん痛くなっていく。

「母から紹介されて…脱いで歌うお仕事だそうです。」

私が笑いながら言うと、先生は私を見ながら固まった。

169:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:05:31.78 ID:+beSXCVE0
「脱ぐ…って…」
「はい、歌いながら裸になるそうです。まいっちゃいますね。」
「…ストリップって事ですか?」
「多分、そうだと思います。結局私にはそういう仕事しかなかったみたいです。」

私は先生の顔を見ないように前を向いて、アハハと笑った。

もう2度と会う事はない。
このまま嫌われてしまっても構わない。
いや、むしろ嫌われて軽蔑されてしまった方が、気が楽だ。

私は話しながら、そんな事を考えていた。

「そんな仕事を始めるし、私はどんどん先生達の世界から離れていきます。」
「……。」
「だからこれ以上、先生を巻き込みたくないし、迷惑かけたくないんです。私は先生に、幸せになって欲しいから。」

言い終わってホッと溜め息をつく。
先生が隣で固まっているのがわかった。

これでいいんだ…

昔のように痛くなる胸の締め付けを我慢しながら、私はただじっと夜景だけを眺めた。

170:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:07:27.12 ID:+beSXCVE0
そのまま暫らく、静かな時間が流れる。
先生は相変わらず固まっていて、私はじっと前だけを向いていた。

このままこうしていたら、私はきっとまた泣いてしまう…

そう思って、私はバッと立ち上がった。
固まっている先生に振り返る。

「もう行かないと。今日、卒業式が終わったらお店の人に電話する筈だったんですよ。…無視して今サボっちゃってますけど。」

私はニコニコしながらそう言った。
先生はニコリともする事無く、少しだけ下に俯いた。

「…最後に会えて嬉しかったです。…実はずっと会いたかったから。」

そういい鞄に手をかける。

「それじゃ、先生、お元気で…」

先生の顔を見ないようにしながら、私は先生に背を向ける。
ここから離れるのを拒否する気持ちを懸命に振り払いながら、私は歩き出そうとした。

その時、急にぐっと腕を引っ張られる。

驚いて振り返ると、先生は下を向いたまま、私の腕をしっかりと掴んでいた。

172:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:09:30.28 ID:+beSXCVE0
また暫らくの沈黙。
暗い中、下を向いている先生の表情は見えない。

「あの…」

言いかけた私を遮るように、先生は静かな声で呟いた。

「……理由はそれだけ?」
「え?」
「…僕から離れる理由はそれだけ?」

何を言われているのかが解らず、混乱して体が固まる。

「…僕の事が嫌だからとかじゃなくて、迷惑をかけたくないからとか……理由はそれだけ?」

下を向いたままの、先生の冷たい声が怖い。
私は小さく「はい」とだけ返事をした。

「…………………あれから…色々考えたんですよ。」

先生が溜め息まじりにそう言った。
あれから?何の事?さらに混乱する。

「何を…ですか?」
「貴女と僕の事。」

何を話しているのかがようやく解って、私の胸はドキッとした。

173:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:12:16.78 ID:+beSXCVE0
「…貴女に好きだと言われて、正直あの時は凄く困りました。でも、何となく気がついてはいたんです…昔から。」

私は黙って頷いた。

「僕は教師で、貴女は教え子だ。どうにかなったらいけない。そう思いながらも、貴女に頼られると心配でついつい手を出してしまう。」
「……。」
「気がかりで、可愛くて…放っておくとすぐボロボロになって戻ってくる。」

先生はすっと、腕の力を緩めた。

「僕はずっと昔から、貴女の事が好きだったんですよ。気がつかない振りをして、妹のようだって言ったりして、ずっと誤魔化してたんです。」

先生は私の腕をそっと放すと、顔を上げてそのまま前を眺めた。

「でも僕は貴女よりずっと年上だ。自分の気持ちに気がついても、何もすることは出来ない。貴女がだんだん離れて行って、あぁこれでいいんだと…ず
ーっと言い聞かせました。本心はすっごく嫌でしたけどね。」

先生が遠くを見つめながら小さくハハッと笑う。
胸が苦しくなった。

「今日だって最後って言われて…僕も諦めるつもりで来たんですよ。貴女にはこれから未来がある。ずっと僕の傍に居させてしまったら、僕は貴女の未
来を摘み取ってしまうかもしれない。貴女が僕から離れたいって言うならそれが一番なんだと…そう…覚悟してきたのに…」

先生はそういうと、また黙って下を向いた。

塞き止めて仕舞い込んでいた思いが、ガンガンと溢れ出てくる。

「私だって…」

息が詰まる。

「私だって…覚悟してきたのに…どうしてそんな事言うんですか……一生懸命我慢してきたのに…どうして…」

泣かないと決めた思いは、ぽっきりと根元から折れた。
私は立ったまま、涙を堪えきれなくなって下を向いた。

先生はスッと立ち上がると

「あーあ…」と溜め息をつきながら

私を抱きしめた。

174:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:15:06.56 ID:+beSXCVE0
気持ちが抑えきれなくなって、先生にしがみつく。
先生はそれに応えるように、更に強く私を抱きしめた。

「……僕が好き?」

声が出せずに、大きく頷く。

「…本当はこのままずっと一緒に居たい?」

大きく何度も何度も頷く。

「じゃあもうずっと一緒に居ればいい……僕も渚と一緒に居たい。」

やっと言って貰えたその言葉に、私は嬉しくて切なくて、声をあげてわんわん泣いた。

先生と出会ってから、もう7年が経っていた。

私はそのまま暫らく泣き続け、先生は子供をあやすように私をずっと抱きしてめていた。
先生の腕の中が優しくて暖かくて、涙は次第に止まっていく。

ようやく私が泣き止んだ時、先生は「帰りましょうか…」と優しく言った。

「…帰るって…どこにですか?」

呆けた頭で聞き返す。

「帰る場所はもうひとつしかないでしょう?」
「…ひとつ?」
「アハハ、まぁいいや。…さ、帰りましょ。」

先生は体をゆっくり離すと、私の手を握った。
そして地面に放り出されていた私の鞄を拾うと、そのまま手を引き歩き始めた。

179:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:17:34.68 ID:+beSXCVE0
車に戻ると、先生は珍しくメガネを掛けた。

普段はメガネが汚れた時すぐに拭けないのが嫌だからと、先生はコンタクトをしている。

コンタクトにメガネ…?

私が不思議そうに先生を見ていると、それに気がついた先生は恥ずかしそうに頭をかいた。

「…さっきの公園で、コンタクト落としちゃったみたいで…」
「え?じゃあすぐに探しに行かないと…どの辺に落としたんですか?」

先生はダダを捏ねてる子供みたいに、ブンブンと首を振った。

「嫌です。それにあんな小さい物、見つけられる訳ないですよ。」
「でも…」
「……怖いから嫌です。あそこ、何か出るって有名じゃないですか…」

ちょっとだけ泣きそうな顔をしている先生と目が合う。
私は思わず笑ってしまった。

そんな私の様子を見てなんだか少しホッとした顔をすると、先生は車を走らせた。

182:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:19:42.05 ID:+beSXCVE0
予想通り…というか、当たり前のように先生の家に着く。

去年の夏出て行った時となんら変わらない部屋の様子に、私は何故だか少しホッとした。

先生はバタバタと寝室に入っていくと、綺麗に畳まれた服を持ってすぐに出てきた。

「まだやることがあるので、学校に戻ります。お風呂でも入ってサッパリしときなさい。」

ハイと頷くと、先生はニコっと笑って私に服を手渡した。

「じゃあ行ってきます。」
「いってらっしゃい。」

先生は慌しく家から出て行った。

手渡された服を見てみる。

初めてココに来た時に渡された、少し大きなTシャツとハーフパンツ。
私はなんだか少し恥ずかしくなって、一人でケラケラと笑ってしまった。

185:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:21:46.60 ID:+beSXCVE0
その日から私は、また先生と一緒に暮らし始めた。
相変わらず先生はソファで、私はベッドで、前と変わりなく別々に眠る。

以前と同じように先生の家で過ごしていると、荒んでいた心が平常を取り戻してくる。
実家の事を考えると憂鬱になったりもしたが、私はもうあそこには戻らないんだと自分に言い聞かせた。

先生は小学校の年度末で、忙しそうに過ごしていた。
卒業生の副担任になっていたようで、帰宅も夏休みの時より大幅に遅くなっていた。

そんなあんまり顔を合わさない生活をして5日後。
卒業式も無事に終わり、小学校は今日から春休み。

久々に少し早く帰ってきた先生と夕食を食べ終えて後片付けをしていると、先生はちょっと真剣な声で私を呼んだ。
返事をして、先生の前に座る。

「明日、渚さんのお母さんに会いに行きますよ。」
「え!?」

186:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:23:42.26 ID:+beSXCVE0
私は驚いて聞き返した。

「…母に…ですか?」
「はい。やっぱりこのまま、何も言わずにいるのはちょっと気が引けますし。」

体の奥底が、嫌悪感でゾワゾワする。

「でも…あの人には何も言わなくて、このままでもいいと思うんですけど…」
「やっぱりそういう訳にも行きませんよ。きっと渚さんの事を探してるでしょうし…」

私は首を振ると、それだけは絶対に無いと先生に言った。

「探してる訳がありません。多分家で飲んだくれてます。」
「まぁそうでしょうけど…ただ、違う意味では探してるかもしれませんし…」

違う意味で探している…私はその言葉にハッとした。
あそこまで執念深く自分を傍に置こうとした母だ。
確かに心配とは別の意味で、私を探しているかもしれない。

「……わかりました。」

私は暫らく黙りこんだ後、小さく頷いた。

「大丈夫、何があっても貴女には指一本触れさせませんよ。だから安心して。」

先生は私の手を両手で包むと、ニコッと笑ってそう言った。

187:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:26:19.28 ID:+beSXCVE0
翌朝。

前日に不安と緊張でなかなか寝付けなかったせいで、私はいつもより遅く目を覚ました。
時間は10時過ぎ。

慌てて飛び起きリビングを見ると、先生の姿はどこにもなかった。

あれ?っと不思議に思いつつ、顔を洗って出かける準備をしていると、先生はなにやら大きな紙袋を持って帰ってきた。

「あぁ、おはようございます。しっかり寝れたみたいですね。」

ちょっと恥ずかしくて「すみません…」と返事をすると、私は紙袋に目をやった。
視線に気がついて、先生がガサゴソと紙袋を漁る。

「渚さん制服しか持って無かったでしょう?とりあえず買ってきてみました。」

そういいながら、何枚かの女物の洋服を出す。
パーカーに何枚かのシャツにスカートとジーパン…
いずれも黒系統の服でお世辞にも可愛いとは言えなかったが、その選択が先生らしくって私はフフっと笑った。

「サイズがよく解らなかったから店員さんに身長とか大体で説明したんですけど…大丈夫かな?」

先生は恥ずかしそうに笑う。
私はその中からジーパンとパーカーを手に取って広げると、先生に向かって頷いた。

「あぁよかった。流石にその恰好で行かせる訳にはいきませんから。」
「じゃあ私、着替えてきます。」

立ち上がった時、まだ紙袋の中にもうひとつだけ小さな紙袋が入っているのに気がついて「それは?」と先生に質問する。

「あぁこれ?手土産です。会いに行くのに手ぶらって訳にもいかないでしょう?」

私は「そんなに気を使わなくても…」と言って苦笑いをした。

188:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:28:34.70 ID:+beSXCVE0
実家に向かう車の中で、私は不安と緊張で押しつぶされそうになっていた。

先生はラジオから聞こえる曲に合わせて、のん気に鼻歌を歌っている。
このまま家に誰も居ないとか…ないかなぁ…
そんな事を考えていると、車はあっという間に実家に到着した。

「さ、行きましょうか。」

そう言われてドキドキしながら車を降りる。
実家のドアに手を掛けると、私は暫らく固まってしまった。

先生がノブを握っている私の手の上に、後ろからスッと自分の手を乗せる。

「大丈夫だから。ね?」

私は頷くと、そっと静かに扉を開けた。

相変わらず、テレビの音だけが聞こえる。

私はゆっくり靴を脱ぐと、先生が入って来た事を確かめてからリビングに進んだ。

「…お母さん…」

私がそう声をかけると、相変わらず酒瓶に囲まれて横になっていた母は、かったるそうにこちらを見た。

そして私だと解ると、なにやらギャーギャー叫びながら物凄い速さで立ち上がり私に向かってくる。

ビクッとして身構えると、私は凄い力で後ろに引っ張られた。

189:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:30:12.42 ID:+beSXCVE0
驚いて硬直したまま、恐る恐る前を見る。

後ろにいたはずの先生が、母の振り上げた両手をがっしりと掴んでいた。
先生の体越しに、先生を見つめている母のひどく驚いた顔が見えた。

「…お邪魔します。」

いつものようにニコニコしてるであろう先生の声がした。
腕を掴んだまま先生はジリジリと前に進み、ダイニングテーブルの椅子に母をドスッと座らせる。

母はよっぽど驚いたのか、抵抗する事無く大人しく椅子に座っていた。

先生は座っている母から2.3歩後ずさると、ゆっくりと板の間に正座をした。

「さて……渚さん、そこの紙袋持ってきて。」

そう言いながら私に振り返り、自分の隣の床をポンポンと叩く。
私は慌てて紙袋を取ると、先生の横におひざまを付いた。

何やらずっしり重たい紙袋を渡しながら、先生の顔をそっと見る。

相変わらずニコニコしている先生は、「ありがとう」と言うと真っ直ぐ母に向きなおした。

190:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:32:28.22 ID:+beSXCVE0
「初めまして、堺といいます。お嬢さんを戴きに参りました。」

母と私はビックリして先生を見る。
先生は動じる事無くニコニコしながら母を見つめている。

一瞬の間を置いて、母は「はぁぁぁあ!?」と大きな声を出した。

「ですから、お嬢さんを戴きに参りました。」
「あんた、なにいってんの?」

母が不機嫌そうに先生を睨みつける。

「お嬢さんはもう大人です。いい加減、開放して頂きたいと思いまして。」
「はああああああああ!?!?」

先ほどより大きく母が言い返した。

「大人だからどうしたって!?私はソイツのせいで人生台無しになったんだ!勝手に出て行かれたら困るんだよ!!」

青筋をビキビキと立てながら、母が絶叫する。
それでも先生はニコニコしながら話を続けた。

「困る?どうしてですか?お嬢さんが居ても居なくても、お母様の人生は変わらないでしょう。」
「私はソイツのせいで山ほど借金したんだよ!!!!それなのにノコノコ出て行くだぁ!!??」
「借金?借金があるからお嬢様が出て行かれると困るんですか???」

母の声が大きくなる度、私は今にも飛び掛られそうでビクビクしていた。

「お嬢さんはアナタの奴隷じゃありませんよ。それに…お嬢さんが自分で働いて生活していたのを、僕は知っています。」

191:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:35:57.81 ID:+beSXCVE0
母は何も言い返せないのか、ワナワナと唇を震わせながら先生を睨みつけている。

「母子家庭ですから、小中と学費は免除だったでしょう。それ以降の高校は、奨学金だったと伺っていますが。」

先生はわざとらしく首をかしげた。

「借金があったとすると、お嬢さんに関わっているのはその時の奨学金だけですよね?返していくのはお嬢さん本人です。お母様には関係ないですから安

心なさってください。」

「それ以外でもかかってんだよ!!!!!!私は18年間ソイツ育ててきたんだ!!!!!」
「…生活費……という事ですか?」
「そうだよ!!!!!」

母は勝ち誇ったようにニヤリと笑う。

「それに今まで苦労してきたんだ。ソイツには私の面倒見る義務があるんだよ。」
「義務……ですか。…要するに、お嬢さんが家にお金を入れなければ生活が成り立たない…そういう事ですか?」

母はニヤニヤしながら頷き、先生の顔をじーっと見ている。
が、次の瞬間急に訝しげな顔をしたかと思うと、驚いたように先生を指差した。

「あんた…確か渚が小学校の時の……」
「え?あ、はいそうですよ。」

先生はニコニコしながら頷いた。

「ただのロリコン野郎じゃねーか!!!!!」

母は爆笑した。
何故か先生も一緒になって笑っている。
状況がカオス過ぎて、意味が解らない。

「ノコノコ出てきて首突っ込んでんなよ。さっさと出てけロリコン野郎。」

母はニヤニヤしながらそういった。

192:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:38:04.53 ID:+beSXCVE0
「嫌です。」

先生はニコニコしながらキッパリとそう答える。
母の顔はまた一瞬で般若のようになった。

「テメェには関係ねーだろ!さっさと帰れ!!!」
「ありますよ。さっき言ったでしょう?お嬢さんを戴きに来ましたって。」

先生はわざとらしく、ヤレヤレ…といった感じで笑いながら返事を返す。
そんな様子に、母の怒りはますます上っていくみたいだった。

「渚をもらうだぁ?」
「はい。ですからお嬢さんをお手元から離して頂きたいんです。」

先生はニコニコしている。
母は睨むように私と先生を交互に見ている。
私は母と目を合わすのが怖くて、視線をそらした。

「人の男寝取るような、こんな糞女が欲しい…ねぇ?」

母が馬鹿にしたように、嫌味ったらしく言った。

「あんたさ、私が今なんでこんなになってるか解ってんの???」

先生が首をかしげる。

「コイツが私の旦那を寝取ったんだよ。自分の父親になった奴を…汚らしいこの糞女が。」
「…それで?」

先生がキョトンとした感じに聞き返すので、母がまた段々とイライラしていくのがわかる。
私は居なくなった男の事を思い出し、吐き気と嫌悪感でたまらずに下を向いた。

違う!寝取ってなんかいない!私はあんたの男に襲われたんだ!

そう思っても、何故だか口に出せない。
私はただ下を向いて、じっと堪えている事しか出来なかった。

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193:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:40:33.65 ID:+beSXCVE0
母がいやらしい声でマッタリと話し続ける。

「やっと人生やり直せると思ったらコイツに全部ぶち壊されたんだよ。コイツのせいで…」

下を向いていても、母が私を睨みつけているのがわかる。
好き放題言われて悔しいのに、訳のわからない喉の痛みが邪魔をして声が出せない。

「私は全部失ったんだ。コイツのせいなんだから、これから償っていくのは当然だろ?」
「償い…ですか。」
「そうだよ。たんまり稼いで楽させてもらわなきゃ、ねぇ?渚。」

甘ったるい声で名前を呼ばれて、私はビクっとした。

「大事な大事なお母さんだもんねぇ?自分のせいでお母さんこんなになっちゃったんだもんねぇ?」

語尾が段々と、いつもの母に戻っていく。
頭にガンガンと響いてくるその声に、私はまた考えるのが嫌になって来る。
頷かなきゃいけない……だんだんとそう思えてくる。

「なぎはお母さんが可哀相だねぇ?お母さんを幸せにしてあげなきゃいけないよねぇ?」

母の声が本格的に猫撫で声になった時、先生はハァっと大きく溜め息をついた。

「…話は以上ですか?」

先ほどまでとは別人の様な、先生の冷たい声がした。

197:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:43:28.66 ID:+beSXCVE0
その声が凄く怖くて、私はそっと先生を見た。
先生はゾッとするような薄ら笑いで、母を見つめている。

「はぁ?」
「話は以上ですか?このまま不幸自慢をされ続けても困りますので。」

先生が鼻で笑う。
母はまた、般若のような顔に戻っていった。

「不幸自慢…?」
「ええ、そうですよ。聞いていたら全部自業自得じゃないですか。お嬢さんはアナタのせいで、もっと辛い思いをしていますよ。」
「はあああああああ!?」
「結局のところ、アナタは金づるが欲しいんですね。何だかんだ色々言っていますが、僕にはそうとしか聞こえません。」
「…わかった風なこと言ってんじゃねーぞ?」

母が今にも飛び掛りそうな勢いで、拳を握り締めている。

「わかりますよ。僕はアナタの様な人を、よく知っていますから。」

母の歯軋りが聞こえる。

「いくら欲しいですか?1億でも2億でも、好きなだけ差し上げますよ。アナタが彼女を解放してくれるなら。」

先生の冷たい声に、その場が凍りつく。

そんな大金をいとも簡単に口から出す先生に、私は少し恐怖を覚えた。

198:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:46:05.96 ID:+beSXCVE0
母は予想もしなかった言葉に、戸惑って固まっているようだった。

「借金もある…そうおっしゃっていましたよね?もしかして〇〇さんのお店にですか?」

固まっていた母はその名前を聞くと、一瞬だけビクッとした。

「彼女から仕事の話をされてまさかとは思いましたが…〇〇さんのお店ですよね?この辺りでストリップやってるのはそこくらいですから。」
「それは…」

母はさっきまでの威勢が嘘のように、急に大人しくなった。

「大方、前払いで幾らか貰ったんでしょう。彼女が居なくなって困るのは、そのせいじゃないんですか?」

〇〇さんって誰?あのお店のガラの悪い店長?
二人の間では淡々と話が進んでいく。
私は一人だけついていけなくて、混乱していた。

「〇〇さん、怖いですからね。このまま彼女が居なくなってしまったら、何をされるかわからない。」

母は怯えた顔をして床を眺めている。

「…幾ら、頂いたんですか?それさえ返せば、もうアナタが困る理由は何処にも無くなります。」

だが、母は黙ったまま答えない。
先生はまた大きく溜め息をつくと、持ってきた紙袋を母の前に差し出した。

「2千万入っています。お嬢さんを戴きに来た手前、結納金だと思って持って来ました。」

2千万!?

私と母は驚いて先生を見た。
先生は相変わらず冷ややかに微笑みながら、母だけをじっと見つめていた。

200:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:48:24.32 ID:+beSXCVE0
「いくらなんでも、それだけあれば借金返せますよね?」

母は呆然としながら、小さくコクリと頷いた。

「日取りの取り決めも無く、勝手に持ってきてしまい恐縮ですが、どうぞお納めください。」

先生が頭を下げる。
私は慌てて止めに入った。

「先生ダメです!そんな大金…」
「ダメじゃありません。これは結納金なんですから、普通の事ですよ。」

私を遮るように強く言うと、先生はニコッと微笑んだ。
でもすぐ冷ややかな笑顔になって、また母をじっと見つめる。

「それにこれだけあれば、当面は生活していけますね?アナタは僕とさほど歳も変わらない。まだいくらだってやり直しがきくでしょう。」

母は何も答えない。

202:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:50:36.01 ID:+beSXCVE0
「正直、僕はアナタが許せません。でも渚さんにとっては大事な母親のようです。このまま捨てるように逃げても、彼女はずっと後悔し続けるでしょう。
だから僕はアナタが憎くても憎みきれないし、捨てたくても見捨てられないんですよ。」

自分でも気がつかない振りをしていた本心を見透かされて、私の胸は何故だかグッと痛んだ。
黙り込んでいる母に目をやると、母も複雑な表情で私を見つめていた。

「…それで身の回りを整理して…やっていけますね?」

先生が言い聞かせるように言うと、母は微かにコクリと頷いた。

母が頷くと、先生はやっといつもの顔に戻った。

「じゃあ、これでもう大丈夫ですね。……渚さん。」

急に名前を呼ばれて、私は慌てて返事をした。

「自分の荷物をまとめなさい。それから…」

先生は正座のまま、辺りをぐるりと見渡す。

「少しだけ、ココを片付けてあげなさい。このままじゃ、いくらなんでも酷い有様ですから。」

え?っと思って先生を見る。
相変わらず穏やかにニコニコ笑っている先生の顔を見ていたら、私の心も不思議と穏やかになっていく。

私は呆けている母をチラリと見ると、ハイと微笑み返した。

204:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:53:38.69 ID:+beSXCVE0
「それじゃあ僕はちょっとだけ出掛けて来ます。すぐに戻りますから、その間にやっておいてくださいね。」

そういうと先生は、床に置いてある紙袋から見た事の無い大きい札束を取り出し、そそくさと玄関の方に歩いてく。

「ちょ!ちょっと先生!」

私は慌てて先生を追いかけた。

「どこにいくんですか?」
「借金、返してきます。お母さんはもう何もしてこないでしょうし、一人でも大丈夫でしょう。」
「返しに行くって…先生がですか?」

私は驚いて聞き返した。

「はい。だってさっさと返しちゃったほうがいいじゃないですか。」
「でも…」
「大丈夫、〇〇さんとは知り合いですから。心配しないで。」
「知り合い!?」

あのガラの悪い店長と、人の良さそうな先生が知り合い…!?
私はさっきよりもっと驚いて聞き返した。

「そうですよ。僕、こう見えて顔が広いんですよ。まぁ詳しいことは後で話しますから。あとは宜しく頼みます。」

先生は驚きの余り固まっている私の頭を撫でると、そそくさと外に出て行った。

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206:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:55:21.73 ID:+beSXCVE0
玄関の閉まる音で我に返り、そーっとリビングに戻ると、母はまだ椅子にじっと座っていた。
どうしていいのかわからず、私は部屋を片付け始めた。

酒瓶を拾うたびに、むせ返るような臭いで吐き気がする。

私は我慢できなくなって、台所の窓を開けた。
ふとシンクの中を見る。
私が出て行ってから何も食べていなかったのか、シンクの中は意外と綺麗だった。

あらかた片付け終わったところで、私は床に雑巾をかけ始めた。

「……なぎ…」

一心不乱に雑巾をかけていると、母が私を小さく呼んだ。

手を止めて、ゆっくりと母を見る。
母は泣きそうな顔でぼーっと私を見ていた。

「…なに?」

私が聞き返しても、母は「…なぎ…」としか答えない。

私は立ち上がって手を軽く叩くと、そっと母の前にしゃがみこんだ。

「…なぁに?」

母を見上げながら、優しく聞く。
途端、母の顔がクシャッと歪んで、涙をポロポロと流し始めた。

私は何故か急に切なくなって、母の手をそっと握った。

「なぎ…なぎ…」

母はそう言いながら、泣き続けている。

いつの間にか、母に対する怒りも嫌悪感も消えていた。

私は泣いている母をそっと抱きしめた。

208:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:57:04.57 ID:+beSXCVE0
母は私にしがみついて、泣き続けている。

「なぎ……なぎ…」

泣きながら、ひたすら私の名前を繰り返している。

「…いいんだよ。もういいから…」

私は宥める様に、母の背中をさすり続けた。

暫らくそうしていると、母の鳴き声はだんだんと小さくなっていき、私はそっと母を放した。

泣いて目を真っ赤にしている母の表情は、心なしか穏やかに見えた。
今までの母とは別人の様に、優しい目で私を見ている。

私はそんな母にニッコリと微笑み返すと、「掃除…しよ?」と言った。
母も少しだけ微笑んで、小さく頷いた。

209:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:01:16.14 ID:+beSXCVE0
母と無言で掃除を終え、私は荷物をまとめに2階に上った。

たった5日帰ってきてなかっただけなのに、随分と懐かしく感じる。
あらかた身の回りの物をカバンに詰め終わると、私はどっとベッドに横になった。

大きく深呼吸をすると、吐いた息の分だけ毒気が抜けていくようで、心地よくなっていく。

私は、様々な事を思い出していた。

小さい頃、母がまだ優しかった時の事。

いつからかイジメられるようになり、暗くなるにつれて母との会話が無くなっていった事。

疎遠になっていきつつも、何故か小学校の卒業式に母は出席していた事。

ふと、母は寂しかったんじゃないかと、そう思った。

18で私を産み、世間からは好き放題言われ、実の両親からも死ぬまで会っては貰えなかった。
そんな中で母は、私と同じように荒んで行ったのではないか…
先生のように、優しく包み込んでくれる人が居たら、母の人生も別のものになっていたのかも知れない…

なんとなく、そう思った。

今まで漠然と母親としか見えていなかった母が、寂しい一人の女性に思えてきて、少しだけ切なくなる。

でももう大丈夫…母はさっき穏やかな顔をしていたじゃないか……きっとこれからはもう大丈夫…

私はそう確信してガバっと起き上がると、鞄を手に取り再びリビングに戻った。

211:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:05:12.54 ID:+beSXCVE0
リビングで母と二人静かに座っていると、玄関が開く音がした。
急いで玄関に向かう。

「お待たせしました。用意、出来ましたか?」

先生は私を見ると、ニコッと笑ってそう言った。

「はい、掃除もちゃんとしました。…先生は大丈夫でしたか…?」
「はいこの通り。無事に帰ってきましたよ。…お母さん、どうですか?」

私はリビングの方を振り返った。

「もう…大丈夫だと思います。」
「そうですか、それならよかった。……じゃあ行きましょうか。」
「あ、荷物取ってきます。」
「あ、渚さんちょっと待って」

リビングに戻ろうとした私を呼び止めると、先生は一枚の封筒を差し出した。
これは?という目で先生を見る。

「領収書です。念の為、書いてもらいました。お母さんに渡してあげてください。」

あぁなるほど…そう思いながら封筒を受け取ろうとして、私はドキッとして固まった。
差し出した先生の手のひらが、傷だらけで真っ赤になっている。
ビックリして先生を見た。

先生は相変わらずニッコリ微笑んで、「早く」とだけ言った。

「先生…手…」
「いいから、早く。僕は車に行ってますから。」

先生が後ろ手に、玄関を開ける。
私は封筒を受け取ると、慌ててリビングに戻った。

214:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:08:45.71 ID:+beSXCVE0
荷物をまとめた鞄を肩にかけ、母に封筒を渡す。

「…領収書だって。先生が返しに行ってくれたから…」

母はまた泣きそうな顔になって、封筒を受け取った。

「じゃあ…私、行くから…」

そういって母に背を向ける。
玄関でワタワタと靴を履いていると、母は慌てたように「なぎ!」と私を呼び止めた。

振り返ると、母が何やら言いたそうに口をアワアワとさせている。

「…なぁに?」

優しく聞くと、母は少し泣きそうな顔で「またね…」と小さく言った。

私は少しだけ微笑んで「うん。…またね」と返事を返して家の外に出た。

家の前では、先生が車に乗って待っていた。

私は後部座席を開けて荷物を放り込むと、そのまま後ろに座って扉を閉めた。
何故だか、助手席に座るのは気が引けた。

先生は私がしっかり座ったのを確認すると、「さーて、帰りましょうか。」と言って車を出した。

来た時と同じように、二人とも何も話さなかった。

218:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:14:48.52 ID:+beSXCVE0
はい、続けます。

家に帰りリビングに入ると、先生はフワーッと大きく背伸びをした。

「何だか大変な一日でしたね~。あー疲れた。」

そう言いながら、ニコリと私を見る。

私はずっと気になっていた事を質問した。

「…手…どうしたんですか…?」
「ん?手?」

先生は自分の両手を広げて、不思議そうに眺めた。

「怪我しただけですよ。傷も深くないし、ほっときゃ直るでしょう。」

そう言うと、ハハっと恥ずかしそうに笑った。

「違います!そうじゃなくって…どうして怪我をしたのか聞いてるんです。」

私が少し強く言うと、先生は困ったように苦笑いしながら、ドカっとソファに腰を下ろした。

「いやぁ…お金を返した後領収書くれって言ったら、じゃあコレを握れって小さいナイフの束みたいのを差し出されたんですよ。」

先生は楽しい思い出を語るように、ニコニコしながら話している。

「だからそれをこう…ギュッと。そしたらいきなり引っこ抜くもんですから……まぁこんなもので済んで良かったですよ。」

先生が笑う。

私はニコニコしながら握ったであろうその時の先生を想像して、思わず顔をしかめた。

「大丈夫、大した事無いですから。心配しないで。」

明るく言う先生の声に、私の目から涙が溢れた。

220:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:17:02.33 ID:+beSXCVE0
先生は音楽教師。手は商売道具のような物だ。
一歩間違ったら、先生は一生ピアノが弾けなくなっていたかもしれない。

それなのに先生は相変わらずニコニコして、気にも留めてる気配が無い。

「ごめんなさい…先生ごめんなさい…大事な手なのに…」

私は複雑な思いで胸が一杯になって、謝ることしか出来なかった。
立ったまま、泣きながら先生に謝り続ける。

「大丈夫ですって。……それに僕の方こそ、貴女に謝らないといけません。」
「…どうして…ですか?」

私がシャックリをしながら聞くと、先生は凄く神妙な面持ちで下を向いた。

「…貴女をお金で買うような事をしてしまいました。……もう二度としませんから…許してください。」

私は泣きながら、ブンブンと首を振った。

「…先生の…大事な…お金を……先生のお父さんが…遺してくれた…大事な……」

息が詰まって言葉にならない。

「いいんです。それは僕が勝手にやってしまったんですから。…お願いだから、泣き止んで、謝りますから…」

先生が段々と困った顔をしていく。

それでも益々涙は止まらなくなっていき、私は幼い子供のようにわんわんと泣き続けた。

222:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:19:44.53 ID:+beSXCVE0
「あぁもう…泣き虫なんだから……」

先生は優しくそう言って立ち上がり、私をぎゅうっと抱きしめた。

「ごめんなさいぃ…」

抱きしめられると、もっと申し訳なくなってくる。

「だから大丈夫だってば。ほら、泣かないで。お願いだから。」

先生は困ったように笑う。
それでも私の涙は止まらなかった。

「大切な人を守るためなら、手の1本や2本、どうって事ないじゃないですか。渚さんだって、そう思うでしょ?」

先生はちょっと照れくさそうにそう言った。

私はその言葉で更に胸が苦しくなって、立っていられなくなった。

先生は「おっと…」と言いながら、私を支えるように一緒に座り込んだ。

223:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:22:19.07 ID:+beSXCVE0
あぁ先生が困ってる…泣き止まなきゃ……もう何で涙が止まってくれないの…

泣きながらもどこか冷静な頭の片隅で、私はずっとそんな事を考えていた。

「……ほら…こっち向いて。」

優しくそう言われて、嗚咽を堪えながら先生を見つめる。
先生は優しく微笑むと、フッと顔を近づけた。

先生の唇が、私の唇に軽く触れる。

私の頭は、途端に真っ白になった。

息をする事も忘れて、私は自然に目を閉じた。

先生の顔が、スーっと離れる。

私は思い出したように、そっと息を吐いた。
薄っすらと目を開けて、先生を見る。

「…泣き止んだ。」

先生は私と目が合うと、ニコッと微笑んだ。

「…せんせい…」

私がやっとで呟くと、先生は恥ずかしそうにクスっと笑った。

「その…先生って呼ぶの、そろそろやめにしませんか?」

私は少し困った顔をした。
少しだけ考えて、先生に小さな声で聞き返す。

「……じゃあ何て呼べばいいですか?」

先生もちょっと困った顔をしながら笑った。
暫らくぼーっと何処かを見て黙り込んでいたが、またフッと笑うとまっすぐ私を見つめた。

「んー………わからない…」

そう言いながら、ゆっくりと顔を近づけてくる。

私はまた、目を閉じた。

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224:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:25:32.80 ID:+beSXCVE0
その日、私は初めて先生と一緒にベッドに横になった。

先生はやらしい事は一切せず、ただ向き合った私を抱きしめているだけだった。
安心感と暖かさで心はすごく安らいでいたのに、私はなかなか眠ることが出来ず「先生…」と小さく声をかけた。

「…なんですか?」

先生も起きていたようで、すぐに返事が返ってきた。

「先生と〇〇さんは…どういう知り合いなんですか?」
「このタイミングでそれを聞きますか。」

先生はプッ吹き出した。

「……あれは嘘です。」

驚いて先生を見上げる。

「まぁ…名前と何をしてる人か位は知っていましたけど。」
「何で嘘ついたんですか。」

私が少し怒った様に言うと、先生は苦笑いした。

「…まぁ、もういいじゃないですか。」

先生は困ったように笑いながらそう言うと、私をグッと抱き寄せた。

「でも…」
「いいからもう寝ましょ。これ以上このままで起きてたら僕、貴女に何するか解りませんよ?」

私は急に恥ずかしくなって、布団の中に顔を埋めた。

「…もうこれからは、貴女に怖い思いも、辛い思いも、絶対にさせませんから。」

先生は私の頭を、私が寝付くまでずーっとずーっと優しく撫で続けていた。

225:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:28:48.14 ID:+beSXCVE0
それから……。

地元では予想通り噂になったけれど、私は先生と一緒に暮らし続け、先生の転勤にも付いて行った。

最初こそ仕事を探したものの、先生の職業柄移動が多く、
すぐに辞めてしまう事を考えて先生と話し合った結果、私は職探しを止めた。

先生の傍で、穏やかな日々を過ごす。

私が20歳になると、先生は「結婚…してみませんか?」と私に言った。
私は喜んで「ハイ」と返事をした。

結婚式はせず入籍だけ済ませ、二人だけで記念写真を撮った後、私達は新婚旅行がてら短い旅行をした。

そこでやっと先生は、初めて私を女性として抱いた。

籍を入れて一年後。
33歳になった先生は教師を辞めて私の故郷に程近い場所に家を買い、そこでピアノ教室を開いた。

丁度その頃、あの日以来会っていなかった母から連絡が届いた。

全てを一度リセットした母は、今は知り合いの伝で小さな事務所の事務員をしているらしい。
久しぶりの電話越しの母の声は、昔とは違って随分と落ち着き、そして凄く幸せそうだった。
私も先生と結婚したことを告げると、母は電話越しに泣いていた。

それからはちょくちょく、母とは今も電話で連絡を取り合っている。

226:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:32:01.91 ID:+beSXCVE0
私は未だに先生の事を「先生」と呼んでいる。

先生は相変わらずニコニコしていて、私達の会話は昔から変わらず敬語のまま。

夫婦で敬語なんて変…と友人達は笑うけれど、これは多分、もう一生直らないだろう。

先生と出会ってから、気がつけばもう十数年。

長い長い時間をかけて、本当に大事な人と結ばれ日々を過ごしている今、私はふと自分の人生を振り返り、幸せを噛み締めている。

227:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:34:48.68 ID:+beSXCVE0
書き溜めていたのは以上です。

急に尻つぼみに終わってしまって、申し訳ありません。

最近の事を書こうとすると、何故か指が止まってしまい、文章にはとても出来ませんでした。

長い時間、私の拙い思い出話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

229:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:36:49.33 ID:ZOSge41I0
おつかれさまでした!

230:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:37:06.01 ID:LUqPOmqkP
乙!

質問いいかな?
どうして書く気になったのか教えてほしい
いや、オチ?で子どもが出来たとか入籍したとか、そういうんじゃなかったから
どうして書くつもりになったのかなって思って

232:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:39:57.93 ID:+beSXCVE0
皆さん、読んでいただきありがとうございました。

私は今、幸せに過ごしています。

>>230
どうして書く気になったのか…そう言われると上手く説明が付きませんが、
ある日ふと、小学生にピアノを教えている主人を見ていて、何故だか自分の昔の事を思い出したのです。

あんなこともあった…こんなこともあった…
そう色々考えているうちに、自然と昔を振り返りながら、少しずつ書き始めていました。

231:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:37:16.21 ID:3at4oFrli
うわぁぁぁぁあああ(;_;)

233:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:40:17.14 ID:QDHvM6y80

今も幸せなんだね

一番偉いのは常に先生に対しては事実を伝えていたところ
何処か一つのタイミングがずれていたら、こうはならなかったよね

234:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:43:27.70 ID:+beSXCVE0
>>233

はい。
あの時少しでもタイミングがずれていたら、私の人生は母と同じような事になっていたかもしれません。

235:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:44:33.06 ID:Fv6goezV0
お疲れ様でした!
久々に胸きゅんしたわ

236:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:46:36.52 ID:+beSXCVE0
投稿してみようと思い立ったのは、きっと誰かに聞いて欲しかったんだと思います。

誰にも言えなかった過去の事、私は今すごく幸せだぞ!という思いを、吐き出したかったんだと。

皆さんが聞いてくれたお陰で、胸がスーッとした気持ちでいます。

本当にありがとうございました。

240:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:49:51.85 ID:+beSXCVE0
皆さん、本当にありがとうございました。

私も皆さんの幸せを、僅かながらですが祈らせていただきたいと思います。

それでは、皆さんさようなら。

長い時間、ありがとうございました。

241:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:51:02.24 ID:Ai/XBJ160
すばらしかった
フィクションでもいい
ノンフィクションだったらもっといい
心が温まりました

242:レーザーキャノン砲(偽者) ◆pxoCBM7Q4IPk :2012/06/07(木) 19:53:31.62 ID:bWtJJYtw0
>>1さんお疲れ

末永く御幸せに

260:名も無き被検体774号+:2012/06/08(金) 00:10:39.20 ID:GvbRfn7h0
幸せな話をありがとう

参照元:https://hayabusa3.5ch.net/test/read.cgi/news4viptasu/1339046418/

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