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343 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2005/11/25(金) 12:11:21
最後の夜ということで、その後は家でダラダラと飲んだ。
ふたりとも酔い潰れることもなく、1時過ぎには床に就いた。
すぐに大は寝息をたてた。
それを聞きながら、俺は寝付かれなかった。
1時間ほど経った頃、俺は大を揺り起こした。
「…んー?なんだぁ?」
「大、聞いてくれ。俺、未練ある。好きな女がいるんだ」
344 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2005/11/25(金) 12:12:17
再び電気を点け、大は冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきた。
それを脇に抱き、俺の目の前にドカッと座り込んだ。
「どれ、聞かせろや」
一時間、話した。
恵子ちゃんのこと。
家族のこと。
恵子ちゃんとのこれまでのこと。
全て話し終えた時、大が一時間ぶりに口を開いた。
345 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2005/11/25(金) 12:13:16
「大塚ぁ…さっきの話より、今の話のほうがよっぽど納得いくぞ。
好きな女がいるってのは、それだけでなんだか、何よりも大事だしな」
大がタバコに火を点けた。
「しかし。お前…変わってねぇなぁ」
「スーツ姿も似合うようになって、
すっかりオッサンになっちまったと思ってたけど、
中身、高校の時と大差ねぇじゃん」
「今の話、お前、誰にも言ってねぇのか?」
黙って頷いた。
「…まぁ、恋の相談っつっても、
今の話じゃあ、おいそれと誰にでも話せる内容じゃないわな。
でも俺は明日、ここからいなくなる。
話す相手としてはうってつけだったってワケか(笑)」
長くゆっくりと、大が煙を吐き出した。
「どうにもなんねぇな」
厳しい口調ではなかった。
「どうにかするんなら、何かぶっこわさないと、な。
でもお前、それ、出来ないだろ?」
何も言えない。
「おい!ならよ。
俺とアメリカ行ったほうが、キッパリスッキリするんじゃねぇか?ん?」
やっぱり何も言えず、大を見た。
「うわぁ…お前のそんな顔、初めて見た…。
やめろよお前、そんな切ねぇツラ。
なんか、母性本能くすぐられたぞ(笑)」
俺は俯いてしまった。
「ま、好きなだけ悩め。お前の気持ちだ。誰のモンでもねぇ」
もうお互い話すこともなくなり、今度はホントに寝た。
346 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2005/11/25(金) 12:14:07
翌日は休みだったので、大を空港まで見送ることにした。
便は午後で余裕があったから、
ゆっくりと大の作った朝飯を噛み締めることができた。
空港までの電車の中、話すことなく、ふたりとも爆睡した。
空港のロビーに着くと大が言った。
「もうここでいいや」
「まだ離陸まで時間あるだろ?付き合うよ」
「いいよ。俺、なんか言ってしまいそうだもん(笑)」
「あのよ」
「うん?」
「アメリカ生活が始まったら、住所連絡するわ」
「うん」
「ケリついたら、教えろ」
「うん」
「もうこれで、日本に帰ってくることはないと思う」
「そか」
「…あ、いや、帰ってくるな、俺」
「?」
「メジャーになったら凱旋帰国だ(笑)」
「じゃあ、一生帰ってこないってことじゃん(笑)」
笑いながら、大が俺の肩を小突いた。
「バイバイ」
大きく両手を振って、大が俺に「帰れ」と急かした。
デカい男が、一際大きく見えた。
669 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:33:42
大が去って3週間。
3月も終わりを告げた時だった。
俺は故郷への出張を命じられた。
仕事の内容は新入社員への研修。日程は一週間。
研修開始日の前日夜、俺は故郷に先乗りした。
前もって太田家には出張のことを連絡していたので
お父さんは太田家への滞在を勧めてくれたが、
連日、同僚との飲み会が予想されたため、
俺は迷惑をかけまいとお父さんの申し出を辞退していた。
会社のとってくれたホテルに、俺は苦笑した。
そこは三年前のクリスマスイブに、芽衣子さんと泊まるはずだったホテル。
さすがに同じ部屋ではなかったけれど、窓から見える夜景は変わらなかった。
一瞬よぎるほろ苦い思い出。
(思い出…になったなぁ)
缶ビール片手に、しばらく夜景を眺めた。
翌日。
古巣である事務所に出勤すると、懐かしい顔が俺を出迎えた。
転勤前によくパートナーを組んでいた後輩・友枝だった。
「お久しぶりです!
今日は俺が大塚さんのアシスタントですよぉ。凸凹コンビ復活!!(笑)」
ずんぐりむっくりとした体躯に、人懐っこい笑顔。
男の俺から見ても可愛らしく感じる友枝は、少しも変わっていなかった。
いや、少しお洒落になったかな。
趣味の良いワイシャツとネクタイが似合っていた。
670 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:35:11
研修は午後から始まった。
みんなお揃いかと思えるような、
色も形も定番のリクルートスーツに身を包んだ初々しい新入社員たち。
中途採用で入社した俺の目に、彼らがとても眩しかった。
研修はとにかく忙しかった。
しかし友枝のサポートでそつ無く進行することができた。
昔はちょっと頼りない男だったが、この三年で見違えるように成長していた。
所作の全てに自信が覗える。
頼もしくもあり、ちょっとだけさみしくもあった。
無事に初日を終え、後片付けをしていると友枝が言った。
「大塚さん。今日この後、どうします?」
「んー。さすがに疲れたよ。帰る」
「ちょっと付き合っていただけませんか?」
「飲むのかぁ?やだよお前、うわばみなんだもん(笑)」
「そんなこと言わず(笑)お話、というかご報告があるんです」
「なんだ?」
エヘヘ、と意味深な笑みで友枝は俺の問いをかわした。
妙に気になった俺は、彼の誘いに応じた。
671 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:37:11
連れて行かれたのはとても洒落た店だった。
赤ちょうちんがステータスだった友枝だけに、意外で驚いた。
「こんな店ができたんだなぁ。というかお前、よく知ってたな(笑)」
「エヘヘ」
またあの意味深な笑いだ。
「この店、彼女から教えてもらったんです」
驚きの連続だった。
三年前まで『彼女いない歴=年齢』だった友枝。
とても嬉しそうだ。俺も嬉しかった。
「やったなおい!彼女できたんかぁ」
「はい!しかも俺、結婚します!!」
おいおい、まだ驚かす気か、友枝。
「うわぁ、おめでと!…で、相手は?」
「大塚さん、おぼえてますかね?○×社の野田 芽衣子」
驚くにもほどがあった。
672 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:38:14
「式の日取りとか最近決まったばかりで、まだ会社の誰にも言ってないんです。
それにまず、大塚さんに報告したくて」
前置きをした友枝が、こぼれる笑顔で話を続けた。
俺と芽衣子さんの関係を知っていたのは社内では東京の先輩だけ。
先輩は口の堅い人だったから、友枝は知らないはず。
俺は平静を装った。
付き合い始めたのは去年の6月だという。
以来、順調に時を重ね、半年後のクリスマスにプロポーズしたそうだ。
はしゃぎながら芽衣子さんとの惚気話に夢中になる友枝。
いちいち頷きながら友枝の話に耳を傾ける俺。
ふたりとも、頼んだ酒や料理にほとんど手をつけなかった。
早くホテルに帰って頭を整理したかったが、
無邪気な友枝の顔を見ていたらいつしか帰る気も失せ、
俺は誘われるまま2軒目の店へとついて行った。
転勤前によく友枝と通ったバーだった。
673 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:39:08
俺のことを覚えていてくれたバーテンは、
あの頃いつも飲んでいた酒を用意してくれた。
「あらためて…おめでとう」
友枝のグラスにカチンと当てると、なんと友枝が泣き出した。
「な、なんだ!?どした??」
狼狽し、友枝の背中を摩る。
「い、いや、すんません。うれしいんス。うれしいんス」
ワイシャツの袖で、友枝は何度も目を擦った。
「大塚さんのっ、“ありがとう”がっ、うれしいんスっ」
可愛いヤツ。
こんなに無垢なヤツもいまどきいないだろう。
674 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:40:08
2杯目を注文した時は友枝も落ち着きを取り戻していた。
仕事でも見たことのない、至極真面目な表情で友枝が語り出す。
「実は彼女と付き合うことになる前、俺、一回告白したことがあるんです」
「…いつ?」
「一昨年の7月くらいでしたかね」
俺と芽衣子さんの交際が終わった頃だ。
「そん時は『好きな人がいるから』って、断られたんです」
「………」
「でも俺、彼女のことが、初めて会った時から好きだったから、
諦められなくて、ずっと、想い続けてたんです」
知らなかった。
そんなにも深く、長く、友枝が芽衣子さんのことを想っていたなんて。
「彼女はいつも寂しそうでした。
その顔を見るたび、
好きな人とうまくいってないんだなって、俺は悲しくなりました」
胸にチクリと、何かが刺さる。
「だから俺、彼女の相談役になろうって、思って…
…あ、でも俺っ、別に変な下心は無かったっスよ!?
そんなんじゃなくて、あの、」
…なんていいヤツなんだろう、こいつは。
あさっての方向を見ているバーテンが、ウンウンと頷いている。
俺たち以外に客はない。
アンタもそう感じたんだね、バーテンさん。
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675 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:41:20
「それから一ヶ月に一回、彼女を食事に誘ったんです。
俺、見た目こんなだし、嫌がられるかなって、
ビクビクしながら彼女を誘ったんですけど、彼女は笑顔で応じてくれました。
ただ…俺、店のことなんて詳しくなかったから、
いつも彼女に店を選んでもらってましたけど(笑)
…食事に誘ってるのは俺なのに…かっこわるかったなぁ(笑)」
みるみる友枝のグラスが空になっていく。
俺はまだ一杯目だった。
「相談役って言っても、彼女はいつも多くは語ってくれませんでした。
でも帰る時はいつでも『ありがとう』って、すごく綺麗な笑顔で言ってくれて。
毎回ドキドキしてました」
初めて友枝の口から聞けた“女性の話”。
始めはその相手が芽衣子さんであることに驚きと戸惑いをおぼえたけれど、
友枝の素直な言葉にいつしか俺は引き込まれていた。
「そしたら去年の6月、
彼女のほうから『付き合ってください』って、言われたんス。
俺ビックリして、『いいの?』って何回も聞いてしまいました」
よかったなぁ。
素直にそう思えた。
676 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:43:07
ふと、バーテンが俺たちにグラスを差し出した。
「これ、良かったら召し上がってください。お祝いです」
「やっぱり聞いてましたね(笑)」
「はい(笑)」
ばつの悪そうに苦笑しながらバーテンが言った。
「ウチのオリジナルです。
本来はカップルの方にお出ししているんですが」
桃の香りと、微かな酸味。
シャンパンでアップされているそのカクテルは、この季節にピッタリな感じだった。
「なんという名前なんです?」
「“両想い”です。おめでとうございます」
「あ、ありがとうございますッ。ありがとうございますッ」
友枝がまた泣き出した。
677 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:43:59
友枝を宥め、店を出た。
千鳥足のくせに、友枝はホテルまで送ると言ってきかず、
結局、肩を貸しながらホテルまで歩いた。
「ここでいいよ。ありがとな。気をつけて帰れよ」
「はい!ありがとうございました」
気になってたことを聞いた。
「…そのワイシャツとかネクタイとか、さ」
「はい?」
「野田さんの見立てかい?」
「はい!!」
酔ってるからか、照れ臭いからか、
真っ赤な顔して元気に返事する友枝を、なんだか無性に抱きしめてやりたくなった。
のっそりと踵を返した友枝がタクシーに乗り込むのを見届け、俺は部屋へと上がった。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを掴んだまま、ベッドへと倒れこむ。
夢も見ずに、深く眠った。
678 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:45:36
それからの一週間は、夜毎、宴会に興じた。
太田家にも一度顔を出したが、それ以外は友枝や他の同僚たちと飲み歩いた。
そして研修最終日の夜を迎えた。
「大塚さんのお別れ会をしますから!」
友枝の音頭で事務所の社員全員が集まり、宴となった。
いい加減、二日酔いなのか何日酔いなのかわからぬほど酒浸りの身体になっていたが、彼らの気持ちに付き合った。
「2軒目、カラオケ行きます!逃がしませんよぉ(笑)」
ニヤリとした友枝に、俺も観念の笑みを向けた。
珍しいことにカラオケ屋には年配の社員も参加した。
若手だけかと思っていたのに、事務所のほぼ全員が顔を揃えている。
「? 珍しいな。部長までいるじゃん?」
「俺が誘ったんです」
友枝の鼻息が荒い。
「ふーん?」
その答えは一時間後に判明した。
「はい!みなさん!聞いてください!!」
最高潮を迎えた部屋の喧騒を友枝が制した。
「わたくし友枝、このたび結婚することとなりました!」
部屋中に『?』マークが飛び交った後、友枝は質問攻めにあった。
「誰と!?誰と!?」
当然の質問に、友枝が屈託の無い笑顔で答えた。
「実は…これからココに来ます!」
!!!!
なんてこった。
679 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:46:42
今この空間で一番ドキドキしているのは俺だ。間違いない。
やってくれるな、友枝。
ドキドキは何分経っても収まらず、
心の準備はいつまでも出来なかった。
20分後、芽衣子さんは来た。
彼女がドアを開けて入ってきた時、
顔を上げられずにいた俺の左右の耳に、
とてつもない喚声が飛び込んできた。
男性社員からは悲鳴が。女性社員からは歓声が。
それからはカラオケどころではなかった。
みんなが寄り添うふたりに群がった。
恥ずかしげに俯く芽衣子さん。
今まで見たこともないくらい、胸を張っている友枝。
さっきまで俺と一緒にあずさ2号を歌っていた男が、その時よりも数倍輝いていた。
彼らの姿をぼーっと眺めながら、
俺は芽衣子さんと付き合うことになったあの夜を思い出していた。
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680 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:47:38
まともに芽衣子さんと会話もできないまま、2次会はお開きとなった。
またもヘベレケになった友枝が俺をホテルまで送ると言う。
そして芽衣子さんも。
3人、肩を並べて歩いた。
だがホテルに着いても友枝は俺を放してくれなかった。
結局、友枝と芽衣子さんは部屋の前までついてきた。
「芽衣子ちゃん!俺ねぇ、大塚さん…だ~い好き!」
愚にもつかないことを叫びながら、友枝が俺に抱きついてきた。
「俺も友枝、だ~い好き!」
言いながら友枝を抱き止めた。
互いに抱きしめ合う30男たちを、芽衣子さんは微笑みながら見ている。
ふっ、と友枝が軽くなった。そして重くなった。
ヘナヘナと、俺の身体を舐めるように崩れ落ちて行く。
床に大の字になった友枝を見、そして芽衣子さんを見やった。
芽衣子さんと目が合った。今日初めて芽衣子さんと交わす視線だった。
一瞬の後、どちらともなく、ぷっと笑った。
「ひとまず部屋で寝かせよう」
俺と芽衣子さんは笑いながら友枝を抱え上げた。
「ほら、しっかり(笑)」
そう言って友枝の右腕を肩に抱え込んだ芽衣子さんの目は、
なんとも言えない優しさに満ちていた。
俺は慌てて視線を外し、友枝の左腕で顔を隠した。
681 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:48:48
ベッドに友枝を寝かせると、静寂が部屋を包んだ。
「元気だった?」
芽衣子さんが切り出してくれた。
「うん」
なんとか芽衣子さんに顔を向けた。
「このホテル…だったんだよね?」
「そうだったね(笑)」
あの日を思い出す。
と、大いびきの友枝に、ふたりの視線が向いた。
「ラウンジに…行くかい?」
「うん(笑)」
ふたりでそっと部屋を抜け出した時、
なぜだか悪いことでもしているかのような錯覚に陥った。
「ずっと…ちゃんと話をしたいと思ってたの」
軽めのカクテルを一口含みながら、芽衣子さんが言った。
「そう…なの?」
同じものを俺も注文した。
いつもなら飲まないであろう、甘ったるいカクテル。
しかしそれは渇いていた喉にとても優しかった。
「うん。でもね…」
ふたりともバーテンの振るシェイカーを眺めていた。
「もう…いいの。もう、いいんだ」
自分の言葉に、ウン、とひとつ頷いて芽衣子さんは笑った。
俺も芽衣子さんに笑みを向けた。
「招待状、もらえるよね?」
そう言った俺の顔を、芽衣子さんがじっと見つめる。
潤んだ瞳に柔らかな光を灯し、芽衣子さんは言った。
「…ありがとう」
その言葉で、胸に残っていた最後の何かが、すーっと消えた気がした。
俺も…ありがとう。
682 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:49:48
部屋に戻ると、友枝は本格的な眠りに突入していた。
「今日はこのまま、旦那さんは預かるよ(笑)」
「ごめんね。ダーリンをよろしく(笑)」
ロビーまで見送ることにした。
エレベーターの中、芽衣子さんが小さな声で言った。
「健吾君」
「うん?」
「今も…従姉さんのこと、好き?」
「うん」
ためらいもなく、素直に言えた。
微笑みながら、芽衣子さんは去っていった。
683 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:50:54
部屋に戻り、友枝のネクタイを緩めてやる。
しばらくその寝顔を見つめた。
(こいつは…勝ち取ったんだ)
“勝ち取る”という言葉に、改めて俺は自分が持つ劣等感を意識した。
だがそれは、友枝に芽衣子さんをとられた…などというものではない。
友枝が勝ち取ったもの。
しあわせ。
ひたむきに相手のことだけを想い、努力してきた友枝。
それを得るのは当然だった。
俺は…彼ほど努力しただろうか?
否。
いつもウジウジと後先ばかり考えていた。
親父と母の心情を障害と見なしていた。
あきらめる道だけをひたすら選び、“忍ぶ恋”などというものに酔っていた。
『どうにかするんなら、何かぶっこわさないと、な』
大の言葉が頭に浮かぶ。
俺が事を起こせば、壊れるのは親父や母の心だと思っていた。
だが本当に壊れるのは、いや、壊さなければいけないのは、俺の臆病さなのだ。
(ありがとな、ダーリン)
友枝の頭を、クシャクシャに撫でた。
684 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:51:41
東京に帰り、いつもと変わらぬ日常に戻った俺の元にメールが届いた。
恵子ちゃんからだった。
『ゴールデンウィークに親戚一同集まってバーベキューします。
健吾君、来れるかな? ていうか、絶対来ーい!(笑)』
文字がやたら愛しい。
返信。
『喜んで参加させていただきます』
断る気はなかった。
一歩、前へ。
俺は歩ける気がした。
685 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:52:38
GW。
たった一日だけだが休暇をとった俺は、心の急くまま新幹線に乗った。
早く行きたい。バーベキューに行きたい。
いや、バーベキューなんてどうでもいいんだ、ホントは。
駅には恵子ちゃんが迎えに来てくれていた。
およそ一年ぶりに見る恵子ちゃんは…可愛かった。とても。
恵子ちゃんの実家からほど近い、山裾の川原がバーベキューの場所だった。
すでに俺以外はみんな顔を揃えていた。
まずは一杯、と生ビールを手渡される。
だが手厚い歓待もほんの束の間、
「健吾君、手伝ってぇ~」
調理部隊からお声がかかった。
転勤してからは年に1度会うか会わないかの親戚たちだったが、
この頃になるとすっかり俺も彼らと遠慮会釈のない関係を築けていた。
ほいほいと軽く腰を上げ、一員であることを喜ぶ。
…などという気分は、一時間で吹っ飛んだ。
忙しい!
次から次へと焼き物に勤しむ俺。
うがー
何しに来たんだ俺は。
恵子ちゃんと話してぇ。
しかしそんなレクレーションはとんと巡ってこない。
たまに恵子ちゃんが給仕として出来上がった料理をとりに来たが、
汗だくになって調理している俺に、
「ご苦労さま(爆笑)」
一言声をかけ、すぐに女性陣の輪の中に帰っていった。
忙しなく手を動かしながら、心の中で指を銜えて“女の園”を眺めた。
686 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:53:33
午後3時を回った頃、救いの手が差し伸べられた。
「健吾君、少し休みなよ」
恵子ちゃんの父・守さんだった。
これ幸いとばかりに義弟に調理を押し付け、守さんから生ビールを受け取る。
そのままなんとなく守さんとツーショットになった。
実のところ守さんとはこれまであまり話したことがない。
親戚が集まる席といえば決まって酒席で、
俺は酒豪ぞろいの彼らといつも馬鹿騒ぎに興じてきたのだが、
守さんは下戸のため、正直、話すのが辛かった。
素面の相手と酔っぱらいではノリが違う。
それに守さんは真面目な人だったからちょっと近づきがたくもあった。
しかし親戚連中に強引に勧められたのか、
今日はちょっとだけ守さんも酒を楽しんでいたようだ。
顔が少し上気している。
お互い酒が入れば自然と会話も弾む。
話の内容なんて他愛のないものだったとおもうが、
小一時間も経った頃、
「ようし、もう“健吾君”なんて他人行儀な呼び方はしない。
健吾!って呼ぶからね」
そう言われた俺は守さんと打ち解けたような気がした。
687 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:54:48
そのうち、酔っぱらった守さんは高鼾で寝てしまった。
ブルーシートに大の字になっている守さんに、恵子ちゃんが上着をかける。
そして俺に向き直って言った。
「ちょっと散歩でもしない?森の中に、良いトコあるんだ」
どこへでも行きますとも。
「お父さん、あんなになっちゃうなんてなぁ(笑)」
恵子ちゃんの歩幅に合わせながら、森の中の小道を歩く。
「ごめん。ちょっと調子にのって酒勧めすぎたかな?」
「ううん(笑)たまにはいいんじゃないかな。大した量でもないし」
…たしかに。ビールを紙コップ3杯程度だった。
「きっと嬉しかったの、お父さん」
「俺と話したことが?」
「そう。ウチは私とお姉ちゃんとお母さんで女だらけでしょ?
だから男同士の会話っていうのに飢えてるんだと思う」
「なるほどね」
「それにね。お父さん、健吾君のことは前から気にしてたの」
「なんで??」
「さあ(笑)
昔、私と健吾君でよく飲みに行ってた時、実家に帰るたびに
健吾君のこと聞かれた」
「…で、なんて答えたん?」
「変な人、って(笑)」
「あっそ(笑)」
688 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:55:57
木立が開け、目の前に小さな滝壺が現れた。
「到着」
「おおっ、いいねぇ」
「私のお気に入りなの、ここ。
小さな滝だから、森の静けさを壊さないんだ」
滝壺のほとりにあった大きな岩塊にふたりで腰掛けた。
小さなサンダルを脱ぎ、恵子ちゃんは素足を水の中へと入れた。
ぱちゃぱちゃぱちゃ
いたずらに水を掻く白い足が、戯れる二匹の魚のようだ。
ふたりとも何も言わず、ただ水面と木々と空を眺めた。
恵子ちゃんがその時、何を考えていたのかはわからない。
だが俺は、この心地良い静寂を乱してよいものか、考えていた。
静寂を打ち破る俺の一言。
それはずっと言いたかった一言。
そして今にも言いそうになる一言。
だがここに至っても、俺はまだ踏ん切りをつけられずにいた。
押し黙っていたら、恵子ちゃんが俺の顔を覗き込んできた。
「なに考えてるの(笑)」
驚き、怯み、
動揺が愚かな言葉を紡いだ。
「あ…あのね、恵子ちゃん」
「うん?」
「彼氏、できた?」
689 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:57:05
馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿。
自分に呆れた。
呆れてものが言えない。
いや、実際、次の言葉が出て来なかったのだが。
恵子ちゃんの顔が強張った。俺を覗き込むのをやめた。
「そんなこと…健吾君に聞かれたくない」
「そ、そっか」
小さな滝がナイアガラにでもなった気がした。
「そろそろ戻ろっか」
恵子ちゃんはいつもの声音に戻っていた。
俺の右横を歩く恵子ちゃんに顔を向けられない。
かといって前を向いていても道なんて見ていない。
(告白してフラれた相手に「彼氏できた?」なんて…
そりゃ聞かれたくないよな)
右肩が重い。右頬が引き攣る。
(本当は…あんなこと言うつもりじゃなかったのに)
傾いた木洩れ陽が視界を濁す。うっとおしい。
(ええい、言っちまえ!)
「あのね恵子ちゃん、さっきのね、あれはね、」
「あ。もうみんな片付け始めてるよ」
いつのまにか森を抜けていた。
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690 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:57:44
「そろそろ帰るよ~」
戻ってきた俺に母が言った。
今夜は太田家に世話になる予定だった。
「じゃーね、健吾君。今日はご苦労様」
「う、うん。さいなら」
恵子ちゃんの口調は優しかったが、
守さんを介抱するその背中は怒ってる…ような気がした。
…いつまでも見てたって仕方ない。
諦めて、お父さんの車に乗り込んだ。
がっかりだ。
自分に。
691 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:58:29
渋滞に巻き込まれながら太田家に帰り着いた時には陽はとっぷりと暮れていた。さすがにみんな疲れていたため飲み直す気はなく、
三々五々、各々の部屋で休息をとることとなった。
俺は身体に染み付いたバーベキュー臭を洗い流そうと、風呂をつかった。
身体だけはさっぱりとし、居間に戻ると母が座っていた。
「お茶、飲む?」
「ん。もらうよ」
「今日はお疲れさん」
「ホント疲れた(笑)でも楽しかったよ」
「守さんと盛り上がってたね」
「あんまり飲めないのに付き合わせちゃって、悪いことしたよ」
「よろこんでたよ」
「ならいいけど」
「アンタがいなくなってた時、
突然ガバッと起きだして『健吾どこだ~』って騒いでた」
「マジで?あはは」
「気にいられたね」
「だったらうれしいね」
「恵子ちゃんのこと、好きなの?」
はい、とお茶を差し出しながら、流れるように母が聞いてきた。
692 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 15:59:16
「…なんで?」
視線をTVに固定したまま、平静を装った。
焦点はぼやけていた。
「なんとなく。今日のアンタ見てたらそんな気がしたの」
もはや言い逃れることも、取り繕うことも、俺自身が許さなかった。
「…うん。好き、だ」
まっすぐに母を見た。
「そう」
「うん」
「いつから?」
「ずっと、前から」
母の表情に変化はなかった。
「お父さん(実父)は、知ってるの?」
「いや、言ってない」
「そう…」
ふたりのお茶が冷めていく。
母の目の光が強くなった。
「恵子ちゃんには伝えたの?」
「…ううん…」
光がしぼんだ。
顔を伏せた母の声が小さくなった。
「私たちのこと…考えたから…なのね?」
「………」
廊下を踏む足音がした。誰かが起きてきたのだろう。
「考えさせてたのね…ずっと」
消え入るような声だった。
693 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:00:07
明くる朝、帰りの身支度を整え居間に下りると、母はすでに仕事に出た後
だった。
結局、母はあれ以上なにも言わなかった。
(なんか…言ってほしかったな)
賛成にせよ反対にせよ、何かしら母の言葉が欲しかった。
賛成ならば感謝した。
反対ならば説得した。
昨日、絶好のタイミングを逃してしまった俺は、
情けないが俺を後押しする何かを求めていた。
駅まで俺を送るために、お父さんが起きてきた。
玄関へ行き、靴を履く。
と、靴の中に何かが入っていた。
『健吾様』と書かれた小さな封筒だった。
お父さんに見つからないよう、あわててポケットに閉まった。
駅に着くと新幹線の時間にはまだ間があった。
お父さんは発車時間まで付き合うと言ってくれたが、
二日酔いで辛そうだったのですぐに帰ってもらった。
なにより、封筒を早く開けたくて仕方ない気持ちもあった。
手近な喫茶店に入り、荒々しく封筒を破った。
中には母からの手紙が入っていた。
694 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:01:59
『健吾様
あなたの気持ちを聞き、とても悲しく思いました。
それはあなたが恵子ちゃんを好きだということにではありません。
あなたが私やお父さんのことを考え、
恵子ちゃんへの気持ちを我慢していたことにです。
あなたには子供の頃から負担ばかりかけてしまいました。
経済的にも、精神的にも。
あなたは私たちの前では決して顔にも態度にも出さなかったけれど、
心の中ではとても辛い思いをしてきたのだと思います。
欲しいものも買わず、友達との付き合いも控え、
あなたはいつも笑顔でいてくれました。
ごめんなさい。甘えてしまってごめんなさい。
でもその上、恵子ちゃんへの気持ちまで押し殺してきたなんて。
私は自分が情けなくて仕方ない。
いつだったか、あなたと恵子ちゃんが結婚したら、なんて話をした時、
あなたの態度から私は冗談だと思っていました。
あなたの本当の気持ちに気づきませんでした。
本当にごめんなさい。
あなたにそんな考えを抱かせてしまって。
でもね。
親というものは子供の幸せを第一に考えるものなのです。
いつもあなたに迷惑ばかりかけてしまい、親として失格な私でも、
いつまでもあなたの親でありたい、そう思っています。
こんなことを言える資格はないけれど、
あなたがうれしいと、幸せだと思える決断をしてください。
あなたが決めたことは、きっと私にとってもうれしいことだと思っています』
冷めた紅茶に一口も口をつけず、何度も読み返した。
母の手書きの文字に、胸がいっぱいになった。
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695 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:02:41
時間となり、新幹線に乗り込む。
発車後、何分か経った時、恵子ちゃんの実家の近くが車窓に映った。
(親父も…そう言ってくれるだろうか…)
様々な感情が綯い交ぜとなっていたが、向いている方向はひとつだった。
横浜に戻ると友枝から結婚式の招待状が届いていた。
(順調だな)
並び立つふたりの姿を微笑ましく思い浮かべながら、
今夜の仕事のために身支度を整える。
家を出、近所のポストに返信葉書を投函した。
もちろん、“出席”にマルをして。
696 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:03:28
7月。
結婚式に出席するため、職場に休暇申請を出した。
式は8月に入ってすぐ。
お盆休みを避けた日程だったため、許可はすんなり下りた。
一週間の休み。
目的は結婚式と…もうひとつ。
俺は親父に電話を入れた。
「ずいぶんとご無沙汰じゃないか、おい!この薄情者!!」
親父の声は弾んでいた。
「いつも電話を返さなくてごめんな」
「ん、若いうちはそんなもんだ。気にすんな」
「8月、帰省するよ。そん時、メシでも食わないか?」
「おお!わかった!待ってるぞ!」
…自分の都合だけで連絡をとったりとらなかったり。
親父のうれしそうな声に罪悪感を覚えた。
そして8月はすぐにやってきた。
697 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:04:29
考えてみると、俺は新幹線の中でいつも考え事をしている。
今日のテーマは“親父への告白”。
恵子ちゃんのことを、親父に打ち明ける。
…でも、なんて言ったらいいんだろ。
いや、ストレートに言えばいいじゃないか。
ああ、こんなに悩むんなら電話で話した時に言えばよかった。
いや、こういう大事なことは、会って、顔を合わせて言わないと。
でも、親父の顔を見ながら言えるのか?
そしてなんて言えばいいんだよ?
…エンドレス。
太田家ではお父さんと母と義妹が俺を迎えてくれた。
いつものように和やかな宴会。
母もいつもどおりの笑顔だった。
お開きとなり、義妹が帰った。
お父さんは珍しく酔い潰れてしまった。
寝室に連れて行き、母の片付けを手伝う。
食器を運び、台所の母にバトンタッチする。
ふと手を休め、母の背中に言った。
「明日、親父に会うよ」
洗い物を続けながら、母が顔だけをこちらに向けた。
「そう」
笑顔だった。
「うん」
本当は『ありがとう』と言いたかったのだが、片付けに戻った。
698 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:05:32
翌日の夜、親父に指定されていた店へ向かった。
そこは親父のアパートから程近くにある小料理屋。
中年夫婦だけで切り盛りしているこじんまりとした店で、
よく親父が晩飯に利用していた。
俺も2~3度、一緒に来たことがある。
(ここなら落ち着いて話ができるな)
親父は仕事で少し遅れていた。
カウンターで持て余していた俺に、
顔を憶えていてくれた旦那さんがビールとつまみを出してくれた。
今日は暑かったからビールが美味い!…はずなのだが、冷たいだけで味がしない。
俺は緊張していた。
この期に及んでもまだ、これからの行動に自信が持てなかった。
ほどなく親父がやってきた。
俺の姿を認めるや、ニコニコとした笑顔で向かってくる。
俺は顔を背けた。
「大将!奥、いいかい?」
旦那さんの快諾を得、カウンターから奥の小上りへと移動した。
「女将さん、憶えてるかな?俺の息子。今、東京で働いてるんだ」
オーダーをとりにきた女将さんに、嬉々として、誇らしげに俺の話をする親父。
(年とったなぁ…)
アーノルド・シュワルツェネッガーのような筋骨隆々の体躯は今も変わらないが、
頭髪はきれいに銀髪になっていた。
顔に刻み込まれたシワが、笑顔と共に一層目立った。
この笑顔が消えてしまうかもしれない話。
俺は今からそれをする。
くじけそうになる気持ちを、必死にささえた。
699 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:06:22
いつになく饒舌な親父と酒を酌み交わしつつ、二時間が過ぎた。
…未だ切り出せない。
だが突破口は他ならぬ親父が開いてくれた。
「この間、千夏と陽子から電話がきてなぁ」
千夏・陽子とは、亜矢(実妹)の娘たちのことだ。
「子供の日にオモチャ送ったから、その礼の電話だったんだけど」
親父の目尻は下がりまくっていた。
「年に一度くらいしか会わない俺に、じいちゃん、じいちゃん、ってなぁ」
「かわいいな」
「ああ…かわいい。…だけど、ちょっとさみしくなってしまった」
「なかなか会えないからか?」
「距離の問題じゃなくてな…所詮、あの子たちは他所様の内孫だ。
会いたくても、おいそれと頻繁に会うってわけにもいかないから、さ」
「そんなに遠慮しなくてもいいじゃんか。親父にとっても孫なんだから」
「そういうもんなのさ」
「ふーん」
「だからお前に期待してんだよ、俺は(笑)」
「ん?」
「いつになったら俺は内孫持てるんだ?(笑)」
「孫って…その前に嫁さん見つけなきゃいけないだろが」
「そうだよ、それだよ。見つけたのか?」
「………」
「なんだよ、浮いた話のひとつもないのか?」
「………あるよ」
「おお!?やっとこさ彼女できたか!!」
「いや、彼女ってわけじゃ…。ただ…好きな人がいるんだ」
降ってわいたキッカケに俺は飛びついた。
思いつくまま、恵子ちゃんのことを語った。
700 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:07:26
彼女との出会い。
彼女の人となり。
彼女に告白されたこと。
それを無碍にしたこと。
そして、
彼女が母の縁者であること。
何もかもを素直に、ありのまま、夢中でしゃべった。
気がつくと、親父はじっと下を見つめながら黙りこくっていた。
(あ………)
やはり…ダメか。
親父の表情は見えなかったが、
突き刺さる沈黙に俺の口も動くのをやめてしまった。
その瞬間だった。
どん、と俺の頭に鈍い痛みが走った。
親父が、身を乗り出して俺の頭にゲンコツを落としていた。
拳を引き、無言で親父が俺をにらみつけている。
何が起こったのかはわかっていた。
母の縁者に惚れた俺に、親父が激怒したのだ。
…と、思っていた。
しかし、ようやく吐き出された親父の言葉は、俺の理解したものとは違っていた。
701 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:08:23
「ばかやろが…お前はその歳になってもまだ、俺のゲンコツが欲しいのか!」
「………」
「お前の結婚は、お前の問題だろ?好きにすりゃいいだろうが!!」
「………え?」
「それを…俺と母さんのことで…そのコの気持ちまで踏みにじるなんて…!
…お前も俺も、情けねぇ!」
親父は怒っていた。
けれどそれは、優しい怒りだった。
「俺や母さんのことを心配してくれたお前の気持ちはうれしい。
だけどな、それは親孝行じゃあ、ないぞ。
お前は、お前のことだけを一番に考えてくれればいい。
お前が選んだコなら心配はない。
こう見えても俺、お前のこと信用してるんだぞ(笑)」
鼻の奥が痛い。瞼が熱くなった。
「健吾、しあわせになってくれ」
とどめ。もう耐えられない。
「泣くな馬鹿。いい歳こいて(笑)」
小さな店でよかった。
この顔はとてもじゃないが人前に出せない。
がびがびになった顔を隠しながら店を出た。
702 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:09:14
親父のアパートまで数百メートル、ふたりで歩いた。
さっきの余韻が抜け切れなくて、俺は一言もなかった。
親父は口笛を吹いていた。
ふいに、親父が俺の頭を撫でた。
「な、なんだよ!?」
「痛かったか?」
「ん?ああ、…ああ(笑)」
「ふふん…ばかやろ(笑)」
「うん(笑)」
「母さんも、賛成してくれたんだよな?」
「うん。同じようなこと言われた」
「そうか。…今度、彼女に会わせろよ」
「うん、もちろん」
「…といっても、もうお前、彼女に見限られてるかもしれんな(笑)」
「やっ、やなこと言うなよ!」
「ふふ。早めに会えよ」
「うん」
親父がまた口笛を吹き始めた。
親父が部屋に入っていくのを見届けた後、表通りに出てタクシーを拾った。
乗り込むや否や、どっと倦怠感が押し寄せる。
だが心地よい気だるさだった。
そっと、頭のてっぺんに手を当てた。
…膨らんでる。
恐るべし、アーノルド。
もうすぐ還暦を迎えるというのに。
じわじわと、小さな痛みを自覚した。
笑いがこみ上げてくる。
(30過ぎて…親父の鉄拳制裁を食らうとはな)
高校の時以来のこの痛みが、大切なものに思えた。
703 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:10:05
太田家に帰ると母がまだ起きていた。
待っていたのだと思う。
「おかえり。…お父さん、元気だった?」
「うん」
「そう。…で?」
「話したよ」
「うんうん。それで?」
「怒られた。んで、殴られた」
「え!?」
「俺のことなんて心配してんじゃねぇ、って」
「ああ…なんだ、びっくりしたぁ。…そっか。そっかぁ!」
緊張していた母の顔が緩んだ。
「よかったねぇ」
「うん…ありがとな」
母が笑顔で頭を振った。
出されたお茶をしみじみすすっていたら、母がいつもの軽口に戻った。
「でもさ」
「うん?」
「恵子ちゃん、もう彼氏できてたりして(笑)」
親父と同じようなことを言う。
いや、そんなこと………あり得る、あり得るよなぁ。
にわかに不安感が湧いてくる。
無意識に湯呑みを握り締めていた。
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704 名前:1 ◆6uSZBGBxi 投稿日:2006/04/29(土) 16:10:53
翌日は昼近くに起きた。
お父さんも母もとっくに仕事に出ていた。
居間のテーブルの上に母のメモ書きがあった。
『ごはんはテキトーに』
考えてみれば今日はまだ平日。休みなのは俺だけ。
ちょっとした解放感に、スキップしながら台所へ行った。
冷蔵庫を漁り、朝飯にありつく。ついでに缶ビールも失敬。
昼間のアルコールはよく効いた。
寝転がってテレビを観ながら、贅沢な閑暇を味わった。
ふと女性タレントに目がいった。
以前から恵子ちゃんに似ていると思っていたタレントだった。
親父と母の予言(?)が脳裏をよぎる。
がばっと跳ね起き、携帯を手にとった。
(昼休みだよな)
1…2…3…4…。
10コールを数えても恵子ちゃんは電話に出なかった。
留守電に繋がる。
けれどメッセージは吹き込まなかった。
1時間後。
また恵子ちゃんの携帯に電話した。
(もしかしたら、休憩は1時からかも)
あきらめが悪い。
しかし結果は同じだった。
缶ビールは5本目に入っていた。
悲観的な考えばかりが頭に浮かぶ。
明らかに酔いが手伝っていた。
(夜にしよう)
昼寝した。