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参照元:大阪梅田で人骨1500体超発見 江戸末期から明治期、庶民を埋葬
大阪市教育委員会と市文化財協会は13日、JR大阪駅近くの大深町遺跡(大阪市北区)で、江戸時代末期から明治時代の1500体を超える埋葬人骨を発見したと発表した。付近は大阪に7カ所あった大坂七墓の一つ「梅田墓」で近松門左衛門の「曽根崎心中」にも登場するという。
大庭重信・市文化財協会東淀川調査事務所長は「これほど多くの人骨が見つかるのは珍しい。埋葬されたのは都市を支えた庶民。当時の埋葬の風習や生活環境を明らかにする手掛かりになる」と話している。
副葬品が多くないことから庶民の墓とみられるが、子供や30代ぐらいの若い人の骨、病変がある骨も多い。
※大坂七墓…江戸時代、大阪には7つの墓地が存在し、「梅田墓」はそのうちのひとつ。ほかにミナミの千日前や京橋などにもあったとされ、当時は7つの墓を、かねを打ちながら念仏を唱えて歩く「七墓(ななはか)巡り」と呼ばれる行事もあった。
大阪七墓について wikiより
大阪七墓(おおさかななはか)は、江戸時代から明治時代初期にかけて大阪(大坂)の町の周辺にあった7か所の墓地の総称。
概説
松平忠明の治世から、大坂夏の陣によって戦災を被った大坂市街に、復興を兼ねた都市改造が行われた。そのひとつとして、軍事的な配慮のため市内に散在していた墓地を、大坂市街の外縁部に整理集約する施策が行われた。阿波座、渡辺、津村、上難波の墓地を千日前墓地に、上町台地の諸墓地を小橋墓地(現在の天王寺区城南寺町)に統合し、天満の墓地は梅田墓地、浜墓地、葭原墓地に分割統合された。のちに蒲生墓地、鳶田(飛田)墓地を加えて「大阪七墓」と呼ばれるようになった[1]。ただし、選定される墓地は時代によって諸説がある[2]。1874年(明治7年)に市中の墓地は長柄、阿倍野、岩崎新田の3か所に再編され、現在大阪七墓の形跡を止めているのは、南浜と蒲生墓地のみである。
貞享・元禄から明治時代初期までの大坂では、盂蘭盆会に七墓を巡拝して無縁仏を供養することで功徳を得る七墓巡りが流行した。七墓巡りは数人のグループで鉦や木魚を叩いて夜通し墓地を念仏回向するもので、信心の篤い人以外にも肝試しなど娯楽の一種として人気があり、近松門左衛門などの上方文芸にもその様子が窺われる[2]。七墓巡りは起点も順路も決まっておらず、大阪七墓以外の近所の墓場を巡った場合もあった[1]。