スポンサーリンク
『毒 前編』2/5の続き
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12804805
3 科学的検査を信じろ
僕と師匠は、西沢が去ったあと、大学へ向かった。師匠の提案で、この小瓶の中身が本当に水なのか、確認したほうがいいということになったのだ。
それもそうだった。そうなると、液体の検査ができる研究室があるところ、ということになる。
僕が、薬学部に知り合いがいます、と言うと師匠は首を振った。
「医学部と薬学部は、ヤクモのテリトリーだ」
学生に頼むのだから、そこまで警戒しなくても、と思ったが、師匠はあくまでも却下した。
「理学部に行こう。頼めるあてがある」
医学部と薬学部は、別キャンパスだが、理学部は僕らの通う同じキャンパスにある。ヤクモ製薬のテリトリーとは物理的にも離れているので、安心感があった。
「それにしても、なんなんでしょうね、これ。Cっていう名前に聞き覚えはありますか」
「さあな。名前は知らないけど、なんだか変なクスリが密かに流行ってるってのは、聞いたことがあったような気がする」
「僕は初耳ですよ」
僕はドラッグなんかとは縁のない人生を歩んできた。高校でシンナーを吸っているバカはいたが、いわゆる不良校ではなかったので、そんなやつも稀だった。やっていても、せいぜい煙草くらいか。
僕は師匠がマリファナをやったことがあると聞いて、驚いていた。ただ、興味本位で試してみた、というのには、妙に納得してしまう部分もあったが。
理学部棟に着くと、白衣を着た学生たちのあいだを縫って歩き、僕らは分子生物学の研究室を訪ねた。そこの男性講師で、師匠が懇意にしている人がいたのだ。
師匠は本当に、いろんな学部、学科に顔が広い。いや、広いというか、ポイント、ポイントでキーマンを抑えている感じだ。
研究室で、バナナを食べながらテレビを見ていたその講師は、そうは見えなかったが、「忙しいのにな」と、ぶつぶつ言いながら、小瓶の中身を調べてくれた。プレートに水滴を落として、顕微鏡で見るのかと思っていたら、思いのほか、大げさな装置を使っていた。
結果は、水。それも、塩素などを含まないため、水道水ではなく、カルシウムやマグネシウムなどのミネラルも含まない、純水だという。
「蒸留水だろうね。水を沸騰させて、水蒸気から液体に戻したものだ。僕らは洗浄や溶媒で使うから、業者から買っている。20リットルで3000円くらいかな」
講師はバナナの残りを食べながら、もぐもぐと説明してくれた。
「なにか、少量でも、おかしな成分は入ってなかったですか?」
「おかしな、って言われてもねえ。そこまで精密に調べるとなると、ここじゃあ設備が足りないし、ノーマネーじゃあ無理だよ。でもまあ、僕ら、これなら純水として、普通に実験用にも使うよ。なにか入ってたって、影響しないレベルだよ」
そう断言するのだ。専門家がそう言うのだから、僕らはとりあえず納得するしかなかった。
理学部棟をあとにして、いつもの学食で作戦会議をすることにした。
「モグモグ。とりあえず、噂をさぐってみるか。実際に買って飲んだってやつが見つかればいいけど」
「でも、ただの水だったんでしょ」
「だから、松浦だって最初からそう言ってただろ。ていうか、あいつ飲んでたし。ただの水なのに、どうして売人からドラッグを買うみたいな形で、出回ってるんだよって話。それもさあ。モグモグ。こんな小さいので千円だぜ。千円。このカレーが何杯食えるんだっての。なにかあるんだよ、裏が」
「Mサイズなら4杯食えますね」
「Lなら3杯だ。よし、手分けして探ろう」
僕らはいったん別れて、聞き込みに回ることにした。僕も2本ある小瓶のうちの1つを、預かった。さっき検査で使ったほうなので、少し減っている。
僕はとりあえず、自分の研究室に行った。最近師匠とばかりつるんでいて、こっちに顔を出してないので、多少気まずかったが、しかたがない。午後の講義が終わって、ダラダラしている連中に声をかけた。
「Cってクスリ? 知らないなぁ」
だれも、おおむねそんな反応だった。ついで向かった、同じく最近足が遠のいて久しいサークルでも、似たようなものだった。だが、ここでは、知り合いから聞いたことがある、という男が1人いた。このクスリなのかは自信がないけど、と言っていた。後輩の1回生だったので、飯をおごるから、その人に会わせてくれ、と頼むと、なんとか承知してくれた。
大学近くのファミレスで落ち合うと、知り合いとはそいつの彼女だった。コートを着ていたが、その下はブレザーだったので、高校生だというのはすぐわかった。
この野郎、高校生なんかとつきあってるのか。あまり話したことのない、ヒョロヒョロとしたモヤシみたいな後輩だったが、人はみかけによらないものだ。
「コレコレ。これあたし、買ったやつ」
ミサキちゃんというその高校生は、濃い化粧をしていたので予想されたことだが、平均的な女子高生と比べて少々軽そうな子だった。
「どうしてこれを買おうと思ったの」
「なんか、ガッコの友だちが先輩から聞いたって。なんかね、面白い夢を見るクスリなんだって。なんか面白そうじゃん」
「どこで、どんなやつが売ってたんだ」
「友だちから聞いたとおりに、白町で夜にウロウロしてたら、狭い道で変なお面被った人がいたの。黒いマント着てて、不審者丸出しのやつ。絶対こいつだーって、思って声かけたら千円だって」
「言ったの? 男の声だった?」
「喋ってはないよ。こうやって1本立てたの。人差し指を。まさか1万円なわけないじゃん。てか、そんな持ってないし。千円出したら、これくれたの」
「どんな仮面だった?」
「夜店で売ってるみたいなやつ。なんかのアニメのキャラ。あたしアニメ見ないから、よく知んないけど」
アニメ……。それを聞いて、なんだか、ガックリきてしまった。ずいぶん軽いなあ。これはどうも、僕と師匠が想像したやつとは違うらしい。
「で、それ買ってどうしたの」
「飲んだよ。普通の水みたいだった」
よくそんな怪しいやつから買ったものを飲めるなあ。そういう感想を抱いたが、面と向かってはつっこまなかった。貴重な体験者なのだ。と思っていたら、彼氏のほうがつっこんでいた。
「危ないよ。そんなことしちゃ。ていうか、まさか、クスリとか買ったことあるの?」
「ないよー。1回もないし。友だちに誘われて、葉っぱ吸ったことあるだけ」
「ちょっと待って、葉っぱってなに。大麻? 大麻なの? だめだよミサッち、まじでそんなのやったの? ウソでしょ」
「うっさいなぁ。いいでしょ別に」
そんなやりとりをしばらく見せられたあとで、ようやく続きを聞けた。
「飲んだけど、なんにもなかった」
「なかった? 夢は見なかったのか」
「うーん、よくわかんない。見たと思うけど、あんまり覚えてない。普段見てる夢と変わんなかったんだと思うよ。まじ金返せって感じ」
そんなこんなで、ファミレスで2人分のメシをおごったにもかかわらず、たいした収穫は得られなかった。ただ、そういう噂が現実にあり、実際に売っているやつも実在した、ということはわかった。それだけでも、まあ一歩前進だろう。
次の日、僕は師匠の部屋に行った。
「買った人の話を聞けましたよ」
一応の成果を話したが、師匠のほうは3件も当たりを引いていた。だいたいこうだ。こういうので、勝ったためしはない。
それどころか、師匠は小瓶が1つ増えている。
「1人は、買ったけど気持ち悪くて捨てたらしい。もう1人は、なんとなくそのまま置いていたそうだ。千円で譲ってもらったよ。それがこれ。同じだろ」
「そうですね」
手に取ってみたが、松浦から預かったものと、まったく同じ小瓶だった。
「最後の1人は飲んでみたそうだ。女の子なんだけど、南の島のリゾートに行く、楽しい夢を見たって。普段そういう、願望のかなうような夢を見たことがないから、夢が変わる、という噂は本当だったって思ったそうだ」
「はあ」
ずいぶんかわいらしい夢だ。
「ということで、お前、これ飲め」
師匠は、小瓶を僕に、ずい、と近づける。
「ちょ、ちょっと待ってください。え、これ僕が飲むんですか」
「ただの水なんだから、いいだろ」
「ただの水じゃないかも知れないから、こんな大げさなことやってんでしょ」
「科学的検査を信じろ。母校が誇る理学部の検査結果を。あのバナナ講師、ああ見えて、こないだ溺れた子どもを助けて、表彰されてんだ」
「本業で表彰されてないし」
「いいから」
「ただの水なら、飲む意味もないでしょ」
「詭弁か。私に詭弁で勝負を挑むのか、コラ」
「正論ですよ」
「正論もスリランカもあるか」
…………
スポンサーリンク
小一時間の激闘の末、言い負かされた僕は、覚悟を決めて、小瓶の水を飲んだ。
無味だ。ミネラルウォーターとも、もちろん水道水とも違う、なにも感想がわかないような味だ。
「飲みました。水ですよこれ」
「じゃあ、寝ろ」
師匠は布団を敷きはじめた。
「いま寝るんですか」
「そうだ。ハッシャバイ歌ってやっから」
「観察されながら寝られませんよ」
「お前、前に私の寝言記録しながら、一晩中私の寝顔見てただろうが。いやらしい」
「命令でやったんじゃないですか」
そんなこんなで、僕は横になり、しばらく師匠の子守唄らしきものを聞いていると、いつのまにか眠ってしまった。
夢を見た。
野良猫が屋根の上のひなたで、寝転んでいる夢だ。それを見ている僕の視界が、ずっと上下にブルブルと震動している。なんだよこれ、と思って、まわりを見ると、あたりの家がどれも上下に小刻みに震えていて、街じゅうが揺れているようだった。そのなかを、だれも気づかずに人々が歩いていく。
これは、街が揺れているのか、それとも僕の視界が揺れているのか。どっちなんだろう。
そう思っていると、目が覚めた。
師匠の顔がすぐ目の前にあった。
「うわ」
「起きたか」
「なんですか」
「まぶたが痙攣してたからな。夢を見てたろ。つっついて起こしたんだ。いまならはっきり覚えてるだろ」
「はあ」
僕は、見た夢を説明した。変な夢だが、どうということもない内容と言えば、そうだ。
「そういう、視界が揺れるようなパターンの夢を見たことは?」
「ないです」
「夢が変わった、ってわけか」
なんとも地味な結果だ。千円の価値があったのだろうか。師匠も渋い顔をしている。
「売ってるやつをとっ捕まえるのが、一番手っ取り早そうだな」
時計は夜の12時を回ったところだった。ちょうどいい時間だったので、それから2人で、白町という繁華街へ向かうことにした。
サークルや、研究室に足が遠のいてから、あまり飲み会に縁がなかったので、白町へ来るのも久しぶりな感じがした。夜中の12時を回ってもまだまだ人通りが多く、すでにできあがった酔客たちが、次の店を探してウロウロしていた。
ここは、師匠とはじめて出会った場所でもあった。あのとき、師匠はジャージを着て、不機嫌そうな顔で歩いていた。そのうしろを、無数の人ならざるものたちが列を成してついて歩いていた。あんな光景は、いまでは見られない。あのときの師匠は、右の頬から、光る粒子を涙のようにこぼしていた。息が詰まるような、はかない光だった。その跡が、川のようにかすかな光の帯をつくり、霊たちがそれにそって歩いていた。
師匠はなにか変わってしまったのだろうか。僕はあのときの彼女を、自分と同じ人間には思えなかった。それほど、幻想的ななにかに思えたのだ。
いまはどうだ。目を閉じると、あの光の雫が、刻一刻と失っていく力を現しているように思える。それが尽きたとき、彼女になにが起こるのか。僕はそれを考えるのが恐ろしく、そして悲しかった。
「いねぇな」
しばらく歩いていたが、どの路地にもそれらしい人影はなかった。かなり外れのほうまで探索したが、結果は同じだった。
もう今日は諦めようか。そういう雰囲気になったとき、師匠がぽつりと言った。
「霊もいねぇ。繁華街には、よく集まるのに」
そういえば、師匠と出会ったとき以外にも、僕はこのあたりで何度も霊を目撃している。
あれから師匠と恐ろしい体験を繰り返し、さらに霊感が上がっているのに、いまは霊らしきものの姿はまったく見えなかった。そういえば、師匠は以前から、明かりのないランプを手に、「幽霊はいないか」と言って街を練り歩く、ディオゲネスごっこという悪趣味な試みをしていた。
そうして挑発をして、自分の家に霊を呼び寄せようというのだ。実際に、師匠の家には、よく幽霊やおかしなものたちがやってきていた。
それが、ここ最近、めっきり減っている気がする。
「弓使いが、倒して回ってたりして」
僕はそんな軽口を叩いたが、師匠は首を振った。
「あいつが狙う悪霊なんて、そうはいない。このへんにいるのは、ほとんどは人畜無害な霊だよ。ただ彷徨っているだけの。かわいそうな存在だ。それが、こうして消えている。なぜだ」
そう言って、キョロキョロとしながら歩いていると、居酒屋と、シャッターの閉まった文具店のビルのあいだの狭い路地に、師匠がなにかを見つけた。
「おい」
僕は、仮面の男が現れたのかと思って緊張したが、暗がりのなかに、それらしい姿はない。だが、師匠の指差す先には、うっすらと、だれかの足のつま先が見えた気がした。その上には、人の体は乗っていない。うつろな足だけがたたずんでいる。
こういうものが最近増えていると、師匠から聞いたことがあった。そのとき、師匠は続けて言ったのだ。「食われてんだよ」と。それを思い出した。
師匠はいまにも消えそうな足の先の前に座り込み、しげしげと観察していた。
僕はなんとも言えない胸騒ぎがした。師匠。やっぱりまずいですよ。これは。
そんな言葉を飲み込む。空を見ると、月が明々と出ていた。その月に、見下ろされているような気がした。