師匠シリーズ

【師匠シリーズ】<完全版>書籍版 田舎 その1「田舎への招待」

※未完で終わっていた「田舎」の完全版です。

●田舎〈1〉 【田舎への招待】

大学1回生の秋。
そのころ、うちの大学には試験休みというものがあって、夏休みのあとに前期試験があり、そのあとに試験休みがくる、というなんとも中途半端なカリキュラムとなっていた。
夏休みは我ながらやりすぎと思うほど遊びまくり、実家への帰省もごく短い間だった。
そこへ降ってわいた試験休みなる微妙な長さの休暇。俺はこの休みを、母方の田舎への帰省に使おうと考えた。高校1年のときに祖母が亡くなって、そのときには足を運んだが、まともに逗留するとなると中学生以来か。母の兄である伯父も、「一度顔を出しなさい」と言っていたので、ちょうどいい。
その計画を、試験シーズンの始まったころにサークルの先輩になんとなく話した。
「すごい田舎ですよ」
とその田舎っぷりを語っていたのであるが、ふと思い出して、小学生のころにそこで体験した「犬の幽霊」の話をした。
夜中に赤ん坊の胴体を咥えた犬が家の前を走り、その赤ん坊の首が笑いながらあとを追いかけていくという、なんとも夢ともうつつともつかない奇妙な体験だった。
先輩は「ふーん」とあまり興味なさそうに聞いていたが、俺がその田舎の村の名前を出した途端に身を乗り出した。
「今、なんてった?」
面食らって復唱すると、先輩は目をギラギラさせて、「つれてけ」と言う。
俺が師匠と呼び、オカルトのいろはを教わっているその人の琴線に触れるものがあったようだ。
伯父の家は大きいので1人2人増えても大丈夫だったし、おおらかな土地柄なので友人を連れて行くくらい、なんでもないことだった。
「いいですけど」
結局師匠を伴って帰省することとなったのだが、話はそれだけでは終わらなかった。

試験期間中にもかかわらず、俺は地元のオカルト系ネット仲間が集まるオフ会に参加していた。
そんな時期に試験があるなんてウチの大学くらいなわけで、フリーターや社会人が多いそのオフ会は、お構いなしに開かれた。それなら参加しなければいいだけの話のはずだが、オカルトに関することに触れている時間がなにより楽しかったそのころの俺は、あたりまえのようにファミレスに足を運んだ。その後の2年間の留年の契機が、もう始まっていたと言える。
「試験休みに入ったら、母方の田舎に行くんですよ」
そこでも少年時代の奇妙な体験を披露した。しかし、「子どものころの話」というフィルターのためか、オカルトマニア度の高い方々のハートにはあまり響かなかったようだ。
やがて、そのころホットだった心霊スポットであるヒャクトウ団地への突撃計画へ話が移っていった。ところがそれを尻目に、ある先輩がつつッと俺の隣へやってきて「おまえの田舎は四国だよな」と言う。
オフでも「京介」というネット上のハンドルネームで呼ばれる人で、ハッとするほど整った顔立ちの女性だった。俺はこの人に話しかけられると、いつもドキドキしてしまう。
「そうです」と答えると、真面目な顔をして「四国には犬にまつわる怪談が多い」と言った。
そして「おまえの故郷は犬神の本場だ」と、俺の肩をバンバンと叩くのだった。
「犬神ってなんですか」という俺の問いに、紺屋の白袴だと笑い、「犬を使って人を呪う術だよ」と耳元でささやいた。ヒャクトウ団地突撃団の怪気炎が騒々しかったためだが、耳に息がかかって、それがどうしようもなく俺をゾクゾクさせた。
田舎はどんなところだと訊くので、先日師匠にしたような話をした。
そして村の名前を口にした瞬間に、まるで先日師匠の再現のように身を起こして、「ほんとか」と言うのである。
これには俺のほうが狐につままれたような気持ちで、誘うというよりなかば疑問系に、「一緒に行きますか」と言った。
京介さんは綺麗な眉毛を曲げ、「うーん」と唸ったあと、「バイトがあるからなあ」とこぼした。
「コラ、おまえらも行くんだぞ、ヒャクトウ団地」
ほかのメンバーから本日のメインテーマを振られ、その話はそこでうやむやになってしまった。
けれど俺は見逃さなかったのだ。「バイトがあるから」と言った京介さんが、そのあと突撃団の輪に背を向けて小さなスケジュール帳をなんども確認しているのを。
京介さんはたぶん、行きたがっている。バイトがあるのも本当だろうが、なかば弟分とはいえ、男である俺と2人で旅行というのにも抵抗があるのだろう。いや、案外そんなことおかまいなしに「いいよ」とあっさり承知するような人かもしれない。
「一緒に行きますか」などとサラリと言えてしまったのも、そういうイメージがあったからだ。
ともかく、あとひと押しだという感触はあった。一瞬、2人で行けたらなあ、という楽しげな妄想が浮かんだが、師匠も来るのだということを思い出し、残念な気持ちになった。急に死なないかな、あの人。
しかし、師匠と京介さんというコンビの面白さは実感していたので、これはなんとしても2人セットで来させたい。ところがこの2人、水と油のように仲が悪い。
そこで一計を案じた。
オフ会が終わったあと、散会していく人のなかからkokoさんという、その集まりの中心人物をつかまえた。彼女も俺と同じ大学だったが、試験などよりこちらのほうが大事なのだろう。そして彼女は師匠の恋人であり、京介さんとも親しい仲であるという、まさに味方に引き入れなければならない人だった。
kokoさんはあっさりと俺の計画に乗ってくれた。むしろノリノリで、ああしてこうして、という指示まで俺に飛ばし始めた。
簡単に言うと、師匠には「師匠、俺、kokoさん」の3人旅行だと思わせ、京介さんには「京介さん、俺、kokoさん」の3人旅だと思わせるのだ。当然バレるが、現地に着いてしまえばなし崩し的にどうとでもなる。つまり、いつもの俺の手口なのだった。
翌日、kokoさんから、「キョースケOK」とのメールが来た。
同じ日に、「なんか、一緒に来たいって言ってるけどいいか?」と、kokoさんの同行を少し申し訳なさそうに師匠が訊ねてきた。もちろん気持ちよく了承する。これで里帰りの準備が整った。
そして試験のデキはやはり酷いものだった。

俺と師匠は南風という特急電車で南へ向かっていた。甘栗を食べながら、俺は師匠に「なぜ俺の田舎に興味があるのか」という最大の疑問をぶつけていた。
京介さんとkokoさんは1本あとの南風で来るはずだ。
師匠にはkokoさんに用事があり、少し遅れて来ることになっており、京介さんに対しては、俺は1日早く帰省して待っていることになっていた。
「う~ん」
と言ったあと、もう種明かしをするのはもったいないな、という表情で、師匠は俺の田舎に伝わる民間信仰の名前を挙げた。なんだ。そんな拍子抜けするような感じがした。
いざなぎ流は、子どものころから普通に聞く名前だった。別段、特別なものという印象はない。具体的にどんなものかと言われると説明に困るが、まあ困ったことがあったら、太(た)夫(ゆう)さんを呼んで拝んでもらう、というようなイメージだ。それは田舎での生活のなかに溶け込んで存在していたもので、怪しげなものでもない。
もっとも、一度か二度、小さいときになにかの儀式を見た記憶があるだけで、どういうものかは実際はよくわからない。
どうして師匠がそんなマイナーな地元の信仰を知っているのだろうと、ふと疑問に思った。京介さんもやっぱりそれに対して反応したのだろうか。
「それ、なんですか」
頬杖をついて、窓の外に広がる海を見ていた師匠の首筋に、紐のようなものが見えた。
「ア・ク・セ」
こっちを見もせずにそう言ったものの、師匠がアクセサリーの類をつけるところを見たことがない俺は首を捻った。俺の視線を感じたのか、胸元に手を当て、師匠はかすかに笑った。その瞬間、なんとも言えない嫌な予感に襲われた。
ガタンガタンと電車が線路の連結部で跳ねる音が大きくなった気がして、俺は理由もなく車内を見回した。いくつかの駅で停まったあと、電車はとりあえずの目的地についた。
「ひどイ駅」と開口一番、師匠は我が故郷の駅をバカにした。
駅周辺にある椰子の木を指さしてゲラゲラ笑う師匠を連れて街を歩く。
『遅れて』来るkokoさんを待つ間、昼飯を腹に入れるためだ。
途中、ボーリング場の前にある電信柱に立ち寄った。地元では、通の間で有名な心霊スポットだ。夜中、その前を歩くと電信柱に寄り添うように立つ影を見るという。見たあとどんな目に会うかという部分は、様々なヴァリエーションが存在する。
話を聞いた師匠は、「ふーん」と鼻で返事をして周囲を観察していたかと思うと、やがて興味をなくして首を振った。先に進みながら師匠を振り返り、「どうでした」と訊くと、Tシャツの襟元をパタパタさせながら「なにかいるっぽい」と言った。
なにかいるっぽいけど、よくわかんない。よくわかんないってことは、大したことない。大したことないってことは、よけいに歩いて暑いってことだよ。不満げにそう言うのだった。たしかに暑い日だった。本格的な秋が来る前の、最後の地熱が吹き上がってきているようだった。
師匠が、「サワチ料理が食いたい」と、まるでトルコに旅行した日本人がいきなりシシケバブを食べたがるようなことを言うので、昼から食べるものではないということを苦心して納得させ、2人で蕎麦を食べた。
アーケード街をぶらぶらと散策したあと駅に戻ると、ワンピース姿のkokoさんと、いつもと同じジャケット&ジーンズ姿の京介さんがちょうど改札を出てくるところだった。
「よお」と手を上げかけて、京介さんの動きが止まる。師匠も止まる。
と思ったのもつかの間、一瞬の隙をつかれて、俺はチョークスリーパーに取られる。
「何度引っかけるんだ、お前は」頭の後ろから師匠の声がする。口調が笑ってない。
「何度引っかかるんですか」
俺は右手を必死に腕の隙間に入れようともがきながらも、強気にそう言った。
向こうでは、踵を返そうとする京介さんをkokoさんが押しとどめている。俺とkokoさんの説明を中心に、師匠がよけいなことを言って京介さんが本気で怒る場面などを経て、実に15分後。 「暑いし、もういいよ」
という京介さんの疲れたようなひとことで、4人同行という状況が追認されることになった。
思うにこの2人、共通点が多いのが同族嫌悪となっているのではないだろうか。無類のオカルト好きであり、ジーンズをこよなく愛し、俺という共通の弟分を持ち、それからこのあとに知ったのであるが、2人とも剣道の有段者だった。
俺はよくこの2人を称して、磁石のS極とS極と言った。そのときもお互いの磁場の分だけ距離を置いていたので、その真んなかでkokoさんにだけ聞こえるようにそのたとえを耳打ちすると、彼女はなにを思ったのか、「2人とも絶対Mだ」とわけのわからない断言をして、俺にはその意味がその日の夜までわからなかった。
夜になにかあったわけではない。ただ、俺がそれだけ鈍かったという話だ。
ただ1つ、そのときに気になることがあった。さっき師匠にチョークスリーパーをかけられたときに感じた不思議な香りが、かすかに鼻腔に残っている。まさかな。そう思ってkokoさんを見たが、あいかわらずなにを考えているのかよくわからない表情をしていた。
そうしているうちに、車が駅のロータリーに着いた。作業着を着た初老の男性が車から降りて手を振る。伯父だった。バスなり電車なりで行けるよ、とあれほど言ったのに、「ちょうどこっちに出てくる用事があるき」と車で迎えにきてくれたのだった。
真新しい汚れのついた作業着を見て、そんな用事なんてなかったことはすぐわかる。久しぶりの俺の帰省が嬉しかったのだろう。俺が連れてきた初対面の3人と愛想よく握手をして、「さあ乗ったり乗ったり」と笑った。
ここから村までは車で3時間はかかる。車内でも伯父はよく喋り、よく笑い、その空気に包まれて、それまでの険悪なムードはひとまず影を潜めた。
日差しの眩しい国道を気持ちよく走り、俺は窓の向こうに広がる景色を眺めながら、来てよかったなあ、と気の早いことを考えていた。思えば、無類のオカルト好きが2人揃って俺の帰省についてくると言い出した事態の意味を、そのときもう少し考えてみるべきだったのかも知れない。
紺屋の白袴と笑われても仕方がない。俺は、俺のルーツでもある山間部の因習と深い闇を、知らな過ぎたのだった。
だがとりあえず今のところは、ひたすらに暑い日だった。

駅まで迎えにきてくれた伯父の車は7人乗りだったが、助手席に伯父の家で飼っている柴犬が丸まって寝ていたので、京介さんとkokoさん、俺と師匠という並びでそれぞれ中部座席、後部座席に収まっていた。
俺としては、その柴犬がまだ生きていたことにまず驚いた。
耳の形に見覚えのある特徴があったので、その子どもかと思ったのだが、「リュウ」本人なのだという。二十歳は確実に超えているはずだ。伯父にリュウの歳を訊くと、「忘れた」と言って笑うだけだった。
「こいつはドライブが好きでなあ、昔ゃよう連れてったもんじゃけんど、最近は全然出たがらんなっちょったがよ。今日は珍しい」
京介さんが頷きながら手を伸ばし、前の座席で寝そべっているリュウのお尻の辺りを撫でる。リュウはちらっとだけ視線を上げ、また静かに目を閉じた。京介さんは動物が好きらしい。
車は快調に国道を飛ばしていた。山間の道をひたすらに東へ進む。右手に川が現れて、ゴツゴツした巨大な岩が視界に入っては、すぐに後方へ飛び去っていった。
「なんちゃあないろう」
なにもないところだろう? そう言う伯父の言葉には変に飾ったところも、卑屈なところもなく、気持ちがよかった。
kokoさんが土地のことなどをあれこれと訊き、京介さんもいつになく口が滑らかだった。
伯父が言った冗談に師匠がやたらウケて笑い声を上げ、その余韻で、楽しそうに隣の俺の肩を叩きながら顔を寄せて、表情とまったく違う冷めた調子で、「ところで」と言った。
「僕が今見ているものを、伝えてもいいか」
俺にしか聞こえないくらいの小さなささやき声に、いきなり冷水をかけられたような気分になった。日差しの強かったはずの窓の外が急に暗くなり、国道のすぐ横を流れている川は闇に消えるように水面も見えなくなった。
辺りから音が消え、車のフロントガラスの向こうには黒い霧が渦を巻いている。やがて川沿いのガードレールの辺りに、凍りついたような青白い人の顔がいくつも並びはじめた。
暗くて首から下は見えない。顔だけがのっぺりと浮かび上がっている。男の顔もあれば女の顔もある。それも、大人が道路ぶちに立っているような高さのものもあれば、その半分の高さのもの、はるか見上げるような位置にあるもの、地面に落ちているもの、様々な顔が、しかしどれも無表情でこちらを見ているのだった。
そして無表情のまま、その顔たちはそれぞれ口をかすかに開いている。音もなく車の窓ガラス越しに視界は走り、手を伸ばせば届きそうな距離に、暗闇に浮かぶ顔がまるで上下にうねる様な連続体となって見えた。それぞれの口の形は、連続することによっていくつかの単語を脳裏に強制的に想起させようとしていた。
自分の心臓の音だけが響き、俺は暗い窓の外から目を離せないでいる。
「なにを吹き込んでるんだ」
京介さんのその声に、ふいに我に返った。世界に、音が戻ってきた。暗かった視界も一瞬のうちに霧が晴れたように元に戻り、アスファルトの照り返しが目に飛び込んでくる。
師匠がすぅっ、と近づけていた顔を遠ざける。
「別に、なにも」
それを聞いて、京介さんが師匠を睨む。
「あと三十分くらいで着くきに」伯父が能天気な声でそう言った。
京介さんが前に向き直ると、師匠はまた顔を寄せてきて、「怖いな、アイツ」と言う。
俺はさっきの体験を反芻して、どうやら「師匠が見ているもの」の説明を聞かされているうちに、まるで白昼夢のようにリアルな再構築を脳内でおこなってしまったと結論づける。もちろん、催眠術をかじっているという師匠のイタズラには違いない。
その師匠が、「僕の見ている世界はどうだった」と訊いてくる。
「あの顔はなんですか」とささやき返す。あの幻からは『拒絶』という確かな悪意が感じられた。
ところが師匠は、それをお化けとも、悪霊とも呼ばなかった。
「神様だよ」
塞の神。馴染み深い言葉で言えば道祖神。……そんな言葉が耳元に流れてくる。
「男の顔も、女の顔もあっただろう。双体道祖神といって、男女2対の道の神様だ。辻や道の端にあり旅人の安全を祈願すると同時に、村や集落といった共同体への異物の侵入を防ぐ役割を果たしている。たぶんこの道路沿いのどこかに石に彫られたものがあったはずだ」
「……異物ってなんですか」俺の問いに師匠は可笑しそうにささやいた。
「疫病とか悪霊とか、ソトからもたらされる害悪の源。鬼はソト、福はウチってね。幸いをもたらすものは歓迎し、災いをもたらすものは拒絶する。道祖神はその線引きをする、果断な性格の神様だね」
もちろんウチにいる者にとっては、なにも気にする必要のない、無害な神様さ。
師匠はそう言って嬉しそうに続ける。
「僕くらい、いろんなビョーキを持ってソトからやってくる人間は別だけど」
ビョーキ。ここでは、なんの隠語なのかすごく気になるところだったが、師匠は京介さんの鋭い視線を感じたらしく、また自分の座り位置に戻っていった。
車は国道から離れ、村道だか県道だかの山道へと入っていった。
窓の外いっぱいに広がる緑の木々を視界の端に捕らえながら、俺の頭のなかには、『僕の見ている世界』という単語が、へばりつく様に離れないでいた。
師匠はいつも、あんな底冷えのするような悪意のなかを生きているのだろうか。
伯父がまたなにか冗談を言ってkokoさんが笑い声を上げたとき、師匠がまた顔を寄せてきた。
「あんなに強いのは珍しい。これも土地柄かな」
車が、ようやく停まった。思ったより早く着いた。道がよくなったのだろうか。連れてこられたことしかない自分にはよくわからなかった。
「さあ降りとうせ」という伯父の声に、俺たちは外に出る。
見渡す限りの山のなかだ。目を上げると、谷を隔てた山向こうの峰はなお高い。思わず小さいころよくやった、「ヤッホー」という声を上げたくなる。
そして懐かしい伯父の家が、ささやかな石垣のなかの広い敷地に、昔のままの姿で建っていた。
それは子どものころは、「おばあちゃんの家」だった。高校1年生のときに祖母が亡くなるまでは。そのときの滞在は、葬式のために慌しく過ぎてしまって、あまり印象がない。
「ヘェヘェ」と疲れたような声を出して、リュウが足元を通り過ぎようとした。
ガシッと捕まえて、顔を両手でグリグリと揉む。
「こらお前、葬式ン時もいたか?」
されていることに関心がない様子で、吼えもせずに、されるがままになっている。
「あらあらあら」
という甲高い声とともに、家の玄関から布巾で手を拭きながら伯母が出てきた。
そのあとは、久しぶりに会った親戚の子どもに対するごく一般的なやりとりが続き、連れの仲間たちの紹介を終えて、ようやく俺は伯父の家の畳の上に尻を落ち着けた。
「みんなお昼は食べたが?」という伯母の言葉に頷くと、「じゃあ晩御飯はご馳走にしちゃおき、体でも動かしてきぃ」と言われた。
それに適当に返事をし、あてがわれた部屋に荷物を置くと、とりあえず大の字になって、車内でずっと曲げっぱなしだった足を思う存分伸ばす。さすがに田舎の家は広い。でも記憶のなかではもっと広かった。2階建てのその家は、大昔に民宿をしていたというだけあって、部屋の数も多い。俺たち4人全員に1部屋ずつあてがっても十分足りたのだろうが、男2女2ということで、2部屋を間借りすることにした。
「広れェー」と言いながら、師匠と2人でゴロゴロ転がったあと、廊下を隔てた女部屋を覗いた。
襖の隙間に片目を当てながら、「おい」「どっちが広い」「おい、こっちの部屋より広いか」などという師匠の声を背中で受け流していると、いきなりなかから現れた京介さんに、「死ね」と言われながら蹴られた。すごすごと部屋に戻ると玄関のほうから若い男の声が聞こえてきた。
近くの集落に住む親戚のユキオだった。
顔を見ると懐かしさがこみ上げてくる。子どものころ夏休みにこの家へやってくるたびに遊んだものだ。どうしてる、と訊くと、「役場で、しがない公務員じゃ」と、はにかんだように笑う。
そういえばたしか俺より2つ歳上だった。そうか。もう働いているのか。
「じゃ、今は昼休みじゃき、また晩にでも寄るわ」
ユキオはそう言って、家にも上がらずにスクーターにまたがった。
どうやら仕事に戻った伯父が、道ですれ違いざまに俺が来ていることを話したらしい。
時計を見ると、昼の3時をだいぶ回っている。ずいぶんと大らかな昼休みだ。
「さあ、これからどうしましょうか」
4人で集まって、なにをするか話し合った。じっとしていると背中に汗が浮いてくる。会議室の男部屋は窓を大きく開け放ち、クーラーなどつけていない。「らしき」ものはあるが、スイッチを押しても反応はなかった。
「泳ぎにいきましょう」
という俺の意見に、全員が賛成した。旅行に発つ前にあらかじめ、水の綺麗な川があるから泳げるような準備をしておいてくださいと伝えてあったので、一も二もない。少し山を下るので、伯父の家の車を借りた。
向かう先に着替える場所がないので、部屋で水着に着替え、服を羽織って出かけることにした。来たときとは別の、白いバンのハンドルを師匠が握り、ほかの3人が乗り込む。
蝉の声のなかを車は走り、くねくねと山道を下りていくと、やがて一軒の家の前に出た。
「ここに停めてください」
川の近くには車を停められそうなところがない。いつもこの家の敷地の端を借りて、停めさせてもらっていた。
暑い。蒸すわけではなかったが、とにかく日差しが強かった。サンダルに履き替えた足が気持ちいい。舗装もされていない田舎道を、「次暑いって言ったヤツ罰金」などと言い合いながら歩いていると、それなりに仲間らしく見えるのだから不思議だ。
つい数時間前に、「どうしてコイツがいるのか」と師匠と京介さん、ともに喧嘩腰だったのを忘れそうになる。わりとねちっこい師匠に対して、さっぱりしている京介さんの大人の対応が功を奏しているように思えた。
見通しのいい四つ辻に差しかかったとき、ふいに俺の前を歩いていた京介さんが、「アツッ」と言ってしゃがみ込んだ。
師匠が嬉しそうに、「今暑いって言った? 暑いって言った?」と言いながら振り返る。
「言ってない」
京介さんはすぐ立ち上がり、右足を気にしながら、なんでもないと手を振ってみせる。
kokoさんがどうしたのと訊き、京介さんは歩きながら、「なにか踏んだかも」と答える。
そんなやりとりのあと、数分とかからずに川にたどり着いた。
緑の深い渓谷のなかに、ひんやりとした水面がキラキラと輝いている。昔とちっとも変わらない、澄んだ水だった。
カラカラに乾いた大きな岩の上に服とサンダルを放り投げ、海パン姿になって玉砂利の浅瀬にそろそろと足を浸す。
冷たい。でも気持ちがいい。ゆっくりと腰まで浸かって、川の流れを肌で感じる。
師匠はというと、準備運動もそこそこに、いきなり飛び込んで早くもスイスイと泳いでいる。
女性陣は沢ガニを見つけたらしく、しばらくその辺りで足の先を濡らすだけだったが、俺が肩まで浸かるころ、ようやく羽織っていた服を脱ぎ、水着姿になって川のなかに入ってきた。
下流のほうから派手なクロールで戻ってきた師匠が、膝まで浸かった女性2人の前で止まり、水中から首だけを出してジロジロと眺めた挙句、「うーん」と唸ってからkokoさんのほうに向かって、右手で退ける仕草をした。
「もう少し、離れたほうがいい」
その言葉を聞いてきょとんとしたkokoさんは、おもむろに隣の京介さんのほうを見上げて、ついで足元まで見下ろし、芝居がかった様子でうんうんと頷いてから、どういう意味だコラというようなことを言って、師匠に向かって水を蹴り上げた。
そのあとしばらく、4人入り乱れての水のかけ合いが続いた。やがて俺は疲れて川から上がり、熱い岩の上にたっぷりと水をかけて冷ましてから、よいしょと座り込む。
ほかの3人は気持ちよさそうに、深さのある下流の辺りを泳ぎ回っている。俺も泳げたらなあ、と思う。完全なカナヅチというわけではないが、足がつかないところへは怖くてとても行けない。溺れる、という恐怖感というよりは、足がつかない場所そのものに対する潜在的な恐怖心なのだろう。
なにも足に触れるはずのない水深で、「なにか」に触ってしまったら……。
そう思うと、いてもたってもいられず、水から出たくなる。まして今、川の真ん中にだれのものともつかない土気色をした「手」が突き出ているのが見えている状況では、とても無理だ。
「手」に気がついたときにはかなりドキッとしたが、その脈絡のなさに自分でもどう反応していいのかわからない感じで、とりあえず深呼吸をした。
師匠たちの泳いでいる場所からさらに下流。岩肌の斜面から覆いかぶさるような藪が突き出ていて、その影が落ちている辺り。
どう見ても人間の手に見えるそれが、二の腕から上を水面に出して、なにかを掴もうとするように手のひらを広げている。師匠たちは気づいていない。俺は眼鏡をそろそろとずらしてみる。するとぼやけていく視界のなかで、その「手」だけが輪郭を保っていた。
ああ、やっぱりと、思う。
そこに質量を持って存在する物体であるなら、裸眼で見ると、ほかの景色と同じようにぼやけるはずなのだ。この世のものではないモノを見分ける方法として師匠に習ったのだったが、俺は夢から覚めるための方法として似たようなことをしていたので、わりと抵抗なく受け入れられた。
悪夢を見たときには、ほっぺたをつねって目を覚ます、なんていうやり方が効かなくなってきた中学生のころ、俺は、「夢なんてしょせん、俺の脳味噌が作り出した世界だ」という考えのもとに、その脳味噌が処理しきれないことをしてやれば夢はそこで終わると考えた。
夢から覚めたいと思ったら、本を探すのだ。新聞でもいい。とにかく俺が知るはずのないものを見ること。そして、そこに書いてある情報量がページを構成するのに足りないことを確認する。
本質からして都合よくできている夢なのだから、「本を読もう」とすると、それなりに本っぽい作りになっているかも知れない。しかし、中身は無理なのだ。世界を否定したくて文章を読んでいる俺と、世界を成り立たせるために一瞬で構築される文章、その2つを同時におこなうには脳の処理速度が絶対に追いつかない。そして、化けの皮が剥がれたように夢が壊れていく。そうして目を覚ますのは俺の快感でもあった。
それと同じことが、この眼鏡をずらす手法にも言える。
仮に途方もなくリアルな生首の幻覚を見たとして、ああ、これは現実だろうかと考えたとき、眼鏡をずらしてみる。すると、現実には存在しない生首だけは、ぼやけていく世界から取り残されたように、くっきりと浮かび上がる。
もし脳のなんらかの作用で、「眼鏡をずらしたら生首もぼやける」という潜在的な認識のもとに、生首もぼやけて見えたとしても、それは「その距離であればこのくらいぼやける」という正確な姿を示さない。必ずほかの景色とは「ぼやけ具合」が食い違って見える。それが一瞬で様々な処理をしなくてはならない脳味噌の、限界なのだと思う。
だが、幻覚はまた、夢とも違う。ああ、コイツは幻だと気づいたところで、消えてくれるものと消えないものとがあるのだ。
「うおっ」
という声が上がり、kokoさんとぶつかりそうになった師匠が立ち泳ぎに切り替える。
「川でバタフライするな」
そんなことを言いながらkokoさんのほうへ水鉄砲を飛ばす。そのすぐ背後には、水面から突き出た手。思わず師匠に警告しようとした。しかし、なにか危険なものであるなら、俺が気づいて師匠が気づかないなんてことがあるのだろうか。ならばこれはただの幻なのだ。
俺の個人的な幻覚を、他人が怯える必要はない。
けれど、なぜ今そんなものが見えるのか……。薄ら寒いものが背中を這い上がってくる。
師匠はなにも気づかない様子で再び平泳ぎに戻り、「手」から離れて上流のほうへやってくる。俺は「手」から目を離せない。
肘も曲げず、まるで1本の葦のように流れに逆らって留まっている。そこからなんらかの意思を感じようとして、じっと見つめる。ふいにkokoさんが川縁で声を上げた。
「これって、なんだろう」
そちらを見ると、水面からわずかに出っ張っている石にへばりつくように、白いものがある。近寄ってきた京介さんが無造作に指でつまむ。それは、水に濡れた紙のように見えた。
あっ、と思う間もなくその白いものが千切れて水に落ち、流されていった。指に残ったものをしげしげと見ていた京介さんが、「紙だ」と言う。
「目がある」
そう続けて、残された部分にあるわずかな切れ込みを空にかざした。
たしかにそこには2つぽっかりと穴が開き、それまるで生き物の目を象っているように見えた。「よくそんなのに触れるな」師匠がざぶざぶと川から上がりながら言う。
京介さんはなにも言い返さず、その白い紙を水に投げた。
紙は沈みそうになりながらも流れに乗った。全員の視線が自然とそこに向かう。
下流で、藪の影が落ちている辺りを通り過ぎるとき、あの「手」がもう見えないことに気がついた。まるで溶けるように消えてしまっていた。
持参していたタオルで体を拭いて、俺たちは河原を出た。冷たい川の水に浸かったことで、さっきまでのまとわりつくような熱い空気が嘘のように霧消して、涼しいくらいだった。
けれどそれも一瞬のことで、歩き始めるとすぐにまたじっとりと汗が浮き出てくる。
車に戻る前に寄り道をして、近くの商店でアイスを買った。店のおばちゃんは見知らぬ若者たちを不審そうに見ながらも、棒アイスを4本出してくれた。
そういえば今日は平日だ。まして若者の極端に少ない過疎の村だ。小さいころ、何度かここでアイスを買っただけの俺の顔を覚えていないのも無理はなく、よそ者が来た、と思っただけだろう。開いているのかどうかもよくわからない店が3、4軒並んでいるだけの商店街だった。
食べながら、帰ろうというみんなに、ちょっと待ってくださいと言いながら、俺は店のおばちゃんに、「この先の河原って、最近水難事故かなにか起きましたか」と訊いてみた。
おばちゃんは眉をひそめ、「最近はないねえ」とだけ言って、次の俺の言葉も待たず店の奥に引っ込んでいった。ああ、俺もすっかりよそ者なのだなぁと、少し寂しくなった。
そのあと、アイスをかじりつつ元来た道を歩きながら師匠が言う。「あの紙は幣だね」
「たぶん、そうです」と答えた。
神様や悪霊を象った紙人形とでも言えばしっくりくるだろうか。この村では、様々な儀式にその幣を使う。
「なんの幣だった?」
そう訊かれても遠目に見ただけだったし、目が2つ開いているというだけではさっぱりわからない。なにより、俺自身が幣について詳しくない。
「川ミサキか、水神かなあ」
師匠は自分で答える。どこで調べたのか知らないが、俺より知っていそうな口ぶりだ。
日が翳り始めた道をだらだらと歩いていると、さっきの四つ辻に差しさかった。すると、まるでさっきの再現のように京介さんが短い声を上げて道に屈み込む。
さすがに驚いて大丈夫ですかと様子を伺うと、手で押さえている右のふくらはぎから薄っすらと血が流れているのが目に入った。
kokoさんがしゃがみ込んで、「なにかで切った?」と訊いている。京介さんは首を横に振る。
切ったって、いったいなにで? 俺は周囲を見渡したが、見通しもよく、なにもない道の上なのだ。
カマイタチ。そんな単語が頭に浮かんだが、師匠が道の真ん中に両手をついて這いつくばっているのを見て、一瞬で消える。
目を輝かせて、まるでコンタクトレンズでも探すように土の上に視線を這わせている。
なにをしてるんですか。
その言葉を飲み込んだ。周囲の空気が変わった気がしたからだ。足元から、ゆらゆらと悪意が立ちの昇ってくるような錯覚を覚えて、身を硬くする。
「おい、よせ」
京介さんは羽織っている上着のポケットから小さな絆創膏を取り出してふくらはぎに貼り、立ち上がりながらそう言った。
師匠はそれが聞こえなかったかのように地面を食い入るように見つめて、呟く。
「なにか、埋まっているな、ここに」
心臓に悪い言葉が、俺の耳を撫でるように通り過ぎる。
京介さんが師匠に近づこうとしたとき、チリリンと耳障りな音がして自転車が通りがかった。泥のついた作業着を着込んだ中年の男性が、不審そうな目つきでこちらを見ている。
同じ方角からは似たような格好をした数人が自転車で近づいてきている。
四つ辻の真ん中で這いつくばっていた師匠は、なにを思ったかピョンと勢いよく立ち上がると、「腹減った。帰ろう」と言った。
俺は気まずい思いで道を開け、自転車たちをやり過ごす。通り過ぎたあとも、ちらちらと視線を感じた。
ヨソモノヨソモノ。そんな声が聞こえた気がした。
それも含めて、俺は早くここを立ち去りたかった。率先して元来た道へ進んでいき、民家のそばに停めてあった車に乗り込む。そこで、ようやく嫌な感じが収まった。
師匠は上機嫌でエンジンをかけ、ふたたび蛇行する山道を登り始める。kokoさんはなにを思ったか京介さんの絆創膏をつっつき、「痛いって」と怒られた。
(ほんとうに傷口があるのか確かめた)
助手席に身を沈めながら、後部座席のやりとりにふとそんなことを思う。ミラーにうつるkokoさんの表情からは、やはりなにも読み取れなかった。
伯父の家に帰ると、従兄妹のハツコさんが来ていた。伯父夫婦の長女だ。
年が離れていたのであまり印象は残っていないが、今は同じ集落の家に嫁いでいるらしい。
「今日は応援」と言って、小太りの体を機敏に動かしながら、伯母の炊事を手伝っている。
俺たちはというと、夕飯までの時間をそれぞれの部屋で過ごした。
ろくに泳いでいないのに俺はやたら疲れていて、ウトウトしっぱなしだった。
ほどなく茶の間に呼ばれ、大所帯での食事が始まった。近くの山で採れた山菜をふんだんに使った田舎料理は、実家の母が作るものより「お袋の味」がして、なんだか感傷的になる。
俺たち4人と伯父夫婦。ハツコさんとその小さな子ども。そして実にタイミングよく現れたユキオ。9人で囲む食卓だった。なにが凄いって、その人数で囲めるちゃぶ台があることだ。
「いまはもう、こんなでっかいのがいる時代じゃないけんどのう」と伯父は苦笑した。
この家にはあと1人、ジッサンと呼ばれるお爺さんがいるのだが、寝たきりに近いらしく食卓には出てこない。
ジッサンと言っても俺の祖父にあたる人ではなく、祖母の兄らしい。らしいというのは、会ったことがないからだ。身寄りがなくなっていたところを、この家で引き取ったそうだ。俺の足が遠のいてからのことだった。
「にゃあにゃあ」ユキオがひそひそと口を寄せてくる。
「どっちが彼女なが」
これには彼なりの期待も含まれているのだろう。京介さんkokoさんも一般的には美人の部類に入るだろうから。
「どっちも違う」
そう言うと、意外にも残念そうな様子で、「両方あの兄さんのか」とため息をつくのだ。
「片方だけ」と言ってやると、「ふーん」と返事をしながら肉系ばかりを箸でかき集めやがる。
そのとき、家の外に犬の遠吠えが響いた。
「あ、リュウの晩御飯忘れちょった」
そう言って伯母が腰を上げようとすると、ハツコさんが笑って先に立ち上がった。俺はふと思い出して、伯父に祖母の葬式のときにリュウがいたかどうかを訊いた。
「おらんかったかや」
伯父が首を傾げていると、伯母が手首から先を器用に折り曲げながら言う。
「ほら、ジッサンが捨てたあとじゃき」
伯父は「おう、あのときか」と言って、いきさつを話してくれた。
どうやらリュウは祖母の葬式の2ヶ月ほど前に「死んだ」のだそうだ。目をとじて動かないリュウを見て、まだ足腰がしゃんとしていたジッサンが、死んだ死んだと大騒ぎし、裏山の大杉の根本に埋めにいったのだが、なんとこれが早合点。自力で土から這い出てきたらしく、半年後に山中で野良犬をやっていたところを近くの集落の人が見つけて連れてきてくれたのだそうだ。
この話、俺の連れには大いにウケた。が、俺は(なんだ、やっぱり別の犬なんじゃないか)と思った。しかし長年暮らした家族がリュウだと言うんだから、と考えるとなんだかあやふやになる。あとでもう一度、じっくり顔を見てみようと心に決めた。
それから目の前の料理が減るのに反比例して会話が増えていき、俺は頃合を見計らって口を開いた。
「なんか、いざなぎ流のことを知りたがってるみたいなんだけど」
師匠と京介さんのほうを見る。すると、すぐさまユキオが身を乗り出した。
「だったらオレオレ。オレ今、先生について習いゆうがよ」
意外に思って、適当なコト言ってないかコイツ、と疑った。すると伯母が「あんたは神楽ばあじゃろがね」と笑う。どうやら先生についているのは本当らしい。
ただ、神楽舞を習っているだけのようだ。いざなぎ流の深奥は神楽ではなく、祈祷などにあるというのは俺でもわかる。
「まあでもいざなぎ流のことが知りたかったら、だれかに訊かんとわからんき」
ユキオの先生に会わせてもらったらどうか、そう言うのだ。
伯父のその言葉は、いざなぎ流の秘匿性を端的に表している。そもそも俺の田舎に伝わるいざなぎ流とは、陰陽道や修験道、密教や神道が混淆した民間信仰であり、それらが混ざり合いながらも、古く、純粋な形で残っている全国的に見ても貴重な伝承だそうだ。
祭りや祓い、鎮めなどを行うそのわざはしかし、ほとんど公にはされない。なぜならそれらは「太夫」から「太夫」へ、原則口伝によって相伝されていくからだ。もちろん、その膨大な祈祷術体系を丸暗記はできない。しかしそのための「覚え書」はまた、師匠から弟子へと門外不出の「祭文」として伝えられるのみなのである。
なにかのお祭りには必ずと言っていいほど太夫さんが絡むが、俺の記憶のなかでは、その祈祷はただ「そういうもの」としてそこにあるだけで、「なぜ」には答えてくれない。
『なにをするために、なぜその祈祷が選ばれるのか』
なにをするため、というのはわかる。川でおこなわれるなら水の神様を祭り鎮めるためで、家でおこなわれるなら家の安泰のためだ。だがなぜその祈祷なのか、という部分には天幕がかかったように見えてこない。祈祷はさまざまな系統に分かれ、使う幣だけで数百種類もあるのである。
「よっしゃ、明日さっそく行こう」
ユキオは箸をくるくると回して俺たちの顔を見る。
師匠は願ってもない、と頷いた。京介さんも、「頼みます」と軽く頭を下げる。
俺は明日も平日だったことを思い出し、ユキオをつついたが、「大丈夫、大丈夫」と請け合った。いろいろと大丈夫な職場らしい。
ユキオとハツコさんたちが帰っていったあと、俺たちは順番に風呂に入ることにした。夜になってようやく涼しくなってきたが、汗を重ねた肌が気持ち悪い。
女性陣はあとがいいと言うので、まず俺、ついで師匠という順番で入ることにした。
早々に俺が風呂から上がり、3人でトランプをしていると、Tシャツ姿で頭から湯気を昇らせながら師匠が出てくる。
「あー、気持ちよかったー。風呂に入ったのって半年ぶりくらいだ」
その言葉に女性2人の目が冷たくなる。
「ちょっと」「寄らないでくださる」
ステレオで言われ、師匠は憤慨する。
「って、おい。僕はシャワー派なんだって」
弁解する師匠に冷たい視線を向けたまま2人は女性部屋に戻っていった。
「知ってるだろ!」
わめく師匠に、振り向いた京介さんがいつもより強い調子で「死ね」と言った。
俺は笑いをこらえるのに必死だった。これだよ! 2人を無理やりセットにした甲斐があったというものだ。
それから、疲れていた俺たちは早々に床に就いた。若者のいないこの田舎の家は寝つくのが早く、あまり遅くまで起きて騒がしくしても悪いという思いもある。
寝る前にリュウの顔を拝もうと思ったが、犬小屋に引っ込んでいて、お尻しか見えなかった。
部屋の明かりを消し、扇風機に首を振らせたまま横になるとあっというまに眠りに落ちた。
どのくらい経っただろうか。
バイクの音を遠くで聞いた気がして、夢うつつに、なぜかユキオがまた来た、と思った。
そんなはずはない、と思いながら徐々に頭が覚醒し、むくりと起きる。腕時計を見ると深夜2時過ぎ。トイレに行こうと起き上がると、隣の布団がカラになっていた。
「師匠」と小声で呼びかけるが、部屋のどこにもいない。
とりあえずトイレに行って用を足した。そして部屋に帰るときに縁側にだれかの影が映っているが見えた。
そっと障子を開けると、京介さんが縁側に腰かけて夜陰に佇んでいた。右手には煙草。
その横顔は、昼間に見るよりも凛々しく、そして神秘的に見えた。かすかな月の光がその頬を濡らすように照らしている。
そんな俺の視線に気づき、京介さんはこちらを向いて煙をそっと吐き出した。
「深い森だ」そう言って、また目の前に広がる夜の山を眺める。
そうか。京介さんは自分の部屋でないと眠れないということを、今更ながら思い出した。
「浄(じょう)暗(あん)という言葉があるだろう。清浄な闇という意味らしいな」
ここは空気がいい。そう言って、木々の黒い陰を見つめている。
遠くで湧き水の流れる音が聞こえる。
「師匠を見ませんでしたか」
そう問うと、煙を吐きながら答えてくれた。
「バイクで出ていったな」
そういえば、伯父から滞在中自由に使いなさいと言われていたことを思い出す。
明日もいろいろありそうだ。そう思って、今日のところはきちんと寝ておくことにする。
「おやすみなさい」
そう挨拶すると、京介さんは小さく手を振った。

参照元:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21100905

続き:書籍版 田舎〈2〉【いざなぎ流】

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