師匠シリーズ

【師匠シリーズ】『毒 中編 1/3』シュレディンガーの猫って知ってるかしら

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1 シュレディンガーの猫って知ってるかしら

 京介さんから聞いた話だ。

高校1年の12月のことだった。
2学期の期末試験がもうはじまるというころ。私は不本意ながら家で勉強をしていた。どうせいい点は取れないことはわかっているが、やらずにひどい点を取ると、のちのち面倒なことが次々とわいてくるのは、目に見えている。
 数学の教科書と見比べながら、自分でノートに書いたことの意味を頑張って解読しようとしていると、普段は気にならない隣の部屋の音が、やけに気になってくる。
 ポップスが、かなりの音量で漏れ聞こえていた。
「おい、うるさいぞ」
 隣は妹の部屋だ。ドアを開けて怒鳴ると、ベッドに寝転がっていた妹は、「へいへい」と言って、ステレオにイヤホンのジャックを指した。
 双子だというのに、妹はなぜか私よりも頭の出来が良く、進学校で知られる地元の公立高校に通っている。妹の高校も期末試験の時期のはずだが、ずいぶんと余裕を見せつけてくれるものだ。実にけったくそ悪い。
 私は気を取り直して机に向かった。ようやく調子が出てきて、1時間ほど集中して勉強ができた。
「はあ」
 目が疲れてきたので、一息入れようと、伸びをして、冷めてしまったコーヒーを飲んだ。
 ふと、机の隅に置いてあった小さな瓶が目に入る。昨日の夜、白町で奇妙な仮面の男から手に入れた小瓶だ。担任のザビエルから、高校生のあいだで流行っているクスリだと聞かされて興味を持ったのだが、いざ実物を手に入れてみると、なんだ、こんなものか、という感想だった。
 無色透明で、蓋は白。瓶にもラベルはない。一度、恐る恐る蓋を取って匂いをかいでみたが、無臭だった。もともと、煙草で十分な私は、ドラッグにはたいして興味がないので、良い物だと言われても、試してみたいとは思わない。ただ、『変なことが起こる』という話を聞かされたので、オカルト好きの血が騒いだのだった。
 しかしながら、手に入れたときの経緯から、私には警戒感があった。路地で出会った仮面の人物に、一緒にいた間崎京子があれこれ話しかけ、気がつくと、私は京子とともに、『毒を飲む会』という怪しすぎる名前の集まりに、参加することになっていたのだった。そんなやつが千円で売っているクスリを、試してみようという気になるわけがなかった。危なすぎる。
「明日か……」
 私は深いため息をついた。明日の夜8時がその集まりの集合時間だった。試験勉強もあるし、バックレようかとも思ったが、私を見つめて懇願する間崎京子の顔を思い出すと、どうにも調子が狂うのだ。
なにかあったら、責任取れよ
 私はそんなことを思いながら、しぶしぶ、明日の分も頑張って進めておこうと、教科書を再び開いた。

翌日、すなわち『毒を飲む会』の当日、私は学校の授業の終わりに、生物部の部室に足を向けた。
本気度の高い一部の運動部を除き、この時期みんな部活は休みだ。
「お疲れ~」
 と言って、さっさと下校していくクラスメートの流れから離れ、校内のひとけのない廊下を歩いていると、心地よい疎外感に包まれている自分がいる。ほかの人と、違う道を歩くこの孤独が、私の居場所だという実感が、胸に染みついているのだ。だが、この先にいるのも、そんな私と同じ感情を共有しているのかも知れない、そんな子だった。そのことが、私を少し、不安定にさせる。
「京子、いるか」
 生物部の部室になっている教室のドアを開けると、間崎京子が机に座って、ひとりで本を読んでいた。今夜、どこで何時に落ち合うか、話しておこうと、待ち合わせをしていたのだ。
 京子は顔を上げて、「いらっしゃい」と言った。私はその向かいに腰掛ける。
「本当に行くのかよ」
「ええ。一緒に来てくれるでしょう」
「まあ……。約束はしたけど」
 いろいろと言いたいことはあったが、やはり本人を前にすると言葉にならなかった。私は、ハア、と息を吐いて、頬杖をついた。
「危なそうなら、逃げるからな」
「そうね。走って逃げましょうか」
 京子はなにが楽しいのか、機嫌がいいようだ。
「あいつさ……。言ってたよな。くじら座のこと」
 私の言葉に、京子の機嫌のいい笑顔が消えた。かわりに浮かび上がってきたのは、なにか深い意識をうちに秘めたような、微笑だった。
「黄道より落ちた、哀れな怪物だって」
「ええ」
「お前が言っていた、子どものころの話。あれに似てる」
 京子のお誕生日会に招かれた日、私は幼いころに彼女を襲った、不可解な出来事のことを聞かされた。地震とともに、空の星座がみんな変わってしまったという、信じられない話だ。
たとえば、だれでも知っている今の黄道十二星座は、京子が知っていたものとは違うのだという。だから、京子は星占いなんて、くだらないと言っていた。彼女の生まれた11月20日の星座は、くじら座なのだ。
 そんな秘密を、私に告げたとき、彼女の目はウソをついていなかった。少なくとも、私にはそう感じられた。それが、彼女が秘めている、だれとも共有できない恐怖であり、悲しみであり、孤独の根源だった。たとえそれが、彼女の妄想の産物だったとしても。
 だが、あの仮面の男の意味深な言葉は、なんだったのだろう。占い師の使う、コールドリーディングかなにかだというのだろうか。いや違う。劇団くじら座は、以前からたしかに存在している。
 あの仮面野郎は、危険だ。私の直感がそう言っていた。
 京子は、持っていた本を閉じて、机の上に置いた。『量子論の世界』という題の本だった。
「山中さん。シュレディンガーの猫って、知ってるかしら」
 なにを言い出すのかと思った。
「聞いたことはあるよ。箱のなかの猫が、生きてるのか死んでるのか、開けてみるまでわからない、ってやつだろ」
「まあ、そんな感じね。でもその言いかただと、常識的な発想ね。箱のなかのことがわからないだけで、どっちかの状態であることは、前提としている。ところが、ミクロな量子の世界では、本当に死んだ猫と生きている猫が、重なっていることがありうるのよ」
「重なっている?」
「その前に、まず量子論で有名な、スリット実験っていうのがあってね。縦長のスリットの入った板に、電子銃から電子を打ち出すの。電子っていうのは小さな粒、つまり粒子ね。だから、打ち出されるとまっすぐに飛ぶ。板に当たらず、スリットを抜けると、その先にあるスクリーンに、電子が当たった白い点がつく。何度も無作為に打ち出していると、スリットと同じような形をした、細長い白い点の塊が、スクリーンに現れるの。これは当然ね。電子は粒子だから、まっすぐ飛ぶのだもの」
「なんだ。物理学の話か。おまえ、生物じゃなかったのかよ」
「興味があるから、勉強したのよ」
 京子は澄ました顔で言う。
「次に、スリットが2つ入った板で同じことをしてみるの。2重スリット実験と呼ばれているわ」
 京子は立ち上がって、黒板に図を描いた。
「電子銃から打ち出された電子は、やっぱり一定の割合で2つのスリットを抜けて、スクリーンに向かう。すると、スクリーンにはどんな模様が現れるか、わかるかしら」
 京子に、チョークを渡された。
 私は、チョークのあの、皮膚にガサガサする感じが嫌いなので、正直受け取りたくなかったのだが。
 しかたなく、スクリーンだという、四角い囲いのなかに、テンテン、と白いチョークを当てていく。2つのスリットと同じ形をした、点の塊を描いたのだ。そんなことは、わかりきったことだった。
「そうね。それが常識的な答えね。でも、この2重スリット実験の結果は、人類が、そのあたりまえに思っていた常識が壊れていくような、不気味なものだったの」
 京子はそう言いながら、私の描いたものを黒板消しでひと拭きして、かわりに、同じものを等間隔に5つ描いた。それぞれ縦長なので、まるでシマ模様だ。

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「これが、スクリーンに現れたわ」
「それはおかしいだろ。数もそうだけど、ど真んなかにテンテンがつくのは。スリットとスリットの間の板のところじゃないか。まっすぐ飛んだら、そこに当たるわけないだろう」
「いいえ。これは実際の実験の結果よ」
 私は、納得のいかない気持ちで、それでも考えた。
「じゃあ、その電子がまっすぐ飛ぶっていうのが、間違ってたのか」
「すばらしいわね。いい発想よ。山中さんって、物理の成績良かったかしら」
「うるせぇ」
「このシマ模様は、干渉縞と呼ばれているわ。この干渉縞は、波を使った実験で同じ現象が起こることが知られているの」
「波って、あの海の波か」
「そうよ。波は物質そのものというより、エネルギーの伝わりかたね。同じ水がずっと進んでいるわけじゃなくて、水が進んでいくエネルギーを次の水に伝えて、波という形を先へ進めているの。その波は、空間の分布パターンを伝播させる過程で、簡単に言うと、放射状に広がろうとする。だから……」
 京子は、またチョークを持った。
「波はスリットを抜けたあと、直進するんじゃなくて、放射状に広がって進む。2つのスリットから抜け出した波は、こうやって、おたがいに放射状に進んで、ぶつかりあう。ちょうど板の真んなかあたりの先では、2つの波がぶつかって、そこが高い波を作るの。そして左の波の山と、右の波のうちの1つあとの山は、やっぱりぶつかって真んなかよりも右側で高い波の山を作る。左右を逆にしても同じね。さらに、2つあとの山でも、その外側で同じようなことが起こる。こうして、高い波の山がスクリーンにぶつかって作るのが、この5つの干渉縞なの。5つというのは、たとえばの話だけどね」
 私は図を見ながら唸った。なかなかわかりやすい。こいつは、意外と教師に向いているんじゃないかと、少し思った。
「じゃあ、電子は波だったってことか」
「そうね。そう考えたら、この実験の説明ができそうね」
「なにが不気味なんだ。大げさだな」
 京子は、微笑んだ。

「でも、電子は波ではなく、粒子なの。打ち出された1つの粒子が飛んでいるだけなのよ。これは、事実よ。だから、1つのスリットのときには、細長いスリットと同じ形をした線が、スクリーンに現れたわ」
「なんだか、わけがわかんねえ」
「これは、たくさんの電子を電子銃から打ちまくった場合の話よね。だから、電子が波じゃないとしても、同時に左右のスリットから抜けたら、人類がまだ知らないなんらかの性質によって、お互いに干渉しあってシマ模様を作るのかも知れない。そこで、電子を1個ずつ、時間を置いて打ち出したら、どうなると思う?」
「いっこずつ? そりゃあ……スリットが1つのときと同じことが起こるんじゃないか。干渉しあわないんだから」
 またチョークを渡されたので、私は黒板に2本の線を描いた。それを見て、京子は怪しい微笑を浮かべる。
「ところが、実験で実際に現れたのは、これよ」
 京子は、さっきと同じ5つのシマ模様を描いて見せたのだ。
 ちょっと、ゾクリとした。京子が不気味だといった言葉の意味が、少しわかった気がした。
「1つしかないものが、2つのスリットを同時に抜けて、干渉を起こしている。つまり、電子銃から打ち出された瞬間に、粒子だったものが、波のように振舞っているのよ。これはおかしなことだわ。さらに、2つのスリットのそれぞれにセンサーをとりつけて、1つずつ飛ばした電子が、そこを通るかどうかを観測する実験も行われた。電子は粒子という1つのものなんだから、片方が反応すれば、もう片方は通っていないということね。1個の粒子が、同時に2つのスリットを通ることはありえないから。これは、そのとおりの結果が出た。どちらかのセンサーで粒子が通る反応があり、両方のセンサーが反応することはなかった。粒子は、波にはなっていなかったようね」
「なんだかホッとしたよ」
 私的にはちゃかして言ったつもりだったが、わりと本心だったのかも知れない。
「でも、おかしいでしょう。だったら、波が描いたような、あの5つの縞模様はなんだったの、という話になるわね。ところが、そのセンサーによるスリットの観測をはじめたとたんに、スクリーンに現れる縞模様が、変わったの。電子が波じゃなく、粒子だとしたときの、さっきあなたが描いた、2つの線が現れるようになったのよ」
「なんだそりゃ」
「電子は、観測されたことで、『2つのスリットを同時に抜けて、左右からお互いに干渉しあうかもしれない』という、可能性を失ったのよ。つまり、飛んでいたのは、いま電子がどこにあるのか、という可能性そのものだったの」
京子の説明は、なんだかもう、科学の分野からかけはなれた世界の話のように聞こえる。
そう。まるでオカルトだ。
「私たちの知っている世界の常識が、電子を含む、量子というミクロの世界では通用しないの。私たちの好きなオカルトの世界みたいね」
 私の心理を読んだように、京子は笑ってみせた。
「ミクロの世界では、量子は観測されるまでは、可能性でしかないの。そこにある可能性が高いかどうか、ということしか予測できない。つまり、量子は観測されるまでは、可能性として、複数の場所に多重に存在している。言葉遊びではなく、これは、実験で導き出された、事実よ」
「量子論とやらの主張する、事実だろ」
 我ながら気の利いた言葉に、一矢報いたような気になった。京子は「そうね」と素直に頷いた。
「この量子論のミクロ世界の事実を、現実世界に持ってきたのが、シュレディンガーの猫の思考実験よ。細かいことは省くけど、簡単に言うと、1つの箱のなかに、ラジウムと、ガイガーカウンターと、毒ガスと猫を入れる」
「あと、セックスと嘘とビデオテープと部屋とワイシャツと私も入れる」
 私のジョークを、なにもなかったようにスルーして、京子は続けた。
「一定量のラジウムが一定時間後にアルファ崩壊して、アルファ粒子を出す確率が、50%だとする。もし、アルファ粒子が出て、ガイガーカウンターが反応したら、毒ガスが噴き出して、猫が死ぬ、という装置になっている。こういう状況を、箱の外で、あなたが見守っている。箱も猫も毒ガスも、現実世界のものよ。常識が通用しない、不思議なミクロの世界の話じゃない。だからあなたは、こう考える。一定時間後に、猫が死んでいる可能性は50%だ。箱を開けてみるまではわからないけど、生きているか死んでいるか、2つに1つだと」
「だから、最初にそう言っただろ。開けてみるまではわからないって話だって」
「いいえ。箱のなかのものでは、アルファ粒子はとても小さい、量子よ。だから、量子論の法則に従うの。量子は、観測されるまでは、可能性として振舞う。一定時間後に、ガイガーカウンターが反応する位置に、アルファ粒子が存在する確率が50%なら、それはそこに存在しない可能性と存在する可能性が、等濃度で同時に重なり合っている状態ということ。どちらか、ではないの。その結果を元に決定される猫の生死も、同じよ。あなたが観測できない箱の密室のなかで、生きている猫と、死んだ猫が、1対1で、重なり合って存在している」
「だから、それはミクロの世界の話だろ」
「思考実験として、ミクロの世界の法則が、マクロの世界に影響する装置を、シュレディンガーが考案したのよ。量子論に批判的な立場でね。そんなこと、現実にあったら、おかしいだろって。だって、実際に箱を開けてみたら、猫は、生きてるか、死んでるか、どっちかなんだから。でも、のちの多くの物理学者の手によって、量子論に基づく実験が進んでいくにつれて、そのミクロの世界の法則が無視できなくなってきたのよ。『神はサイコロを振らない』なんて言って、アインシュタインが納得しなかった、電子のスピンの『量子もつれ』も、実験によって何度も確認されたわ。ミクロの世界なんて言っても、私たちの体を構成する物質も、顕微鏡の倍率を上げて覗いていけば、つまるところ、原子などの量子でできている。この宇宙のすべてのものがそうよ。量子論の法則のなかに、私たちはいる。私たちはみんな、そこにあるかも知れないという、可能性のまま、多重に存在しているのよ。だから……」
 京子が歩いてきて、両手を、私の肩に置いた。綺麗な顔が正面に近づき、私はドキリとする。その唇が、なまめかしく開かれる。
「あなたが、観測することで、いま、私は、わたしでいられるの」
 顔が、さらに近づいてくる気配を感じて、私は思わずあとずさった。
 雰囲気に飲まれて、変な気分になりそうだった。
「だから、なんだっていうんだ」
 私は、吐き捨てるように言った。この妙な雰囲気から、逃げ出したかった。
 京子は、うふふ、と私には真似できない笑いかたをして、机の上にそのまま腰掛けた。スラリと長い足を組んで。
「プリンストン大学のヒュー・エヴァレットという人が、このミクロの世界の解釈を発展させて、人間にも量子論を適用するべきだと主張したの。観測者もまた、その全身が量子で構成されている存在なのだから。箱のなかのシュレディンガーの猫は、実際に蓋を開けてみれば、死んでいるか、生きているか、2つに1つ。でも、箱をあけて猫を見ているあなたは、だれかに観測されるまでは、『死んだ猫を見ているあなた』と、『生きている猫を見ているあなた』が重なり合って同時に存在していると、考えることができる。いいえ、そう考えなければ、おかしいのよ。れっきとした、事実としてね」
 京子の言葉に、量子論とやらの事実だろ、という突っ込みは入れられなかった。なんだか、こいつの言葉が真実のように感じられたからだ。
「これが、エヴァレットの多世界解釈よ。あなたにとってのこの世界は、あなたに観測されるごとに確定されていく、無数の可能性を持ったパラレルワールドでできている。それは重なり合って同時に存在している。そして、そのパラレルワールドは、時の経過とともに、『異なる観測結果に終わった可能性』という枝葉に分かれ、こちら側のあなたにはもう干渉できない、無数のパラレルワールドに分岐していく。その、あなたを含む世界はまた、あなた以外の他者によって観測されるまで、無数の可能性を持つパラレルワールドを構成し、重なり合っている。この宇宙全体が、少しずつ違う、無数の別の宇宙と重なりあって、存在している。たったひとつの量子が、ある瞬間に、広大な宇宙のある一点にあった場合、なかった場合という、偶然によって分岐していく世界。あるいは、誕生の瞬間に、この宇宙が異なる物理定数を持っていたかも知れない、という可能性から生まれる、途方もない数の宇宙。これが理論物理学における、Mltiverse(マルチヴァース)。多元宇宙論ね」
「そんなもの、あるわけが、ないだろ」
「知覚できないことは、存在しないことと同義ではないわ。あなたは、私たちの宇宙と重なり合った多元宇宙が、存在しないことを絶対に証明できない」
「……おまえは、そこから来たってのか」
 京子は、イエス、とも、ノーとも言わなかった。

「星座の違う世界という、パラレルワールドは、今のこの私の観測世界とは、異なる分岐の先にある可能性の世界よ。それは、観測され、可能性が閉じられた今ではもう、記憶の保持なんていう、物理的干渉の一切及ばない場所。なのに、私は記憶している。あの星たちを。これをどう解釈していいか、正直よくわからない。もし、多元宇宙世界を作った神様がいるのなら、私は、バグのようなものなのかも知れない」
 かすかに浮かべた微笑の表情を変えず、京子は淡々とそう言う。
 私なら、どこかで、子どものころの夢だと、割り切るかも知れない。そのほうが、健全だ。そんなだれとも共有できない孤独を、抱え続けるなんて。それは、私の愛する疎外感の孤独とは、まったく違う。私のは、甘えみたいなものだからだ。
「仮面のあいつも、そこから来たのか」
 京子は頭を振った。
「そんなわけは、ないわ。もっと、ありえない」
 その言葉を最後に、沈黙が私たちを包んだ。
夕暮れが、生物部の部室である教室に迫っていた。差し込む夕陽が、私たち2人の影を長く伸ばしている。
 この1年のあいだ、私の身の回りで、不思議なことがたくさん起こった。楽しいこともあったけれど、悲しい思いも、怖い思いもした。それらはどれも、私のオカルト趣味が招いたものだと思い、自業自得なのだと達観していた。しかし、そのどれもが、いまこの目の前で微笑む女と出会ってから起こったのだ、と思うと私は、めまいのようなものに襲われる。
 そのアンティーク人形のように整った顔立ちと、スラリとした長身。切れ長の瞳。この唇からこぼれる言葉は、蠱惑的な響きで、私のなかに侵入してくる。
 いつの間に、私はこいつとこんなに親しくなったのだろう。あれほど、警戒していたのに。間崎京子という存在が、知らず知らずのうちに、まるで毒のように染み込んで、私をおかしくさせているような気がする。
「もうこんな時間だ」
 私の言葉に、京子は腕時計を見た。
「そうね。今夜だから、もう帰って準備しないと」
 私たちは、待ち合わせの場所と時間を決めた。鞄に本やノートをしまう京子を見ながら、私は考えていた。
 もしも神様ってやつがいるのなら。いるのならさ。そのバグも含めて、世界を作ったんじゃないのか。
 運命だよ。おまえの。
京子。
「行きましょう」
 先に立って、教室の扉に手をかけたとき、軽いめまいとともに、その扉の向こうに、無数の世界が少しずつ重なり合って、どこまでも続いているような気がした。

『毒 中編』2/3 『ケーティではなくてよろしいのね』に続く

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