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※身元不明の遺体にまつわる話です。謎の暗号から始まり恋愛要素まで推測できる上質なミステリーのような話です。どこが洒落怖かというと、未だに身元不明な件と、ところどころで垣間見える社会的な闇。あとは身元を知っているかも知れない人物が巻き込まれたこのあたりの事件です。
目次
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タマムシュッド事件
タマム・シュッド事件は、1948年12月1日午前6時30分頃、オーストラリア南オーストラリア州のアデレードの南、グレネルグのソマートン公園の海岸で、身元不明の男性の遺体が発見された事件。
事件名は、遺体のズボンの隠しポケットから見つかった紙片に、ペルシア語で「終わった」「済んだ」という意味を表す「タマム・シュッド」("Tamám Shud")という語句が記されていたことにちなみ名づけられた。この紙片は、11世紀ペルシアの詩集『ルバイヤート』のある版本から、最後の頁の語句を破り取ったものであることが判明している。遺体発見当初、グレネルグ在住の男性が、自分の車の後部座席にその本が置かれているのを発見し、警察の呼びかけに応じてその本を供出した。本には他に、電話番号のような数字も記されていた。遺体で発見された男性は「ソマートン・マン」の通称で呼ばれ、現在も身元が判明していない。
発生当時から「オーストラリアの最も深い謎の1つ」とされ、推理の対象となってきた。冷戦期の緊張が高まっていた時代に発生した事件であり、暗号めいた遺留品、特定できない毒物、正体不明の犠牲者、そして報われない恋愛劇の可能性等の様々な要因により、依然事件に対する世間の関心は高い。
オーストラリア国内でも大々的に捜査が行われ、海外でも報道された。警察が遺体の身元特定の手掛かりを得るために資料を広く国外にも公開したうえ、外国政府機関にも協力を呼び掛けたためである。
犠牲者
1948年12月1日午前6時30頃、南オーストラリア州アデレードの約11km南、グレネルグのソマートン公園の海岸で男性の遺体が発見された。遺体は付近の障害児施設から続く砂浜の上に横たわっており、警察が検分したところでは、遺体の状態はあおむけで、頭は防波堤に向いており、両脚は伸ばされていたが足先は組まれた状態だった。死亡したのは眠っている間であると考えられた。
新しいタバコが1本耳の裏に挟まっており、上着の襟の右側に、頬で挟むような形で半分吸いかけのタバコがあった。ポケットを探ったところ、同じアデレード郊外のヘンリー・ビーチ行き列車の未使用の二等乗車券と、アデレードからの使用済みのバス乗車券、アルミ製の薄型の櫛、半分程中身が残っているジューシー・フルーツ社製のチューインガムの包み、半分ほどケンジタスブランドのタバコの入ったアーミー・クラブの箱(どちらもイギリスのタバコブランド)、4分の1程中身が残っているブライアント・アンド・メイ社製のマッチ箱が見つかった。
ソマートン・マンの死亡時の写真はこちら。
※眠っているような写真で、そこまで恐くはありませんが苦手な方は注意。
目撃者によると11月30日の夕方、遺体とよく似た男性が、遺体発見時と同じ場所に、同じ姿勢で横たわっているのを見かけたという。同日の午後7時頃にその男性を見たというカップルは、男性が右腕を上に伸ばしきってから、だらんと下ろすのを見たという。また、街灯が点灯し始めた午後7時30分から8時頃の間にその男性を見たという別のカップルは、男性が視界にあったその30分程の間、彼が動くところは見なかったが、姿勢は変わったような印象を受けたという。またそのカップルは、男性が蚊に反応しないのを見て、死んでいるのではないかとも話し合ったが、やはり酔っ払いか、寝ているものと思い、それ以上詮索しなかった。目撃者達は、男性がいた場所は、警察が検分した遺体発見場所と同じであるとも述べている。
アデレード大学の病理学者の調査によれば、男性は「イギリス人的な」容貌であり、およそ40~45歳と思われ「肉体的には最高の健康状態」であったという。
男性の様子:「身長は180 cm、瞳は榛色、頭髪は赤毛に近い金髪で、こめかみの周りに少し白髪が混じっている。肩幅は広くて腹周りは細く、両手と爪に手作業に従事していた兆候は見られない。つま先の親指と小指は、ダンサーや普段先の尖ったブーツを履いている者のように楔形になっており、ふくらはぎ上部の筋肉はバレエダンサーのように発達している。これらの特徴は優性遺伝によるかもしれないが、多くの中長距離走者に見られる特徴でもある」
遺体の石膏取りを行った技士は陪審で「男性はかかとが高く、先の尖った特異な種類の靴を日常的に履いていたのではないか」と証言した。ふくらはぎやつま先が、女性に多く見られるような靴の形状による変形という特徴を持っていたからである。警察はそれよりも前に、この身体的特徴からストックマン(オーストラリアのカウボーイ)のブーツとの関連を考え、クイーンズランド州内のストックマンも捜査対象にしていた。男性が着用していた衣類は、白いシャツ、赤と青のネクタイ、茶色のズボン、靴下、靴、手編みのセーター、そしてしゃれた灰色と茶色のダブルの上着であった。衣類からタグ類は全て外されており、帽子や財布は身に着けていなかった (1948年当時、外で帽子を着用していない人は珍しかった)。髭はきれいに剃られており、身分証の類を携帯していなかったことから、警察は自殺と考えた。歯科記録にある歯型も、男性のものと一致する記録は一切見つからなかった
前代未聞の事件
検視
検視の結果、男性が死亡したのは12月1日の午前2時頃と推定された。
「心臓は、大きさやその他どこの点でも普通で、...通常は視認できない脳の細かい血管がうっ血により容易に視認出来た。咽頭にはうっ血があり、食道は白濁した粘膜で表層が覆われており、中間部には小さな潰瘍片があった。胃はうっ血がひどく...十二指腸の下行部(第二部)にもうっ血がある。胃の中には血液が混じった食物もあった。両方の腎臓にもうっ血があり、肝臓は血管内に血液が過度に滞留していた。...脾臓は印象的な程大きく... 通常の3倍程もあり... 顕微鏡で見ると肝臓の小葉の中央が破壊されていることが判明した。 ... 急性胃炎による出血や、肝臓から脾臓及び脳までの広い範囲にうっ血があった」
検視により、男性の最後の食事は死の3、4時間前に食べたパスティであることが明らかになったが、病理学者ドワイヤー博士が行った検査では、遺体から薬物を検出することはできなかった。博士は自然死でないことを確信し、バルビツール酸系の毒物か、可溶性の睡眠薬の可能性を疑った。しかし、毒物には大きな疑義も残っており、パスティに毒物が仕込まれていたとは考えられなかった。男性の身元や死因のみならず、誰も顔を見た者がいなかったため、11月30日の夕方にソマートン公園の海岸で生きているところを目撃された男性と遺体が同一人物なのかについてさえ、検視官は結論を得られなかった。スコットランドヤードも事件の捜査を支援したが、成果はほとんどなかった。男性の写真や詳細な指紋が広く世界中に出回ったが、身元の判明にはつながらなかった。
警察が身元を特定できないため、遺体は1948年12月10日に防腐処理を施された。警察によれば、分っている限りこのような処置が必要になったのは初めてのこととのことであった
身元について
遺体の身元の候補は、アデレードのタブロイド誌「The Advertiser」が、1948年12月2日号の小さな記事において最初に報じた。記事は「浜辺で遺体発見」(英語: Body found on Beach)という題で以下のとおり報じている。
「ペイナム(英語版)・アーサー通りのE.C. ジョンソン 氏、45歳頃と思われる遺体が昨朝、ソマートンの海岸の障害児施設の向かい側で発見された。遺体はソマートン・ホワイト通りのJ. ライオンズ氏により発見され、H.ストラングウェイ刑事とJ. モス巡査が捜査に当たっている」
1948年12月3日にジョンソンが自ら歩いて警察に出頭し、生存を報告したため、遺体の身元候補からは除外された。同じ日に「The News」誌が第1面に遺体の写真を掲載したことで、一般から遺体の身元に関する情報提供が増加することとなった。12月4日の内に警察は男性の指紋について、南オーストラリア州警察にある指紋の記録には合致するものがなく、州外にも捜査を広げなければならなくなったと発表した。12月5日、「The Advertiser」誌は「警察が陸軍の記録をあたって、11月13日に、グレネルグのホテルで遺体によく似た男性と酒を飲んでいたと通報のあった男を探している」と報じた。その酒の席で、その謎の男は、"Solomonson" という名の入った軍の年金カードを提示していたという。
遺体の身元については、以下のとおり他にも多くの通報があった。
身元についての通報
1949年1月初め、2人の人物が、遺体を63歳の元木こり、ロバート・ウォルシュ (英語: Robert Walsh) であると断定した。この2人以外にもう1人、ジェームズ・マックも、当初は遺体が誰だか分らなかったが、その1時間後に警察へ連絡してやはり、ロバート・ウォルシュであると断定した。マックは、最初遺体を見た時に誰だか分らなかったのは、髪の毛の色が違っていたからだ、と証言した。ウォルシュは数か月前に羊を購入しにアデレードからクイーンズランドへ赴いていたが、予定通りクリスマスに戻って来なかったという。警察は、遺体と比べてウォルシュは年を取り過ぎていると考えて懐疑的であった。一方で警察は、遺体は木こりと同じ特徴を備えているが、手の状態はこの男性が少なくとも18カ月は木の伐採に従事していないことを示している、と述べている。エリザベス・トンプソンも、遺体を2度目に見た際に、遺体にウォルシュにあるはずの傷がないことや脚の大きさから、別人であると考えるに至って証言を撤回した。
1949年2月初めには、遺体の身元として8件の候補があり、その中には、自分達の友人であるという証言や、行方不明の駅員、蒸気船の船員であるという証言、あるいは、あるスウェーデン人男性である、というものが含まれていた。当時寄港中であったSS Cycle号の乗組員、トミー・リードではないかとも一時考えられたが、安置所で遺体を見た後に同僚達は彼ではないと断定した。
1953年11月には、遺体の男性を知っているという一般市民からの情報は251件に上った。しかし、「いくらか価値のある手掛かり」と警察が呼んだのは、男性が着用していた衣服に関するものに限られたままであった。
H. C. レイノルズ
2011年、アデレード在住のある女性が、自分の父親の所持品の中からH. C. レイノルズという人物のIDカードを見つけ、自然人類学者のマチェイ・ヘンネバーグ に連絡を取った。カードは、アメリカ合衆国で第一次世界大戦中外国行きの船員に対して発行されたものであった。2011年10月、カードはヘンネバーグへ手渡され、カードの写真とソマートン・マンの写真とが比較された。ヘンネバーグは鼻や唇、目に解剖学的な相似点を見つけたが、それらよりも、耳の形の非常な相似の方が信頼性が高いと考えた。
両者の耳の形は非常によく似ていたほか、ヘンネバーグ自身が「独特な同定点」と呼んだ、ほくろの形と場所が両者の写真で一致していたのである。IDカードの番号は58757で、1918年2月28日にアメリカでH.C. レイノルズに発行されたものであり、彼の国籍はイギリスで、年齢は18歳とされている。
しかし アメリカ国立公文書記録管理局及びイギリス国立公文書館、オーストラリア戦争記念館による調査では、H.C. レイノルズに関するいかなる記録も発見できなかった。南オーストラリア州警察(英語版)は、現在も本件を捜査しており、新しい情報を求めている。
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特定できない死因
検視官トーマス・アースカイン・クレランドらによる死因究明の陪審は、遺体発見の数日後には開始されたが、1949年6月17日まで休審となった。調査を担当していた病理学者ジョン・バートン・クレランドは、遺体を再検査して多くの発見をした。クレランドは、男性の靴が驚くほどきれいで、グレネルグ周辺を終日うろついた者が履いていたような状態にはなく、最近磨かれたばかりのようであると指摘した。さらにこのことは、男性が死後にソマートン海岸に運ばれたと推理すると辻褄が合い、毒物の主要な症状であるおう吐や痙攣の痕跡が遺体にないことの説明にもなる、と付け加えている。
クレランド検視官は、遺体発見前夜に男性を目撃した者が、翌朝発見された遺体と同一人物であると誰として断定できなかったことから、男性はどこかほかの場所で死亡した後に発見場所に投げ捨てられた可能性があると指摘した。目撃者達が前夜に見た人物と遺体を「確かに同じ人物」であると信じたのは、遺体が発見された場所と前夜にその人物を目撃した場所が同じであったこと、そして、同じ特徴的な格好で横たわっていたことからの単なる推測であった、とクレランド検視官は強調している。クレランド検視官も遺体の身元に関する証拠は何も発見できなかった。
アデレード大学の生理学と薬理学の教授は、がジギタリスとウアバインの薬物の可能性を疑った。比較的少量の経口摂取量でも特に有毒であり、共にカルデノリド系の強心配糖体である。またヒックス教授は、服毒を唯一裏付けられ、遺体にないものはおう吐物であり、それがないと「率直な結論」を出せない、とも述べている。ヒックス教授は、もし男性が動いているところを目撃されてから7時間後 (死亡推定時刻の午前2時頃) に死亡したのであれば、午後7時に目撃された男性の動きは、毒物の大量摂取により死亡する前の、最後の痙攣であったかもしれないと指摘している。
陪審の最初の頃にクレランドは「私は、男性は毒物により死亡したのであり、その毒物はおそらくグルコシドであること、そしてその摂取は事故ではないことをほぼ突き止めた。しかし、摂取が男性自身によるものか、他の人間によるものかは分からない」と述べている。これらの発見にもかかわらず、クレランドは ソマートン・マンの死因を決定できなかった。
ソマートン・マンの身元、死因の特定がほとんど成功しないため、当局は「前代未聞の謎」と呼ぶようになり、男性の死因が明らかになることは今後もないのではないか、と考えた。
陪審が終わると、男性の頭部から胸部にかけてが石膏で型取りされ、胸像が製作された。
ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』
陪審が開かれていたのと同じ頃、遺体のズボンのポケットの奥に縫い付けられていた隠しポケットから、"Tamam Shud" と印字された小さな巻紙が発見されていた。文字の翻訳のために公共図書館から司書が招聘され、ウマル・ハイヤームの詩集、『ルバイヤート』の最終頁から破りとられたものであり、「終わった」、あるいは「済んだ」という意味であることが判明した。紙片の裏面は白紙のままだった。
警察はオーストラリア国内中を捜索し、似たような白紙の裏面がある同書の版本を見つけ出そうとした。紙片の写真が各州の警察に送付されたほか、一般にも公開されたことにより、ある男性が、エドワード・フィッツジェラルドによる1859年の英訳『The Rubaiyat』で、1941年にニュージーランドで出版された版本を警察に届け出た。
この版本は、遺体が発見された頃、その男性がグレネルグのジェッティー通りにドアを施錠せずに駐車した際、後部座席に何者かに置かれたものであった。その男性はその本と事件が関係あるとは知らなかったが、前日の新聞を見て関連に気付いた。この男性の身元や職業については、男性が匿名を希望したため公開されていない。
遺体の隠しポケットから発見された紙片。特徴的なフォントが印字されているが、これはウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の希少なニュージーランド版の最終頁から破りとられたもの。
四行詩集『ルバイヤート』は、人間は心行くまで人生を生き、死に際しては後悔のないようすべきである、というのが主題である。詩の内容から、警察は他に証拠がないにもかかわらず、男性が服毒自殺したと仮説を立てた。発見された本は、最終頁の "Tamam Shud" の文字が破り取られており裏面も白紙であった。顕微鏡による検査も、発見された紙片がその本から破り取られたものであることを示していた。
暗号について
本の裏表紙には、アルファベットの大文字が以下のとおり5行、鉛筆による手書きで記されており、2行目には取消し線、または下線のようなものも書き加えられていた。この2行目は、似た文字の並ぶ4行目を書き損じたものと見られ、文字列が暗号であることを示す重要な根拠となっている。
WRGOABABD
MLIAOI
WTBIMPANETP
MLIABOAIAQC
ITTMTSAMSTGAB
暗号の専門家が解読のために招聘されたが文字列を解読することはできなかった。文字列は1978年にオーストラリア国防省も分析したが、文字数が不充分でパターンを解析できず、精神的動揺から反射的に書かれた無意味なものかもしれない、との見解を示した。国防省はさらに、「満足行く答え」を提供するのは不可能だろう、とも述べている。
再度試みられた暗号解読
2009年3月、アデレード大学のデレク・アボット教授らのチームが、暗号解読と遺体を掘り返してDNA検査することにより事件の真相を解明しようと試みた。
「暗号」解読はゼロから再開された。文字の出現頻度からでたらめに書かれたのではないと思われ、でたらめに文字を書く場合にアルコールの影響が書く文字の頻度にどれ程影響するのかも調査された。暗号の形式については、乱数鍵を1回だけ使う形式のアルゴリズムであるという仮説を基に、『ルバイヤート』の詩の形式と同じ四行連であると思われた。コンピューターを使って『ルバイヤート』や『タルムード』、聖書と比較し、文字出現の頻度の統計上の規則を見つけ出そうとした。しかし、文字列が短いため、当時発見されたものと同じ版本と比較する必要があった。その版本は既に1960年代に紛失していたため、研究者達は同じフィッツジェラルドの英訳版を探したが見つけることはできなかった。
その後も60年間にわたり、本に書かれていた暗号解読が陸海軍の情報部門や数学者、占星術師、アマチュアの暗号解読者らに何度も試みられたが成功していない。ゲリー・フェルタス元刑事は2004年に、「The Advertiser」の日曜版に記事を掲載し、文字列最終行の"ITTMTSAMSTGAB" は "It's Time To Move To South Australia Moseley Street..."「そろそろ南オーストラリアのモーズリー通りに行く時だ」という文の単語の頭文字を表しているのではないか、と仮説を発表した (モーズリー通りは元看護師が住んでいた所で、グレネルグの中心の通りである) [8]。コンピューター言語学者のジョン・レーリング (英語: John Rehling) も2014年に分析を行い、文字列が英文の単語の頭文字を表しているという仮説を強く支持した。しかし、多くの文献を調査しても本の文字列に合致するような文例を見つけることができず、これらの文字列は文を略して書かれたものであって暗号ではないため、元の文を解明するのはほとんど無理であろう、と結論付けるに至った。
男性をみて「ほとんど卒倒しそうになった」女性(ジェスティン)との関係
本の裏表紙には電話番号も記されていた。グレネルグの遺体発見現場から400メートル程北のモーズリー通りに住む元看護師のものであることが分かった。その女性の証言では、彼女がその『ルバイヤート』を所有していたのは、シドニーの病院に在勤していた第二次世界大戦中のことであったが、1945年に、オーストラリア陸軍の水上輸送部門に所属する、アルフレッド・ボクソールという名の中尉に、シドニーのクリフトン・ガーデン・ホテルで渡したのだという。
報道されたその女性の証言では、彼女は終戦後にメルボルンに移り、そこで結婚したという。後にその女性はボクソールから手紙を受け取ったが、ボクソールにはもう結婚していると伝えたという。また女性は、1948年に近隣で彼女について尋ね歩く男がいた、とも述べている。女性の結婚後の姓を知らなかったボクソールが、1945年以降に彼女と接触した証拠はない。
女性はリーン部長刑事に、遺体から型取りされた石膏の胸像を見せられているが、誰であるのか断定しなかった。リーン刑事は、女性が胸像を見た時の反応を「ほとんど卒倒しそうな程なまでに完全に驚いた」と記述している。女性が胸像を見た時にも現場に居合わせた技師は、2002年のインタビューでその時の様子を「(女性は)胸像を見るとすぐに目をそらし、二度と見ようとしなかった」と述べている
本に書かれていた電話番号がグレネルグ在住の女性「ジェスティン」のものであることが判明。女性は石膏の胸像を見せられてもそれがボクソール、あるいは他のいかなる人物であるとも断定しなかった。ポール・ローソン刑事はその日の日記の中で女性の事を「トンプソン夫人("Mrs Thompson")」と呼んで、「魅力的な外見」、「とても喜ばれる(ような魅力の程度)」と記述しており、彼女がソマートン・マンと恋愛関係にあった可能性を示唆している。彼女は1948年当時27歳であった。後年のインタビューでローソンは、その日の彼女の様子を評して、とても奇妙であり、ほとんど卒倒しそうであったと述べている。また、現在結婚しているためやボクソールとの関係を夫に知られたくないとして、自分の名前が記録に残らないよう訴えたが、実際には未婚であった。ジェスティンが警察に告げた本名はジェシカ・トムソンで2002年まで明らかにされていなかった
その女性の本名が、本の暗号解読の鍵である可能性
警察は一時、遺体はボクソールのものであると考えたが、彼は1949年7月にシドニーで健在であった。『ルバイヤート』 (シドニーで1924年に発行された版) もまだ所持していることが分かった。その『ルバイヤート』の最終頁から "Tamam Shud" は破り取られていなかった。ボクソールはその頃シドニー近郊のランドウィックのバス停の車両整備部門に勤務しており、自分と遺体の男性との関係について、全く心当たりがないと述べている。ボクソールに渡された『ルバイヤート』の表紙に、女性は詩集の中から第70番の詩を書き写していた。
女性は遺体の男性については何も知らず、死亡する前になぜ彼女の住む町にやって来たのかも分からないと述べている。また、女性は現在結婚しており、遺体の男性やボクソールとの関係が公になると周囲からいやがらせを受ける可能性があるとして、自分の名前が記録に残らないよう警察に訴えた。警察はこの 訴えを認めたため、その後は最も有力な手掛かりの1つがないまま捜査を続けることとなった。
この事件を特集したテレビ番組でボクソールはインタビューを受けている。その中で彼が女性の名前を出している箇所は「ジェスティン(Jestyn)」という名に吹き替えられていた。この名は『ルバイヤート』の表紙に書き写した詩に、女性が添えた署名、JEstyn から取られたものである。だが番組内で本が映し出される時は、署名部分は隠されていた。この名はおそらく女性の愛称であり、彼女はボクソールに対してもその名を名乗っていたと思われる。未解決事件を研究している元刑事のゲリー・フェルタスは、2002年に「ジェスティン」にインタビューを行ったが、彼女が「逃げ腰」で「何も話したがらない」のを感じた。
女性はまた、彼女の家族は自分と事件の関連について何も知らずにいるため、自分の身元や身元特定につながるいかなることも公開しないことを望み、フェルタスもそれに同意した。フェルタスは、ジェスティンはソマートン・マンが誰なのか知っているものと信じている。
ジェスティンは警察に対し結婚していると話しているが、実際には当時未婚であった。警察は彼女の本名を記録に残さなかったため、警察がそのことを把握していたかは分からない。研究者達が事件の再調査を行い、ジェスティンの足取りを追跡したところ、彼女は2007年に亡くなっていたことが分かった。
その女性の本名はそれが本の暗号解読の鍵である可能性があるから重要な手がかりと考えられている。フェルタスは2010年の自身の著作において、女性の夫の家族から本名公開の許可を得たと述べているが、彼がその著作に記した名前も家族の関与により偽名となっている
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ジェスティンの息子の耳が、ソマートン・マンの耳の形と一致
ヘンネバーグ教授はソマートン・マンの写真の耳の形を調べ、彼の耳の形は白人では人口の1–2%にしかいない珍しいものであることに気付いた。彼の耳の形は「上部のくぼみが下部のくぼみより大きい」ものだった。同時に、ソマートン・マンには、上下の顎の側切歯が足りない歯数不足症という珍しい先天的異常があった。このような異常を持つ者は全人口の2%しかいないという。
2010年6月、アボット教授はジェスティンの息子の写真で、耳と歯がはっきりと写っているものを入手した。写真を見ると、ソマートン・マンと同様に彼の耳の上部のくぼみが下部のものより大きいだけでなく、歯数不足症も有していることが分かった。このような一致が偶然発生する確率は、100万分の1~200万分の1と見積もられている。
これにより、ジェスティンの息子 (2009年に61歳で死亡) は、ソマートン・マンとの間にできた子だったが、夫との子と偽っていたのではないか?との推測が流れた。この推測を証明、もしくは否定するためにはDNA検査が必要である。アボット教授は、遺体を掘り返してDNA中の 常染色体を検査して血縁関係を調べることが「パズルの最後のピース」であると考えていた。しかし、2011年10月に法務長官のジョン・ロー(英語版)は、「世間一般の好奇心や広範囲な科学的関心以上に、公共の利益にかなう必要性がない」と述べ、遺体の掘り起こしの申請を却下した。
フェルタス元刑事は、その頃もまだソマートン・マンは行方不明になっている親族ではないかと訴えるヨーロッパの人々から接触を受けていたという。しかしフェルタスは、遺体を掘り起こしてソマートン・マンの家系を見つけ出したとしてもそうした人々の助けにはならないだろうと考えていた。なぜなら、「当時は多くの戦争犯罪人が名前を変え、様々な国へ渡っていたから」であるとフェルタスは述べている。
最近の報道によれば、アボット教授はロマ・イーガンと、ロビン・トムソン(明らかに「ジェスティン」の息子と思われる人物)との間の娘、レイチェルと2010年に結婚した。
コトの真相? テレビ番組 「60 ミニッツ」にて
2013年11月、「ジェスティン」の家族がテレビの時事番組「60 ミニッツ(英語版)」でインタビューに応じた。インタビューに応じたのはプロスパー・トムソンとジェシカの娘、ケート・トムソンであった。ケートは、彼女の母ジェシカが当時警察に尋問を受けた女性「ジェスティン」で、ジェシカはケートに「警察に嘘をついた」と話したという。またケートは、ジェシカはソマートン・マンが誰なのか知っており、「警察よりも上層の人間には分っていると、話していた」とも語った。父のプロスパーは1995年に亡くなっており、ジェシカも2007年に亡くなっている。ケート・トムソンは、ジェシカは移民に英語を教えており、その時に共産主義に関心を持つようになりロシア語も話せたが、ロシア語をどこで、なぜ習ったのかはケートに明かさなかったと指摘し、彼女の母と「ソマートン・マン」は共にスパイだったのではないかと推測している。
ケート・トムソンにはロビンという兄がいたが、2009年に亡くなっている。ロビンの未亡人ロマ・イーガンと娘のレイチェルも同番組に出演し、「ソマートン・マン」はロビンの父、つまり自分の祖父ではないかと語った。イーガン家の人々はジョン・ロー法務長官に対し、遺体の掘り起こしとDNA検査の実施を再度申し立てたと報じられている。一方、ケート・トムソンは兄に対して失礼なことだとして、遺体の掘り起こしに反対している
ボクソールの証言による「スパイ説」
ソマートン・マンは毒殺されたソビエト連邦のスパイであったという憶測と、それによりボクソールは戦時中に陸軍の諜報員であったという噂が広まった。
1978年のテレビ番組で、インタビュアーが「ボクソールさん、あなたはこの若い女性「ジェスティン」に会う前から、陸軍の諜報局で働いていたのでしょう?そのことを彼女には話さなかったのですか?」と尋ねると「話していません」と答えた。また、彼女がそのことを知っていた可能性があるか尋ねられて、「他の誰かが彼女に話していない限りは(知らないはず)」と答えている。さらにスパイ人脈について質問すると、ボクソールはしばらく間を置いた後、「それはまったくメロドラマのような仮説ですね、そう思いませんか?」と述べている。
実際のところボクソールは、第2/1北オーストラリア監視部隊 (NAOU = 2/1st North Australia Observer Unit) に、将官が直接指揮する特殊任務を遂行するために設置された第4水上輸送工兵中隊に所属する技師だった。ボクソールは3か月の間に下級伍長 (英語: Lance corporal) から中尉にまで昇進している。
遺体の埋葬後の情報
1949年に遺体はアデレードのウェスト・テラス墓地に埋葬された。埋葬から数年後、ソマートン・マンの墓に花が供えられるようになった。警察は墓地を去ろうとしているある女性を職務質問したが、ソマートン・マンについて何も知らないと答えた。
同じ頃、アデレード駅向かいのストラスモア・ホテルの受付係が新たに、ソマートン・マンの死亡と同じ頃に数日間、見慣れぬ男が同ホテルの21号室 (または23号室) に宿泊し、1948年11月30日にチェックアウトしていたことを証言した。その受付係は、その部屋を掃除した係が、部屋の中に黒い医療用品入れと皮下注射用の注射器があったのを見つけたとも話している。
ジギタリス中毒と、同様の自殺を遂げたアメリカの財務次官補の死
1994年、ビクトリア州法医学研究所の所長フィリップスは、死因解明のための再調査を行い「ジギタリスによる中毒死であることにほとんど疑いない」と結論付けた。フィリップスは 、ジギタリス中毒の症状である内臓の充血があることや、他に自然死であることを示す証拠がないこと、さらに「顕微鏡でも死因の説明となるものが何も見つからないこと」を指摘し、その結論を支持した。
男性の死の3か月前である1948年8月16日に、アメリカの財務次官補ハリー・ホワイトが自殺した事件でも、死因は同じくジギタリス中毒と報告されている。ホワイト財務次官補はベノナ計画により、ソビエト連邦のために諜報活動を行っていたと糾弾されていた。
南オーストラリア州警察歴史協会には石膏像と男性の毛髪の一部が今も残されている。防腐処理に使用されたホルムアルデヒドにより、遺体のDNAの多くが損傷したため、その後の身元特定作業はさらに難しくなってしまった。その他の証拠類も現存していなものが多く、例えば、遺体の持ち物(茶色のスーツケース)は1986年に破棄されてしまった。また警察の目撃者の証言記録も、長い年月の内に散逸してしまっている。
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その他関連が疑われる事件
マグノソン事件
1949年6月6日、ソマートン海岸の20km北のラーグス・ベイ(英語版)の砂丘の上で、当時2歳のクライヴ・マグノソンの遺体が袋に入った状態で見つかった。遺体の横には父親のキース・ウォルドマー・マグノソンが意識不明の状態で横たわっていた。父親は野ざらしになっていたことによる衰弱状態で苦しんでいる中病院へ搬送された。病院での検査の結果、彼は精神病院へ移送された。
2人は発見の4日前から行方不明になっており、警察はクライヴは発見時、死後24時間は経過していると判断した。2人を発見したのは同地の住人ニール・マクレーであり、「2人がいる場所を前夜、夢の中で見た」と主張した。
検視官はクライヴ・マグノソンの死因を特定できなかったが、自然死ではないと判断された。少年の胃の内容物は、さらに詳しく調べるために政府の研究者の元へ送られた。
少年の死後、母親のロマ・マグノソンは、覆面をした男に脅迫されていたと報告した。彼女は「アデレード北部の郊外ラーグズ・ノースのチープサイド通りにある自宅前で、おんぼろのクリーム色の車にあやうく轢かれそうになり、車が停まると中からカーキ色のハンカチを顔に巻いた男が降りて来て「警察などに近づくな」と告げた」と供述している。さらに、その頃似た外見の男が、自宅の近くで誰かを待ち伏せしているのも目撃されている。マグノソン夫人は、この件は夫がソマートン・マンの身元を特定しようとしていたことに関連している、と信じている。夫はソマートン・マンを、南オーストラリア州のマレー川流域の町レンマークで1939年に同僚だったカール・トンプセンであると信じていた。
同じ頃、ラーグズ進歩協会の秘書、J. M. ガウワーは「もしマグノソンの事件に関与するなら、マグノソン夫人が事故に遭う」という何者かからの脅迫電話を受けていた。また、ポート・アドレード市長A. H. カーティスも 「マグノソンの事件に鼻を突っ込むと、マグノソン夫人が事故に遭う」という脅迫電話を3回受けていた。警察は「電話自体はいたずらで、発信者はマグノソン夫人を脅した男と同一人物ではないか」と疑った。
警察へ脅迫について供述した後にマグノソン夫人は体調を崩し、病院での治療を求めた。
マーシャル事件
ソマートン・マンが亡くなる3年前の1945年7月、34歳のシンガポール人、ジョゼフ・サウル・ハイム・マーシャルの遺体が、シドニー郊外のアシュトン公園で見つかった。遺体の胸の上には『ルバイヤート』が開いて置かれていた。死因は服毒自殺と見られた。遺体の胸に置かれていた『ルバイヤート』はロンドンでメシュエンパブリシング発行の第7版と記録されている。しかし、2010年に行われた調査では、同社が発行した『ルバイヤート』は第5版までしかなかった。この矛盾は今も解明されておらず、遺体の上に置かれていた『ルバイヤート』の版本を特定するのは不可能とみられている。マーシャルの検視陪審は1945年8月15日に開かれたが、それから13日後、陪審での証人の1人、グウィネス・ドロシー・グラハムが自宅の浴槽内で死亡しているのが発見された。手首が切られていたが死因は溺死であった。