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新 鼻 袋 ~第四夜目~
440 :ゴーストハンター:04/04/20 23:54 ID:2JrWst+2
「人魚」
学生時代、私は友人のUと二人でオーストラリアを旅行した。
クイーンズランド州のケアンズに滞在中、日本人向けの日帰りダイビング体験ツアーの話を聞いて、私は飛びついた。
安くはなかったが、なんたってグレートバリアリーフである。
「俺、パース」というUを捨て置いて集合場所に行ってみると、参加者は私を含め6人だった。
中年夫婦が2組と、私と同年代くらいの女性が一人。
「お一人ですか」
ニヤついてなかったろうな。
ロングヘアの可愛い子だからって。
彼女の反応が鈍かったので不安になった。
やがて彼女はのどの奥から「あうあう」という声を出して身振り手振りで、喋れないことを示した。
「あ、こりゃすんません」
我ながら間抜けな反応をしてしまった。
恥ずかしくてしばらくは気まずい思いをした。
そして(あんな可愛いのに、かわいそうだな)と、そんなことばかり考えていた。
441 :ゴーストハンター:04/04/20 23:55 ID:2JrWst+2
「お前も失礼なやつだな」
ホテルでUがあきれたようにいった。
こころなしか日焼けがひどくなってるようだ。
「で俺を炎天下で待たせた原因のお姫さまは、それから?」
「うん、それで・・・」
トロピカルドリンクを飲み干して、私は続けた。
シュノーケリングをみっちりやったあと、実際に潜ることになった。
参加者二人一組に、インストラクターがつく。
私は必然的に彼女との組だった。
お尻から一気に海に飛び込むと、反り返った私の眼前に極彩色の珊瑚礁が広がった。
こんな透明な水を私は見たことがない。
学校のプールの方がよほど濁っている。
その感動をどう表現すればいいか、頭の中で言葉にならない思いが駆け巡っていた。
その時である。
彼女が、私の方を見て両手を激しく動かしはじめた。
442 :ゴーストハンター:04/04/20 23:56 ID:2JrWst+2
手話だ。
だが私にはさっぱりわからない。
彼女は構わず、目の前の黄色い魚を指差してさかんに何かを喋っていた。
そして目に映るものすべてを、その両手で表現しようとしていた。
不思議な感覚だった。
ついさっきまで彼女を障害者として、はからずも哀れみの感情で見ていた私が、今はまるで逆の不自由さを感じていた。
彼女はまるで、本当に住処に還ったように躍動して見えた。
彼女は解き放たれたように自由に喋り、素晴らしいフォームで青い海を泳いだ。
私は呆然と見ているだけだった。
喉になにかつかえたように息苦しく、思い通りにならない重い体をうとましく思った。
!!
シュノーケリングが上手く行っていないことに気づくのが遅れたのは、そんな抽象的なことを考えていたからだろう。
苦しくて私はもがき始めた。
インストラクターが気づいてすぐにこちらに泳いで来たが、それよりはやく彼女が私の手をとった。
そして彼女と私はシュノーケルの泡を追うように、海面に輝く太陽に向かって泳いだ。
永遠にも感じた時間だった。
ぼやける頭で、このまま続けばいいと、そう思った。
443 :ゴーストハンター:04/04/20 23:58 ID:2JrWst+2
「丘に上がった詩人だな」
「ほめてるのか」
「けなしてる」
Uは笑っていった。
「それにしても、本当にまるで人魚姫だな。アンデルセンの」
「そう、そうなんだ」
「お前が人魚姫に会ったよ、ってバカなこというから何を言い出すかと思ったが」
Uは日焼けした頬をさすりながら何かを思案していた。
「一人で説明にも参加してるんなら、耳は聞こえるんだよな。
つまり声だけ失くしたってわけだ。人魚姫だと魔女の薬で声と引き換えに足をもらったって話だっけ」
私はこくりと頷いた。
「で・・・最後は泡になって消えた、と」
そのくだりは初めに話してある。
私が船に引っ張りあげられて、船室で休んでいる間に彼女は姿を消したのである。
潜ったまま、どこに泳いでいったのか分からなくなったそうだ。
私たちがポートに戻ると、すぐに別の捜索隊が出動した。
わけのわからないまま私は、海上保安隊の事情聴取をうけて夜になってやっと開放された。
444 :ゴーストハンター:04/04/20 23:59 ID:2JrWst+2
「で、俺は待ちぼうけをくわされ、日焼けを悪化させ、さらにアイスを3個も食って腹を壊したと」
Uは重い空気を払うように陽気にいった。
高速艇の捜索でも彼女は見つからなかった。
滞在先として記入されていたホテルに彼女の名はなく、その名前すら偽名とわかった。
彼女は初めからこうすることを決めていたようだった。
「なんでだったんだろうな」
ぽつりといった言葉に、Uは反応した。
「童話の人魚姫だと、王子を殺せば元に戻れると魔女にいわれたものの、
他国の王女との結婚の前に身を引いて、自ら泡になったって話だな」
「じゃあ彼女は・・・」
「いや、案外お前が王子かもよ。王子の知らないところで話は進むからな」
「じ、実は心あたりが」
「あるのか」
「日本を立つ前に、久しぶりにやった釣りで坊主寸前のところ、一匹だけ釣れたボラを・・・」
「離したのか! なんてこった、それだ!」
「ボラか」
「うむ、ボラだな」
445 :ゴーストハンター:04/04/21 00:00 ID:Ga302tbB
Uはいいやつだ。
ショックで混乱していた私は、ようやく肩の力が抜けた。
ホテルの部屋のベランダに出た私は、潮風に目を細めた。
背中では室内照明が消える音がした。
静かだった。
遠くで波の音が聞こえる。
地元警察はこの失踪事件を事故と捉えるだろうか。
ヒトナ ヤマモト
を彼女が『山本人魚』と書いた、その思いを彼らは分かってやるだろうか。
本物の人魚姫のような背景があるかどうかは分からない。
しかしその生き方を自らに重ね合わせていたことは確かだろう。
私は波の音に耳を澄ませながら、人魚姫が泳ぐ暗い海をいつまでも見つめていた。
「死者の名」に続く