師匠シリーズ

【師匠シリーズ】桜雨

参照元:http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=1680946

大学一回生の冬だった。
駅の構内で甘栗を売るバイトをしていた俺は、鼻唄をうたいながら割れ栗を見つけては廃棄廃棄と呟きつつしゃがんで口に放り込む、ということを繰り返していた。
甘栗にはシーズンがあり、中国から新栗が入荷されてくる秋から冬にかけて、それまでの古い栗から味がガラリと変わり、甘みが俄然強くなる。これが美味い。実に美味い。
駅の裏で甘栗を焼く仕事もしていたので、皮が弾けて黒い石が入り込んだ割れ栗を廃棄するという名目のもと、人の目もないテントの下で片っ端から食べまくってもいた。しかしそれだけ食べても太る気配がなかった。立ち仕事をしているから、というのもあるが、一番の要因は『お通じ』ではないかと思っている。栗に含まれている食物繊維がそうさせるのか、とにかく快便なのだ。
そんな甘栗ライフなバイト中の俺は、売り場のハコの中から知っている人が通り過ぎるのを見かけた。
京介さんというオカルト好きのネット仲間だ。
「バイト帰りですか」と声をかけるとこちらに気づいて振り向いた。ダッフルコートに、赤いマフラーをしている。
京介というハンドルネームながられっきとした女性であったので、甘栗や焼き芋のごときものは好きに決まっている。
「新栗ですよ」とにこやかに言うとノコノコと近づいてくるではないか。ふふふ。
だが買わせようという腹ではない。
最近京介さんの家に遊びに行くたびに、洗面台のところにある体重計の針を少しずつ進めるというイタズラを敢行していたのだが、それがバレてブッ飛ばされたばかりだった。
その間、会うたびに心なしかげっそりとしていった様子を見ていた俺は、彼女もそれなりにウエイトを気にしているのだと知ったのだった。
であるので、お詫びも兼ねて甘栗をおすそ分けしようと思ったのだ。しかしさすがに売り物は配送量で管理されていたので大量に人にあげるとバレてしまう。
「少し時間ありますか。もうすぐバイトあがるんで」
目配せで俺の意図を読み取ったのか、京介さんは素直にうなずいて、すぐそばで行われていた催事を物色し始める。
それから十分ほどして定時となったので店を片付け、売り上げをJRの社員に確認してもらっていると、すぐ目の前で「松尾先生!」という京介さんの声が聞えた。
これから改札に入ろうとする人の中に知った顔を見つけたらしい。いつもは淡々としているその声が、どこか踊るようなリズムを帯びている気がして意外な感じだった。
先生と呼んだ人と、そのまま立ち話を始めたようだが、俺はもう店長のところへ行かなければならない。
その場を立ち去りながら、京介さんのようなかつての不良娘が学校の先生と親しげに喋っているのが不思議でならなかった。卒業後には軋轢も懐かしい思い出に変わるということか。
店長に今日の報告をした後で、新栗をお世話になっている人にあげたいと言うと、大量に袋につめてくれた。もちろんタダだ。見た目は小男だが、なかなか太っ腹な人だった。それを持って駅の地下に戻ると、ちょうど京介さんが改札をくぐる『先生』に手を振っているところだった。
「栗です。あまったんで、どうぞ」
近寄って手渡すと、「ありがとう」と受け取りながら、ずっと改札の方を見ている。
俺もその後ろ姿が人の波に消えていくところを見つめる。
「中学か、高校の時の先生ですか」
「ああ。高校の時の担任だ。松尾先生。私たちはザビエルって呼んでたけど」
京介さんは懐かしそうに目を細める。
「久しぶりだったけど、変わってないな」
京介さんは高校の授業などサボってばかりだったはずなので、その当時の担任ならどう考えても衝突をしていたはずだ。
訊いてみると、やはりそのザビエルは学校生活の敵であり、よく怒鳴られたのだそうだ。そのころのことを思い出してだんだん腹が立ってきたのか、憎々しげに腕組みをした。手に提げた甘栗の袋がガサリと音を立てる。
「ザビエルって、面白いあだ名ですね」
俺がそう言うと、京介さんはふっ、とやわらかな表情になり、「そうだな」と口を開いた。
そうしてゆっくりと思い出を紡ぐように語り始めたのだった。

            ◆

京介さんから聞いた話だ。

桜が咲いていた。
踏みしめた土の感触。足の裏に感じる柔らかな弾力が、凍てついた冬が去って行ったことを告げている気がする。
家の近くの川沿いに並木があり、それがなんの木なのかいつもは意識することはないのだが、肌寒さが薄れ、吹き付ける風の中にもなにか柔らかいものが通ったある日、気がつくとその枝の先に白い花が咲いていた。
立ち止まって見上げていると、なんとも言えない気持ちになる。どうして桜だけが特別なのだろう。春という、別れと出会い、そして終わりと始まりの節目の時期に咲く花だからだろうか。
白の中に数滴の血を混ぜたような、見る人を落ち着かなくさせる、ほのかな色をしているからだろうか。
私は寒いのは嫌いだ。
寒いくらいなら暑い方が良い。十一月ごろに感じる肌寒さは、これから否応なしに日々寒さが増していく死刑宣告のように感じられて、救いのない気持ちになる。
でもそれは実際には死刑宣告ではなく、懲役刑であって、その刑期がついに明ける日がやってきたのだった。
もちろん、肌触りが変わったとは言っても、今日の寒さもまだまだ私には辛い。
それでも、桜が咲いているというそれだけで、なにもかも許して生きていける気がする。

中学校を卒業して、地元の女子高に入学したばかりのころだ。
着ている制服が変わっただけで、中身はなにも変わっていないはずなのに、周囲に求められるものは随分変わってしまった。親からは「もう高校生なんだから、しっかりしなさい」という小言を聞かされることが増え、学校からは「高校生の自覚」という、よく分からないものを持てと言われる。
くだらない。
そう思う一方で、なにか自分でも変えていきたいという意識が確かにあったのだと思う。
私は高校生になったことを期に、タバコの本数を減らすことを密かに心に誓った。さっそく校舎の裏に、人気のない絶好のスポットを見つけた時も、本数は控え目にしたのだ。
気分が良かった。
友だちも出来た。ヨーコという、よく喋る元気な子だ。その元気の良さと行動力に振り回されているというのが本当のところだけれど、悪い気分ではなかった。
そうして、私の高校生としての日々がゆっくりと進み始めたある日、下校途中に校門から出たばかりのあたりで大きな囃したてるような声が聞こえて、思わず顔を上げた。
「あ~、ザビエルがコレと歩いてる~」
私のすぐそばにいた二人組の女子生徒が指を立てながら、ちゃかしたように歓声を上げている。上級生のようだった。
その視線の先を見ると、見覚えのあるハゲ頭が目に入った。
「教師に向かって、からかうようなことを言うんじゃない」
そんなことを捲し立てながら、ハゲ頭は怒ってこちらにやってこようとした。
二人組はさほど慌てた風もなく、わざとらしく「キャー」と言いながら、校舎のほうへ逃げ戻って行った。
ハゲ頭は「まったくあいつらは」と吐き捨てるように呟いたあと、連れの女性にヘコヘコと頭を下げた。
「すみませんね、野田先生」
女性の方はいいえと言いながら笑っていた。
美女と野獣だと、私は思った。
はた目にもつり合いが取れていないし、現に相手にされていないように見えた。その卑屈な態度も逆効果だと気付かないのだろうか。
遠くないであろうその失恋を思うと少しかわいそうになった。

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ザビエルは私のクラスの担任だった。
もちろんあだ名だが、この『先生のあだ名』というやつは先輩から後輩へと代々受け継がれるもののようだ。
一度その学校へ赴任すれば、最初につけられたあだ名がずっとついて回るらしい。
ザビエルも、最初からザビエルだった。
部活の先輩がそう呼んでいるのを聞いたクラスメートが広めて、三日目には完全にクラスに定着してしまった。
ザビエル自身もそう呼ばれていることは知っているし、諦観というのか、面と向かって呼ばれでもしない限り、いちいち取り締まろうという気はないようだった。
私はこのザビエルには少々含むところがある。
高校生になって最初の土曜日に、私はヨーコと二人で繁華街をぶらついていたのだが、いきなり後ろから声をかけられた。
振り返るとザビエルがいて、「こんなところでフラフラするんじゃない」とか、「街には誘惑が多いから」とか、そういうくだらない説教をはじめた。
生徒指導の担当でもないくせに、たまたま街で出会った私服の生徒を、どうして目の敵にするのだろう。
別になにか悪さをしようというわけでもないのに。少なくとも私の善悪感においてはだ。むしろそっちこそなにかやましいことがあって、その照れ隠しなんじゃないかと勘ぐってしまう。
勘ぐっただけではなく、ヨーコはそれを口にしたので、説教が長くなってしまった。
そんなこともあって、ザビエルは私の敵だった。タバコも学校では相当に気をつけて吸わないといけなかった。
しかし、あとで分かったのだが、ザビエルは偶然街にいたのではなく、いつも繁華街を警戒して歩いているらしい。
そういう担当でもないのに、自発的に生徒の非行を未然に防ごうという、実に素晴らしい教師としての自覚、そして行動だった。
こういう一方的な善意が一番迷惑だ。
一度平日にホテルから出るところで出くわして心臓が止まりそうになったことがあった。こちらが先に見つけたので、すぐに身を隠して事なきを得たが、こんなところまで張っているとは、本当に気が抜けない「センコー」だった。

私の学校は街なかにあり、その近くの公園にホームレスが一人住み着いていた。
みんなからはヒロさんと呼ばれていた。
わずかな遊具がちらばる公園の一番隅に段ボールで陣地を張って生活していた。
登下校の際に街を抜けるルートを取ると、必ずその公園の前を通るのだが、はじめはこういう生活をしている人自体が珍しくてしげしげと見ていて、やがてそのヒロさんのキャラクターに惹かれるようになった。
テレビで見る都会のホームレスたちは、独自の世界、そしてテリトリーを作っていて、自分たち以外の社会と目に見えない壁を形成しているように思える。どちら側から作った壁なのかは分からないが、それを越えてくるものには警戒し、必要がなければその壁の向こうの世界は、「ない」ものとして視線も向けない。少なくとも私にはそう感じられた。
しかしこのヒロさんは、いつも公園の前を通る人に挨拶をするのだ。
明るい声で「おはようございます」と。
私も初めて声をかけられたときは、人の生活空間をじろじろ見ていたという罪悪感で、返事ができなかった。
ただヒロさんの方には嫌味や悪意がないのはすぐ分かった。いつもにこにこしていて、その前歯が欠けた顔を見ていると、こちらまでつられて笑ってしまう。
ただ、昼でも夜でもその「おはようございます」という挨拶が変わらないので、「おや?」と思った。
そして、気がついてそういうフィルターを通して見ると、納得した。
ヒロさんには知的障害があった。
「おはようございます」だけは言い慣れているせいか流暢なのだが、それ以外の言葉を喋ろうとするとひどくどもった。吃音症と言うのか。
たまに他の人から話しかけられると、「うん、うん」と言ってにこにこするだけで、どこまで理解しているのかよく分からない。
都会と違って、そうした人を対象にした日雇い仕事や炊き出しなどもないはずだった。
空き瓶を拾って歩いているのを見たことはあったが、それだけで食べていけるのだろうか。
出来あいの弁当を食べているのを見たことがあるが、近所のコンビニやスーパーから残り物を分けてもらっているのかも知れない。
しかし私がこの不思議と追い出されることのない奇妙な公園の住人に惹かれた本当の理由は、彼の右手にあった。
ヒロさんはいつも右の手のひらを握りしめている。拳骨を作っているというよりも、何かを握りこんでいるような格好だった。
最初は何を持っているのだろうと不思議に思っただけだったが、やがていつ見ても同じように握っていることに気がついた。
「おはようございます」と挨拶をする時も、空き瓶を拾って歩いている時も、弁当を食べている時も、公園の手洗い場で顔を洗っている時も、いつもその右手はグーの形に握ったままだった。
指や手のひらがまったく使えないから、ほとんど右手は役に立たない。左手で何かをする時に、添えるくらいだ。
拾ってきたものをボロボロの布袋に詰め込もうとしている時に、右手が使えないせいでなかなか上手くいかず、見ているこっちがもどかしくなった。
昔読んだ野口英世の伝記からのイメージで、火傷かなにかのせいで指が張り付いて治らないのだろうかとも思ったが、その指の血色の良さからすると、どうも違うようだった。
「あー、それ、知ってるよ」
真相を教えてくれたのはヨーコだった。
「うち、お母さんもこの学校の卒業生なんだけど、そのころからいたらしいよ」
母親から聞かされたというのはこんな話だった。
ヒロさんは昔、幸せの妖精を捕まえたのだそうだ。その右手で。手のひらを開けると妖精は逃げてしまうので、逃げてしまわないようにいつも右手は握ったまま。
朝、昼、晩、起きている時も、寝ている時も、いつもいつでも。
「だってさ。いや、噂じゃなくて、ホントに本人がそう言ってたの聞いたんだって。うちのお母さん」
幸せの妖精か。
私はそれを聞いて、心のどこかに針が刺さったような痛みを覚えた。
ヒロさんは、その幸せの妖精を逃がさないようにずっと手を握りしめているのか。そのせいで、きっと仕事もできなくなっただろう。ホームレスをしていく上でも、具合の悪いことばかりあったに違いない。
それが幸せな人生なのだろうか。
「バカよ、バカ。でもロマンティックね。幸せの妖精をつかまえたホームレス!」
ヨーコは空に手をかざして、太陽をつかもうとする仕草をした。
私は以前読んだ星新一のショートショートを思い出していた。
見知らぬ鍵を拾った男が、その鍵で開けることのできる扉を探して人生を送る話だ。
まだ見ぬその扉の向こうを夢見ながら。
扉が見つからないまま、やがて年老いた彼はついにその鍵に合う扉を自ら作った。
そして開かれた扉からは女神が現れ、望みをかなえてあげようと言う。
彼は答える。「老人に必要なものは思い出だけだ。そしてそれは持っている」と。
いつかその鍵で扉を開けることを夢見て生きてきたその人生そのものが、他の何にも替えがたい大切なものだったということか。
美談だと思う。しかしヒロさんの場合はどうだろうか。
ヒロさんが、拾った大量の雑誌を道端でぶちまけてしまったのを見たことがある。左手だけで不器用に一冊一冊拾っていたその小さな後ろ姿を思い出して、少し哀しくなった。

四月も半ばを過ぎた。
新しい集団生活に最初は硬かったクラスメートたちも少しずつ打ち解けてきたようだ。
もちろん私には関係のない話だ。私は気の置けない友人が一人いればそれでいい。
そんな私とは違い、ヨーコは充分に社交的で、今後クラスの中心になっていきそうな垢抜けたグル―プの子とも普通におしゃべりをしていた。
しかし私の性格を見抜いたのか、そのグループに無理やり私を繋ごうとはせず、放課後には「いっしょに帰ろ」と私の所へ一人でやって来るのだ。
変わらないでいいよ。
そう言われているような気がした。
並んで歩きながら一方的に喋るヨーコの声を、どこか心地良く聴きながら、私も変われるだろうかと、そんなことを思っていた。
そのヨーコが「今日は用事があるから」と先に帰ってしまった日、私は一人で学校からの帰り道を歩いていた。公園の前を通りがかった時、数人の男の声が聞えてきた。
公園の中に他校の制服を着た数人の男子学生がたむろしていて、下品な笑い声を上げている。たまにこの辺りでだべっているのを見かける連中だ。いわゆる不良グループなのだろう。髪か、柄Tか、ピアスか。示し合わせたかのように全員なにかしらの校則違反をしている。わざわざ我が女子高の近くでたむろするのは、それに不純異性交遊を加えたいからだろうが、現にうちの生徒らしい女子がそこに混ざっているのを何度か見かけたことがある。揃ってタバコを吸っていた。仲の良いことだ。私もタバコは吸うが、その時間は誰にも邪魔はされたくない。
ようするに彼らにとってタバコを吸うという行為は、それ自体が目的なのではなく仲間を作り、そしてそれを維持するためのイニシエーションなのだろう。
なんにせよ私には関係のないことだ。
その時も、横目で眺めただけで通り過ぎようとした。
だが、彼らが公園の奥の段ボールハウスからヒロさんを引きずり出そうとしているのが目に入り、思わず足を止めた。
「センパイ、センパイ。人生についてちょっと教えてくださいよ」などとからかいながら、ヒロさんの家を足蹴にしていた。ヒロさんはうーうー、と呻きながら両手を合わせて許しを請うような仕草をしていたが、右手は例のごとく拳を握ったままなので奇妙な格好になってしまっていた。それを見てまた彼らは喜んで囃し立てる。
「おい、オッサン。それ、なんだよ」「立会い前の構えかよ」「ショーリンジ、ショーリンジじゃね?」「すげー。やる気満々」
そうして一人がヒロさんを小突いた。ひょー、という頭の悪そうな歓声が上がる。
私は公園に足を踏み入れた。
「ねえ。やめたら」
不良たちは揃って私を見る。
「はあ?」
一人が顔を突き出しながら一歩前に出る。一際頭の悪そうなやつだ。
しまった。なんで首突っ込んでんだろ。
思わず周囲を見回すが武器になりそうなものはない。棒切れでもあれば三、四人ならなんとかなるんだが…… すでに後悔し始めている。
なにか下品なことを言いながら、男が顔を近づける。私は緊張していて、意味が頭に入らない。
ヨーコならこんな時どうするだろうか。ふとそんなことが浮かんだ。
きっと痴漢だ、痴漢だと大きな声で叫ぶだろう。そして近所の家から顔を覗かせた人に、助けてと手を振るのだ。
無理だな。私には。
役にも立たない結論が出たところで、目の前の男たちがヘラヘラ笑いながら地面に唾を吐いて私の横を通り過ぎて行った。
助かった。そう思うとホッとして膝の力が抜けた。彼らはそのまま公園を出て行ったようだ。
ヘタに口答えなどしなかったから良かったのだろうか。何を言われたのか良く覚えていないのだが。
そうだ。ヒロさんは?
前を見ると、草むらに蹴飛ばされていた数少ない家具である鍋を、小さな身体を折り曲げて拾っていた。
「大丈夫?」
「うんうん」
私の言葉に振り向いて照れくさそうに頷いている。いつも公園を通りがかるたびに『おはようございます』と挨拶をしてくれているが、私のことは覚えてくれているのだろうか。
近くのベンチに腰掛け、ポケットから煙草を取り出す。「ヒロさん、吸う?」
私の申し出に、目を丸くして左手を左右に振った。どうやら元々吸わないらしい。勝手なイメージで、ホームレスの人たちはみんなタバコと酒が唯一の生きがいみたいになっているものだと思っていたのだが。
公園の手洗い場で鍋を洗い始めたヒロさんの小さな背中を見ながら、咥えたタバコに火をつける。
「ヒロさん。それ、右手、なにを握ってるの」
口にしてから気づいた。さっきの不良どもと同じようなことを言っている。そんなつもりはないのだが。
慌てて、別に嫌だったら答えなくていいよ、と付け足した。
するとヒロさんはニッコリ笑うと、大事なものだ、というようなことを言った。
「幸せの妖精?」
うんうん。
前歯の欠けた顔で笑う。
ヨーコの言っていたとおりだ。ヒロさんは、ずっと昔につかまえた幸せの妖精を逃がさないためにその右手をいつも握り締めているのだ。
「ねえヒロさん」
祖父くらいの歳のその公園の住人に、いったいなにを言おうとしたのか。高校に上がったばかりの小娘が、訳知り顔で他人の生き方を否定するようなことを?
私は口をつぐみ、自分の手のひらを見つめる。ヒロさんは不思議そうにしている。
ふとこんな話を思い出した。
妖精が現れることで有名なある村を訪れた人が、村人にこう訊ねた。
『あなたは妖精を信じますか』
村人は『いいや、信じない』と答えた。
さらに彼は出会った村人に次々と同じ問い掛けをしたが、みんな同じように『信じない』と答えた。
不思議に思った彼は、最後に出会った村人にこう訊いた。『この村には本当に妖精が現れるのだという噂を聞いて訪ねて来たのですが、あなたがたはみんな妖精を信じないと言う。これはいったいどういうことでしょう』
村人は答えた。
『あたりまえさ。このあたりの妖精はみんなひどい嘘つきなんだ。誰が信じるものか』
……そんな話だ。
信じる、という言葉がダブルミーニングになっているジョークだ。
新調したばかりらしい綺麗な段ボールハウスは朝方に降った雨でもう湿ってしまっている。
幸せの妖精か。ヒロさんがつかまえたのが、本当にそうであればいい。
そう願わずにはいられなかった。

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「小学生みたいなことを」
帰りのホームルームの時間にザビエルはぼそりと言って黒板消しを掴んだ。
黒板の隅に傘の絵があり、その下に『松尾・野田』という名前が書いてある。さっきザビエルが教室に入ってくる前にあの辺でたむろしていた連中の誰かが書いたのだろう。
いい加減、からかわれている方が飽きてしまったのか、最近は反応が鈍い。溜め息をつくだけで、犯人を探そうともせず、サッサと消してしまった。何ごともなかったかのように連絡事項を伝えて、日直に合図をする。
起立、礼、着席、の号令の後で「ああ、それから、山中はこのあと職員室に来なさい」と付け加えた。
なんだ。もうタバコがばれたのか。
私は少し緊張した。
「ちひろちゃん、大丈夫?」
ヨーコが近寄ってきた。「大丈夫、大丈夫」気楽に手を振るが内心はそうでもなかった。するとヨーコは心配そうに余計なことを教えてくれた。
ザビエルが、ある特殊な性癖を持っている、という噂である。ようするに女子高生が好きらしい、というのだ。
「ふ」
鼻で笑ってしまった。
ザビエルは元々バレーボールをやっていて、国体にも出たことがあるような選手だったのだが、この高校のバレー部の顧問には、すでに大先輩にあたる教師が居座っていた。教師は必ず一つは部活の顧問を割り当てられるようになっているので、ザビエルはしぶしぶ新聞部の顧問を受け持っているが、ほとんど放し飼い状態で全然部室にも顔を出さないらしい。
ヨーコいわく、合法的に女子生徒と肉体的接触ができるバレー部には今でもこだわりがあり、今の顧問のヒヒジジイを蹴落とす策を練っているとのことだった。また暇な分、生徒指導の担当のごとく、街を徘徊して我が校の生徒の弱みを握ろうと精力的に活動している……
まことしやかにそう教えてくれた。
弱みか。
タバコがばれたとして、即座に停学をくらうのと、なんらかの取り引きを吹っかけてくるのと、どちらがマシだろうか。
私はヨーコの頭を撫でてやり、職員室に向かった。放課後の職員室は、まだ教師たちが机に大勢残っていた。ちらほらと生徒の姿も見え、ざわざわした雰囲気に包まれている。
「お、山中。こっちだ」
ザビエルが手招きしている席へ向かうと、「あー、なんだ。ちょっとこっちへ」と歯切れ悪く立ち上がり、奥に設えられた応接室へ連れて行かれた。
いよいよまずいな。先を歩く背中を見ながらそう思った。
テーブルの前に座ると、ザビエルは溜め息をついて口を開く。
「見たぞ」
動揺する。が、それをなるべく気取られないように平静を装った。なにを見たのか分からないが、ただのカマかけの可能性もある。
「なんのことですか」
「こないだ、街で」
じっと試すように私の顔を見る。
街? 校内で吸っているタバコのことではないのだろうか。
「その…… そういうホテルが並んでいるところでお前の姿をだ」
「なんのことか分かりません。家に帰る近道にそういう通りがありますけど」
焦る。このあいだホテルから出るときに先にザビエルを見つけて隠れた時があったが、あの時向こうにも気づかれていたのだろうか。
「…………」
真正面から目の奥を見つめられる。逸らしたら負けだ。睨まないように、しかし思い切り目に力を入れて見つめ返した。
しばらくそのままの格好で二人とも動かなかったが、やがてザビエルの方が根負けしたように息を吐くと「分かった」と言った。
「あの辺は治安が悪い。通らないようにしなさい。変な連中に声をかけられたことはないか」
それからは何度も聞いたようなお説教を繰り返し、ようやく開放されそうになった。雰囲気を察して腰を浮かしかけたところで、ふと思いついてこちらから訊いてみた。
「先生。街へ行く時に通る公園で、ホームレスがいるでしょう」
「ああ。いるな」
「珍しいですよね。この辺でホームレスなんて」
ザビエルもこの辺が実家だと聞いたことがあった。昔からヒロさんのことを知っているのかも知れない。
「人には事情があるんだ。じろじろ見たりするんじゃないぞ」
どうやら知ってはいるようだ。しかし不機嫌そうにあっさり話を打ち切った。大人にとっては、ホームレスなど地域の不安要素に過ぎないのだろう。関わりたくない、壁の向こうの住人だ。まして教師にとっては、生徒に教えたくない社会の矛盾そのものなのかも知れない。
「そんなことより、山中。おまえちょっとその髪、長すぎないか」
ザビエルはそう言いながらいきなり腕を伸ばして、私の頭を触ろうとした。
「触るな」
思わず鋭い口調でその手を払う。バシンという強い衝撃があった。
しかしすぐに我に返り、「すみません」と謝った。せっかく終わりかけた説教が伸びるかも知れない。
ザビエルは驚いた様子で振り払われた自分の手と私の顔を交互に見ていたが、「とにかく、髪はあまり長くならないようにしなさい」と、取り繕うように言って立ち上がった。
私はホッとして頭を下げる。よかった。
でもヨーコのせいだ。女子生徒が好きなどと変なことを言うから、とっさにそれが頭をよぎってしまった。自分にもあんなに嫌悪感があるなんて思わなかった。
頭を軽く下げて職員室を出て、教室に戻ると、まばらになったクラスメートたちの中にヨーコの姿もあった。どうやら待ってくれていたらしい。
「大丈夫だった? 一緒に帰ろうぜい」
その頭にチョップを食らわす。
「痛っ」
「街、行こう」
教師の説教など、知ったことではない。髪は伸ばすし、タバコは吸うし、不良行為も色々する。そのどれも、自分が自分であるために、あたりまえにしているだけのことだ。自分の中で、守るべき善悪の境界を持って、何が悪いんだ?
「なによう」
ヨーコは頭を庇いながら笑っていた。

初々しい四月も終わり、私たちもどうやらこの高校生活とやらがしばらく続くらしいということを実感し始めていた。
学校の外にも、ようやく暖かさが出てきた。今年は桜の開花も遅く、街を歩く人たちの服装もどこか重たかったが、月が替わると同時に明るい色合いの軽めのよそおいが見られるようになった。
ペコリ、という紙のへこむ音がする。
放課後、校門のそばに隠れるように立って表通りを伺いながら紙パックのコーヒー牛乳を飲みつつ、そんなことを考えていた。
今日はヨーコが早退している。風邪を引いたらしい。しかしちょうどよかった。あの騒がしいコがいると、今日は色々とめんどくさい。
コーヒー牛乳を飲みきったころ、ザビエルの姿を見つけた。帰宅する生徒たちの挨拶に、「まっすぐ帰れよ」などと返しながら街の方へ足を向けている。
私はその背中が見えなくなる前に校門から出て、そっと後をつける。尾行だ。刑事ドラマでやっているようなやつ。
そんな暇なことをしているのには少し理由があった。
あの職員室に呼び出された時以来、私はザビエルにかなりマークされていた。二週間と経たない間に、街で二回も出くわしたのだ。特に後ろめたいこともないのに、そのたびによく分からない論法の説教をされて帰宅させられた。それだけではなく、校内でもなにかにつけて声をかけてきて、実にうっとうしかった。幸いタバコは控えるようにしていたので、そちらはなんとかバレてはいないようだったが、その、どこにいても安心ができない息が詰まる感じは凄く不快だった。
そうこうしているうちに、私は気づいた。
ザビエルが街を巡回しているのは、新聞部の顧問をするのが嫌で暇にまかせてやっていると言うには、異常とも言える頻度だということに。ほぼ毎日なのではないだろうか。
これはおかしい、と思った。なにか隠しているような気がする。生徒にも、あるいは学校にも?
そう思った私はザビエルを尾行してみることにしたのだ。それが第一の理由。もう一つは、やはり私も暇だということだ。
さすがに運動をしていただけあって、ザビエルの歩き方はシャキシャキしている。見つからないように離れて後をつけているが、何度も見失いそうになった。
特に街へ抜ける手前の公園のある道は見通しが良く、そのせいでかなり離れて歩かないといけない。街へのルートはいくつかあったが、そこを選んだところまでは確認したので、あとはどうせ一本道だ。後でダッシュすればいいか、という軽い気持ちでザビエルの姿が見えなくなったのを見計らいながら進んだ。
公園の前を通りがかった時、その入り口のあたりに空き缶がいくつか転がっているのが見えた。スナック菓子の袋も地面に落ちている。誰かがだべっていた跡だ。またあいつらか。そう思って公園の奥の方を覗き込むと、ヒロさんのダンボールハウスはなにごともなくそこにあり、荒れたような形跡は見当たらなかった。
少し安心して、ザビエルの尾行を続けようとした時、空き缶が転がっている場所に、見慣れないものが落ちているのに気づいた。
オレンジ色の小さなビニール製の袋だ。空き缶の影に隠れるようにしてそこにあった。食べ残しのお菓子でもなさそうだったので、なんだろう、としゃがんで手に取る。
ふいに遠くから防犯ブザーのような音が聞こえた。
道の先だ。
袋をポケットに放り込んでそちらに向かった。すると電信柱のあたりに学ランを着た数人の男子がたむろしているのが見えた。目を凝らすと、小さな携帯用の防犯用具を手に、ふざけあっているようだった。
あいつらだ。
思わず緊張する。いつかヒロさんに絡んでいた不良グループだった。顔を覚えられていたら、面倒なことになるかも知れない。
しかし引き返して別の道を通るとなるとかなりの時間ロスだ。ザビエルはすでに先に行っている。これでは完全に見失ってしまう。
しかしそもそもザビエルがここを通ったのなら、ああいうやつらこそ「家に帰れ」と指導するべきじゃないのか。他校の生徒だからと言って見逃しているのだとしたら、そのダブルスタンダードは不愉快だった。
ともあれ、このまま進むしかないと判断した私は、なるべく自然体で歩き、彼らの方を見もせずにその横を通り過ぎた。ちょうど真横に来た時に防犯ブザーが甲高く鳴り響き、肩がびくりとしたが、彼らの方はそのおもちゃに夢中で頭の悪そうな声を上げながらこちらに気づきもしないようだった。
「ぺっ」
通り過ぎた後で、私は唾を吐いた。我ながら子どもじみたことだと思って少し恥ずかしくなる。そしてザビエルの後を追って、急ぎ始めた。
途中、慌てた顔をした女子生徒が小走りに私の横を通り過ぎた。どこかで見た顔だと思ったが、思い出せなかった。

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