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車はいつの間にか停止している。いったいいつから?
ずっと降っていたはずの雨も、さっきまでの車内では存在が消されていた。
後部座席の卵男はいない。いなくなった。
急に現実感が戻ってくる。
「うわぁああ」
僕は腰を浮かせて喚いた。なにかに、ではない。なんだかわからないが、とにかく叫んだ。
「うるさい」
師匠に怒鳴られる。
「ここはどこだ」
そう言う師匠につられて、僕も周囲を見回す。小さな街灯に照らされて、体育館のようなものが目の前にあった。その駐車場に車は停まっているらしい。右手側の奥には、テニスコートのようなものも見える。ハッとした。地図で見た、あの場所だ。小安寺駅の西、柳ヶ瀬川の側にある武道館だ。師匠が推理して、地図に丸をつけた目的地。
到着していたのか。なのに、僕はずっと闇のなかを走り続ける車内にいたような幻覚に捕らわれていた。
幻覚?
窓の向こう。レインコートの人物が、雨のなかに立っている。これは、幻覚じゃない。
「斃したのか」
運転席から師匠が言葉を投げかける。
レインコートの人物は首を横に振る。
「逃げた。次は殺す」
「あれがなんなのか、知ってるのか」
「……」
師匠の問いかけに、無言で、レインコートのフードを取り払った。そして闇のなかに身構える。
いななきを、聞いた気がする。
息づかいと、体臭。蹄が地面を穿つ音。密集した気配が、窓の外を駆け抜けた。
馬だ。馬が走っていく。無数の影が。解き放たれたように。僕の目にも、その幻がはっきりと見える。
「なんだと」
師匠が運転席の横に寝かせていた金属バットを持って、車外に飛び出した。僕も驚いて、あとに続く。左手には黒いビニール袋で包まれた長いものを持っていた。さっき車のなかで、僕は自分が手に持っていたものを、見つけられないでいたのか。あらためて、さっきまで、思考がコントロールされていたような感覚に、吐き気を覚える。
降りしきる雨のなか、走る馬の群れの気配は、すぐに消えた。それでも力強い蹄の音が今も、頭のなかに残響している。
レインコートの人物は、構えを解いてこちらを見ている。いつか見た、あのときの顔だ。そして障害者手帳の写真のなかで、無表情にこちらを見ていた、あの顔。
短く切りそろえられた前髪が、22歳という年齢に相応しくない幼さを表しているようだった。けれど右目は無残な傷あとで覆われ、左目は、どこか焦点が定まらないでいる。それでいて、こちらのすべてを見透かしたような、そんな硬質な威圧感があった。
「山田あすみだな」
師匠が言った。
その女の手には、さっきまで握られていた弓はない。しかし、まっすぐ下げられた左手は、まるでなにを掴んでいるような指の形をしていた。
弓だ。弓を持っている。
そう思ったとき、僕の脳は握られた手のなかの弓の形を、勝手に想像している。それはすぐに色彩を持ち、重量感を持ち、実在の弓に変る。なんだこれは。
いつか見たテレビのショーで、催眠術にかけられたアシスタントが横たわり、まるで鉄の棒になったみたいに、頭と足の先だけで自分の全体重を支えているのを思い出した。
あれはきっと手品だ。思い込みの力が、人体の組成を変えるなんて、あるはずがない。だから、これも。この弓も、撃たれた人々の傷跡も、思い込みの力なんかではなく、手品であるに違いない。
ふいに、弓使いが視線をそらした。その向こうからは、冷たく湿った空気が漂ってきている。
川か。西の柳ヶ瀬川。東の国分川と、この街を挟むクニ境の川。
その方向は、馬たちの霊が駆けてきた場所だ。
師匠が雨のなかを走り出した。武道館の周囲は、畑ばかりだ。真夜中の道には僕らのほかにだれの姿もなかった。
すぐ先には堤防があった。そのそばに、車が一台停まっている。白いバンだ。人の乗っている気配はなかった。
僕は転びそうになりながら、堤防の下の河原に降りる。
いる。
白衣が、雨のなかにうっすらと浮かび上がっている。河原のなかにたたずんでいる。いや、しゃがんでいるのか。
影のようなものが見える。その周囲には得体の知れない、どろどろとした気配が揺れていた。目を凝らすと、それらは鎧を着た武者姿のように見える。カロカロと、甲冑が打ち付けあうような音が、いっせいに聞こえてくるような気がした。それはつまり、こちらを振り向いたということだった。
い?
来る。こっちに来る。揺れながら、その影たちは河原に降りた僕らのほうへやって来ようとしていた。怨念のかたまりが、顔に吹き付けてくるようだった。正視できないようなおぞましい恨みの感情が、こちらに向けられている。
彼らは、馬霊刀に軍馬の魂を地獄に落とさせようとした武士たちか。職業的な戦争屋として、命の奪い合いに明け暮れた彼らは、死してなお、戦いを望んでいる。そのための乗馬を求めて、さまよっている。発掘された馬霊刀に引き寄せられて、ここまでやってきたのだろう。
ザァァ……。
雨粒で僕らの身体はびしょ濡れだった。顔を手のひらで拭う。隣に立つ師匠は、金属バットを構えて大きな声を出した。
「先に来てたんだろう。あいつは、どうなってる。殺したのか」
弓使いに向けた言葉だ。振り向くと、堤防の上に、レインコートを着た女が屈み込んで、両頬を自分の手のひらで包んでいる。あいつ、とは白衣を着た男、埋蔵文化財センターの所長のことか。
「いや、見てただけだ。あの見えない悪意がやって来るのを、待ち構えていたから。……そいつは、刀を埋めていた」
女はそう言った。
埋めた? 馬塚から掘り出された刀をまた埋めた。
つまりそれは供物としてか。彼自身が言っていたように。
「うわっ」
武者姿の影たちが手を伸ばしてくるのを、師匠は避けた。僕の周りにも、そんなやつらが蠢いている。
彼らはあきらかに戸惑っていた。さっき走り去った馬たちに、逃げられたからだ。戸惑いながら、怨念を撒き散らしていた。
「くそっ」
師匠は金属バットを振り回しているが、影たちは反応しない。そんなバットなど存在しないかのようだ。
「やれ」
師匠が僕に命令した。僕は左手のなかのそれをぐっと握り締める。
「早く。おまえが使えるのは、知ってんだ」
ドキッとした。知っていたのか。
ビニール袋を外し、なかから一振りの刀剣を取り出す。
「あの脇差じゃないのか」
師匠が驚いて僕を見る。
僕の手のなかにあるのは、2尺4寸の居合い刀だった。『小』と呼ばれる脇差よりも長い、『大』。れっきとした刀だ。
家を出るとき、父親から押しつけられた刀だった。僕に古流の居合いを叩き込んだ、その父から。
僕は腰を落とし、左手で居合い刀の腹を握る。そして右手をじわりと柄の下に置く。
霊は、自らの記憶の残滓のなかで存在している。いつか、師匠のかつての相棒、黒谷夏雄がライブハウスに現われた霊を、壁ごと拳で殴りつけて消滅させたように。かつて知る暴力の記憶が、その存在を傷つけ、もう一度殺す。
刀や槍の切っ先の乱舞する世界で生きてきた彼らは、師匠の持つ金属バットは脅威として見えないのかも知れない。しかし、この居合い刀なら。
は、は。
全身に降りかかる雨音のなかで、自分の呼吸を感じる。
『この騒動では、有効かも知れない』と師匠が言っていたのは、このことか。
一閃。
子どものころから何度も繰り返し、身体に染み付いた動き。
狙いは首筋だった。武者姿の霊は、雨のなかに倒れる。ほかの霊たちも慄いて、後ずさった。
いける。
カロカロカロ、と甲冑の音が聞こえる。
次の瞬間、左前方にいた武者の右目に、矢が突き立った。
あっ、と思う間もなく、次々に矢が武者たちの甲冑のない場所に突き刺さっていく。
僕も、師匠も動けない。僕らの背後から、矢は飛んでくる。暗くて見えないはずなのに、その矢は見える。なぜか、見えるのだ。
武者の霊たちは、苦しみながら倒れていく。倒れながら、消滅していった。
僕が、なにをするのか見ていたのか。そして、もうわかった、とばかり、堰を切ったように弓矢を放ち始めた。
一方的な殺戮は続いた。矢が射掛けられていない霊たちも、怯えながら、どろどろと闇に溶けるように消えていこうとしていた。
やがて雨だけが残った。
渦巻いていた怨念はすべて消えた。安らぎなどではなく、暴力的な嵐のなかで。
師匠が走り出した。弓使いのほうを振り向きもせず、河原のなかほどに座り込む白衣に向かって。
「おい」
走り寄った師匠がその肩を揺さぶると、白衣の男はその場に崩れ落ちるように倒れた。
師匠はその胸に耳を当て、鼓動を確かめる。
「気絶している」
そう言った。生きているのか。
白衣の人物は、ニュースで見たあの日焼けした男だった。埋蔵文化財センター所長の三島だ。馬霊刀を供物だと言って、持ち去った男。
三島は、馬霊刀を持っていなかった。
師匠はその足元の砂利を手で掘り始めた。僕も駆け寄って手伝う。河原の砂利は、簡単に掘ることができた。
指先になにかが触れた。同時に触った師匠が、それを掴んで、引っ張りあげる。
マネキンの腕だ。それも、右の腕。
「刀はどうした」
師匠が叫んで、周囲の砂利を片っ端から掘り返していく。しかし、それ以上なにも出てこなかった。
降り止まない雨のなか、黒いマネキンの腕だけが残された。
師匠は無言でその腕を川に放りなげた。この雨で増水して、流れが速い。見ているあいだにも、水位が上がりつつあった。この河原もやがて水中に没するのかも知れない。
小さな水音を立てて、マネキンの腕は流れのなかに消えていった。
師匠と僕は2人で気絶した三島を抱えて、堤防を越えた。弓使いはレインコートのフードを深く被り直し、離れた場所で僕らをじっと観察している。視覚障害1級のはずの、その目で。
雨に濡れながら、武道館の駐車場に止めていた師匠の車の後部座席に、三島を押し込む。
ドアを閉じて、師匠は振り返った。
雨のなかに弓使いが立っている。左手にはなにも持っていない。右手には厚手の手袋をしている。
「緒方を襲ったのは、おまえだな」
師匠が鋭い口調で言った。
「去年の冬から、弓矢で通行人を襲っていたのも」
「通行人?」
弓使いは笑っているようだ。
「私は犬神人だ。この街を清浄に保つための。やつらはゴミだ。害悪を撒き散らす悪霊だった」
透明で、よどみのない声だった。自分の正義を、存在意義をまったく疑っていない。そんな声だ。
変質者に誘拐され、両目を抉られて、5年間にわたって監禁された。解放されたあとも、全盲の障害を負いながら両親から半ば見捨てられ、ヤクザの女になり、売春行為を強要されていた。
そんな過酷な生き方をしていた彼女に、どうしてそんな涼やかな声が出せるのだろう。
僕は彼女に、同情という共感を抱いていたが、こうして向いあってみて、なにか別の感情がわきあがってくるのを感じていた。
僕はその正体を知るのが怖かった。まるでそれは、師匠に初めて会った日から抱いているような……。
「自首しろ」師匠の声が、雨音を割って響いた。「お祖父さんも心配してるぞ」
くくく。
弓使いは、笑った。
「あのジジイは、わたしを抱いて、死んだババアの名前を呻いて果てるやつだぞ」
ぞわっとした。
全身が総毛だった。人間の、底の見えない業に。
師匠も絶句している。
「邪魔をするな。この街に潜んでいる、あの見えない悪意は、私以外の手には負えない」
弓使いはそう言い放った。
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「てめぇ」
師匠が殺気を込めた低い声を出した。雨の降り続くなか、空気は凍りついている。向かい合い、お互いに隙を見せずに睨み合っている2人の頭上に、雷の光が走った。すぐに轟音が響く。近い。
その音にも微動だにしない彼女たちの顔が、白い残像を残して、また闇のなかに沈んでいく。
「協力できないか」
僕はとっさに叫んでいた。師匠が「おい」と怒鳴る。
「なにがなんだかわかんないよ! 魔方陣だとか、見えない悪意だとか、消えた大逆事件だとか! なにが起きてんだよいったい! 正直うんざりだよ。わけわかんなくて! でもなにかとんでもないことが起こってるっていうんなら、いがみ合ってる場合じゃないよ! 協力しろよ」
僕が喚き散らすのをじっと聞いていた弓使いは、
「おまえも、面白いな」
そう言って、フードの奥の、その見えない目を僕に向けた。
「やめろ」
師匠が鋭く言った。僕と弓使い、両方に向けた言葉のようだった。
弓使いは師匠に顔を向け、口を開いた。
「おまえたちは、このまちで……」
そう言いかけた瞬間、「ぐぐぐぅぅ」、という大きな音が鳴った。弓使いの腹から聞こえたのだ、ということに気づくのには少し時間がかかった。
「帰る」
弓使いは、くるりと背中を向けると、歩き始めた。
腹の虫か。僕は驚いてその背中を見送っていた。
「逃がさねぇよ」
師匠がそう言って、追いかけようとしたとき、弓使いの背中から、強烈な気配が沸きあがった。殺気だ。このあいだ、師匠が僕にやってみせたような、相手を害そうとする悪意。
それが、空間を捻じ曲げるような密度で、迫ってくるのを感じた。僕は思わず、師匠の腰にしがみついた。
「やめてください」
師匠は喉の奥から唸り声をあげて、それでも動きを止めた。
見まいとしても、見てしまう。弓使いの、なにも持っていない左手に、弓の形を想像してしまう。はるか昔から、この街で穢れ払いを行っていたという、油の弓、という名前の弓を。僕らはそれを、見たこともないはずなのに。
弓使いは、振り向きもせず、そのまま駐車場の隅に置いていた、スクーターにまたがった。エンジンがかかる音がする。
レインコートのフードを取り去り、ハンドルにかけていたヘルメットを構えて、弓使いは最後にこちらを見た。
薄暗い街灯の下で、にこり、と笑いかけているように見えた。動けない僕らの前で、弓使いはヘルメットを被り、スクーターを発進させた。そのまま、走り去っていく。
「離せ」
腰に抱きついていた腕を振り払われた。師匠は、濡れた髪をかき上げながら、深く息を吐いた。そして、手にした金属バットを構えて、その場でフルスイングした。
「うわっ」
風圧を感じて、僕は思わずのけぞった。跳ね飛ばした雨が、顔に当たった。
「なんだってんだよ」
師匠は雨の降り続く暗い空を見上げて、叫んだ。
◆
それから僕と師匠は、市内の救急病院へ三島所長を運んだ。後部座席で揺られていると、途中で気がついたようで、「いいいいいい」と怯えた声を出した。
三島は、これまでのことを覚えていた。傍観者のように。
『檻のなかにいた』
そう表現した。埋蔵文化財センターで部下の男と話しているときに、急に意識が朦朧として、まるで自分の手足や口が、自分のものではないように、勝手に動いていた、という。それを、檻のなかに押し込められた自分が、ぼうっと見ていたそうだ。
「あの刀は、河原に埋めたのか」と師匠が訊くと、「なぜかわからないが、埋めていた。埋めたら力が抜けて、檻が暗くなった」と言う。
「埋められた馬霊刀は、消えた。消えたから、馬の霊たちは解放された。だがなぜだ。どこへ消えた」
師匠はひとりごとのように呟いた。
「供物とはなんだ」
「わからない。なにもわからない」
三島はそう繰り返すだけだった。
「角南、という名前に聞き覚えは?」
師匠がそう訊ねると、意表をつかれたのか、妙な顔をして、「ああ」と言った。
「し、市の委託で、市営運動場の移転計画のための地質調査をしてたのが、角南技研だった。……その調査中に、馬塚が出たんだ」
「角南技研…… 角南建設の、関連会社か」
「こ、子会社だったと、思う」
三島はクシャミをした。夏とはいえ、ずっと雨のなかにいて、全身びしょ濡れだった。それだけではなく、センターに倒れていた職員のように、得体の知れない悪寒に苛まれて震え続けていた。
救急病院に着くと、三島を下ろした。あれこれ聞かれると面倒なので、付き添いもせずにそのまま立ち去ろうとした。
「ありがとう」
頭を下げられて、師匠は、「いまは名乗れないけど、ありがとうと思ってくれるんなら、そっちの名刺をくれないか」と言った。
三島は震えながら、ポケットを探り、濡れてクシャクシャになった名刺を1枚くれた。
「またなにか訊きにいくかも知れない。そのときはよろしく。あと、堤防のところにバンが停まってたの、あれ多分あんたが乗ってきたセンターのやつだろ。忘れないうちに取りに行っとけよ」
三島と別れて、僕らはまた2人になった。
あまりにも多くのことがあって、まだ頭は混乱したままだった。馬霊刀は消えた。弓使いは、恐ろしいやつだった。そして……。
師匠はボロ軽四を飛ばし、アパートに帰り着いた。僕らは車から降りても無言だった。確認すべきことがある。
心臓がドキドキと鳴っている。濡れた服も着替えないままで、師匠の部屋ではなく、その隣の部屋のドアノブを握った。
カチャリ。ドアが、少し手前に動いた。開いている。
まだ雨は降り続いている。
僕と師匠は薄暗闇のなか、ドアを挟んで見つめあい、頷いた。
師匠がドアを開け放つ。すぐに僕らは土足でなかに乗り込んだ。部屋は真っ暗だ。師匠の部屋と同じ間取りのはずだから、電灯の紐があるであろうあたりを、手探りする。すぐに紐は見つかり、引く。
パァッ、と部屋に明かりがつく。ずっと暗いなかにいた僕らの目には強すぎた。目を細めながら、部屋の真んなかに立っている僕と師匠に飛び込んできた光景は、信じ難いものだった。
なにもない。
部屋には、なにもなかった。家具も、人が住んでいた痕跡も。からっぽだった。いや、違う。ひとつだけあった。
それは、仮になにもなかったときよりも、奇怪で、薄気味の悪い光景だった。
部屋の隅に、百科事典の棚があった。去年のクリスマスに、僕が借りた百科事典だった。
『コロッケの何をお調べになったのです?』
その隣人の顔を思い出そうとする。百科事典はこうして、存在していた。そうだ。僕が借りたからだ。
「おまえ、こいつの部屋に入ったことあったんだろ」
師匠は押し殺した声で、そう訊いてきた。
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そうだ。僕は隣人の部屋に入ったことがある。そのときに、百科事典があったのを覚えていたのだった。だが、それ以外が思い出せない。
自分の顔を手のひらで撫でる。まるで自分のものではないような気がした。なにも信じられない。
「埃が積もってる」
師匠は部屋の壁沿いを指でなぞった。畳の上には、たしかに埃が堆積していた。昨日今日、家具を持ち出したのではないのは、確かだった。
いったいいつから、この部屋はこんな状況だったのだろうか。
怖い。僕は恐怖に身体が縮こまりそうだった。
あの男の顔が、もう思い出せなくなっている。
卵のようにぺろりとした、特徴のない顔だった。その印象だけが、記号のように頭に残っている。
部屋の壁に、もう1つ、妙なものがあった。
白いパンティだ。1枚のパンティが、壁にピンで留められていた。
師匠がそれを毟り取り、「ふざけた野郎だ」と言った。
「師匠のですか」
「なくなってたやつだ。おまえが犯人かと思ってたけど」
「そんなことしませんよ!」
僕はさっきまでの寒気のする気分を引きずったまま弁明した。僕の部屋にあるのは、別の柄のやつだったはずだ。
「なんだ」
パンティの下から、小さな紙が落ちた。一緒にピンで留められていたのか。
師匠がそれを拾い上げる。メモ用紙のようだ。なにか書いてある。
「正応3年の客星について調べてみなさい」
師匠がその言葉を読み上げた。書いてあったのはそれだけだった。
「正応3年の客星?」
そう呟いて眉を寄せている。師匠にもなんのことがわからないようだ。
「角南って名乗りましたね」
僕は確認するようにそう口にした。ありもしないことを、僕の頭が勝手にそう記憶しているのでない限り。
小でもなく、中でもなく、大でもなく。
『あの見えない悪意は、私以外の手には負えない』
弓使いはそう言っていた。
地図上の、巨大な五芒星。マネキンの身体の各部。それと引き換えに消えた馬霊刀。供物?
いったいこの街で、なにが起こっているんだ。雨のなかの自分の叫びが脳裏に甦る。
僕の頭では、今日あったことの処理すらできない。混乱し、酷く疲れていた。ただ師匠は、真剣な表情で、じっと考えていた。たった1つ残された、百科事典の詰まった棚を見ながら。彼がたしかにいた、という痕跡はそれしかなかった。
そして静かに口を開いて、言った。
「あいつは、嫌いじゃなかった」
師匠のその言葉に、僕もそうだった気がして、頷いた。
(完)