師匠シリーズ

【師匠シリーズ】馬霊刀 1/4

スポンサーリンク

pixiv 馬霊刀 1/4 http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7031421

0 喫茶店

『服部調査事務所』と書かれたドアに背を向けて、狭い階段を下りていく。
 目の前で師匠の頭が揺れている。少し猫背で、ポケットに手を入れ、愉快なことなどなにもない、という足取り。
 1階まで降りて、雑居ビルの外に出ると、すぐそばに『ボストン』という名前の喫茶店の入り口がある。
「なんか食ってくか」
 師匠がぼそりと言った。
「はい」
 ドアを開けると、カラン、という控え目な音がした。喫茶店のなかは落ち着いた照明で、コンビニやファミレスに慣れてしまった目には薄暗く感じられた。
「いらっしゃい」
 鼻の下にヒゲを蓄えたマスターが、カウンターから声をかける。
「あれ。久しぶりじゃない。あのー、アレを着てきた時以来だね」
 マスターは蓑笠の紐を喉元で括るようなジェスチャーをして、笑っている。
 師匠は頭をかいて、「うす」と言いながらカウンターの隅に座った。俺もマスターに「こんにちは」と頭を下げて、師匠の隣に座る。
 師匠から聞かされた話に何度か出てきた喫茶店だ。俺が初めて訪れた時は、ここは京介さんのバイト先だった。その京介さんへの嫌がらせのために、わざわざ雨のなかを蓑笠を着てやってくる、というテロを敢行した師匠だったが、入店して早々にびしょぬれの蓑を掛けさせろと喚くはずが、妙に暗いテンションで黙って入り口に突っ立っていた。なんだか托鉢僧のような風体だった。さらには京介さんに怒られて、そのまま口答えすることもなく、すごすごと帰ろうとする有り様だった。そのころはまだ俺も、この喫茶店が師匠にとってどういう場所だったのか知らなかったので、首をかしげるだけだった。それももう、1年以上前のことだ。
「なんにする?」
 店内にはほかの客はいなかった。マスターのほかに店員もいない。
「メープルトースト、まだある?」
 師匠が訊ねると、マスターは残念そうに、「ごめんね。もうやってないんだ。いつも食べてくれてたのにね」と頭を下げた。
「そうですか」
 師匠はサンドイッチとコーヒーを頼んだ。僕も同じものを注文する。
 サンドイッチに包丁を入れながら、マスターがポツリと言った。
「あの時は驚いたけど、なんだかワクワクするような気持ちになったよ」
 ドリッパーにペーパーをセットして、コーヒーミルで挽いたばかりの豆を入れる。そして、お湯を軽く注ぎ、膨らんだ豆の粉の表面に割れ目が出てくるのを見計らって、スッとお湯を回しながら落としていく。
「蓑を着て、入り口に立ったキミを見たら、なんだか思い出しちゃってね」
 お待たせ、とサンドイッチとコーヒーが席に並べられた。マスターはカウンターの下を布巾でひと回ししながら、チラリと壁のほうを見る。
 そちらに目をやると、ささやかな写真立てがいくつか飾られていた。
 そのうちの1つには、京介さんが写っている。眼鏡をかけた知的な風貌の男性と、マスター、そしてエプロンをしたウェイトレス姿の京介さんの3人が、カウンターの前で並んでいる写真だ。男性は、ついさっき会ってきたばかりの服部調査事務所の所長だった。京介さんとマスターは営業スマイルだったが、服部さんはニコリともしていない。けれど、カウンターに置いた肘が、くつろいでいる様子を表していて、なんだか意外な気がした。
「あのころは、随分メチャクチャなことばかりあって、店を壊されそうになったり、胃薬が手放せないくらいだったけどさ。喉元過ぎれば、ってやつかな。懐かしくてね…… 蓑なんかを着て、みょうちきりんな格好の人が入ってきた瞬間に、あ、あの子が帰ってきたって…… 思っちゃった」
 ははは、とマスターは照れたように笑った。
 あの子、とは師匠のことではないのだろう。帰ってくるはずのない人だから、照れ隠しに笑っているのだ。
 師匠はなにも言わず、じっと壁を見つめている。その視線の先には、1葉の写真がある。
 京介さんの写真と同じように、カウンターの前に数人が並んでいる。右端には眼鏡の男性がいる。服部さんだ。表情は、判で押したように変らないが、今より少し若く見える。左端にはウェイトレス姿の女性がいる。白い髪留めをしていて、笑顔が爽やかな人だった。たぶんひかりさん、という当時のアルバイト店員だろう。その隣には、師匠が並んでいる。若い。目が今ほど死んでない。真っ直ぐにこちらを見ている。服部さんの隣には、ボサッとした頭の、くたびれたスーツ姿の男性がいる。含み笑いのような表情を浮かべて、首元に手をやっている。曲がったネクタイを直そうとしているような格好だった。服部調査事務所の前身である、小川調査事務所の所長だ。今では、タカヤ総合リサーチという大手興信所の所長を務めるかたわら、服部調査事務所のオーナーとして、忙しい日々を送っているそうだ。写真のなかでは、どこか捻くれたような、子どもじみた雰囲気をしていた。
 写真のなかのマスターは、カウンターの内側に今と同じような格好で写っている。今より少し髪の毛が多いようだ。ショボショボした目つきで、心労のタネをいっぱい抱えているような様子だった。
「もう何年前になるのかな。いい写真でしょう」
 マスターがこちらの視線の先を見て、話しかける。
 コーヒーの柔らかな香りが立ち上ってくるなかで、師匠と俺は、じっと写真を見つめている。
 いい写真、か。
 ほかの写真立てにも、その時々の常連やアルバイト店員がマスターと一緒に写っている。けれど、その一枚だけはなんだか、ほかと違う。構図は同じだ。奇抜な格好をしているわけでもない。いったいどこが、違うのか。
 悩むまでもなかった。ひと目でわかるのだ。これが、いい写真であることが。
 写真の真んなかに、親指を立てて微笑んでいる人がいる。初めて見る人なのに、ずっと知っていたような気がする。その人がいるだけで、なにもかもが輝いて見える。その輝きのなかに、師匠の青春のすべてがある。
 俺は、見ているだけで胸の奥が重くなり、つらくなった。俯いて、コーヒーカップに手を伸ばす。
 師匠は目を逸らさずに、見つめている。
 色あせることなく輝く、その美しい呪いを。

スポンサーリンク

1雑貨店

 師匠から聞いた話だ。

 大学2回生の夏だった。
 その日僕はバイト先である小川調査事務所に朝から詰めていた。資料整理を頼まれたのと、昼から依頼人が来るからだった。
 バイトの先輩であり、オカルト道の師匠でもある加奈子さんをご指名の依頼だった。ということはつまり、この興信所業界で『オバケ』という隠語で呼ばれる、おかしな依頼ということだ。
 本来は「つかみどころがない」=「達成不可能」という意味のハズレ案件を指す言葉だそうだ。加奈子さんがその『オバケ』を解決してしまう、という特異な力を発揮するにつれて次々とそんな依頼が、この零細興信所に舞い込んでくるようになっていた。
 所長である小川さんがかつて勤めていた大手興信所、『タカヤ総合リサーチ』の名物所長、高谷さんなどはかなり本気で加奈子さんを引き抜こうとしている節がある。
 小川所長は、『オバケ』案件の依頼が多くなっている現状を愚痴りながらも、それが貴重な収入源になっている現実を鑑みて断固拒否している。
 そして、「気楽にやれるところのほうがいいや」とは加奈子さん本人の談である。
 その加奈子師匠は今、事務所の椅子にふんぞり返って、向かいの席にちょっかいを出している。もう1人のバイト、服部さんにだ。
「なあ知ってるか。忍者ハットリくんのあの顔って、お面なんだぜ。ニンジャは素顔を人に晒さないんだ」
 ダンボール箱いっぱいの新聞の束から、小川所長がマーカーを入れている記事を切り抜いて、内容ごとに分類する作業をしている僕の背中に、そんな豆知識が飛んでくる。何度も聞かされたやつだ。
 ゲコ。
 ゲコ。
 お尻にホースのついたおもちゃのカエルが、服部さんに跳びかかろうと跳躍を繰り返している。
 もちろんホースの元は師匠の手のなかにある。このカエルも忍者ハットリくんの嫌いなものだったはずだ。子どもじみた嫌がらせだ。
 当の服部さんは、師匠の嫌がらせを完全に無視して、淡々とワープロを打っている。
 今日みたいな所長が留守のときには、互いに無視を決め込むことも多いが、師匠の機嫌のいいときには、このように服部さんイジリを敢行することもあった。実に迷惑な機嫌だ。
「だいたいだ。お前のコードネームはなんだ?」
「……坂本ですが?」
 今度はなんだろう。コードネームというか、バイト用の偽名だ。興信所の性質上、脱法行為ギリギリのことにかかわることがあるので、バイトの僕らには偽名のついた名刺を渡してくれているのだ。
「おまえが『坂本』、私が『中岡』で、前にいた夏雄は『武市』だ。この3人は土佐勤皇党だ」
 坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太。確かに幕末の土佐藩出身の著名な志士だ。
「しかるにこいつは『服部』だ。服部だぞ! 服部半蔵って、初代は有名な伊賀の忍者の頭領だけど、時代下って幕末には十二代目服部半蔵正義ってのがいて、桑名藩の家老なんだ。桑名藩は会津藩と並ぶバリバリの佐幕派だ。勤皇の志士を弾圧した側だぞ。どうなってんだ!」
 バンッ、と机を叩く師匠。
その言いがかりに、キーボードを叩く手を止めもせず、服部さんはただひとこと、
「本名ですから」
と言った。
「な、これだからな。職場の和ってものを考えてないんだ」
 同意を求められても、返事に窮する。正直うっとうしい。今職場で仕事をしていないのは師匠だけだ。
「わたしは、この世界で生きていこうと思っています」
 服部さんが発したその言葉には、おまえら学生の腰掛アルバイトとは違う、という拒絶のニュアンスが棘のように含まれていた。
「ちぇっ」
 師匠は舌打ちをして、椅子の背にもたれかかり、足をガン、と机に乗せた。ホットパンツから伸びる太ももが眩しくて、僕はドキドキしてしまう。
「だったら、服部調査事務所でも立ち上げてくれってんだ」
 師匠の憎まれ口に、服部さんが眼鏡を中指で抑えながら、さらに言い返した。
「そのときには、あなたが欲しい」
 ゲコ。
 ゲコ。
 カエルが飛び跳ねている。
 師匠はその言葉に虚をつかれて唖然としている。この間は、屈辱だろうと思った僕は、「モテモテですね」とフォローしてあげた。
「め、メシ喰いに行くぞ」
 師匠は立ち上がり、僕を小突いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。いま終わりますから」
 せかされて、ちょうど整理し終わったファイルを棚に押し込み、僕は師匠の後に続いた。
 階段を下りながら、僕は師匠の背中を見つめ、こういう意外な場面でのストレートなのも有効なのか、と心のメモにしっかりと記録していた。
「ちわぁ」
 同じ雑居ビルの1階に入っている喫茶店『ボストン』のドアを開ける。
 昼時なのに先客は1人だけ。あいかわらず閑散としている。
「いらっしゃい」
 ヒゲのマスターが、カウンターで広げていた新聞を畳む。
「メープルトーストとサラダとオムライス。あとブレンド2つ」
 僕の分まで注文しながら、いつもの2人掛けの席につくと、師匠は隣の座席に転がっていた女性雑誌を手に取った。
「あの野郎」
 師匠は雑誌に目をやりながら、そんな舌打ちをしている。よほどさっきのやりとりが気に食わないらしい。
「小川さん来る?」
 しばらくしてウェイトレスのひかりさんが、注文の品をテーブルに置いた。
「いま出かけてますけど、あとで来るかも」
 僕はメープルトーストに手を伸ばしながら答える。
 服部さんだけは誘ってもめったにボストンにはやって来ないが、小川調査事務所の面々はこの喫茶店の貴重な常連だった。
 マスターがテレビをつけた。昼のニュースの時間だった。
 相変わらず美味いメープルトーストを食べながら、テレビを見ていると、食べ終わるころにはローカルニュースになった。
 市の東部で、中世の遺構が見つかったという。
 それまで腕組みをして横からテレビを見ていたマスターが、興味をなくしたように厨房のほうに引っ込んだ。
 画面では、日焼けした50歳くらいの作業着の男性が、七三分けの髪の毛を、ちゃんと七三になっているかと確認するかのように、しきりになでつけながら、興奮気味にしゃべっていた。
『これは、平安時代の軍馬の埋葬地だと思われます』
 背後に、掘り出されつつある大量の骨が映っている。
『馬装も一部残っています。ここは当時、受領(ずりょう)の郎党の営地があったとされている場所ですが、これは死亡した軍馬を一箇所にまとめて葬った、いわゆる馬塚です。一緒に埋葬されていた、このような鉄剣も見つかっています』
 土の中から掘り出されたばかりの変色した刀剣が、ブルーシートの上のトレーに乗せられている。
『鎮魂のための魔よけですね。人墓ではよく見られるものですが、馬塚ではほとんど見られないものです。貴重な資料と言えると思います』
 ニュースは発掘の様子を遠景でとらえる画面になった。そして最後に、ここが市の土地開発公社の所有地であり、市営運動場の移転先として計画されていたが、この発見によって計画の変更を余儀なくされるだろう、ということを伝えていた。
 CMに入ったとたん、師匠が空になったオムライスの皿をどけながら、ひかりさんに言った。
「別のチャンネルも回してくれ」
「ん?」
 ひかりさんは言われたとおり、リモコンでチャンネルを変える。どの局も、ちょうど昼のニュースが終わるところだった。
 師匠が左目の下を掻いている。
「あんなもの、公共の電波で流しやがって」
 昼のドラマが始まった画面を見ながら、ぶつぶつと呟く。
「あんなものって、なんですか」
 僕の問いかけに師匠は答えず、不愉快そうにコーヒーを口にした。こういう表情のときの師匠は、まず答えてくれない。もったいぶるのは得てして、オカルト絡みのことばかりだ。
(つくづく名探偵だねえ)
 僕は皮肉を口のなかで転がした。そんな師匠が嫌いではなかった。
 昼食を食べ終わり、僕らは3階の小川調査事務所に戻った。昼の1時に依頼人と待ち合わせをしているのだ。ほどなくして小川所長も外出から帰ってきた。
 所長は服部さんにいくつか指示をしてから、事務所の壁の時計に目をやった。あと10分ほどで1時だった。
「時間通りに来るかな」
 右手で腹を押さえていることからして、どうやらボストンに行きたいらしい。
「食べてきてもいいですよ。とりあえず、私が話聞いときますから」
 師匠がそう言いかけたときだった。
 突然、身体に寒気が走った。なにか来る。
 嫌な予感を濃縮したようなものが血液に混ざって、全身を廻り始めたような感じ。
 ガタンッ。師匠がふんぞり返っていた椅子から、一瞬で立ち上がった。

 服部さんと小川所長は怪訝な顔で、入り口のドアと、反対方向の窓、そして師匠と僕の顔を交互に見ているだけだった。
 僕と師匠だけ! 反応しているのは、僕らだけだ。
 そういうなにかが、来る。それも、これは……。
 身体が震える。ただごとじゃなかった。恐ろしい悪意……、いや、害意の固まりのようなものが、迫ってきていた。
「うわっ」
 真っ黒な煙が、ドアや壁の隙間から溢れ出てくるような感覚に思わずあとずさった。呼吸が早くなる。
「どうした」
 小川所長は、僕らの異変に気づいて師匠の肩に手を触れた。
 ゴツン、ゴツン。
 階下から、足音が上がってきている。このオンボロビルは、階段の足音がよく響くのだ。
 来る。
「下がって」
 師匠が鋭く言って、入り口のドアに向かって身構えた。小川所長はその指示には従わない、とばかりに師匠の横に立った。服部さんは無表情でドアのほうに顔を向けながら、ワープロのキーに手を置いたままだ。
 僕だけがさらに1歩、いや、2歩下がった。床がキュッと鳴る。足音が、3階の小川調査事務所の前で止まった。
 ノックの音。
「どうぞ」
 小川所長がドアに近づかず、その場で声をかける。ノブが回り、ドアが開く。師匠が重心を落として、不測の事態に備えるのがわかった。
「や、どうも。少し早かったですかな」
 ドアから現われたのは、小太りの中年男性だった。ボーダーのシャツに、青いサマージャケット。下はスラックス。髪の毛は短髪で、白髪が目立っていた。容姿はともかく、服装はちょっと小洒落た感じの男だ。
 違う。一目見た瞬間わかった。あの黒い、もやのような気配は、するすると逃げるように遠ざかっていく。
 師匠は男性に駆け寄ると、「だれかと一緒に来ましたか」と問いかけた。
「え、いや。1人ですけど」
 男性はめんくらいながら人差し指を1本立てて見せた。
「失礼」
 師匠は男性の横をすり抜け、ドアから飛び出していった。僕は一瞬迷ったが、その後を追った。
「なんですか、いったい」
 男性のそんな言葉を背中で聞き流して、階段を駆け下りる。早い。師匠はもう見えない。
 躓きながら全力で階段を下りきって、ビルの外に出ると右の方に少し離れた場所を師匠が走っている。
「おまえはそっち!」
 振り向きながら師匠は、逆方向を指さして怒鳴る。小川調査事務所の入っている雑居ビルは、繁華街から少し離れた筋にあるので、昼間から人通りが少ない。
 とにかく左のほうに走ってみる。通り過ぎる人の顔を覗きこんでみるが、なんの気配も感じなかった。むしろ不審そうな顔で見られただけだ。
 結局何本目かの十字路で折れ、キョロキョロしながらぐるりと1周して元の雑居ビルに戻ってきた。
「逃げられたか」
 師匠はもうビルの前に立っていた。ボストンに寄ってみて、マスターに変なやつを見なかったか訊いてみたが、首を振るだけだった。
「に、逃げたっていうか……」
 僕は言葉に詰まった。
 まだ足が竦んでいる。正直、探しているときも、いないでくれと思っていた。見逃してもらったのは、こっちじゃないのかという気がしてくる。
「なんですか、あれ」
「わからん」
 師匠はもう息が整っている。僕はまだ喘いでいた。
「人間だと思うが、なにかおかしい。こないだの子猫ちゃんとはわけがちがうな」
 子猫ちゃん? 風のなかに髪の毛が混ざっていた事件で出会った、あの女子高生たちだろうか。たしか師匠はそう呼んでいた。
「あれが、人間なんですか」
 僕には、とんでもない悪霊が迫ってきているような感覚だった。
 師匠はなにか考えている顔をしていたが、「依頼人に会おう」と言ってビルに入った。
 事務所に戻ると、依頼人の男性は応接用のソファに座って所長と話していた。
「やあ、戻ってきましたな」
「すみませんでした。突然」
 そろって男性に頭を下げたところで、すぐに師匠は顔を上げる。
「ところで、だれかにつけられる覚えはありませんか」
「つけられる?」
 依頼人はきょとんとしていた。

スポンサーリンク

 依頼人は緒方正人と名乗った。海外、主に台湾や、東南アジアからの輸入雑貨を扱う店を経営しているという。アーケード街の北のほうに店舗を構えているらしい。小川調査事務所のメンバーはだれも行ったことがなかった。
 最近、緒方氏の店では、おかしなことが立て続いて起こっているという。
 売り物のガラス細工が、さわりもしないのにリンリンと鳴り出したり、だれもない店の隅からすすり泣くような声が聞こえたり。天井の照明からの光でできた影が、奇怪な形に変化したり、という現象が。
 このままでは、オバケが出る、という変な噂が立ってしまって、客足にも影響が出始めかねない、というのだ。
「たぶん、変なものを一緒に持ち込んじゃったんだと思うんですよ」
 向こうでの買い付けは自ら行くそうで、エスニックで、少し怪しげな雑貨が緒方氏のお気に入りだった。台湾の先住民族のお面や、フィリピンで買った波紋のような模様のタペストリーなど、どこかピンとくるオーラを感じて入手したもののなかに、なにか良くないものが混ざっていたのではないか、と言うのだ。
「そういうことなら、小川調査事務所に専門家がいると、仁科さんに伺いましてな」
 緒方氏は暑っつい、と悪気なく呟いて、懐から取り出した扇子で自分の顔を扇ぎはじめた。応接用のソファには、緒方氏と所長、師匠と僕の4人が座っている。
 所長が目配せすると、服部さんがエアコンの設定温度を下げた。「や、すみません」と緒方氏は手を振った。
 仁科、というのは以前、師匠が解決したオバケ絡みの事件の依頼人の老婦人だった。それ以来、師匠のファンになってしまったようで、頼みもしないのに、方々で熱烈にプッシュしてくれているのだ。
 なんでも代々、商店を営む資産家で、世話好きが高じて地元の商工会や婦人会など、あらゆるところで役員をしているらしい。この仁科さんの紹介が、オバケ事案の依頼の、主要なルートになりつつあった。
「仕入れたものを全部捨てるのはさすがに大損するので、なんとかその原因になっている雑貨を、特定してくれないものですかな」
 依頼自体は、よくある、というと変だが、加奈子さんに持ち込まれる事案としては、想定の範囲内のことだった。
 師匠は正面に座る緒方氏の目をじっと見つめた。僕も同じように横からその目を覗き込む。なにか、霊的な気配をかすかに感じる気がするが、それが緒方の店にある妖しい輸入雑貨のせいなのか、それともさっきの何者かが撒き散らした悪意の残滓なのか、僕には判断がつかなかった。
「もう一度伺いますが、尾行される心当たりは?」
「ありません。ありません」
 緒方氏は2度も言って、右手を大袈裟に振って見せた。人の良さそうな人物だった。
 師匠は少し考えて、所長に目で告げてから、「お引き受けします」と言った。
 ただし、と条件を出した。
「ちょっといま立て込んでいまして、そうですね」と手帳をパラパラとめくる。「1週間後ではどうでしょうか」
「1週間後ですか……」
 緒方の顔が曇った。
「変な噂が立ったら困るので、早めにお願いしたいんですが」
「その店、晩は何時までやってるんですか」
「開店は正午からで、晩は9時に閉めます」
 結構遅くまでやってるんだな。経営が苦しいのかも知れない。さっきまでニコニコとしていたが、今は渋面で、うつむき気味になっている。
「では、3日後、閉店後の午後9時では」
「3日後。それなら」
 緒方氏は顔を上げた。
「あなたがいらっしゃるんですか」
 緒方氏はなにか言いたげな口調だった。こちらはそういう態度には慣れっこだった。どだい、霊能力者なんていう触れ込みで、師匠のような若くて健康的な容姿の女性が出てくると、疑いの目を向けられるのは仕方のないことだった。
「そうですよ。仁科の婆ぁ……、仁科さんからはなんと聞いていらっしゃったんですか」
「あ、いえ、そうではなくて。すみません。よろしくお願いします」
 緒方氏はまた手を振って、とりつくろうに笑ってみせた。
 依頼人が去ってから、小川所長は師匠に「どうして3日後なんだ」と訊いた。
 たしかに、立て込んでいる人間が、暇をもてあまして朝からカエルのおもちゃで同僚をからかったりしないだろう。
「調べたいことがあるんですよ。それで所長、服部を少し貸してくれませんか」
「ん。いいけど、どうするんだ」
「緒方さんの尾行をしてもらいたいんです。家まで。それで、だれか他に尾行をしている人間がいないか、確認を」
 それを聞いて所長は、スッと服部さんに指で合図を出した。服部さんはすぐに立ち上がって、なにも言わずに事務所から出て行った。
「私もちょっと、別に調べることがあります。また連絡します」
 師匠は愛用のリュックサックを背負うと、黒い帽子を被った。
「どこ行くんですか」
 僕もついて行こうとすると、師匠は、「おまえは資料整理がまだあるだろ」と言って、そっけなく突っぱねられた。
 師匠は、「じゃ」と言って事務所のドアに向かいかけて、「あ、そうだ」と振り返る。
「せっかくバイトが土佐勤皇党を結成してんだから、服部にもコードネームつけてくださいよ。『岡田』なんてどうですか」
 じゃ。
 師匠は眉を上げて笑顔を浮かべながら、事務所から出ていった。
 

 服部さんは1時間くらいで帰ってきた。家まで後をつけたが、ほかの尾行はいなかったそうだ。
 結局その日は、師匠は戻ってこないまま、僕の資料整理のバイトは終わった。小川さんは所長なのに、バイトの身の師匠の秘密主義的行動を許している。逆に、所長の指示にきっちり従う服部さんなどは、師匠のそういうところを嫌っている。僕はその師匠の助手として、この事務所に転がり込んでいる立場上、服部さんからも距離を置かれている。
 しかし、これだけは訊いておかなければならない。
「あの。服部調査事務所の話、どういう意味なんですか」
「どういう意味とは、どういう意味ですか」
 僕の帰り際のひと言に、デスクの服部さんは静かに向き直った。
「いやその。……あなたが欲しいっていう、あの……」
 ふっ。
 服部さんは息を吐くと、「嫌味ですよ」と言った。
 なんだ嫌味か。ホッとすると同時に、服部さんもそんな冗談を言うんだと思うと、おかしくなった。
「彼女は、ある種の人間にとっては梯子のような存在です。はたで見ていて、そう思います。足を掛けて登れば、日常と少し違う景色を見せてくれる。……そうでしょう?」
 面白い比喩だった。けれどそれを語る目は、冷たかった。いつかの松浦というヤクザのような。
しかし決定的に違うのは、松浦が師匠を手元に引き寄せようとする人間なのに対し、服部さんはそんな師匠を嫌うのに十分なリアリストだということだった。
「けれど梯子は、けっしてだれかの居場所になることはできない」
 それだけ言って、話は終わりだ、とばかりに服部さんは書類に目を戻した。
 僕は腹にカッと燃えるものを感じた。師匠を嫌う服部さんが、僕以上に師匠の本質を捉えていたように思えたのだ。
「服部さん。詩人になれますよ」
 それが精一杯の強がりだった。
 翌日と2日後は大学の授業に出た。
 一度師匠の家に電話したが、いなかった。忙しいのか。いったいなにをしているのだろう。
 そうして約束の3日後がやってきた。
 午後6時に小川調査事務所に入ると、師匠がまた服部さんをからかっていた。
「うまいなあ。ハンバーガーうまいなあ。あげないけど」
 向かいに座り、ホットパンツから伸びた両足をだらしなくデスクの上に乗せて、ハンバーガーの包み紙を握り締めている。
 あったな。ハットリくんにそんな設定。実にきめ細やかな嫌がらせだ。
 服部さんはその嫌がらせを完全に無視して、帰り支度をはじめた。
「僕も帰るけど、今夜はよろしく頼むよ。大丈夫だな」
 小川所長もネクタイを緩めながら、スーツの上着を肩にかけた。
 所長と服部さんと見送ってから、僕と師匠は事務所で2人きりになった。約束の時間は、緒方氏の営む雑貨店が閉店する午後9時。まだ結構時間がある。それまで打ち合わせをするのかと思ったが、師匠は余裕の様子で、ソファに寝転がって漫画本を読んでいる。
「大丈夫なんですか」
「大丈夫、大丈夫」
 生返事だ。
「呪いの雑貨を特定するんでしょう。いきなり行って、できるんですか」
 どういう雑貨があるか、あらかじめ聞いて調べたりしないのだろうか。
 結局師匠は時間まで漫画を読んだり、居眠りをしたりして過ごした。僕もしかたなく、事務所の掃除などをして時間を潰した。
 そうして小川調査事務所を出て、午後9時ちょうどに緒方氏の雑貨屋の前に立った。『ジャガナート』という看板が出ている店だった。
 夜のアーケード街は人影がなく、うら寂しい風景だった。電車通りから南にのびるアーケードだったが、『ジャガナート』のある辺りは、だいぶ奥のほうで、もともと人通りが少ない場所だった。そして午後9時ともなると、ほとんど通行人の姿は見えなくなっている。
 店の紹介をしている手書きのカラフルな立て看板には、『本日は閉店しました』というボードがかけられている。
『CLOSED』
 というカードがこちらを向いている自動ドアを通ると、御香の匂いが鼻を抜けた。夏向けの、どこか涼しげな香りだった。
「お待ちしておりました」
 黒っぽい貫頭衣を着た緒方氏が、にこやかにやってきた。店内はアジア圏特有の雰囲気の雑貨でいっぱいだった。足をぶらぶらさせた人形や、灯篭のような形のランプシェード。象やアジサイの描かれた皿などが、ところ狭しと陳列されている。
「あ、お1人じゃ、なかったんですね」
 師匠と並んだ僕を見て、緒方氏は微妙な表情を浮かべた。どこか不満げな様子だ。
「こいつは助手ですから、別に料金は倍にはなりませんよ」
 師匠は笑って僕の肩を叩いた。
「で、この店のどこで、どんなことが起こるのか、詳しくお聞かせ願えますか」
「あ、はい」
 緒方氏は、師匠と僕に、店内の紹介をしていった。
「で、こちらの牛の形をした陶器の鈴が、だれも触っていないのに、ひとりでに鳴りだしたり……」
「ほう、ほう」
 丁寧に説明する緒方氏とはうらはらに、師匠はなぜか形ばかりの相槌を繰り返すばかりで、まったく身が入っていなかった。

次のページへ >

スポンサーリンク

-師匠シリーズ

© 2022 サンブログ