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『双子 3/4』 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8549293
3 <6月27日> 月本実
僕は師匠に頭を踏まれて目を覚ました。
あれ? 寝過ごした?
慌てて起き上がると、部屋の時計は7時を指していた。
「まだ7時じゃないですか」
「おまえの昼夜逆転クソ大学生活と一緒にするな。世間では朝飯を食う時間だ」
そういえば、朝ごはんは7時半に、って言ってたな。
しかたなく僕は起き上がり、のびをしながら欠伸をした。
「おい。昨日の夜、なにか起きなかったか?」
「つっかえ棒がしてありました」
「えっ。おまえマジで私を……?」
師匠が自分の両肩を抱いて後ずさる。
一瞬にして、頭がクリアになった。
「ち、違いますよ。夜中になにか聞こえた気がして、それで起きてるかなって」
言い訳をする僕に、師匠は顔を寄せて小声で告げた。
「車が壊されてる」
「……本当ですか」
びっくりしてしまった。
「エンジンがかからない。故障にしてはタイミングが良すぎる。たぶんだれかにやられた」
「だれかって?」
「わからん。私たちにこの村のことを探られたくない、だれかなのか、それとも……」
「それとも?」
師匠は首を振って、「とにかく着替えろ。飯を食うぞ」と言った。
僕は着替えながら、心臓がドキドキしていた。そこまでやるの? これ、想像以上にやばい依頼なんじゃないか。だれが犯人なんだ。ここに僕らが泊まっていることを知っている人間……。
そう考えて、岩倉神社の宮司の顔が浮かんだ。次に、森林組合の若者たち。ここによそものが滞在するなら、やまと屋にいることは当然推測できる。旅館の駐車場に見慣れない車があるなら、僕らの乗ってきた車だということはすぐにわかる。生き別れの双子の片割れを探す僕らを、敵視しているだれかがやったのか。見つけ出すのを、阻止するために?
最後に、女将とその夫の顔も浮かんだ。夫はともかく、女将が、まさか。僕らともわりと普通にやりとりしてくれていた。さすがに女将が犯人だったら人間不信になりそうだ。
「パッと見でわかる壊れかたじゃない。故障の可能性があるくらいだ。車に詳しい人間の仕業だろう」
階段を下りる前に、師匠が言った。
「ていうか、朝早く起きてどっかに行こうとしてたんですか」
エンジンがかからないってことは、エンジンをかけようとしていたということだ。
「まあ、その辺をぶらっとな。かたわれどきってやつを見に」
「そんなに早く起きてたんですか。ていうか玄関勝手に開けたんですか。なにか見えましたか」
「空気が澄んでいて、深呼吸したら気持ちがよかったな。ここは山に囲まれているから、朝日が出るのが遅いんだ。遠くの山の稜線に、薄っすらとほのかな光が灯って、それがなかなか広がっていかない。空の下は暗くて、川から流れてきたもやで、視界が狭い。あのもやのなかで、だれかが向こうにいる気がする、って思えば、たしかにちょっと気味が悪いな」
さっき部屋の窓から見た景色は、まだ完全に朝の明るさじゃなかった。夏の朝7時だというのに。ここでは、僕らが住む街と、時間の流れが違うのだ。
階段を下りて、居間に向かうと女将が食卓を作っていた。
「おはようございます。よく寝られましたかね」
「ええ」
朝ごはんは、焼き魚に卵焼き。そしてなめこの味噌汁に、ほうれん草のおひたしというメニューだった。
「え、車が?」
「はい。いまエンジンをかけようとしたら、かからなくて」
師匠に車の件を聞かされた女将は、驚いていた。演技ではないように思えるが、どうなのだろうか。
「あら、困ったわね。お父さんに見てもらいましょうか」
食事が終わったあと、女将は夫の滝野氏をつれてきた。畑に行く前なのか、昨日と同じ農作業着姿だった。ムスッとして、無愛想なのは昨夜と同じだったが、師匠の軽四のボンネットを開けてエンジンまわりを見てくれた。
「バッテリーがいかんな」
バッテリーの交換が必要なようだった。車屋に見てもらったほうがいい、というので、一番近い自動車屋に電話してもらった。30分ほどして、自動車屋の車が来た。ヒゲ面の技師が、工具一式と新しいバッテリーでしばらくガチャガチャとやっていたが、こりゃだめだ、と言ってボンネットを閉じた。
どうやらバッテリーだけでなく、エンジン自体もおかしくなっているようだった。技師は、少なくともヒューズが飛んでいると言っていた。
「漏電ですか。それとも、だれかが、意図的に電気を流したとか……」
師匠の問いかけに、技師はさあなあ、と言っただけだった。
結局、レッカー車で自動車屋まで持っていくことになってしまった。すぐに直ればいいが、それまで足がなくなってしまう。代車はないかと相談したが、いまはないと言われてしまった。
すると、女将が、「自転車がある」と言って、家の納屋から2台出してきてくれた。昔子どもが乗っていた自転車を、大事に取っていたらしい。多少錆び付いていたが、十分乗れそうだった。
お礼を言って、2台とも借りることにした。
そのドタバタの最中に、やまと屋へ電話があり、僕らあてに伝言があったという。
「宮司の息子が?」
「ええ、実くんが、お昼の1時に会いたいって。神社のほうへ来て欲しいそうですよ」
師匠と僕は顔を見合わせた。そして声を潜めて言った。
「こいつは、先制攻撃なのか」
「どうでしょうね」
宮司の息子の月本実は、森林組合にいると言っていた。昨日の連中のなかにいたのだろうか。だったら、僕らがここに泊まっていることはすぐにわかっただろう。
レッカー車が来て、師匠のボロ軽四を連れて行くのを見送ってから、僕らはようやく動き出した。女将が、お昼にお蕎麦を茹でるから、よかったら食べないかと誘ってくれたので、一度戻って来ることにした。
女将に教えてもらった、もう1人の双子の兄候補のいる、藤崎家に向かう前に、民宿の隣のタバコ屋に寄った。
おばあちゃんのトモさんが、昨日と同じ格好で店番をしていた。寝ているのか起きているのか、よくわからない顔で。
「おまえ吸うっけ?」
と師匠が指を2本口元にもって行く仕草をしたので、「吸いませんよ。今ごろですか」と断固抗議した。
「私も禁煙してるからなぁ」
と言って、師匠はタバコ屋でガムを買った。そのついで、というていでトモさんに話しかける。
この歌知ってます? と言って僕にタクトを振る真似をする。はいはい。歌えばいいんでしょう。
僕が『かごめかごめの歌』を歌い始めると、トモさんは知っていたようで、手で拍子をつけてくれた。
そりゃ知ってるでしょうよ。日本人なら、かごめかごめくらい。そう思ったが、トモさんは、ムニャムニャとした口調で、懐かしい懐かしいと言っていた。
「この、いついつねやる、かたわれどきに、って歌を知ってるんですね」
トモさんは頷いた。
「これは、大ごもりを表しているんですか?」
また頷く。
「では、なぬか、などぉって、つぅべったはどうですか。なぬか、は7日間という意味でしょう。などぉって、はどういう意味ですか。などる、という言葉はなぞる、という意味の言葉ですが、7日間なぞる、というのはいまいち意味がわからない。ここの方言ではないかと思うのですが」
師匠の問いかけに、半分眠りそうになりながら、トモさんは答えた。
「などう、いうのは、迷う、いう意味ですじゃ」
「迷う? なぬか、などって、という歌詞は、7日間迷って、という意味なのですか」
トモさんは頷いた。
「7日間迷ってすべった。いや、このすべった、という部分は元歌でもあまり意味がないとされている部分だ。そこが変わってない以上、この岩倉の歌で意味を持っているのは、わざわざ変えてある部分。いついつねやる、かたわれどきに、なぬか、などって、の部分だけだな」
師匠が自分に言い聞かせるようにぶつぶつと言っている。
「いつ寝るのか、かたわれどきに。そして7日間迷う。主体はなんだ? 起点は?」
ハッとして、師匠は顔を上げた。
「まてよ、7日間? まさか」
「え、なんですか」
なにかに気づいたようだが、師匠は「確認することがある」と言って答えてくれなかった。かわりに、トモさんに向かって、はっきりと訊ねた。
「この歌は、なにを歌っているのですか」
そう訊かれたトモさんは、手を合わせて、念仏を唱え始めた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と。
畏れだ。
民俗学者の佐藤老人や、この村の人々の顔に浮かぶ、畏怖の感情。これ以上語ることを忌避する、なにものかへの畏れ。それが、目の前の老婆にもはっきりと現われていた。
「すみませんでした」
師匠はトモさんに頭を下げ、タバコ屋をあとにした。
「あれはたぶん、おどし歌なんだ」
「え?」
「童歌の類型だよ。しょうもんばかりしてると、ぼうこんがくるぞって、去年出たホラー小説にあったろ。『リング』だったか。あれは、水遊びばかりしていると、おばけがくるぞ、って意味だったな。そんな風に、バツバツすると、マルマルするぞ、っていうのがおどし歌のパターンだけど、はっきりそう言わないものもある。共通しているのは、子どもをおどかして、なにかをさせる、あるいはさせない、そのための教育的な歌なんだ。大ごもりの夜に寝てはならない。そして、7日間迷うのはだれだ? 7日間迷うのが恐ろしいのか、あるいは、7日間迷うなにかが恐ろしいのか……。うしろの正面だあれ。うしろにいるのは、だれだ?」
途中から、師匠の言葉はまた自問になっていた。
「あ、そうだ。ちょっと待ってろ。電話借りてくる」
師匠は僕を残して、やまと屋に入っていった。すぐに出てきたが、どこにかけたのだろうか。
「大学の知り合いだよ。ちょっと調べ物を頼んだんだ」
そう言って、はぐらかした。気になるが、こうなると師匠はある程度ものごとがはっきりしないと、答えてくれない。
「よし、藤崎家へゴー」
自転車に乗って、教えてもらった藤崎さんの家に向かった。
ちょうど岩倉の真んなかあたりにあるという元小学校から、北へ北へ入っていったところに、2階建ての家があった。
藤崎という表札を確認して外から声をかけると、ジャージ姿の男が出てきた。若い男で、頭には寝癖が立っている。寝起きらしかった。
「なに、あんたら」
やまと屋に紹介されてきた、民俗学を専攻している学生だと名乗り、男に名前を尋ねると、やはりこの家の息子のアキラだった。
両親はいま農作業に出ているらしい。仕事を訊くと、親の手伝いをしているということをモゴモゴと言っていた。していないじゃないか。いまのいままで寝ておいて。ようするに、放蕩息子なのだろう。そんなことを思ったが、おくびにも出さず、会話を打ち切りたがっている男と、なんとか会話を繋いでいる師匠に合いの手を入れて応援した。
「双子? 知らねえよ。俺には妹なんていねえよ」
そう言って、藤崎アキラはソッポを向いた。予想されたことだったが、全く情報を得られそうになかった。じっと彼の眼を見ていたが、浮かんでいる動揺が、ウソをついているからなのか、それとも怯えているからなのか、よくわからなかった。
「あのー。昨日の夜って、何時くらいに寝ました?」
「なんだよ、刑事の尋問かよ。関係ないだろ。もう帰れよ」
藤崎アキラは強い態度に出て、家に戻ろうとした。
「あ、待って。そちらの藤崎って家は、元々篠田地区にあったんじゃないですか? 羽根川という家のことをご存じないですか」
「そんなの大昔だよ。篠田の藤崎の家って、あのボロボロの家だろ。戦前の家を放置してただけだ。うちはずっとここだよ。羽根川なんて家も知らねえ。もういいだろ」
最後に師匠が、その背中に声をかける。
「明日は大ごもりですね」
「それが、どうしたよ」
そう言って、玄関のドアが乱暴に閉められた。師匠と僕は顔を見合わせて、首を振った。
「あれはどうなんでしょうね」
「怖がってるな。あいつも、怖いんだよ」
「双子のかたわれを?」
「だけど、昨日言ったみたいに、疑心暗鬼になっているだけかもしれない。自分の知らない双子のきょうだいが、どこかにいるのかも知れないってな」
まだ夜の明けない、かたわれどきの暗闇のなかで、いつのまにか、うしろに……。そんな想像をして、僕まで怖くなってしまった。
「羽根川家も隣近所がなかったぽいですね。どうするんですか」
「わざわざ呼びつけてきた宮司の息子次第だな。こいつは、なにか重要な情報を持ってそうだ」
師匠は、そう言って自転車にまたがった。
「よし、昼まで道祖神でも拝んでいこうぜ」
自転車に乗って、僕らは南の下岩倉へ向かった。昨日の集会所に寄ってみたが、だれもいないようだった。鍵もかかっている。そこを通り過ぎて、さらに南に向かうと、女将が言っていたように、道祖神がいくつかあった。
見通しが悪く舗装もされていない山道の途中に、大きな双体道祖神が突然現われるので、思わずビクリとしてしまう。昨日見た道祖神よりも、さらに古そうだったが、構図はよく似ていた。
師匠が、その道祖神をなでながら言った。
「これだけ道祖神を配置しているのは、里への異物の侵入をよほど恐れていたってことだな。こうまでしてなお、なにかをまだ恐れている。一箇所に集まって、大ごもりなんてことをしている」
「外に捨てた双子が戻ってくるのを恐れているんでしょうか」
「それにしちゃあ、神頼みすぎないか。なにかもっとこう……」
そう言いかけたところで、師匠が道祖神の足元を覗き込んだ。
「まただ」
「なんですか」
「見ろ、足元。また足が大きい」
たしかに片方の像の足が、大きく見えた。
「彫りかけてやめたんじゃないですか」
「いや、そんな手を抜くか? これだけ道祖神にこだわっている村で」
師匠は来た道を振り返った。
「まただ。岩倉の外のほうにある像だけ、足が大きい」
道の手前側にある像が女の像。奥のほうにある像が男の像。その男のほうの足が大きかった。昨日の村の入り口にあった像は、女が外側、男が内側で、女のほうの足が大きかった。
「性別じゃない。村の、サトのソト側の像の足だけが大きいんだ。これはなんだ?」
もっと見てみよう。師匠はそう言って、次の道祖神を探し始めた。道を変えて、しばらく自転車をこぐと、またすぐに見つかった。
今度のはさらに古そうだった。南の奥に行くほど、古くなっている気がする。そのことに触れてみると、師匠がそれはそうだろう、と言った。
「聞いただろ。岩倉神社や村役場があった、北の上岩倉がここの中心だってな。北の集落のほうが金があるんだよ。だから、古くなった道祖神やら庚申塔やらを作り直せるんだ。それに対して、金のない南の集落の道祖神は、古いのが残ってるって寸法だ」
師匠が今度の道祖神の足元を見て、「あ」と言った。
「どうしました」
今度も同じように、道の奥側の像の足の先が大きかった。心なしか、さっきよりも横に出っ張っているような気がする。
「まさかこれは、意匠の退化?」
師匠はそう呟いて口元を押さえた。
「なんですかそれ」
「デザインは、進化するばかりじゃないってことだ」
意味のわからないことを言いながら、師匠は腕時計を見た。
「もう12時か。戻らないとな。またあとで調べよう」
そう言って自転車に乗った。なんだかわからないまま、僕は師匠についていく。道が折れる手前で、なにげなく道祖神を振り返ったとき、僕の目は信じられないものを見た。
「うわっ」
思わず叫んで自転車を止める。転がり落ちそうになった。
「なんだ、どうした」
「いや、なんか。……山爺みたいなのが、いた気がして」
「いないぞ」
いなくなっている。目を擦ったが、忽然と消えていた。
「あの、奥の木の枝のあたりに、いたんですよ。こっちを見てた」
「今度は妖怪か。それにしても山爺って」
師匠は信じてくれないようで、笑っていた。
「本当なんです。目が1つでなんか耳もなくて、毛むくじゃらで」
「ふうん。目が1つ、ね」
師匠は道祖神のところまで戻って、そのうしろの森を見上げた。そのとき、その森の奥でガサガサと動く音が聞こえた。
「なんだあれ。猿かな」
「いや、僕が見たやつじゃないですか」
異様に目のいい師匠が、顔を突き出して目を凝らしていたが、「ありゃあ猿だ」と言った。「猿を見間違えたんだろ」
「そんな。……そうですかね」
自信がなくなってきた。
「目が1つ、ね」
また師匠はそう呟いた。
「おっと、いかん。戻らないと」
1時に神社で約束をしていた。急がないといけなかった。
頑張って自転車をこいで、やまと屋に戻った。女将が用意してくれていた地元名産の蕎麦を啜って、また慌しく出発する。
自転車は小回りが利くが、こう無駄に広い土地ではなかなかにしんどかった。
東西の道の、元小学校から少し東に進んだところから、北に入る。天神山のとんがった姿を見上げながら、進んでいく。
参道の入り口に着くと、一人の青年が鳥居のそばに立っていた。
「あれ。車じゃないんですか」
僕らの自転車を見て、彼はそう言った。
「いやあ、天気がいいから借りたんですよ」
師匠は車が壊れたことを言わずに、「あなたが、月本実さん?」と訊ねた。
「はい。お呼び立てしてすみません。父からあなたたちのことを聞いたもので」
爽やかな笑顔だった。昨日会った森林組合の人たちのなかには見なかった顔だった。一目見て好青年だという印象を持った。
「あ、自転車は、そっちの木のうしろに隠してもらえますか」
「なんでですか?」
僕が訊くとミノルは、「じつは、父には内緒なんです」と言った。
「用事で出ていまして、あと2時間くらいは戻ってこないんですけど、念のため」
「昨日、宮司のお父さんにはやっつけられましたよ。失礼なことを言ったこっちが悪いんですけど。お父さん、厳格なかたですね」
「堅物で困ってますよ」
爽やかに笑うと、僕らを参道のなかへ案内した。昨日の社務所か、その奥にあった住居らしきところへ連れて行かれるのかと思った。しかしミノルは、社務所の横の通り道のようなところから、さらに奥へと進んだ。垣根の裏側へ回り込んだのだ。
「もしかして」
師匠が言いかけると、ミノルは振り向いて言った。
「ええ。磐座のあった所へご案内します」
「いいんですか」
「大丈夫ですよ。うちの神社の土地ですし」
そう言いながら、途中に張られた注連縄の結界をひょい、とくぐって、背の高い森のなかを進んでいく。
父親とは真逆の軽いノリに驚きながらもついていくと、やがて森が開けた場所に出た。その先は岩場があって、かなりの傾斜が始まっている。天神山の本当の麓のあたりだった。
「ここが?」
僕らの目の前に、注連縄が四方に張られている。注連縄のなかは、まわりの地面よりも一段低くなっていて、一面に草が蔓延っていた。直径で10メートルほどの空間だった。ところどころに、草のなかから尖った石の先が覗いている。
「磐座という大きな石があった場所です。うちの岩倉神社の名前の元になった石で、村の名前にもなったものです。古くから土地の人間の守り神として信仰の対象になっていました。それが、千年ほど前に、天狗星が落ちてきてぶつかって、砕けたと言われています」
「天狗星というと、隕石が?」
「ええ。石は地面の下に食い込んだ部分もあるようですが、多くは砕けて周囲に飛び散ったと思います。その辺に見えている石は、その残骸ですね。その先の岩場の石と同じような石質なので、隕石の残骸ではなく、磐座の残骸なのでしょうね」
聖域と呼ばれていたが、いざ目の前にすると、さほど驚くような光景ではなかった。
「山の上には登れるんですか」
師匠が訊くと、ミノルは残念そうに首を振った。
「すみません。この先はちょっとまずいんです。何年か前に、神事の一貫で特別に登ったことがあるんですが。切り立ってますけど、一応登れる道はあるんですよ。でも麓側で木が切れているところが結構あって、遠くからでも見えちゃうんです。登ってるところが。さすがに聖域の山に勝手に登ってるのがバレると、ヤバイんで」
見上げると、たしかに木がはげている場所があった。
「立ち話もなんなので、ここに座りましょう」
岩場のほうの平たい石の前で、ミノルが僕らを呼んだ。3人して石に腰掛け、あらためて自己紹介した。
「O大学なんですってね。凄いな。僕なんか高卒で働いてますよ」
言葉とは裏腹に、あまり卑屈さを感じない爽やかさでミノルは笑った。昨日の森林組合の2人のような粗野な感じは全く受けない。丁寧な口調なので、こちらの居住まいを正さなくてならないような気になった。
「僕は午後から休みでしたけど、そちらは晩方に森林組合に寄ったんですってね。ガラの悪い人がいたでしょう。あんな人ばかりじゃないんですけどね」
「かわいいもんですよ。ところでミノルさんはお父さんが宮司ですよね。あとは継がれないんですか。それともほかにご兄弟が?」
ちょっとドキッとする話題だった。師匠の問いかけに、ミノルは動揺も見せず答えた。
「僕はひとりっ子ですよ。父に言われて、神職の勉強は昔からしています。父が引退すれば、いずれはあとを継ぐことになるでしょうね。ただ、当面は生活をするために外に出て稼がないと。氏子の寄進だけで食べていけるような時代でもないですからね。でも山の仕事は好きですよ。昔は結構ひ弱だったんですけど、見てください」
そう言って、シャツの腕をまくり、力こぶをつくって見せた。日焼けした肌に引き締まった筋肉が浮いていた。一見細めに見えるが、身体は案外頑健なようだった。
「それで……」
師匠が本題に入ろうとしたところで、ミノルはわかってます、と言うように機先を制した。
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「羽根川さんという女性の双子のお兄さんを探しに来られたんですよね。21歳なんですってね、その人。残念ながら僕は23歳なんだ。君たちより年上だよ」
年齢を言ったところで、急にくだけた調子になった。
「ごめん。方々で私、21歳って言ってるけど、本当は4歳サバ読んでるんだ」
「え、じゃあ25歳?」
師匠は堂々と頷いた。もうバラしちゃうの? 僕は大丈夫なのか、と心配になった。
「まいったな。若く見えるけど。すみませんタメ口きいちゃって」
「あ、僕は今年でハタチになります」と僕も年を言った。
師匠はミノルの若く見える、という言葉に気をよくしたようで、口の端が微かに上がっている。
「21歳って言ったら、いま岩倉にはたぶん藤崎のアキラしかいないんじゃないかな」
「今朝会ってきたよ」
「怒ったでしょう」
ミノルはクスリと笑った。
「ああ。どうしてわかったんだ」
師匠のほうは逆に、さっそくタメ口になっている。
「父も言っていたと思いますけど、昔からこの村では双子を忌む風習がありました。あとから生まれたほうを、村の外へ出すんです。ここでは生まれなかったことにして。そのことについて語るのはタブーなんですよ。だれだって、実は自分に双子のきょうだいがいて、生まれてすぐに捨てたって知ったらショックを受けるでしょう?」
「それ、宮司さんにこっちが指摘したんですけど、まともに答えてくれませんでしたよ」
僕が言うと、ミノルは苦笑いをした。
「そうでしたか。父らしいですね」
「もとは私の恩師が、あなたのお祖父さんから聞いたんだけどね」
「祖父は僕が子どものころに亡くなりましたけど、父よりも開明的な人でしたよ。そうやってよその人に村のタブーのことを喋ったりして、それをあとで知った父はずいぶん怒ったものです」
「あなたは、お祖父さんイズムなんだ」
「そうですね。伝統は大事ですけど、いまを生きる人の指針となるようなものならともかく、生き方を縛られるだけのようなものからは、脱却していていくべきじゃないかって思います」
「大ごもりとはいったいなんなんだ? 聞いた地元の人は、みんな口をつぐむんだよ」
師匠の問いに、ミノルはどう答えようか思案しているようだった。
「今年は6月28日にあるけど、年によっては29日にやるときもあるんだろう?」
「ええ」
「もしかして、その年の開催日は村の人々の都合で決まるんじゃなくて、必然的に決まってしまうんじゃないか」
ミノルは師匠を見た。心なしか、驚いた顔だった。
「例えば、天体の動きみたいに、カッチリしたもので」
「まいったな。よくわかりましたね」
ミノルはまいったな、が口癖のようだった。
なんだかわからない僕は2人の顔を見比べていた。
「さっき、やまと屋で蕎麦食ったあと私、また電話借りたろ。あれ、頼みごとの返事を聞いたんだ。ドンピシャだったよ」
師匠は僕にそう言うと、背負っていたリュックサックからバインダーとノートを取り出した。
「恩師が昔調べた、大ごもりが開かれた日付はこうだだ。
・1955年6月29日
・1956年6月28日
・1957年6月29日
・1958年6月29日
・1959年6月29日
・1960年6月28日
・1961年6月29日
・1962年6月29日
これはどれも庚申の日じゃない。宮司は庚申講が廃れて、その代わりに始まったものだろうなんて言ってたけどな。大嘘だよ。大ごもりははるか昔からあったんだろう? ひょっとすると、庚申講よりも前から。むしろ、朝まで寝ずに起きている、という大ごもりのことを隠すために、よく似た習慣の庚申講を催していたのかも知れない。おい、歌えよ、あれを」
師匠から促されて、僕は何度目かも忘れた『かごめかごめ』を歌った。
「だんだん上手くなってきたな。この、『いついつねやる、かたわれどきに』というのは大ごもりの習慣をさしている。そして、『なぬか、などって』という部分は、7日間迷って、という意味だ。頭韻を踏んでいるから、あまり意味のない拍子言葉かも知れないと思ったけどな。大ごもりの日付と7日間という数字を並べると、偶然とは思えない一致が出てくるんだよ。私も確認するまでは半信半疑だったけど」
師匠はノートを広げて、そこにメモしていた数字を読み上げた。
「いいか。
・1955年6月22日
・1956年6月21日
・1957年6月22日
・1958年6月22日
・1959年6月22日
・1960年6月21日
・1961年6月22日
・1962年6月22日
これは、さっきの大ごもりの日から7日を引いた日付だ。そしてこれは、その年の夏至の日付とぴったり一致するんだ」
夏至?
僕はそれを聞いてハッとした。そう言われてみれば、つい1週間くらい前に夏至の日があったばかりだ。ちょうどこの6月下旬の時期なのだ。夏至は。
「今年の夏至は、6月21日だった。そして、今年の大ごもりは、明日、6月28日。ちょうど夏至から7日後だ。これは偶然じゃないな。新暦に限った話じゃない。旧暦の時代でも、きっと大ごもりの日は夏至から7日後だったはずだ。夏至から、7日間迷った時点がその年の大ごもりだ。そうなんだろう?」
「……そうです」
ミノルは空を見上げた。今日も快晴だった。天高く太陽が輝いている。
「父に、共同幻想、って言ったそうですね。双子を忌む、この村の伝承のことを。父は怒っていましたよ。無理もないです。この岩倉で生きている人間にとって、それは幻想なんていう生易しいものじゃない。切実なものなのです。見てください。あの太陽を。あれが元凶です。天狗星がこの地に落ちてから、この村の人々を恐怖に捕らえてきたものの、元凶なんです」
そう言って、輝く太陽を指差した。夏至からまだ1週間も経っていない。太陽の角度が最も空高くにある時期だった。
「千年前に落ちた天狗星は、神の石である磐座を砕いただけではなく、天神山そのものに亀裂を残しました。あのあたりに、ちょっと岩肌が割れているところがあるでしょう」
山を見上げると、頂上に近いところに木がはげている場所があった。岩の地肌がのぞいていて、それが大きく割れているようだった。
「あの亀裂は、その下の木が生えているあたりまで広がっています。とても深い割れ目です。上から覗くと、地の底まで見えるような」
ミノルは左手の親指とそれ以外の指とで、わっかを作った。そして、そのわっかに、真上から右手の人差し指をつっこむ仕草をした。
「亀裂は垂直ではなく、南側から北側へ向かってわずかな傾斜がついています。春や、秋、冬の太陽は、高度が低いので中天に昇ったときでも、亀裂から入った光は、途中で山の土に吸収されます。たとえば冬至の南中高度は30度だそうです。ところが、夏至には78度に達する。どういう偶然なのか、これは、亀裂の角度と同じなんです。夏至の日の南中時に、太陽の光が、亀裂の奥底まで差し込んでいく。その光は、地の底の、黄泉の国にまで届くとされています」
その言葉を聞いて、わけもわからないままゾワッとした。黄泉の国。なにかが繋がっていく。バラバラに見えていたものが、一本の線を引くことで、直線上に並んでいたことがわかったような。そんな感覚があった。まるで隠れたレイラインのような。
「この岩倉には、古い言い伝えがあります。人はすべて男女の双子で生ずると。一方はうつしよに、一方はかくりよに。母親の胎内は、人智を超えた場です。未だに人が造りだせない、生命が生じる空間なのですから。その胎内には、道が2つあります。1つは産道。うつしよへの道。もう2つは冥道。かくりよへの道です。人はみな手を繋いだ双子として生まれてきます。しかしそれぞれの道は1人しか通れません。誕生のとき、2人は繋いだ手を離し、うつしよから見て奥に生まれたほうが冥道へ、手前に生まれた子が、産道へ向かいます。現世に生まれた子が男の子なら、あの世に生まれた子は女の子です。人はみな、生まれながらに死に別れた、双子のきょうだいを持っているんです」
ミノルの爽やかな笑顔に、影がさしている。声も低く、表情は哀しげだった。厳しい顔を崩さなかった父親とは違った。
「それで、実際に男女の双子が生まれれば、1人しか通れないはずの産道を、間違って2人で通ってきた忌み子ってワケか。あとから生まれるほうが忌み子だから、現代なら弟、または妹。古くは逆で、兄か姉のほうが忌み子扱いされたんだな」
「ええ。昔の日本では、あとから生まれたほうが、先に母親の胎内に入ったはずだから、兄、姉とされていたそうですね。今は生まれた順に年長者です。普通ならね」
「忌み子は間引きの対象になった。生まれるはずだったあの世に還すってな。近代以降、子殺しが強く忌避されるようになり、この岩倉では村の外に捨てるようになった。医者を抱きこんで戸籍をいじってまで。戻って来ないようにするためだ。忌み子を捨てたのは、里の外側、つまりかくりよだ。そして境に道祖神を置き、忌まわしい死人が戻ってくるのを防いでいるんだな」
「ひどいですよね」
僕がぽろりと漏らした感想に、師匠が、「しかたがないだろ」と言った。「言い伝えを信じる限り、そうするしかないんだろう。だけど、私が興味があるのは、その言い伝えがどこから来たのか、ってところだ」
師匠はミノルに向き直った。
「岩倉神社の祭神は、イザナギとオオヒルメノムチだってな。大ごもりの祭神も同じだ。それは、どちらも『かたわれ』が黄泉の国へ行った神だ」
宮司の息子は頷いた。師匠は続ける。
「イザナギのかたわれは、妹であり、妻でもあるイザナミ。火の神を産むときに死んでしまい、黄泉の国へ行った神だ。そしてオオヒルメノムチのかたわれは、スサノオ。母であるイザナミを慕い、黄泉の国へ自ら赴いた神。と、思ったんだけどな。オオヒルメノムチのほうは違ったんだ。おい。おまえ、アマテラスって呼んでたな。オオヒルメノムチとの違いはわかるか」
僕は急に話を振られて動揺したが、「アマテラスが古事記で、オオヒルメノムチが日本書紀の表記でしょ」と答えた。そこだけは調べたのだ。
「そうだ。古事記ってのは、日本書紀よりも前に編纂された古い歴史書とされてるけど、元々宮中に秘されていたものでな、広く知られるようになるのは江戸時代の本居宣長のころからだ。それまで、朝廷の正史と言えば日本書紀だった。カミの名前や伝承の内容が古事記と異なる部分が多くて、それは『一書(あるふみ)にいわく』っていうように、『日本旧記』だとか、『百済記』だとかの、元にした資料のどれを採ったかでも違いが出ているからだ。異説ありってやつだな。記紀ってのは神話そのものじゃなく、神話の解説書みたいなもんだ。だから、今でも、古事記由来の神名を使う神社もあれば、日本書紀由来の神名を使う神社もあって、どっちが正しいということもない。この岩倉では日本書紀由来を使っているというだけだ」
師匠は指先を教鞭のように振って講義する。調子が出てきたようだ。
「ところで、日本の神話時代の双子を、だれか言えるか? だれでもいい」
「え、双子ですか。……海幸彦と山幸彦とか」
「お、そうだ。よく知ってるな。ほかにも大碓命(おおうすのみこと)と、小碓命(おうすのみこと)なんてのもいる」
「聞いたことないですね」
「小碓命はのちのヤマトタケルだ」
「え、双子だったんですか」
「小碓命、つまりヤマトタケルは、兄の大碓命を素手でくびり殺したヤンチャ坊主だったんだ。海幸彦と山幸彦は正確には三つ子で、ホスセリノミコトっていう次男がいる。これはなにもしない、典型的な数合わせの神、中空の神ってやつだな。実質的に双子といっていい海と山は、兄弟で争い、弟の山幸彦が兄の海幸彦を倒した。勝った山幸彦の孫がのちの神武天皇だ。こんなふうに、双子の神ってのはよく争っている。そりゃそうだ。親神のあとを継ぐのは1人だからな。双子で生まれるってことは争いの元なんだ。望ましいことじゃない。古事記で言うアマテラスとスサノオの間には、ツクヨミっていう神がいるだろ。この男なのか女なのかもはっきりしないツクヨミも、なにもしない中空構造の神だ。アマテラスとスサノオの対立を際立たせないための装置だよ。双子は忌まわしいんだ。正統を乱す存在だからだ。そういうことなんだろ?」
師匠はミノルに問いかけた。
「まいったな。お詳しいんですね」
「日本書紀の本書では、イザナギとイザナミは大八州国(おおやしまのくに)や山川草木などを生んだあと、それらを統べる後継者としてオオヒルメノムチノカミを生んだ。その次に生まれたのが月神(ツキノカミ)、その次が蛭児(ヒルコ)だ。このヒルコは足腰の立たない不具の子だった。そのため、天磐櫲樟船(アメノイワクスブネ)に乗せられ、海に流された。追放されたんだな。追放されたヒルコが流れ着いたという伝説は日本各地にあって、エビスと呼んだりして敬い奉られている。追放された神が、ヒトに文明や福をもたらすという神話は世界中にある。これもその類型と言われていたりするがな。ここでも、ツキノカミは、古事記のツクヨミと同じく、中空構造の神だ。アマテラスと対立し、下界に追放されたスサノオの立ち位置が、このオオヒルメノムチに対するヒルコだ。神様の名前ってのは、ゴテゴテした装飾がついてるだろ。偉い神様ほどそうだ。ヒルコなんて潔いものだ。偉くないからな。さて、この着飾ったオオヒルメノムチノカミの名前から、装飾をとってみよう」
師匠は偉そうに僕に語りかける。
「オオ、は言うまでもない、大きい、偉大だっていう意味の装飾だな。ノムチってのも、大国主の別名、クニツクリノオオナムチとかと同じく、貴(とおとい)って言葉をあてる、霊威を表す装飾だ。カミはいわずもがな! さあ、オオヒルメノムチノカミから、それらの装飾をとりはらった、本質を表す名前は、なんだ?」
問いかけに、頭のなかで残った文字を並べ、一瞬ゾクリとした。
「ヒルメ、です」
師匠がニヤリと笑う。
「ヒルメとヒルコだな」
対の、カミ? ゾワゾワとしたものが首筋を走った。
「ヒルヒメとヒルヒコだ。日の女と日の子。つまりどちらも太陽を司る神だ。国生み、神生みのイザナギとイザナミが、そのあとを統べるに相応しい神として生んだ、双子の太陽神だよ。だけど、後継者の席に2人が座ることはできない。太陽が2つとないように。双子の神の片方、ヒルコは海のかなたへ追放される。海はかくりよだ。双子の片方が生まれてすぐに追い出される、この村の伝統と同じだ。日本書紀のこのヒルコにまつわる解釈を、受け継いでいるんだろう? だから、岩倉神社の祭神は、うつしよを司る神、イザナギとオオヒルメノムチなんだ」
ミノルは目を見開いて、師匠を見た。その顔には、興奮の色が見て取れた。
「よくわかりましたね。隠している縁起なのに」
「恩師が、ちょっとヒントをくれたからな。スサノオじゃないって。よくわからないのは、その、夏至に天神山の亀裂から太陽の光が入るのが、なんだというんだ」
「……」
ミノルは迷っている様子だったが、頭を振ると、さっぱりした表情で語り始めた。
「山は、死者が集まる場所です。この岩倉では、古代から天神山の麓にあった巨石が、その魂を沈める役割を果たしていました。でも、千年前に天狗星が落ちたとき、それがすべて崩れ去ったのです。石は砕け、天神山には亀裂が生まれました。地の底まで伸びる亀裂です。地の底は、死者の国。黄泉の国なのです。黄泉比良坂(よもつひらさか)で地上世界と繋がっていたように。この岩倉の地下にある黄泉の国は、亀裂で地上とつながってしまったんですよ。それ以来、僕らはこの村で、逃げようのない恐怖に捕らわれている……」
宮司の息子は、顔を覆うように額に手をやった。声はかすかに震えている。
「死者が、這い出てくるってのか」
師匠の言葉に、ミノルは小さく頷いた。
「黄泉の国は遠い世界です。亀裂で繋がっても、『彼ら』はこの地上へやってくる道をたどれない。たどりつけないはずなんです。道を示す光でもなければ」
「なるほど。それが、夏至の日に差し込む太陽光か」
「そうです。夏至の日には、太陽が地下世界の奥まで届きます。『彼ら』はその光をたどってやってくるのです。途中で光は消え、その方角だけをたよりに、迷いながら這い出てくる」
「それが、なぬか、などって。7日間迷って、か。地下世界から7日間かけてやってきたやつらは、どうなる?」
「地上で、探すんですよ。片割れを。かつて握っていた手を離した、双子のきょうだいを」
「そうか。黄泉には、双子のかたわれがいるんだ」
僕はそう言って、ゾッとした。あの世に行ったはずの、もうひとりの自分が、這い出てくることを想像して。
「この岩倉の人はみんな、小さいころから、ある夢を見るんです。とても恐ろしい夢です。薄暗闇の向こうに、だれかがいる。そのだれかはこちらに手を伸ばしている。感情が伝わってきます。恨み、妬み、そして希望。寒く、暗い黄泉の世界に生まれ落ちたことへの怨念が、その手には込められている。なぜ自分だけが。なぜおまえは、暖かい世界で生きているのだ。同じ自分なのに。逆ならば良かったのだ。うつしよに生まれたのが自分だったなら。替われ。替われ。入れ替われ。……そう言いながら、『彼ら』は手を伸ばしてきます。生まれるときに、離したその手を」
ミノルの顔が蒼白になっていく。この岩倉に来てから、何度も見てきた、人々の顔に浮かぶ畏れ。その畏怖の感情が、ミノルを押し包んでいるのがわかった。
「それは、ただの夢だろ」
「夢ですよ。そして、あなたが、共同幻想と呼んだものの正体です。でもこの岩倉で生まれた僕らには、幻と呼ぶにはあまりにも生々しい呪いなんです。よそから来た人にはわからない」
突き放した言葉だった。彼の父親とは態度こそ違え、同じ思いが根底にあることがわかる。
「亀裂を塞げばいいんじゃないのか。地表部分だけでも」
「かつては何度も板や岩で塞いだそうです。そのたびに、雷や嵐がきて、砕けたとされています。さらに疫病が流行ったとも。呪いですよ。この岩倉が負った、逃れられない呪いです。いまでは聖域として立ち入ることも許されていません」
「そうか。じゃあ、大ごもりってのはその、夏至から7日目にかくりよから這い出てきた双子の片割れを、避けるためにあるんだな」
「ええ。大ごもりの夜には、死者が地上に蠢き、この世とあの世の境が曖昧になります。その夜に眠ってしまうと、夢のなかで、『彼ら』にあらがえなくなる。入れ替わられてしまうんです。この岩倉では、何度もそんなことがあったそうです。急に人が変わったようになって、言動がおかしくなる。まともに言葉が通じなくなるんです。そうなるともう、もとの人間には戻れない」
「恐怖で、気が触れたんじゃないのか」
「本当のところはわかりません。でも僕らには、入れ替わられたとしか思えないんですよ。あの夢をずっと見続けていた僕らには。この入れ替わりを恐れる僕らは、大ごもりの夜に集まり、お互いを監視して眠らないようにするんです。古来から続く習慣です。庚申講は、それをカモフラージュするために始まったんだと思います。あなたがたが、興味本位で知りたがったり、参加したがったりしても、この土地の人間には不快なだけです。錯覚だとか、幻想だとか、ただの風習だなんて思う人には、僕らの抱いている恐怖はわからない」
そう言って視線を逸らしたミノルに、師匠はかける言葉を失ったようだった。僕らは、まさに興味本位で参加したがっていたのだから。
「よく、わかったよ」
師匠はようやくそう言った。
「でも、この世に生まれた本当の双子のきょうだいは、死者じゃないだろ。おまえたちがそう見立てたとしても、血のかよっている、普通の人間だ。生まれてすぐに外へ捨てられて、ようやくルーツを探し当てて、この村に生き別れのきょうだいを求めてやってくる、そんな人間を追い返すのか。おまえはさっき言ってたよな。伝統は大事だけど、いまを生きる人の指針となるようなものじゃなく、生き方を縛られるだけのようなものは、脱却していくべきだって。そう思っているから、ここへ私たちを呼んだんだろ。違うか?」
ミノルは師匠の目を正面から見据えた。
「はい。そう信じています。そんな悲しい連鎖を、いつまでも続けるべきじゃないって。岩倉で双子が生まれたら、両親は岩倉神社の宮司に知らせます。外の世界に送るときに、もう戻って来ないように、宮司が祝詞を捧げるのです。ほかにはだれにも知らせません。忌まわしい子を生んだことが知られるのを、恥じるからです。病院への手回しも、宮司がすべて取り仕切るんです。でも、父の代にはもうやっていないと思います。人が減って、生まれる子どもが極端に少なくなったから、双子が生まれること自体まずありません。21年前なら祖父の代ですね。ただ、受け継いできた記録があるはずです。双子の生まれた家と、送った先を記録してきた書物が。僕が小さいころに、祖父が漏らしたことを覚えています。いまも、僕の家のどこかに隠されているはずです」
「じゃ、じゃあ、それがあれば、わかるんですね。羽根川里美さんの双子のお兄さんがだれなのか」
僕は身を乗り出した。師匠がそれに待ったをかける。
「でも、村の21歳の男って、藤崎アキラってやつだけなんだろ。そいつに決まってるんじゃないか?」
「いえ、いま村にいるのは、ってことです。幼稚園もないし、小学校、中学校も遠くまで通わないといけないこの村じゃあ、子どもを育てるのに合わせて、村を出て行く人が多いんですよ。この村で生まれて、いまはもう外に出ている人のなかに、双子のお兄さんがいるのかも知れない」
「なるほどな」
ミノルは続ける。
「記録は、父の書斎のどこかだと思いますが、いつもは鍵がかけられていて、勝手に探すことはできません。父はなかなか家をあけないし、用心深い人なんです。今日も、もうあと30分くらいで帰ってきますね」
言われて、腕時計を見た。ここへ来て、もう1時間以上が経っていた。
「でも、明日、大ごもりの日に千載一遇のチャンスがあるんです」
「と、いうと?」と師匠が静かに訊ねた。
「その日、父は大ごもりの行われる集会所を順に回ります。はじめるときに、宮司が最初に祝詞を捧げる決まりになっているんです。それから、父はひとりで神社に戻って、社殿にこもります。そこで朝まで祈り続けるんです。黄泉から這い出てきた死者たちが、黄泉に還るようにと」
「なるほど。その間は、家の書斎を漁り放題ってわけだ。急な予定の変更もなし。なにより優先される確実な時間だ」
「そこへ僕たちを呼んでくれるんですか」
「はい」
ミノルは決意した顔ではっきりと答えた。
「おまえは、大丈夫なのか? 集会所にこもらなくて。この辺だったら、元小学校にこもるんだろ?」
「おふたりを案内したら、すぐに戻りますよ。あ、それと小学校の建物は今は上岩倉の集会所になってますけど、大ごもりには使われません。死者の這い出る、天神山に近いからです。だから、上岩倉の人たちも、みんな川を渡った南の下岩倉の集会所に集まります」
「それで、あそこの集会所はあんなにでかいのか」
「ええ。その川からすぐのところにあるのだけじゃなくて、下岩倉にはいくつか集会所があります。村の全員が家を出て集まるんですから」
「昨日、森林組合のやつらが言ってたよ。その大ごもりの日は、村から出るって」
「そういう人も多いです。若い人は特に。普段から村の外へ出て遊ぶような人は、そもそも村にいる必要がないって思うんでしょうね。そうやって、みんなだんだん村から離れていきます。あの夢の恐怖から逃げたくて、去っていくんです。もう岩倉の人口は200人を切りました。いずれ、だれもいなくなってしまうでしょう」
ミノルは岩の上にあった小石を拾って、草むらに投げた。
「そうそう。大ごもりの夜に、上岩倉から人がいなくなるのは、もう1つ理由があります。天神山の亀裂から、死者たちが這い出てくるときに、彼らは吼え声をあげるんです。大きくて、恐ろしい声です。それが、遠くまで聞こえてくる。その声をはっきりと聞いてしまうと、黄泉の国の住人になってしまうと言われています。だから、できるだけ離れるんです。少なくとも、上岩倉からは。僕も、一度だけかすかに聞いたことがあります。魂が、生きながら抜かれていくような感じがしました。あれは、恐ろしいものです」
「偉いな。宮司のお父さんは。1人で残って」
「それが岩倉神社の宮司の使命ですから。かつて砕けた磐座の力が、いまでも守ってくれる、と言っていました。だからここはいまでも聖域なんです」
思わず、目の前の注連縄で囲われたくぼ地を見た。そう言われてみると、なんだか神々しい清浄な力が満ちているように感じる。調子に乗って、注連縄のなかに入らなくてよかった、と僕は安堵した。
「声、か」
師匠は怪訝そうな顔をしていた。
「夢はいいんだけど、音は物質的な現象だ。なぜそんなことが、大ごもりの夜にだけ起こるんだろう」
僕はその呟きを聞いて、ハラハラした。岩倉の人々の抱いてきた恐怖を、共同幻想と言ってしまったのと同じだ。死者が吼えるという声を、自然現象で説明しようとしている態度だったからだ。
しかし、ミノルは気分を害した様子もなく、クスリと笑った。
「天神山のはるか地下に、地下水が溜まっている場所があるって説があります。その水が夏至の前後に亀裂から差し込んでくる太陽光で温められ、地下を流れるときに、冬の間に凍りついていた氷を含む土の層を溶かす、それが地下空間の圧力の変化を生んで、最終的に亀裂から気流となって吹き上がってくる、ってね。それがちょうど夏至から7日目なんだと。仮にこの現象が起こるのが5日目なら大ごもりは夏至から5日目。3日目なら、夏至から3日目になったんでしょうね」
あっけらんかんとしたその言葉に、僕は唖然としてしまった。最初の軽いノリが戻ってきたようだった。
「ま、わかりません。本当のところは。ものごとの光と影は、表裏一体、2つで1つ。どちらから見て読み解くか、というだけの違いなんじゃないですかね」
「おもしろいやつだな」
師匠がミノルの肩をはたいて笑っている。ちょっと嫉妬してしまう。
「じゃ、そろそろ戻らないと」
ミノルが立ち上がった。
「すみませんが、明日の夜まで動かないでください。そうですね、明日の夜の11時にさっきの鳥居のところで待ち合わせしましょう。それまで目立たないようにしてください。今日のことはだれにも言わないようにお願いします」
「わかった」
師匠がミノルに握手を求めた。僕もそれにならう。
「あのー。おふたりは付き合ってらっしゃるんですか」
いきなりだったので思わず吹いてしまった。
「違う違う」
と言って師匠は手を振った。
「そうですか。あなたは聡明なかたですね。長く一緒にいたら、好きになっちゃいそうですよ」
そんなことを、この優男は真顔で言うのだ! 君ね。僕なんてどれだけ一緒にいると思ってるんだ。年季が違うんだよ。と、そういうことを、握手する握力に込めた。全力で。
さすがにこの優男。山仕事で鍛えただけのことはある。僕らはお互いに、顔は笑顔で、その力強い握手をしばらく続けた。
去り際に、師匠がふいに言った。
「そうだ。ついさっきなんだけど、こいつが、山父だか、山爺みたいなのを見たって言うんだよ。猿の見間違いじゃないかって言ったんだけどな。1つ目で、耳がない入道みたいな顔だったって」
「耳がない猿がまた出たんですか」
ミノルがため息をついた。
「このあたりは人間よりも猿のほうが多くて、はばをきかせてるもんだから、かなり悪さをするんですよ。猿を駆除したら、笹川の町役場から1匹あたり1万円の報奨金が出るんです。猿の死体じゃなくて、両耳を切り取って持っていくんですよ。役場も死骸を持ち込まれても困りますからね。普通は捕まえた猿の耳を切ったら、死体は埋めるんですけど、祟りが怖いからって、耳を切っただけで殺さずに逃がす人がいるんです。駆除してないのにお金だけもらって。最近問題になってるんですよ。おかげで山のなかに耳のない猿がうろうろしている始末でして」
「猿1匹倒せば、1万円ももらえるのか」
師匠の目がキラキラと輝いた。よけいなことを知ってしまった気がする。倒しに行きかねない。前科があるからな。ドキドキしてしまう。
「目もつぶされて、耳も切られて、かわいそうに」
ミノルがそう言って、山のうえのほうを見上げた。
「いや、片目をつぶされた猿じゃなくて、1つ目だって言うんだよ。1つ目小僧みたいな。そうだろ?」
「はい」
「えっ。そんな」
ミノルは驚いていた。驚きかたが、どこか変だった。そんなバカな、という表情じゃなかったからだ。師匠はその様子を見て、詰め寄った。
「やっぱり。集会所の庚申塔に三猿が彫られていたんだけど、そのなかの見ざるが変だったんだよ。普通は両方の手のひらで、左右の目をそれぞれ隠すデザインになってる。でもここのは、手のひらをこう、クロスするみたいにして顔の真ん中を覆っていた。それを見て思ったんだよ。1つ目だったら、こう隠すよなって。おい。1つ目の奇形の猿が、この村には出るんだな」
「……僕も、見たことがあります。昔から、神さまの使いだって言われてて、山で遭っても、手を出しちゃいけないって言われています。くそっ。だれが耳なんて切ったんだ。酷いことを」
「庚申塔はどちらも古いものだった。庚申塔に描かれるくらい、そんな昔から1つ目の奇形がずっと現われているのか」
師匠は緊張した声でまくしたてた。
「この村は双子の発生率が高い。そうだろ? 普通は男女の双子の出産率は750分の1くらいだ。でもこの村は遥かに高いペースで生まれている。遺伝子に異常が発生しているんじゃないか? 猿の奇形もそうだ。天狗星だ。天狗星が落ちたここに、なにか異常が発生している。ガイガーカウンターで放射線量を調べたことは?」
「放射線? ちょっと待ってくださいよ」
僕は思わず腰が引けた。注連縄のなかのくぼ地に、目が釘付けになる。まずいまずい。まずいよそれは。
「落ち着いてください。大昔の話ですよ。隕石の放射線なんてとっくに消えてますよ。本当に放射線量が高いなら、ガンとか白血病とかが多くなるんじゃないですか。別にそんなことないですから」
「放射線とは限らない。鉱物由来の毒が、山の地下水を経由して、井戸水や簡易水道に浸潤しているんじゃないか。あるいは、磁気の異常」
ミノルは興奮して喋る師匠に反論せず、聞き終わってからひとことだけ言った。
「だとしても、僕らはここで生きてきたし、生きていくんです」
沈黙がおりた。師匠も、僕もなにもいえなかった。
「悪かった」
ぽつりそう言って、師匠は頭を下げた。
それから僕らは磐座の痕跡に背を向けて、来た道を戻った。
そのとき、僕は師匠に耳打ちをした。
「羽根川さんのお父さんは、急性白血病でしたね」
「ああ」と、師匠はそう答えただけだった。
僕らは森のなかを進み、社務所の横に出る。
「父はまだ帰ってないですね」
急いで参道を抜けて、自転車を隠してあった鳥居の近くの木にたどりついた。
「ちょっと遠回りになりますけど、車が通れない道があるから、そっちから帰ってください。父の車と鉢合わせしないで済みます」
僕らもそのほうがよかった。あの宮司に会ったら、なにしにきた、ということになって、最悪の場合、大ごもりの晩に書斎に忍び込む、という計画が露見しかねない。
自転車を出してきて、僕らはミノルに手を振った。ミノルは手を振り返してニコリと笑うと、すぐに神社のほうへ戻って行った。
僕らも出発したが、師匠がすぐに鳥居のほうを振り返って、じっとそちらを見ていた。
「どうしたんですか」
「いや、ちょっとな」
僕はその師匠の様子が気になった。まさかあの優男が気になるんじゃないだろうな。たしかに頭は良さそうだし、神道とかの知識もあって、師匠と気が合いそうだ。
「ま、いい。とにかく戻ろうか」
「はい」
もやもやする気持ちを抱えたまま、僕は師匠のうしろについて、自転車をこぎはじめた。
◆
やまと屋に戻ると、女将が師匠に言った。
「車、直りそうって。明日の午前中には持って来てくれるって電話がありましたよ」
「そうですか。よかった」
女将もホッとしたようだった。それもそうだろう。明日の晩は大ごもりがあって、僕らを泊めることができないのだ。明日直らなかったら、僕らは宿を追い出されて、なお帰ることもできないことになるところだった。
もっとも、女将には内緒だが、明日の晩もこの岩倉にいることになっている。そのことを思うと、怖さもあるし、神社の秘密の記録を探しに忍び込むという、わくわくするようなスリルもあった。
「まだ4時にもなってないのか。もう少し村を探索しよう」
「ちょっと、まだやるんですか。もうじっとしていましょうよ。そう言われたでしょう」
師匠がまだやる気なのを見て驚いた。さっきの月本ミノルとの話し合いは、とてもいい結果だった。いろいろ手詰まりになっていたところで、里美さんの双子の兄を見つけ出す光明が見えたし、この岩倉の伝承の謎がほとんど解けたのだから。こうなっては、ミノルの言うとおり、余計なことをせずにじっと待っていたほうがいい。なのに師匠は、「いいから」と言って、やまと屋を出た。しかたがないのでついていく。
「まさか猿をやっつけに行くんじゃないですよね」
「おいおい。なんだと思っているんだ私を。道祖神を調べるのが途中だっただろ」
「ああ、そうでしたね。でももういいんじゃないですか。いまさら」
「気になったことを放り出すなんて、研究者の姿勢じゃないな。新発見があったらどうするんだ。あと、猿は出たら倒す」
「まじですか」
そうして僕らはまた、南の下岩倉地区へ行った。見通しが悪く、アップダウンの多い山道を自転車で走り続ける。
森のなかで目を凝らしていたが、もう猿は見つからなかった。
「お、またあったぞ、道祖神」
見つけた道祖神は、どれも双体道祖神だ。判で押したように同じ男女の姿で作られている。古さはどれも違っていて、石の形や材質、そして男女の服装なども微妙に違っている。けれど、本質が同じなのだ。向かい合っているけれど、お互いは離れている。
「こいつは、さっきのと同じだな」
ぶつぶつ言いながら道祖神を撫でている師匠に、「そういえば」と言ってみた。「意匠の退化って言ってたのは、どういう意味ですか」
「ああ。古代の遺跡から出てきた石器や土器なんかはな、時代が下るごとにデザインが洗練されていくものばかりじゃない、ってことだ。例えば、こないだのぞいた大学の集中講義でやってたんだけど、古代ローマのコップの話なんて面白かった。飲み口のところにな、変な模様がついてるんだよ。その同じようなコップを時代ごとに遡っていくとな、その模様がくっきりしてくるんだ。逆に言うと新しいものほど、省略されていってるんだな。もっと遡っていくと、その模様がはっきり立体的になる。耳のような形をしている。最終的に、一番古いものたどりついたら、どうなったと思う?」
「さあ」
「柄(え)だよ。コップの持ち手だったんだ。元は。それが時代が下っていくと、いつのころからか柄が消えて、その痕跡だけになる。模様になり、どんどん省略されていく。発掘したものを並べて見ている現代の人間には、こっけいに映るけど、その時代、その時代の人間にとっては、デザインなんて親から子へ受け継がれるだけのものだ。コップにはこういう模様を入れるものだって習ったら、入れるさ。それが意味を成さないものでも。伝統だからな。この道祖神だってそうかも知れない。見ろ」
師匠はまた道祖神の足元を指差した。
「この足の先が大きいのは、一見意味がないデザインだ。彫り残しかと思うような。でも、時代の違うどの道祖神にもあるんだ。これは意図的にやっている。でも、意図がわからない。きっと、意匠が退化しているんだ。どこかでその意味が失われた時点で、デザインが省略されている。一応、申し訳程度に先人に習っているだけだ。もとの形が知りたいと思わないか」
「はあ」
こういうことへの師匠の執念は凄い。ひたすら道なき道を進み、自転車が入れそうにない獣道にも歩いて入った。
ヘトヘトになり、もう日が暮れる、というころに、ようやく目当てのものを見つけ出した。
「あったぞ。今までで一番古い」
そう言って、像を見た瞬間だった。師匠の顔が凍りついた。
「なんですか」
正直もう興味はあまりなかったが、一応僕も覗き込む。額から流れる汗を拭いながら。
集落のある側の像が男。山の奥の側の像が女だった。苔むしていて、色の濃い石の風化具合が相当の年月を感じさせる。そして、その奥側の女の像のほうの足がやはり大きかった。いや、大きいというか、これは……。
寒気が走った。
「手だ」
師匠がうめく。たしかに手だ。男と向かい合った女の足首のあたりを、うしろから伸びてきた手が掴んでいる。手は地面を這っていて、だれの手なのかわからない。手だけが描かれている。
この『足首を掴んだ手』という構図が、やがて本質を喪失して、手と足首とが一体となり、時代が下っていくと、ただ足元を大きめに彫るだけのデザインになっていったのだ。そのことが一瞬で理解できた。
「サトのソトにいる側の像の足がつかまれている。これは、死人を呼び戻す、黄泉の国の手だ。こんな強烈な道祖神ははじめて見た」
「師匠」
僕は、師匠の肩を叩いて、木々のあいだからのぞく山の端を指差した。もう日が落ちかけている。夕闇が迫りつつあった。
早く帰らないと。
僕は不安な気持が湧いてきて、たまらなくなっていた。
「死者を呼び戻す手。これはなんの暗示だ。いや、呪いか。かくりよからサトへやってくる死者への。なぜ上岩倉じゃなく、この下岩倉で?」
師匠は青白い顔でしゃがみこみ、道祖神を凝視している。
風が吹いて、ざわざわと木々を揺らした。夕闇が僕らの頭上から落ちてきていた。
「師匠!」
大きな声で呼んだ。すると、ようやく僕の呼びかけに気づいたようで、「ああ。もう帰らないとな」と返事があった。
ミノルの話を聞いたせいだろうか。師匠が共同幻想と呼んだことを、土地の人間にとっては生々しい呪いだと言っていた。不良を気取った金髪の若者まで怯えていたのだ。生者と入れ替わろうとうごめく死者たちを。その呼び声を。
僕は周囲にたちこめる木々の影が怖くなった。早く帰らないと。その影が、人の形に変わっていきそうで。
「戻ろう」
師匠も急いで自転車に乗った。単に山道で日暮れを迎えるという、物質的な危険から身を守ろうとしているだけではなかった。僕らのなかには、それを越えた恐怖心があったのは間違いがない。そんな雰囲気が、この岩倉という土地にはあった。
なんとか人里にたどりつき、やまと屋に戻ったときにはすでに日が暮れていた。
「あらあら、大丈夫かね」
汗だくで服も髪の毛も汚れた僕らを見て、女将がすぐに風呂を沸かしてくれた。
風呂から上がって、一息ついてから夕飯だった。今日は肉じゃがだ。これも家庭の味で、本当に旨かった。
「じゃあ、明日は朝ごはん食べて、車が戻ってきたらおいとまします」
「おかまいできませんで、すみませんね」
「いやいや、すごくよかったです。女将の料理もおいしかったし」
「ホタルも見られましたね」
「研究の成果はありましたかね」
「ありましたよ。な?」
「ええ」
僕らは女将に礼を言った。疲れ果てていたので、食事が終わると、今日はホタルも見ずに部屋に引き上げた。
師匠の部屋でテレビをつけて、映りの悪いバラエティ番組をぼうっと見ながら、今日あったことを話し合った。昨日以上にいろいろあったような気がする。
「結局、車は故障だったんですかね」
「わからん。まあ、用心するに越したことはないだろう。今日もつっかえ棒をして寝よう」
「いや、それは」
「なんだ」
明日ですべてが終わる。依頼人の双子の兄を探し出せるかは、明日次第だ。でもやれることはやった、という気がする。
夜の10時ごろには僕も自分の部屋に引き上げて、布団に横になった。
本当に疲れていたので、つっかえ棒に挑む元気もなく、そのまま寝てしまった。