師匠シリーズ

【師匠シリーズ】怪物「結」下

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351 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:19:15 ID:ScuN9+/G0
私も深呼吸をしてからそれに続く。
公園の敷地を出てからすぐに、アスファルトを擦る靴の音がやけに大きく響くことに気づく。
眼鏡の男の革靴だ。みんな足音を殺しているのに。
複数の睨むような視線に気づきもしない様子で、彼は先頭を切って公園に面した道路を右方向へと進む。
月の光に照らされる誰もいない夜の道を、5つの影が走り抜ける。5つ? 
振り向くと、小さな少女が厚手の服をヒラヒラさせながら、少し離れてついて来ている。
青い眼が、月光に濡れたように妖しく輝いて見える。
あれも肉体を持った人間なのだろうか。なんだかこの夜の街ではすべてが戯画のように思える。
そして、これからなにかもっと恐ろしいものを見てしまうような気がして、足を止めたくなる。
それは、昼と地続きの夜を生きる人にはけっして見えないもの。
引き抜かれた道路標識などとはまた違う、自分の中の良識を一部、確実に訂正しなくてはならないような、そんなものを。
私はいつのまにか、現実と瓜二つの異界に紛れ込んでいるのではないだろうか。
慎重に足を動かしながらそんなことを考える。
細長い緑地が住宅地の区画を分けていて、その一段高い舗装レンガの歩道の上に大きな木が枝を四方に張っていた。
生い茂る葉が月を覆い隠し、その真下に出来た闇に紛れるように、小動物の蠢く影が見えた。
立ち止まる私たちの目の前で、ギャアギャアという不快な声を上げ、その影がふたつ飛び立った。
カラスだ。2羽は鈍重な翼を振り乱して、あっというまに夜の空へ消えて行く。
私たちは息を潜めて、カラスたちがいた場所を覗き込む。暗がりにそれはいる。
ああ。やはりこちらが夢なのかも知れない。私の知っている世界では、こんなことは起きない。
「エエエエエエエ……」
弱弱しい声を搾り出すようにして、身を捩じらせる。
それはまるで、巣から落ちてしまったカラスの雛のように見えた。
さっきの2羽が、心配して覗き込んでいた両親だろう。
けれど、あの悲鳴のような鳴き声は、我が子を案じる親のそれではなかった。

354 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:21:38 ID:ScuN9+/G0
警戒せよ。警戒せよ。この異物を警戒せよ。
そう言っていたような気がする。
「エエエエエエエ……」
そんな力ない呻きが、ありえないほど小さな人間の顔から漏れる。
赤ん坊のようなその顔の下には、薄汚れた羽毛に包まれたカラスの雛の胴体がくっ付いている。
それは、生きていること自体が耐えられない苦痛であるかのように、小さな身体をくねらせてレンガの上を這いずっている。
それを見下ろしている誰もが息を呑み、動けないでいた。
掠れながら呻き声は続く。
私の知るそれよりはるかに小さい赤ん坊の顔は、
閉じられた目から涙を流しながら、クシャクシャと歪んで小刻みに震えている。
やがてその呻き声が少しずつ変調し、聞こえる部分と聞こえない部分が生まれ始める。
「こ、これは、おい、なんだ、これは……」
眼鏡の男が口を押さえて震えている。
「黙りなさい」
その隣でおばさんが短く、しかし強い口調で言う。
風が吹いて頭上の葉がざわめいた。声が聞こえなくなり、私たちは自然と顔を近づける。
「…………か…………い…………に……………」
赤ん坊の頭部を持つそれは、呻きながら同じ言葉を繰り返し始めた。
なんと言っている?耳を澄ますけれど、目に見えない誰かの手がその耳を塞ごうとしている。
いや、その手は、私の中の危険を察知する敏感な部分から伸びているのかも知れない。
でももう遅い。聞こえる。
か・わ・い・そ・う・に
そう言っているのが聞こえる。
涙を流し、苦痛に身を悶えさせながら、それは「かわいそうに、かわいそうに」という言葉を繰り返しているのだ。
「くだん、だ」
眼鏡の男が呆然として呟いた。

357 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:25:32 ID:ScuN9+/G0
くだん?くだんというのは確か、人の顔と牛の身体を持つ化け物のことだ。
生まれてすぐに災いに関する予言を残して死んでしまう、という話を聞いたことがある。
人の頭部と動物の胴体を持っている部分だけしか合っていない。
そう言えば最近、身体が2種類以上の動物で構成された化け物のことを考えたことがあるな。
あれはなんのことだったか。はるか昔のことのように思える。
そうだ。あれは間崎京子の謎掛けだ。共通点はなに?化け物を生んだのは誰?思考がぐるぐると回る。
「なにか来る!」
キャップ女の鋭い声に振り向くと、黒い塊がこちらに向かって飛び込んで来た。
一番後ろで屈んでいた青い眼の少女が弾けるようにそれを避け、勢い余って尻餅をつく。
私を含む他の4人も瞬時に身体を反転させて、その体当たりから身をかわす。
黒い塊は荒い息遣いを撒き散らしながら歯茎を見せて、私たちを威嚇するように唸り声を上げる。
犬だ。首輪もしていない。野犬だ。
目は血走って、焦点が合っていないように見える。
地面に手をついていた私は、すぐに立ち上がり犬から離れる。
他の人たちも、後ずさりしながら木の下から遠ざかる。
おばさんが、尻餅をついてまま動けないでいる少女を抱き起こしながら、慌てて逃げ出す。
犬は離れていく人間には興味を示さずに、舌を垂らしながら木の根元の暗がりへ首を伸ばした。
そして、ぐるるるる、という唸り声と、肉が咀嚼される気持ちの悪い音が聞こえて来る。
「く、喰ってる」
10メートル以上離れた場所から、腰の引けた状態の眼鏡の男が絶句する。
もうその木の下からは人の声は聞こえない。
ただ、肉と骨が噛み砕かれる音だけが、夜陰に篭ったように響いているだけだ。
私はどうしようもなく気分が悪くなり、そちらを正視できないほどの悪寒に全身が震え始めた。

361 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:29:06 ID:ScuN9+/G0
遠巻きにそれを眺めることしか出来ない私たちが、動きを止めているその前で、
徐々に犬の立てる物音が小さくなり、やがて湿り気のある呼吸音だけになる。
空腹を収めることが出来たのか、犬は始めとは全く違う緩慢な動きで舌を這わせ、口の周りを舐め始める。
見えた訳ではない。犬は向こうを向いたままだ。
ただ、そういうイメージを抱かせる音が、ピチャピチャと聞こえている。
そして、ひとしきり肉食の余韻を味わった後、犬は一声鳴いて、木の幹を回り込むようにして闇に消えていった。
その最後に鳴いた声は気味の悪い声色で、耳にこびり付いたようにいつまでも離れない。
かわいそうに。と、私の耳には確かにそう聞こえた。
犬の影が見えなくなると、住宅街の中の緑地は静けさを取り戻す。
「なんだったの」
おばさんが少女の手を取ったまま声を絞り出し、眼鏡の男が恐る恐る木の根元に近づいていく。
「喰われてる」
そんな言葉に私も首を伸ばすが、そこには黒い血の染みと、散らばった羽毛しか残ってはいなかった。
「畸形、だったのか?」
自問するように眼鏡の男が口走る。
それを受けてキャップ女が、「なわけないだろ」と嘲る。
私もそう思う。畸形だろうがなんだろうが、自然界があんな冒涜的な存在を許すとは思えなかった。ならば……
「幻覚?」
私の言葉に全員の視線が集まる。
「でも、みんな同じものを見たんだろ。その……くだんみたいなやつを」
「ちょっと待て。あんただけ牛を見たのかよ」
キャップ女が突っかかる。
「ち、違う。じゃあなんて言うんだよ、ああいう人間の顔したやつを」
「そう言えば、人面犬ってのが昔いたねぇ」と、おばさんが少しずれたことを言う。

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364 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:32:13 ID:ScuN9+/G0
「くだんなら、予言をするんだろ。戦争とか、疫病とかを」
キャップ女が両手を広げてみせる。
「言ってたじゃないか」
「かわいそうに、が予言か?いったい誰がかわいそうだっていうんだ」
その言葉に、言った本人も含め、全員が緊張するのが分かった。
ざわざわと葉が揺れる。
そうだ。かわいそうなのは、誰だ?
脳裏に何度も夢で見た光景が圧縮されて早回しのように再生される。
この場所に来た理由を忘れるところだった。
とっさに空を見る。月は雲に隠れることもなく輝いている。
月の位置。そして一番背の高いビルの位置。
近い。と思う。
「月は、どっちからどっちへ動く?」と、眼鏡の男が周囲に投げ掛ける。
「太陽と同じだろ。あっちからこっちだ」と、キャップ女が指でアーチを作る。
「あ、でも、1時間に何度動くんだっけ?忘れたな。あんた現役だろ?」
いきなり振られて動揺したが、「たぶん15度」と答える。
「1時間、ちょい過ぎくらいか、今」
そう言いながら、眼鏡の男が指で輪ッかを作って月を覗き込む。
「15度って、どんくらいだ」
輪ッかを目に当てたまま呟くが、誰も返事をしなかった。
「でもたぶん、近いわね」と、おばさんが真剣な表情で言う。
「手分けして、虱潰しに探すか」
眼鏡の男の提案に、賛同の声は上がらなかった。
やがて「こんな時間に一般人を叩き起こして回ったら、警察呼ばれるな」と、自己解決したように溜息をつく。

暫し気分的にも空間的にも停滞の時間が訪れた。
キャップ女とおばさんが小声でなにかを話し合っている。
眼鏡の男はぶつぶつと独りごとを言っていたが、
木の幹に隠れるように寄り添っていた青い眼の少女に向かって、「おまえもなんか言えよ」と投げ掛けた。

367 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:37:52 ID:ScuN9+/G0
少女は身構えたようにじっとしたまま瞼をぱちぱちとしている。
私はさっきのフラッシュバックに引っ掛かるものを感じて、もう一度夢の光景を思い出そうとする。
それは些細なことのようで、また同時に、とても重要な意味を持っているような気がする。
どこだ?揺らめく記憶の海に顔を漬ける。
刃物の感触?違う。ロックが外れる音。チェーンを外すための背伸び。叩かれるドア。違う。まだ、その前だ。
足音。その足音を、母親のものだと知っている。足音は下から登ってくる……
ハッと顔を上げた。
確かに足音は下の方から聞こえて来た。何故それをもっと深く考えなかったのか。
2階以上だ。2階以上の場所に玄関があるということは、集合住宅。マンションか、アパートか。
私は夜の中へ駆け出した。他の人たちの驚いた顔を背中に残して。
考えろ。フラットな場所の足音ではない。登ってくる音だった。
マンションなら、部屋の中から通路の端の階段を登ってくる足音が聞こえるだろうか。端部屋なら可能性はある。
でも例えば、階段が部屋の玄関のすぐ前に配置されているようなアパートならもっと……

私の視線の先にそれは現れた。
比較的古い家が並んでいる一角に、木造の小さな2階建てのアパートがひっそりと佇んでいる。
1階に3部屋、2階にも3部屋。玄関側が道に面している。
ささやかな手すりの向こうに、ドアが6つ平面に並んで見える。
1階から2階へ上がる階段は、1階の右端のドアの前から2階の左端のドアの前へ伸びている。
赤い錆が浮いた安っぽい鉄製の階段だ。登ればカンカンとさぞ騒々しい音を立てることだろう。
立ち尽くす私に、ようやく他の人たちが追いついて来た。
「なんなのよ」「待て、そうか、足音か」「このアパートがそうなのか」「……」
アパートに敷地に入り込み、階段のそばについた黄色い電灯の明かりを頼りに、駐輪場のそばの郵便受けを覗き込む。

369 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:39:31 ID:ScuN9+/G0
上下に3つずつ並んだ銀色の箱には、101から203の数字が殴り書きされている。名前は書かれていない。
そして101と201、そして203の箱には、チラシの類が溢れんばかりに詰め込まれている。
綺麗に片付けられた番号の部屋には、現在まともに住んでいる入居者がいるということだろう。
2階で綺麗なのは202だけだ。
道理で母親の足音だと分かったはずだ。階段を登ってくるものは他にいないのだろう。
同じようにその意味を理解したらしい人たちの息を呑む気配が伝わって来る。
階段を見上げながらそちらに歩こうとすると、いきなり猫の鳴き声が響いた。
見ると、青い眼の少女の前から1匹の汚らしい猫が逃げて行くところだった。
敷地の隅に設置されたゴミ置き場らしきスペースだ。黒いビニール袋やダンボールが重ねられている。
青い眼の少女は、猫の去ったゴミ置き場から目を逸らさずにじっとしていた。
その異様な気配に気づいた私もそちらに足を向ける。
じっとりと汗が滲み始める。さっき走ったせいばかりではない。暗い予感に空間がグニャグニャと歪む。
私の鼻は微かな臭気を感知していた。肉の匂い。腐っていく匂い。
ゴミ置き場が近くなったり遠ざかったりする。雑草が足に絡まって前に進まない。
どこからともなく荒い息遣い。そしてその中に混じって、かわいそうに、かわいそうに、という声が聞こえる。
幻聴だ。雑草も丈が短い。ゴミ置き場も動いたりなんかしない。
理性が障害をひとつひとつと追い払っていく。
けれど、臭気だけは依然としてあった。
ひときわ中身の詰まった黒いゴミ袋が、スペースの真ん中に捨てられている。
2重、いや、3重にでもされているのか、やけにごわごわしている。
誰もが息を殺してそれを見つめている。肩が触れないギリギリの距離で皆が並んでいる。
胸に杭が断続的に打ち込まれているような感じ。手をそこに当てる。見たくない。

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371 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:42:37 ID:ScuN9+/G0
でも目を逸らせない。
眼鏡の男が腰の引けたまま、ゴミ袋の上部に出来た破れ目に指をかける。さっきの猫の仕業だろうか。
ガサガサという音とともに、中身が月の光の下に現れる。
土気色の肌。
目を閉じたまま口を半開きにした幼い女の子の顔が、ゴミ袋の破れ目から覗いている。
生きている人間の顔ではなかった。
それを見た瞬間、全身の血が沸騰した。
足が土を蹴り、無意識に階段の方へ駆け出す。
けれど次の瞬間、前に回りこんだ何者かの手に肩を押さえられる。
遠慮のない力だった。目の前に顔が現れる。目深に被ったキャップの下の険しい表情。
「落ち着け」
その言葉が私に投げ掛けられるすぐ横を、眼鏡の男がなにか喚きながら駆け抜けようとする。
キャップ女は間髪要れずに右足を引っ掛け、眼鏡の男はその場に転倒した。
「なにするのよ」とおばさんが叫んで私の背中を押す。
その力は私の前進しようとする力と併わさり、じりじりとキャップ女は後退を始める。
「落ち着け。なにをする気だ」
なにをする気?決まってる。報復をしなければいけない。同じ目に遭わせてやる。
子どもをゴミ同然に捨てながら、202号室のドアの向こうにのうのうと生きているあの母親を。
「どきなさいよ」と、おばさんが上ずった声でキャップ女を怒鳴りつける。
すぐ横では眼鏡の男が立ちあがろうとする。
「クソッ」と呻きながら、キャップ女が右足を跳ね上げ男の顔面を蹴った。
ジャストミートはしなかったが、眼鏡が弾けるように宙に飛んで草むらに消えた。
「うわっ」と、眼鏡の男は両手で顔を押さえる。
足を上げたせいでバランスを崩したキャップ女が体勢を立て直す前に、私は掴まれた肩を振りほどきながら一気に突進した。

373 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:44:55 ID:ScuN9+/G0
一瞬、押し返されるような強い反動があったが、堰が切れるようにその壁が崩れる。
3人が絡み合うようにひっくり返り、
勢いあまったキャップ女の側頭部が、階段の基部のコンクリートに叩きつけられるのが目に入った。
私も地面に肘を強く打っていた。痛みに顔を顰めるが、すぐに立ちあがろうとする。
でも、なにかが太腿の裏に乗っている。邪魔だ。おばさんの胴体か。「アイタタタタ」じゃない。
すぐに部屋に行かないと。この頭を掻き回すざわめきが、どこかに去っていってしまう気がして。
いきなり服を引っ張られた。後ろからだ。首を廻すと、青い眼の少女が震えながら私の上着を両手で掴んでいる。
頭を振ってなんらかの否定の意を表現しようとしている。
「離せ」
そう口にした瞬間、なにか蛇のようなものが首の根元に絡みついた。
ついで、ぴたりとその本体が、私のうなじのあたりに接着する。
「悪いね」
そんな言葉が耳元で囁かれ、絡みついたものが私の首を締め上げる。狙いは気道ではない。頚動脈だ。
とっさに腕を背後に回そうとするが、もっと力の強い別のなにかが私の胴体ごと腕を挟み込む。
意識が遠のいていく。夜空には月が冷え冷えと輝いている。星はあまり見えない。
暗い。月も暗くなっていく。苦しいけれど、少し心地よい。
そこで世界はぶつりと途絶えた。

目が覚めたとき、私はベンチで横になっていた。額の上に水で濡れたハンカチが乗っている。
指で摘みながら身体を起こすと、銀色の光が目に入った。
公園だ。辺りは暗い。街灯に照らされた大きな銀杏の木の影がこちらに伸びて来ている。
キィキィとブランコが揺れる音がする。
「起きたな」

377 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:47:21 ID:ScuN9+/G0
ブランコが止まり、そちらからいくつかの影が歩み寄ってくる。
「良かった。なかなか気がつかないから、どうしようかと思ったのよ」
おばさんがホッとしたような顔で言った。
「だから言ったろ。寝てるだけだって」
キャップ女が疲れたような動きで右手を広げる。
じわじわと記憶が蘇って来た。そうだ。私は裸締めで落とされたのだ。彼女に。
私は目を閉じ、ドス黒い感情が身体の中に残っていないのを確認する。
あれほど目標を破壊したかった衝動が、すべて体外に流れ出してしまったかのように、すっきりとした気分だった。
「ぼ、僕たちはあの子の思念に同調しすぎたんだ」と、眼鏡の男が言った。
「あ、あやうく、人殺しをさせられるところだった」
「ほんと勘弁して欲しいよ。3対1だったんだから。おっと、あの青い眼のお嬢ちゃんも入れて3対2か。
 まあ、手荒な真似して悪かったな」
力なく笑うキャップ女に、眼鏡の男が頭を下げる。
「いや、おかげで助かった。ありがとう」
その眼鏡のフレームは少し歪んでしまっている。
私はそのとき、キャップ女の頬を伝う黒い筋に気がついた。
こめかみから伸びる乾いた血の跡だ。転倒したときに階段の基部で打った部分か。
「ああ、これか。カスリ傷だ」
「痕にならないといいけど」と、おばさんが心配げに言う。
「他にもいっぱいあるし、いいよ別に」
そんなやり取りを聞きながら、私は肝心なことを思い出した。
「あの子は、どうなったんですか」
一瞬、風が冷たくなる。
キャップ女がゆっくりと口を開く。
「現場維持のまま、撤退して来た。……おい、ここでまたキレんなよ。とにかく、ここから先は警察の仕事だ。
 わたしたちが動いていい段階は終わったんだ」
あの子を、あの子の死体を、ゴミ袋に入れられた状態のまま放置したのか。
思わずカッとしかける。

379 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:50:04 ID:ScuN9+/G0
「あの子は、母親を殺さなかった。殺す夢を見ても、殺さなかった。
 最後まで、殺されるまで、殺さなかった。ギリギリのところで、そんな選択をした。
 わたしたちが、この街の人たちが、こうして静かな夜の中にいられるのも、そのおかげだ」
目に映る住宅街の明かりはほとんどなく、目に映るすべてが夏の夜の底に眠っている。
「ここに来るべきじゃなかった。そんな警告すらあの子はしていたような気がする。
 もう終わったことだ。招かれざる侵入者は、目を閉じて去るべきだ」
キャップの下の真剣な目がそっと伏せられた。
警告。そうか、あのコーンや道路標識はそのためなのか。
では、あのカラスとヒトがくっついたような不気味な生き物は?
誰もその答えは持っていなかった。分からない。分からないことだらけだ。
私は自分の住む世界のすぐそばで、目を凝らしても見えない奇妙なものたちが蠢いていることを、
認めざるを得ないのだろうか。
子どものころから占いは好きだったけれど、心のどこかでは、こんなもの当たるわけないと思っていた。
それでも続けたのは、予感のようなものがあったからなのかも知れない。
100回否定されても、101回目が真実の相貌を覗かせれば、私たちの世界のあり方は反転する。
そんな期待を持っていたのかも知れない。
『変わってる途中、みたいな』
そうだ。私は変わりつつある。何故だか身体が武者震いのようなざわめきに包まれる。
その瞬間、背筋に誰かの視線を感じた。それも強烈に。誰もいないはずの背後の空間から。
キャップ女の身体が目にもとまらないスピードで動き、私の座るベンチの端に足を掛けたかと思うと、
全身のバネを使って虚空に跳躍した。
そして闇の一部をもぎ取るように、その右手が宙を引き裂く。
一瞬空気が弾けるような感覚があり、耳鳴りが頭の中で荒れ狂い、そしてすぐに消え去る。

383 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:53:39 ID:ScuN9+/G0
キャップ女の身体が落ちて来る。そして土の上で受身を取る。
「逃がした」
起き上がりながら指を鳴らす。
なにが起こったのか分からず、みんな唖然としていた。
「今、空中に眼球が浮かんでたろ?」
誰も見ていない。頭を振るみんなに構わず彼女は続ける。
「あれは、今回の件とは別だな。個人的なもの。あんたについてたんだ。心当たりあるか」
名指しされて私は混乱する。誰かに見られているような感覚は確かにあった。
先輩の家でポルターガイスト現象の話を聞いた夜。いや、その感覚はその前から知っている。なんだ? 
視線。冷たい視線。笑っているような視線。表情を変えずに、微笑が嘲笑に変わって行くような……
私の中にある女の顔が浮かぶ。その女は私のことはなんでも知っていると言った。
そして、私が駆けずり回って調べたようなことを、まるで先回りでもするようにすべて知っていた。
はっきりとは言わないが間違いなく。
「気に入らないな。ああいう、顕微鏡覗いてマスかいてるような輩は」
キャップ女は口の端を上げて犬歯を覗かせた。
「迷惑なやつなら、シメてやろうか」
強い意志を秘めた炎が瞳の中で揺らめいている。私はそれにひとときの間、見とれてしまった。
「ま、困ったことになったら言えよ。私はいつでも――」
夜をうろついているから。
彼女はそう言って、ずれてしまったキャップを深く被り直し、私たちに背を向けて歩き始めた。
「そういやさ」
思いついたように急に立ち止まって振り向く。
「こんくらいの背の、若いニイちゃん、誰か見なかった?」
私たちのように、この住宅街までたどり着いた人間という意味だろうか?
全員が首を横に振る。

390 :怪物   ◆oJUBn2VTGE:2008/08/03(日) 23:56:44 ID:ScuN9+/G0
「あの、ボケェ」
キャップ女はそう吐き捨てる。
「じゃあこ~んな眉毛の、ゴツイ奴は?」
またみんなの首だけが左右に振られる。
「アンニャロー」
そう言っておかしげに笑い、「じゃあね」とまた踵を返して歩き出す。
「あ、そうそう。ケーサツ、電話しとくから。逃げといた方がいいよ。
 わたしたちみたいな連中は、こんなことに関わるとめんどくさいだろ。いろいろと」
前を向いたまま、高く上げた右手を振って見せた。
その影が公園の出口へ消えて行くのを見届けたあとで、残された私たちは顔を見合わせた。
「ぼ、僕も帰る。明日は朝から会議なんだ。じゃ、じゃあね」
眼鏡の男が踵を返そうとする。その回転がピタリと止まって、もう一度その顔がこちらに向いた。
「僕は、変なものを、よく見るんだけど。お化けとか、そんなの、だけじゃなくて、なんていうかな。
 その、もう一人のキミが、いるよね」
ドキッとした。秘密を覗かれた気がして。
「それ、きっと悪いものじゃないから。気にしないでいいと思うよ」
じゃあ、と言って彼は去って行った。
「あら、そう言えばあの外人さんの子どもは?」
おばさんがキョロキョロと辺りを見回す。
銀杏の木の影に二つの光が見えた。次の瞬間、太い幹の裏側にスッと隠れる。
「ちょっと。おうちまで送ってあげるから、わたしと一緒に帰りましょう」
おばさんが木の幹に沿って裏側に回り込む。まるで眼鏡の男が始めにしたような光景だ。
しかし、見つめる私の目の前で、おばさんだけが反対側から出て来る。女の子の姿はない。
「あら?いない」
狐につままれたような顔で、木の裏側を見ようとおばさんが再び回り込もうとする。
女の子が上手に逃げている訳ではない。
私の目にも、おばさんだけがグルグルと木の周りを回っているようにしか見えない。

396 :怪物 「結」下 ラスト  ◆oJUBn2VTGE:2008/08/04(月) 00:00:35 ID:/ZE8/Gio0
女の子は忽然と消えていた。
「なんだったのかしら」
おばさんは立ち止まり首を捻っていたが、気を取り直したように私の方を見た。
「わたし、市内で占い師をしてるから、今度会ったららタダで占ってあげるわよ」
そう言ってウインクをしたあと、痛そうに腰をさすりながら公園の出口へ歩いて行った。
一人残された私は、今までにあった様々な出来事が頭の中に渦を巻いて、軽い混乱状態に陥っていた。
蛾が街灯にぶつかって嫌な音を立てる。
色々な言葉が脳裏を駆け巡り、目が回りそうだ。
その中でも、ある言葉が重いコントラストで視界に覆い被さってくる。
「救えなかった」
それを口にしてみると、ゴミ袋から覗く土気色の顔がフラッシュバックする。
そして暗い気持ちが、段々と心の奥底に浸透し始める。
ゴミ置き場に無造作に捨てるなんて、死体を隠そうという意思が感じられない。
まるで本当のゴミを捨てるようなあっけなさだ。
どんな家庭でどんな母親だったのか知らないけれど、精神鑑定とやらで、ひょっとすると罪に問われなくなるのかも知れない。
子どもを殺したのに。
いや、直接手を下したのかどうかは分からない。
だけど、彼女はしかるべき罪に問われるべきだ。
ふつふつとドス黒い感情が胸の内に湧き始める。
いけない。
顔を上げて深呼吸をする。呼吸の数だけ視界がクリアになっていく気がする。
また同じ過ちに身を委ねるところだった。
しっかりしないと。もう自分しかいないのだから。
ゆっくりと土を踏みしめ、公園の出口に向かう。そして、車止めのそばにとめてあった自転車に跨る。
終わったんだ。全部。
そう呟いて、夜の道を帰るべき家に向かってハンドルを切った。
雲に隠れたのか、月はもう見えなかった。

『怪物 幕のあとで』に続く

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