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その3 口内海
原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「匿名さん」 2011/07/05 17:38
これは私が中学生だった頃の話だ。
そろそろ夏休みが待ち遠しくなる七月後半。その日私は、山一つ越えた先の海で一日中泳いでいた。
海水浴場ではない。
急な崖を降りた先に、地元の子供たちだけが知っている小さな浜辺があり、
夏の暇な日は、そこへ行けば誰かしら遊び相手が見つかるといった場所だった。
その日も顔見知りの何人かと一緒に遊び、共に日に焼けている身体を更に黒くした。
海から出て、彼らと別れ、家に帰りついたのは午後六時少し前だっただろうか。
風呂に入る前に、泳ぎつかれて喉が渇いていたので、私は台所で蛇口から直接コップに水を注ぎ、ぐいっと飲んだ。
その時だった。何か思う暇もなかった。
得体の知れない違和感を感じた時には、それは一瞬にして猛烈な吐き気に変わり、
私は今さっき飲んだ水をシンクの中に吐き出していた。
喉がひりつき、しばらく咳が止まらなかった。
蛇口から出てきたのだから、何の警戒もなく真水だと思ってしまったのだ。
私が呑みこんだのは普通の水では無かった。それは紛れもなく塩水だった。
ようやく咳が収まり、信じられなかった私は、蛇口に人差し指の腹を当て、水滴を舐めてみた。
海の味がする。
小さな頃、海で溺れてしまった時に呑みこんだあの海水と同じ味だ。
しかし、何故蛇口から海水が出て来るのだろうか。
うちの水は、地下水をくみ上げているのでも山から引いているのでもなく、水道局から送られてきている水はずだ。
自然に塩分が混じるとは考えにくい。
「おーい、かあさん。なんか蛇口から塩水が出るんだけど」
呼ぶと、隣の居間から母親が顔をのぞかせた。これは我が子を疑っている顔だな、とすぐに分かる。
「嘘言いなさんな。さっきそこで夕飯こしらえたばっかやのに」
「ホントだって、ほら、これ、塩水」
コップに水を注ぎ、母に渡した。
彼女はしばらく疑わしそうに匂いなど嗅いでいたが、その内ちびりと口を付けると、そのまま一気に飲み干してしまった。
「……アホなこといっとらんで、風呂に入ってきんさい。ほら、髪がぼそぼそやんか」
母はそう言って私の頭をわしゃわしゃと撫でて、居間に戻って行った。
釈然としなかったので、私は再度蛇口から水を注ぎ、口を付けた。
舌がしびれる。やはり普通の水ではない。
どういうことだろう。母が嘘を言っているのだろうか。
しかし、目の前で一気飲みされてしまったのだ。嘘をつくにしても身体をはり過ぎだろう。
それにわざわざそんな嘘をつく必要がどこにあると言うのだ。
おそらく、一日中海で泳いでいたせいで、味覚が変になっているのだろう。私はそう自分を納得させた。
外から海水が染み込んで、一時的に身体がおかしくなっているのだと。
ただそれが味覚の勘違いであれ、塩水を飲んでしまったせいで余計に喉が渇きを感じていた。
水道水は止めにして、代わりに冷蔵庫を開けるとオレンジジュースがあったので、それを飲むことにする。
コップに注ぎ、飲む。そして、私は再びそれを口から吐きだした。
塩水じゃないか。
愕然として、まだ半分ほど残っているコップの中の液体を見やる。
色も匂いもオレンジジュースで間違いないのに、私が今飲んだのは、明らかにオレンジ色をしたただの塩水だった。
そのほかも試してみた。冷蔵庫の中にあった、麦茶、牛乳、乳酸菌飲料。冷凍庫の中の氷すらも、塩辛い。
私は何も飲むことが出来なかった。
自分がおかしくなっているということは、とりあえず風呂に行って浴びたシャワーで確信できた。
口に入って来る水滴のせいだ。身体はさっぱりしたが、口の中と喉だけが熱く、どうにも泣きたい気分だった。
その後、私は夕飯も食べずに、母と一緒に病院に行った。
診察と検査をしてくれた医者は、私の話を聞きながら首をかしげるばかりだった。
味覚障害だろうと告げられたが、その場合多くの原因である内臓の異変もなく、原因は分からないと言われた。
ただ、その時は、医者も親も、そう深刻になることは無いだろうと楽観視していたようだった。
私だけが言いようのない不安を覚えていた。
意識的にコップ一杯程の海水を飲んだことのある人間は居ないと思う。居たとしても少数派だろう。
あれは到底飲めるものではない。
次の日から私は病院に入院し、常に点滴で水分を取るようになった。
普通の方法ではどうしても水分を取ることが出来なかったのだ。
たとえ成分がただの水であっても、どうしても呑みこむことが出来なかった。飲んだとしても、すぐに吐いた。
固形物も、水分が多く含まれていると無理だった。お粥も駄目、果物も駄目。
果ては自分の唾液すら塩辛く感じられて、しばしば水を飲まなくても嘔吐した。
吐き気は常に感じていて、突然ベッドの上で吐き、何度もシーツを汚した。
加えて熱や下痢もあった。
これは体調の悪化による副次的なものだろうが、しかしまるで私の身体の一部でなく、全部が狂ってしまった様だった。
人間、物は食べなくてもある程度生きていけるが、水が飲めなければあっという間に死ぬ。
入院してからたった数日で、驚くほど体重が減った。
自分の身体がカラカラに乾いて行くのを感じ、天井を見つめながら、このままミイラになって死ぬのだろうかと考えた。
この状況が続けば、間違いなく死ぬだろうなと思った。
母も父も、毎日看病に来てくれた。普段は絶対そんなことはしないのだが、入院中母はずっと私の手を握っていた。
それを見ながら、自分は大事にされているのだなと実感した。
死にたくないな。今までの自分の人生で、初めて強くそう思った。
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そんな生活を送っていたある日、一人の友人が病院に見舞いに来た。
当たり前だが、入院中は学校を休んでいた。
両親も何と学校に説明したらいいか分からなかったのだろう。
理由は伏せられていて、後で訊いたら、原因は夏風邪ということになっていた。
その友人は、学校のプリントを届けに家に来た折に、私の入院を知ったのだった。
彼は病室に入るなり、無表情のままぽかんと口を開けた。
そうして、私が寝ているベッドの傍に来ると、しみじみとした口調でこう言った。
「痩せたねぇ……」
その言い方が可笑しくて、私は少しだけ笑ってしまった。
笑ったのは久しぶりだったし、自分にまだ笑う元気があったことが驚きだった。
その時は母も父もおらず、他に入院患者も居なかったので、病室に居たのは私と彼だけだった。
彼は『くらげ』というあだ名の、ちょっと変わった男だった。海に浮かぶくらげのように、クラス内でもちょっと浮いている存在。理由は、彼が常人には見えないものを見るからだ。所謂、『自称、見えるヒト』だ。
何でも、ある日自宅の風呂の中に何匹ものくらげが浮いているのを見た日から、そういうモノを見るようになったのだとか。
と言っても、彼自身はそのことを吹聴もせず、そのことについて問われると、「僕は病気だから」と答えていた。
当時、私はよくくらげと遊んでいた。彼といると面白い体験ができたからだ。
「マジでやばくてさ。なんか、死ぬかも」
私はくらげに向かってそう言った。その言葉は思ったよりあっさりと口から出てきた。
くらげは黙って私のことを見ていた。
その視線は、左腕の関節部分に刺さった点滴の針から伸びる細いチューブを辿り、
頭上にある栄養と水分の入ったパックに行きついた。
「これ……、夏風邪じゃないよね。どうしたの?」
私は、ことの始まりから今までのことをくらげに話した。途中、彼は相槌も頷きもせずにじっと耳を澄ましていた。
話が終わると、「ふーん」と言った。
「ねえ、ちょっと、口開けてみて」
「……口?」
「うん。歯を治療する時みたいに、『あー』って」
私は言われるままに口を開けた。すると、くらげは少し腰をかがめて、私の口の中を覗き込んだ。
「……あー、これじゃ塩辛いよね」
くらげが上体を起こした。
「海になってるよ。君の口の中」
訳が分からなかった。
くらげは納得したように一人頷くと、「じゃあ、ちょっと僕、海に行って来るよ」と言って、私に背を向けた。
私は意味が分からず、口を開けたまま、彼が病室を出るのをただ見ていた。
その後しばらくして、病室に飴玉の袋が届けられた。
看護師さんが言うには、くらげが下の売店で買って、私に渡してくれと言ったのだそうだ。
唾液のせいで塩味の強い飴玉は美味しくは無かったが、他と比べれば何とか食べることが出来た。
その夜、私は今までで一番の吐き気に襲われた。
眠っている最中だったが、反射的に傍に置いてあるバケツを引き寄せ、中にぶちまけた。
それは、滝のような、という表現が一番ぴったりくる。出しても出しても収まらなかった。
ようやく収まると、私はベッドに倒れ込んだ。
気がつくと、病室の明かりがついており、ベッドの周りに看護師と医者と母が居た。
私は無意識にナースコールを押していたらしい。
見ると、五リットルは軽く入りそうなバケツが、半分程吐しゃ物で埋まっていた。
とはいえ、胃の中に何も入っていなかったからか、それは恐ろしく透明な液体だった。
自分の体にまだこんなに水分が残っていたのかと驚くほどに。
看護師と医者は難しい顔をして何か話し合っていて、母は疲れ切った笑顔で私の頭をそっと撫でた。
「寝てていいんよ」
母にそう言われ、私は目を閉じた。
しかし、その内、私は口の中に違和感を感じた。
いや、違和感が無いことによる違和感、といった方がいいだろうか。
とにかくどういうわけか、すっきりしていたのだ。今までは吐いた後も不快感しか残らなかったのに。
まるで、先程の嘔吐で悪いものを何もかも吐きつくしてしまったようだった。
唾を呑みこもうとしたが、口の中が渇いてしまっていた。
私は起き上がって、昼間くらげに貰った飴玉を一粒頬ばった。
甘い。それは何に邪魔されることもなく純粋に甘かった。
私は母に頼んで水を持ってきてもらった。
恐る恐る口を付ける。一口、舌先で確かめるように。二口、軽く口の中に含んで、それから一気に飲んだ。
その時の水の味は一生忘れない。ただの水がこんなに美味しいと思ったことは無かった。
自然と涙がこぼれた。今思えば、入院生活はとても辛かったが、泣いたのはあの時だけだった。
ようやく取れた水分を涙に使うなんてもったいないと思ったが、止まらなかった。
泣きながら、医者と母に症状が治ったことを告げた。
医者がそんな馬鹿なという顔をする横で、母も私と一緒に泣いてくれた。
頬を伝い口の中に入って来た涙は、やはり、ちょっとしょっぱかった。
それから私は、自分で言うのも何だが、すさまじい勢いで回復した。
入院自体は短期間だったこともあり、体力もすぐに取り戻した。
一学期の終業式には出られなかったが、夏休みは十分エンジョイできそうだった。
その終業式の日、くらげが再度見舞いに来た。
おそらくもう退院しても良かったのだろうが、しばらく経過を見るということだったので、
入院はしているものの、もう点滴は外し、病院内をうろちょろする元気も戻っていた。
「ああ、もう大丈夫みたいだね。良かった良かった」
病室に入って来たくらげはそう言った。
ホッとした様子ぐらい見せてもいいのに、彼はまるで読めないあの表情で、口調も淡々としていた。
くらげはプリントの山をベッドの上に置いた。夏休みの宿題。どうやら、これを届けるために来たらしい。
さっぱりしている。らしいと言えばらしいが。
「いつ退院できそう?」
「そうだなー。来週くらいには帰れるんじゃないか?」
「ふーん」
それからしばらく他愛もない話をした。
「……そろそろ帰るよ」
くらげが立ち上がる。そうして病室から出て行こうとしたが、途中で「あ、そうだ」と言って振り返った。
「今回のことはね、たぶん、君に僕の病気がうつったことが原因だと思う。病状が悪化したっていうのかな」
私はどきりとした。
くらげは薄く笑っていた。小学校六年からの付き合いだったが、彼のそんな表情などこれまで見たことが無かった。
いや、笑ったところは見たことはあるが、とにかく初めて見せる顔だった。
「だから、これからはあまり一緒に遊ばない方がいいかもね。僕に近寄らなかったら、病気も自然に治るよ」
くらげはそう言って、病室を出て行った。
彼と一緒に居ると、はっきりでは無いにせよ、確かに私にも妙なモノが見える時があった。
いや、見えるだけでは無い。その声が聞こえたり、時には軽く触れることも出来た。
くらげの病気。それに私が感染してしまったために、今回のことが起きたのだろうか。
私はしばらく考えていた。
なる程、彼の言う通りかもしれない。
今まではただ面白いとだけ思っていたが、実際に危険性が高まったとなれば話は別だ。
私は病室の窓に近寄り、開いて頭を外に出した。
病室は二階にあったのだが、そこからは病院の入り口を見下ろすことが出来た。
しばらく待っていると、入口からくらげが出てきた。
「おーい。くらげー」
あまり離れても居なかったが、私は大声でその名を呼んだ。
くらげが首をこちらに曲げる。
「良く分からんけどよ。今回のコレ。お前がなんとかしてくれたんだろ。ありがとうな」
私が良く泳ぎに行くあの浜辺に、女性の水死体が打ち上げられているのが発見されたのは、
私の症状が収まった次の日のことだった。
因果関係は分からない。証明だってしようが無いが、無関係だとは思えなかった。
こちらが気付いていないだけで、私は彼女と会っていたのかもしれない。海の中で。見初められたといえばいいか。
もちろんそれは、もしかしたらの話だが。
「まあ、色々あるらしいから、しょっちゅうは止めるけどさ。たまには遊ぼうぜ。それでいいだろ?」
正直、彼との付き合い方を変えようと思った。今回のような事態はまっぴらだ。
但し、こんな面白い友人を自ら無くすこともない。それが私の結論だった。
「そんでさ。夏休みの間に、一度くらいキャンプでもしようぜ。退院したら連絡すっからさ」
くらげは長いこと私の方を見ていたが、ふいに両手でメガホンを作ると、
「分かったー」と、彼にしては大きな声でそう言った。
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その4 くらげ星
原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「匿名さん」 2011/07/21 17:32
私が子供だった頃、『自称見えるヒト』である友人の家に、初めて遊びに行った時のことだ。
当時私は小学六年生で、友人はその年に私と同じクラスに転校してきた。
最初の印象は『暗くて面白みのないヤツ』で、あまり話もしなかった。
とある出来事をきっかけに仲良くなるのだが、それはまた別の話。
季節は秋口。
学校が終わった後一端家に鞄を置いてから、私は待ち合わせ場所である、街の中心に掛かる橋へと自転車を漕いだ。
地蔵橋と呼ばれるその橋では、先に着いていた友人が私を待っていた。欄干に手をかけて川の流れをぼーっと見ている。
私のことに気付いていないようなので、そっと自転車を止め、足音を殺して近づいた。
「わっ」
後ろからその肩を掴んで揺する。
しかし、期待していた反応はなかった。声を上げたり、びくりと震えもしない。
彼はゆっくりと振り返って、私を見やった。
「びっくりした」
「してねぇだろ」
彼はくらげ。もちろんあだ名である。
何でも幼少の頃、自宅の風呂にくらげが浮いているのを見た時から、
常人では見えないものが見えるようになったのだとか。
私は今日の訪問のついでに、それを確かめてみようと思っていた。
すなわち、彼の家の風呂にくらげは居るのか居ないのか。私には見えるのか見えないのか、だ。
橋を渡って南へと、並んで自転車を漕いだ。
私たちが住んでいた街には、街全体を丁度半分南北に分ける形で川が流れており、
私は北地区、くらげは南地区の住人だった。
住宅街から少し離れた山の中腹に彼の家はあった。
大きな家だった。家の周りを白い塀がぐるりと取り囲んでいて、木の門をくぐると、砂利が敷き詰められた広い庭が現れた。
その先のくらげの家は、お屋敷と呼んでも何ら差し支えない、縦より横に伸びた日本家屋だった。
木造の外観は、長い年月の果てにそうなったのだろう。木の色と言うよりは、黒ずんで墨の様に見えた。
異様と言えば、異様に黒い家だった。
私が一瞬だけ中に入ることに躊躇いを覚えたのは、その外観のせいだったのだろうか。
「入らないの?」
見ると、くらげが玄関の戸を開いたまま私の方を見ていた。私は彼に促されて家の中に入った。
中は綺麗に掃除されていて、外観から感じた不気味さは影をひそめていた。
くらげが言うには、現在この広い家に住んでいるのはたったの四人だという。
祖母と、父親、くらげの兄にあたる次男。そして、くらげ。くらげは三兄弟の末っ子。
母親が居ないことは知っていた。くらげを生んだ直後に亡くなったのだそうだが、詳しい話は聞いていない。
長男は県外の大学生。次男は高校で、父親は仕事。
家には祖母が居るはずだとのことだったが、その姿はどこにも見えなかった。気配もない。
どこにいるのかと尋ねると、「この家のどこかにはいるよ」と返ってきた。
玄関から見て左側が、家族の皆が食事をする大広間で、
右に行くと、各個人の部屋に加えて風呂やトイレがある、と説明される。
二階へ続く階段を上ってすぐが、彼にあてがわれた部屋だった。
くらげの部屋は、私の部屋の二倍は軽くあった。
西の壁が丸々本棚になっていて、部屋の隅に子供が使うには少し大きな勉強机がひとつ置かれている。
「元々は、おじいちゃんの書斎だったそうだけど」とくらげは言った。
確かに子供部屋には見えない。
本棚を覗くと、地域の歴史に触れた書物や、和歌集などが並んでいた。
医学書らしきものもあった。マンガ本の類は見当たらない。
「くらげさ。ここでいっつも何してんの?」
「本を読んでるか、寝てる」
シンプルな答えだ。
確かにくらげの部屋にいても、面白いことはあまり無さそうだ。そう思った私は、彼に家の中を案内してもらうことにした。
二階は総じて子供部屋らしい。階段を上って三つある部屋の内の一番奥が長男、真ん中が次男、手前がくらげ。
兄貴たちの部屋を見せてくれと頼んだら、「僕はただでさえ嫌われているから駄目だよ」 と言われた。
「そう言えばさ、その二人の兄貴も、見える人?」
くらげは首を横に振った。
「この家では、僕とおばあちゃんだけだよ」
一階に下りて、二人で各部屋を見て回る。
掛け軸や置物ばかりの部屋があったり、雑巾がけが大変そうな長い廊下があったり、意外にもトイレが洋式だったり。
くらげはどことなくつまらなそうだったが、私にとっては、古くて広い屋敷内の探検は、何だか心ときめくものがあった。
「ここがお風呂」
そうこうしている内に、今日のメインイベントがやって来た。
脱衣場から浴室を覗くと、大人二人は入れそうなステンレス製の浴槽があった。
トイレの時と同じように、五右衛門風呂なんかを想像していた私は、その点では若干拍子抜けだった。
中にくらげが浮いているかと思えば、そんなこともない。
そもそも水が入っていなかった。まだ午後五時くらいだったので、それも当然なのだが。
「何しゆうかね」
しわがれた声に、私はその場で軽く飛び上がった。
驚いて振り向くと、廊下にざるを抱えた腰の曲がった白髪の老婆が居た。
「おばあちゃん」とくらげが言う。
どうやらこの人がくらげの祖母らしい。
「どこ行ってたの?」
「そこらで、いつもの人と話をしよったんよ」
老婆はそう言って、視線を私の方に向けた。
「ああ。言ったでしょ。今日は友達連れて来るって。この人が、その友達」
「どうも」と頭を下げると、老婆は曲がった腰の先にある顔を、私の顔の傍まで近づけてきた。
目を細めると、周りにある無数のしわと区別がつかなくなってしまう。
その内、顔中のしわが一気に歪んだ。笑ったのだった。
そうは見えなかったが、「うふ、うふ」と嬉しそうな笑い声が聞こえた。
「風呂の中には、何かおったかえ?」
いきなり問われて、私は返答に詰まった。
何も答えられないでいると、老婆はまた「うふ、うふ」と笑った。
「夕飯はここで食べていきんさい。さっき山でフキを採ってきたけぇ」
「いや、あの……」
遠慮しますと言いかけると、老婆は天井を指差して、「夕雨が降ろうが。止むまで、ここにおりんさい」と言った。
夕雨。夕立のことだろうか。朝に天気予報は見たが、今日は一日中晴れだったはずだ。
「さっきからくらげ共が沸いて出てきゆうけぇ。じき、雨が降る」
思わず私はくらげの方を見た。無言で『本当か?』と問いかけると、
くらげは無表情のまま首を横に傾げた。『分からない』と言いたかったのだろう。
数分後。私はくらげの部屋から、窓越しに空を見上げていた。
雨が降っている。くらげの祖母の言った通りだった。
長くは降らないということだったが、土砂降りと言っても良い程、雨脚は強かった。
家に電話をして、止むまでくらげの家にいることを伝えると、『そう。迷惑にならんようにね』とだけ返って来た。
私の親は放任主義なので、子供が何をしていようがあまり気にしない。
「雨の日になると、街中がくらげで溢れるそうだよ。
プカプカ浮いて、空に向かって上って行くんだって。まるで鯉が滝を登るみたいに」
イスに座って本を読んでいたくらげが、そう呟くように言った。
「……マジで。そんなの見えてるのか?」
すると、くらげは首を横に振った。
「僕には見えないよ。僕に見えるのは、お風呂に水がある時だけだから」
私は窓の向こうの雨を見つめながら、前から気になっていたことを訊いてみた。
「なあ、そもそもさ。お前が風呂で見るくらげって、どんな形をしてんだ?」
「普通のくらげだよ。白くて、丸くて、尾っぽがあって。……あ、でも少し光ってるかも」
私は目を瞑り想像してみた。無数のくらげが雨に逆らい空に登ってゆく様を。
その一つ一つが淡く発光している。それは幻想的な光景だった。
再び目を開くと、そこには暗くなった家の庭に雨が降っている、当たり前の景色があるだけだった
その内、くらげの父親が仕事から帰ってきた。
大学で研究をしているというその人は、くらげとは似つかない厳つい顔つきをしていた。
くらげが私のことを話すと、こちらをじろりと一瞥し、一言「分かった」とだけ言った。
口数が少ないところは似ているかもしれない。
次男はまだ帰って来ていない。但しそれはいつものことらしく、彼抜きで夕食を取ることになった。
大広間に集まり、一つのテーブルを囲むように座る。
大勢での食事会にも使えそうな部屋で四人だけというのは、いかにもさびしかった。
フキの煮つけと、白ご飯。味噌汁。ポテトサラダ。肉と野菜の炒め物。
いつも祖母が作るという夕食はそんな感じだった。
最後にその祖母がテーブルにつき、まず父親が「いただきます」と言って食べ始めた。
私も習って、家では滅多にしない両手を合わせての「いただきます」を言う。
テーブルには酒も置いてあった。一升瓶で、銘柄は読めないが焼酎の様だ。
但し、父親はその酒に手をつけようとしない。
その内にふと気がついた。
テーブルには五人分の料理が置かれていた。
私は当初、それは帰って来ていない次男の分だと思っていたが、そうでは無かった。
祖母が一升瓶を持って、一つ空のコップに注いだ。その席には誰も座っていない。
「なあ聞いてぇな、おじいさん。今日はこの子が、友達を連れてきよったんよ」
祖母は誰もいないはずの空間に向かって話しかけていた。まるでそこに誰かいるかのように。
おじいさんとは、後ろの壁に掛かっている白黒写真の内の誰かだろうか。
見えない誰かと楽しそうに喋る。たまに相槌を打ったり、笑ったり、まるでパントマイムを見ているかのようだった。
呆気に取られていると、私の向かいに座っていた父親が、呟く様にこう言った。
「……すまない。気にしなくていい。あれは、狂ってるんだ」
「うふ、うふ」と老婆が笑っている。
隣のくらげは黙々と箸と口を動かしていた。
私は何を言うことも出来ず、白飯をわざと音を立ててかきこんだ。
夕食を食べ終わったのが七時半ごろだった。その頃には土砂降りだった雨は嘘のように止んでいた。
外に出ると、ひやりとした風が吹いた。
車で送って行くという父親の申し出を断って、私は一人自転車で家路につく。
「お爺ちゃんも、雨の日に浮かぶくらげも、おばあちゃんがよくお喋りするいつもの人も、僕には見えない。
だから僕は、『おばあちゃんは狂ってないよ』って言えないんだ」
それは、私を見送るために一人門のところまで来ていたくらげの、別れ際の言葉だった。
「……もしかしたら、本当に狂ってるのかもしれないから」
くらげはそう言った。
――でも、お前も同じくらげが見えるんだろ――。
のどまで出かかった言葉を、私は辛うじて呑みこんだ。
『僕は病気だから』と以前彼自身が言っていたことを思い出す。
あの時、『あれは、狂ってるんだ』と父親が言った時、一体くらげはどう思ったのだろう。
家に向かって自転車を漕ぎながら、私はそんなことばかりを考えていた。
地蔵橋を通り過ぎ、北地区に入った時、私は思わず自転車を止めて振り返った。
一瞬、何か見えた気がしたのだ。
振り向いた時にはもう消えていた。
私はしばらくその場に立ちつくしていた。
それは光っていた。白く。淡く。尻尾のようなひも状の何かがついていたような。
あれは空に帰り損ねた、くらげだろうか。
もしもそうだったとしたら、私も少し狂ってきているのかもしれない。
しかし、それは思う程嫌な考えでは無かった。
くらげは良い奴だし、雰囲気は最悪だったがおばあちゃんの夕飯自体はとても美味しかった。
私は再び自転車を漕ぎだす。空を見上げると雲の切れ間から星が顔をのぞかせていた。
空に上ったくらげ達は、それからどうするのだろうか。私は想像してみる。
星になるんだったらいいな。くらげ星。くらげ座とか、くらげ星雲とか。
その内の一つが本当にあると知ったのは、私がもう少し成長してからのことだが、それはまた別の話だ。