ホラー

【洒落怖】くらげシリーズ まとめ

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その5 みずがみさま

原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「匿名さん」 2011/07/30 16:28

中学時代の話だ。
その年の夏、私と、私の両親と、友人一人の計四人で、一泊二日のキャンプをしたことがあった。
場所は街を流れる川の上流。景観の良い湖のほとりにテントを立てた。
水神湖(みずがみこ)という少し変わった名前の湖。観光パンフレットにも載っていないので、周りに人は私たちだけだった。

事前の予定では、両親はいないはずだった。
普段は放任主義なのだが、さすがに子供二人だけでのキャンプは危険だと思ったのだろう。
いきなり自分たちも参加させろと言いだして、計画にもあれこれ勝手に手を加え始めた。
今ならその心配も十分に分かるのだが、当時は普通にウゼーと思っていたし、実際口にもした。
もっとも私よりも、まず友人に申し訳ないと思っていたのだが、彼は表向きはまるで気にしていないようで、
私が親がついて来ると告げた時も、「うん。分かった」の一言だったし、
行きの車の中でも、私の両親とえらく普通に会話をしており、私一人だけがいつまでもブーたれていた。
「やっぱりくらげちゃんは、誰かと違って礼儀正しくてしっかりしてるねぇ」
移動中の車内。母が声を大きくしたのはわざとだろう。
くらげとは友人のあだ名だ。私がそう呼んでいるのを聞いて、親も真似をしてそう呼ぶ様になったのだった。
しかし、何が『くらげちゃんはしっかりしてるねぇ』だ。いっそのこと、そのあだ名の由来を教えてやろうかとも思った。
友人は所謂『自称、見えるヒト』であり、幽霊の他にも、自宅の風呂に居るはずの無いくらげの姿が見えたりする。
だからあだ名がくらげなのだが。
口に出したい気持ちを、ぐっと呑みこむ。
くらげはその日、長袖のシャツに黒いジャージという出で立ちだった。
彼はあまり親しくない人の前で肌を見せるのを嫌う。つまりは、そういうことだった。
「まあ何ねこの子は、さっきからぶすーっとして」
うっせー。誰のせいだ。

細い山道を幾分上り、目的地に着いたのは午前十時頃だった。
人の手が入ってないからか、湖の水は隅々まで透き通っていた。
所々白い雲の浮かぶ空は青く、周りの緑がそよ風になびいてサラサラと音を立てている。
荷物を下ろし、今日のために休暇を取ったという父親が、はりきってテントを組み立てにかかった。
くらげがそれを手伝い、私は落ちてある石を集めて積み上げ簡素な竈を作った。
口は強いが身体の弱い母は木陰でクーラーボックスに腰かけ、皆の作業の様子を眺めていた。

テントが完成した後、母が私の作成した竈で昼食をこしらえた。
野菜と一緒に煮込んで醤油とマヨネーズで味付けした、ぞんざいなスパゲッティ。鰹節をふりかけて食べる。
見た目と同様に味もぞんざいだったが、美味かった。
「そう言えば、前にも一度ここに来たことがあってな」
食事中、ふとした拍子だった。パスタと共に昼間から酒に手を付け始めた父が、しみじみとした口調で言った。
「あの時は、こんなにゆっくりとは出来んかった」
私たちが生まれる前のことだという。麓の街に住む一人の男が、山に入ったまま行方が分からなくなった。
次の日、家族の通報により捜索隊が組まれ、何日もかけて山中を探しまわったそうだ。
消防署に勤めている私の父も捜索に加わっていた。
そうして二日程たった頃。行方不明だった男はこの湖の近くで、見るも無残な姿で発見された。
「たった二日なのにミイラみたいになっててな、驚いた。
 腕は一本千切れて無かったし、動物の爪のあとやら、
 しかも腹にはどでかい穴が空いててな、内臓があらかた食われてた。
 熊じゃないかってことになって、そこからは皆大騒ぎだよ。猟友会も呼んで男の次は熊の捜索だ」
私とくらげは無言のまま顔を見合わせた。
隣の母が露骨に止めてくれというような顔をしていたが、私は構わず父に尋ねた。
「で?その熊は見つかったん」
「いや。見つからなかった。そもそも熊じゃないって話もあったな。
 猟友会の奴らが、これは絶対熊じゃないって言うんだ。傷がでかすぎるってな。
 まあ、確かにここらの山に熊が出るなんて、その頃でも聞かない話だったが。
 でも熊じゃないとしたら、じゃあ何なんだって話だよ」
「……そんなのが出るかもしれん山に、私らを連れてきたん?」
そう言って母が父を睨んだ。父はどこ吹く風で缶ビールを口に運ぶ。
「もう十何年も前の話だから心配ない。それに、どこの山だって死亡事故の一つや二つ起きてるもんだ。
 いちいちビクビクしてたら何も出来んだろ」
「それにしても、食事中にする話じゃなかろーが」
それでも美味そうにビールを飲む父に、母は「この酔っぱらいめ」と悪態をつく。
そんな夫婦のやり取りを見ながら、私の口の悪さは母譲りだなと改めて思う。
「ああそう、思い出した……。死体を見た専門家も、こいつは熊じゃないって言ってたな」
一本目の缶ビールを飲みほした父が、そのまま顎を上げ空を見上げた状態で、どこか独り言のようにそう言った。
「腹の傷辺りの内臓が、すっかり溶けてるとかなんとか」
「やめんと刺すぞ」
母が父に菜箸をつきつけ、この話は終わった。

昼食後は、日が暮れるまでそれぞれ好き勝手なことをして過ごした。
母は読書をしたり、傍に居たくらげを捕まえて話の相手をさせていた。
酔っぱらいは、わざわざ家から持ってきたハンモックを手ごろな木に吊るして、昼寝をしていた。
私はというと、もっぱら釣りをしていた。
餌はその辺の岩の下に居た小さな虫で、この湖で何が釣れるのかも知らなかったが、
湖の景観は眺めていて飽きなかったし、ついでに何か釣れればいいな、くらいの心持ちだった。

小さな折りたたみ椅子に座りぼんやりしていると、
ようやく母に解放されたらしいくらげがやって来て、私の隣に腰を下ろした。
しばらく二人共無言で湖を眺めた。
どこかで、ピィ、という鳥の鳴き声と一緒に、木々の擦れ合う音がして、
小さなこげ茶色の影が数羽、私たちの頭の上を西から東へと横切っていった。
「さっきの親父の話さ、あれ本当だと思うか」
鳥の影が見えなくなった後、私は何となく尋ねてみた。
欠伸の最中だったらしいくらげは、両手首で涙をぬぐいながら、そのまま「んー」と伸びをした。
「僕は当事者でも何でもないし」
「まあ、そうだよな」
そして、くらげは地面に生えていた草を数本引きぬくと、湖に向かって投げた。
「……あのさ。これ、随分昔におばあちゃんに聞いた話なんだけど」
くらげが言った。
「この辺の山には、神さまが住んでるって」
「神さま?」
「そう。みずがみさま、っていうんだけどね」
くらげは湖を見つめながらそう言った。
みずがみさま。その名前は私に、今自分が釣り糸を垂らしている湖の名前を否応なく思い出させた。
「そのみずがみさまがどうかしたのか?それとも事件は、そいつのせいだって言うのかよ」
くらげは首を横に振った。
「かもしれないねって話。でも、この湖のそばで見つかったんでしょ?」
確かに男の死体はこの水神湖周辺で見つかったそうだが、
だからといって、湖の神さまが犯人は突拍子過ぎるのではないか。
そんな私の考えを知らないくらげは、淡々と続ける。
「ふつう、神さまが見える人なんて滅多にいないし。見えない何かに危害を加えられたり、なんてことはあり得ないんだけど」
そして、くらげは右腕を前に伸ばすと、シャツの裾を少しめくって見せた。
白くて細い腕の中に、赤い斑点が数ヶ所浮き出ている。
「見えない人には居ないも同然だけど。もしも『それ』が見える人なら、刺されたり噛まれたり、殺されることもあるんだよ」
それは、彼が自宅の風呂に出たくらげに刺されたという跡だった。
最初に見たのは小学校の頃の体育の授業だったが、それから数年経っても消えないで、未だ彼の身体に残っている。
ファントム・ペイン――幻肢痛。そんな、どこかで聞いたような単語が頭に浮かぶ。
しかしあれは、すでに失った、あるはずの無い手足の痛みを感じる、というものだったはず。
この場合、幻傷と言った方がいいのかもしれない。
「……でもなあ。最近の神さまは、人を襲って内臓食うのかよ」
私が言うと、くらげは前を見たまま「どうだろうね」と少し首を傾げた。
「神さまなんて、善いとか悪いとか関係なしに、人が崇める対象のことだし。
 もしかしたら、生贄だと思ったんじゃないかな。僕らの街も昔は水害が多かったそうだから」
さらりと言って、くらげは再び欠伸をした。
それから後ろを振り向き、父が寝ているハンモックをどことなく羨ましそうに見やった。
その後、私は夕暮れまで粘ったが、結局一匹も釣れなかった。

夕飯はカレーだった。但し、ここで作ったものでは無い。母が家から鍋ごと持ってきたのである。
しかも飯盒も米も無いので、別の鍋でうどんを茹でて、カレーうどんという体たらく。
何故キャンプに来て、昨日の残りのカレーを食べなければいけないのだ。何故白米が無いのだ。
ここでも結局、私のみがブーたれていた。

食事の後は、焚き火の光を目印に集まってきた虫達と一緒に、夜の景色を眺めたり、誰かと適当に話をしたり、
父のウィスキーを少しなめさせてもらい、母に怒られたりした。
時間は驚くほどゆっくり流れ、
夜空にはどこも欠けることのない満月と共に、
今にも落ちてきそうな、もしくは逆にこちらが吸い込まれそうな、満天の星空が輝いていた。

酒のせいか、いつテントに入ったのかは覚えていない。気がつけば、私は寝袋を敷布団にして仰向けに寝転がっていた。
右を見ると父と母が、左にはくらげが少し離れたテントの隅で、まるでカブトムシの幼虫の様に身体を丸めて眠っていた。
どうして目が覚めたんだろう。
外の焚き火は消えている様だった。辺りはしんと静まり返り、虫の鳴き声が唯一、静寂を一層際立てていた。
私は上半身を起こした。寝起きだというのに、何故か自分でも驚くほど目が冴えていた。
目だけじゃない。五感がこれ以上ない程にはっきりとしている。
何か居る。
ほとんど直感で、私はその存在を認識していた。テントの外に蠢く何かが居る。
直感に次いで、這いずる音が聞こえた。
その内、不意にテントの壁に大きな影が映った。私の背よりは大きくないが、横にかなりの幅がある。
そいつはテントの周りをのそのそと、入口の方まで移動してきた。
私は無意識の内に、テントの入り口に近寄っていた。
二重のチャックは二つとも閉じている。薄い布二枚隔てた向こうに何かが居る。
不思議と、熊かも知れないとは思わなかった。
そいつの足か、もしくは手がテントに触れた。でかい身体の割には随分と細い手足という印象だった。細くて、先が鋭い。
みずがみさま。
ガジガジガジガジ、とまるで錆びた金属同士をこすり合わせたような、そんな音がした。
鳴き声だろうか。そうだとしたら、そいつは熊ではあり得無い。
私は手探りでテントの中に転がっていた懐中電灯を見つけ出した。
片手に握りしめ、もう一方の手でゆっくりと出入り口のジッパーに手をかけた。
じりじりとジッパーを下ろしてゆく。片手が入る程の隙間。その隙間に、私は光のついていない懐中電灯を向けた。
スイッチを入れようとした。
その瞬間、突然後ろから肩を掴まれた。
驚く間もなく口を塞がれる。
「……静かに」
耳元でもようやく聞こえる程の小さな声。くらげの声だった。
いつの間に起きていたのだろうか。後頭部から彼の心臓の鼓動がはっきりと聞こえていた。自分の心臓の音も聞こえる。
いつの間にか懐中電灯が取り上げられていた。
「今は駄目だ。相手にもこっちが見えるから」
外の気配は相変わらず、すぐそこにあった。
「見えるってことを、知られちゃいけない。見えないふりをしないと」
小さく囁くその声が、僅かに震えているのが分かった。そこでようやく、私の頭の芯が冷えてきた。
私は鼻で大きく深呼吸を二回すると、くらげの膝を軽く二度叩いた。
くらげが私の口から手を離した。
星明かり月明かりのおかげで、テントの中でもそれ程暗くない。
テントに映る影。改めて見ると、影の高さは、膝を立てて座った時の私の目線とほぼ同じだった。
私が開いたジッパーの隙間から、その姿の一部分が見え隠れしている。但し、夜中だったせいか黒くしか見えない。
ガジガジガジガジ。あの音がする。不快な音だ。
どうして両親は起きないんだろうと思った。
もしかしたら、彼らには聞こえていないのかもしれない。私とくらげ、二人だけに聞こえている。
くらげと一緒に居ると、私にも常人には見えないものが見える時がある。それをくらげは、『病気がうつる』と表現していた。
見えてしまう病気。それは時には、見えてしまうがゆえに様々な症状を誘発する。
くらげから離れさえすればこの病気は治る。それでも私はくらげと友人でいた。
一度覗いてしまった非日常の世界を、簡単に手放すことは出来なかった。
しかし、この病気は悪化もするのだ。

どのくらい動かずに居ただろう。不意に、外に居るそいつが背を向けたのが分かった。気配がテントから離れていく。
暗闇の中、私とくらげは目を合わせた。「……ライトは駄目だよ」と、くらげが小声で言う。私は頷いた。
二人でそっとテントの出入り口に近づく。
手が一つ入る程だったジッパーの隙間を、もう少しだけ広げた。二人で片目ずつ、外を覗く。
息を飲んだ。
虫だ。
四本の足で這いながら、湖の方へと近づいて行く。
そいつはとてつもなく大きな、まるで私たちが小指大まで縮小してしまったのかと思う程大きな、昆虫だった。
枯れた水草のような色。その畳二畳分はあるだろう背中。
頭から横にはみ出した、車すら挟み潰してしまいそうな巨大な鎌状の前足が二本。
「……タガメだ」
くらげが小さく呟いた。
湖の傍まで来ると、そいつは突然立ち止まり、動かなくなった。
その背中がもぞもぞと動く。同時に、ガジガジガジ、とあの音がした。あれは虫が身体をこすり合わせる音だったのだ。
そう思った途端。いきなりその背中が二つに裂けた。身体の大きさが横方向に突如膨れ上がった様にも見えた。
羽を広げたのだ。
その四枚の羽根が目に見えない速さで振動する。ざあ、と風が吹いて、テントが揺れた。
飛ぶ。その大きな体がふわりと、地面から少しだけ浮いた。
水面に波紋が立つ。飛び上がるというよりは、水面を滑る様に。
徐々に上昇していって、あっという間に木々の向こうへと飛び去ってしまった。
湖はまた静かになった。
私はしばらくの間、動くことも声を発することも出来なかった。
くらげがジッパーを開いて外に出た。湖の方へと歩いて行き、先程あの巨大な虫が飛び立った場所で立ち止まった。
「やっぱり、みずがみさまは、タガメだった。おばあちゃんに聞いた通りだ……」
夜空に向かって、くらげは呟く様にそう言った。
その声は、どこか嬉しそうにも聞こえた。
私も外に出てみる。見ると、焚き火をした後の灰の中に、未だ赤くくすぶっている薪があった。
あの虫は、この僅かな光につられてやってきたのだろうか。
ぶるり、と私は一つ震えた。
「……もし捕まってたら。どうなってたんだろな」
タガメに関する知識で、蜘蛛のように獲物の内臓溶かしながら少しずつ吸う性質がある、ということを私は思い出していた。
「もし捕まったら、僕らお供え物になってたね。きっと今年、このあたりで水害は起きなかったはずだよ」
私の傍に来てくらげがそう言った。
お供え物。私はくらげを見やって、思わず笑ってしまった。
すると、くらげは不思議そうな顔をした。どうやら冗談で言ったのではないらしい。
今年水害が起こったら、それは私たちのせいでもあるということか。
「あら……、二人共早起きやねぇ」
声のした方を向くと、母がテントから顔だけ出していた。私の笑い声で起こしてしまったようだ。
見ると、辺りが段々青白く明るんで来ていた。朝はもう、すぐ近くまで来ている。
「何しゆうんよ。二人で」
母の言葉に、私たちは顔を見合わせた。どう説明したらいいものかと一瞬悩んだが、私は本当のことを話すことにした。
「いや、あのさ、テントの外にでっかいタガメが居るの見つけて、ちょっと観察してたんだけど……」
嘘は何も言っていない。
母は目をぱちくりさせた後、小さく溜息を吐いた。
「ねぇくらげちゃん」
その時の母の笑顔は、私が今まで見たこともないようなものだった。
「ウチの子こんなに馬鹿なんだけど。これからもお願いね?」
するとくらげは、珍しく少し戸惑ったような表情をしてから、こう言った。
「あの、僕、ずっとは無理ですけど……、出来る限り、そうしたいと思ってます」
数秒の間を置いて母が笑った。
当のくらげはやっぱり不思議そうな顔をしていて、どうやらこれも冗談ではないようだ。
くらげの言葉。きっと母と私では、違う受け取り方をしただろう。
正直、おいおいおい、と思ったが、私は笑って流すことにした。

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その6 転校生と杉の木

原著作者「怖い話投稿:ホラーテラー」「匿名さん」 2011/08/10 20:41

これは、私が小学校六年生だった頃の話だ。

四月中旬。私はその日の放課後、一人居残って教室の掃除をしていた。不注意で花瓶を割ってしまったのだ。
ガラスは担任が片付けてくれたが、濡れた床の掃除を命じられ、
おかげで校門を出た時間は、他の『まっすぐ帰る組』よりも数十分遅れていた。

昨夜はひどい雨だった。校庭に植えられた桜はほとんど散っている。
道には花弁が散らばり、足元にある水溜りは桃色をしていた。
いつもなら水溜りなど気にせず踏み越えて行くのだが、その日ばかりはチョロチョロと避けて歩く。

帰宅途中、私が昔通っていた保育園の前を過ぎようとした時だった。
道路の端で、誰かが園内に生えている大きな杉の木を見上げていた。
同じ学校の生徒だろう。黒いランドセルを背負っている。
見覚えある横顔。彼は始業式の日に、私のクラスに転校してきた生徒だ。
彼は一風変わった転校生だった。
転校初日の全ての休み時間、彼は一度も教室に留まることをしなかった。
休み時間が始まると、一人教室を抜け出して、いつの間にかいなくなっているのだ。次の日からもそうだった。
転校生にとって、転校初日は友人を作る上で最も重要な日だろう。
その重要な日の休み時間に自ら教室を出ていく。つまりは、そういうことだ。
人嫌いの変わり者。それが周りの彼に対する評価だった。
その転校生が私の目の前で、じっと杉の木を見上げている。
園内には、サイズの小さな遊具で遊ぶ子供たちと、それを見守る保育士の先生の姿があった。
私も昔、同じようにここで遊んだ。
私は保育園が大好きな子供で、休みの日でも「やだー。保育園行くー!」と泣きわめいて親を困らせたらしい。
杉の木は園内の隅に生えている。きっと街が出来る以前からそこにあったのだろう。
幹は太く、高さは周りの家々の三倍はある。
建材用のまっすぐ伸びた杉ではなく、見ようによっては身をよじった人のようにも見え、
根元には『みまもりすぎ』と名札が掛けられてある。
私が園児だったころからすでに、その杉の木は『みまもりすぎ』だった。
転校生の横を過ぎざまに、私はちらりと杉の木を見上げてみた。
彼は何を見ているのだろうか。漠然と、枝にとまった鳥でも見ているのだろうと思っていたが、違った。
白い靴が二足、空中に浮かんでいた。
不思議な光景だった。
足はそのまま歩きながら、首だけがその靴を追う。可動域の限界まできたところで私は立ち止まった。
杉の木の方に身体も向けて、もう一度見やる。
一組の白い運動靴が、つま先を下にして、私の頭より高い場所で浮かんでいた。
その一,二メートルほど上には太い枝が真横に張りだしていて、そこから細い糸で吊るしているのだろうか。
しかし、一体どういう理由で。
ふと気がつくと、先に杉の木を見上げていた彼が、いつの間にか歩きだしていた。
何事も無かったかのように平然と、私の横を通り過ぎる。
私は振り返り、その背中に声を掛けようとした。けれど、何と言えば良いのか分からない。
まごまごしている内に、彼は角を曲がり、その姿は見えなくなった。
一人取り残された私は、もう一度杉の木を見上げた。
何もない。白い靴は消えて無くなっていた。
その場に立ちつくし、茫然と杉の木を見上げる。
幻覚、錯覚、見間違い。しかし、私の見たものが見間違いなら、彼は見ていたものは何なのだろう。

その日、家に帰ってから、私は母に今日あったことを報告した。
二足の白い靴が、保育園の大きな杉の木の下に浮かんでいたと。
丁度夕飯の買い物に行こうとしていた母は、
玄関へと向かいがてら、私の頭をわしゃわしゃと撫でて、一言「アホなこと言いなさんな」と言った。

日付は変わり、次の日のこと。
学校に行く途中、保育園の前を通り過ぎる際に、私はあの杉の木を見上げてみた。
白い靴など影も形も見当たらない。角度を変えたり目を細めたりしたが、やはり何も見えない。
ふと、柵の向こう、園内から一人の赤い頬をした小さな男の子が、私のことを不思議そうに見つめていた。
私は取り繕うように笑って、そそくさとその場を後にした。

やっぱり、見間違いだ。
母の言う通り。アホなことだったんだろう。
幾分ホッとした私は、以降しばらくの期間、白い靴のことを思い出すことはなかった。

そうして、それからしばらく経った日のこと。
四月が終わりを迎え、五月。端午の節句がすぐそこまで近づいていた。
その日も前日は雨だった。
学校が終わり、一人での帰り道。道路には水溜りという置き土産がいくつも残っていた。
わざと水溜りを蹴飛ばしながら歩く。靴下まで水に濡れて、一歩歩くごとにガッポガッポ音が鳴るのが楽しい。
母には不注意で溝に落ちたとでも言い訳するつもりだった。

そうやって、私は保育園の横の道までやって来た。
歩くのを止めて立ち止まる。何か聞こえたのだろうか。虫の知らせだろうか。理由は忘れてしまった。
とにかく私は立ち止まった。
保育園では数人の子供が遊んでいるようだった。はしゃぐ声がする。
園内を見やると、丁度私の視界を遮る様にあの杉の木があった。
ふと、あの白い靴のことを思い出した私は、なんとなく、木の幹を辿って、視線を空へと向けてみた。
頭上にあの白い靴が浮かんでいた。
瞬きすら忘れて私はそれを見つめていた。
誰かが白い靴を履いている。
その時見えたのは靴だけではなかった。前は見えていなかった人の足首。靴を履いている。人間の足だ。
足は脛のところで途切れていて、それ以上は見えない。
色や輪郭は、まるで霧がかかったようにぼんやりとしている。しかし、
白い運動靴を履いた足が二本、確かに空中に浮かんでいた。
誰かが私の背後を通り過ぎる。
はっとして横を見やると、黒いランドセルが向こうの角を曲がろうとしていた。見覚えのある背中。
「ちょっと待てよ!」
私は咄嗟にその背中を呼びとめていた。彼は立ち止まり、ゆっくりとこちらを向いた。
その顔は無表情で、相変わらず何を考えているかわからない。
転校してきて一カ月。その頃、彼はすでに教室の置き物扱いだった。休み時間に教室に居ないのは変わらず。
最初の方こそ、寡黙な転校生を面白がっていた周りも、慣れてくるにつれ次第に相手をする者もいなくなっていた。
彼は黙って私の方を見ていた。
言葉で説明出来なかった私は、無言で、杉の木の下に浮かぶ誰かの白い靴を指差した。
彼が私の指差した方向を見やる。長い沈黙があった。
「……見えるの?」
杉の木を見上げたまま彼が口を開いた。
そんなことはないはずなのだが、私はその時、初めて彼の声を聞いたような気がした。
「白い靴と、足首」
私は見えたままを答える。
どうやら、彼にも同じものが見えているようだった。しらばっくれる気はないらしい。
「そう。でも、それ以上は見ない方がいいよ」
そして彼はゆっくりとこちらを見やった。
「あの人、君の方見てるから」
それだけ言い残し、彼は背を向けて歩きだした。
再び呼びとめることも出来ず、私はただその背を見送っていた。
その姿が曲がり角の先に消えてしまってから、私は杉の木を見上げる。
白い靴と人間の足首は、忽然と消えて見えなくなっていた。
一体全体、何だというのだ。

その日も家に帰って親に報告したが、やはり母も父もまともに取り合ってはくれなかった。
見間違いではない。自分の目に見えたものが何なのか。私は知りたいと思った。
彼が何か知っているに違いない。その考えは確信に近かった。
私は二度、白い靴を見た。一度目、二度目も、私の傍には彼の姿がある。
しかも、最初にあの杉の木を見上げていたのは彼なのだ。無関係とは思えない。

次の日、学校での給食の時間が終わり、昼休み。私は誰よりも早く教室を出て、廊下にて待機していた。
いつものように彼が教室から出てくる。私はその肩を捕まえた。
「ちょっと話をしないか」
彼は無言のまま私を見やった。相変わらず表情は乏しい。迷惑と思っているのだろうか。
いずれにせよ、中々返答しようとしない彼に、私は自分の中で一番優しげな笑顔を作ってみせた。
「いいよ、って言うまで付きまとうから」
彼は俯き、小さく息を吐いた。
「……いいよ」

人気の少ない中庭に場所を移す。
二人で階段を下り、上履きから靴に履き替え外に出た。
睡蓮の葉が浮かぶ丸い池のふちに腰かけ、単刀直入に、前置きも何も入れず、私は切り出した。
「あの白い靴と足は、何なんだよ」
「分からないよ」
対する彼の答えもシンプルだった。
そうして彼は、「僕は、あの人のことを知らないから」と続けた。
『あの人』。先日もだ。彼は確かにそう言った。『それ以上は、見ない方がいい』とも。
きっと足だけでは無いのだ。その上がある。そして、彼にはそれが見えている。
「あの人って……。人があんなとこで、何してるんだよ」
私の問いには答えず、彼は池の中心にある噴水の方を見やった。
「もう、僕に近づかない方が良いよ。君は特に」
意味がわからない。私は口を開きかけたが、彼の言葉の方が早かった。
「僕は病気だから」
それはまるで、原稿を読み上げるニュースキャスターのように。彼の口調はあくまで淡々としていた。
「……病気?」
「君は、家のお風呂に、くらげが浮いているのを見たことある?」
一瞬、質問の意味が分からなかった。じっくりと考えた末に、私は黙ってかぶりを振った。
風呂に浸かるくらげ。そんなもの、見たことあるわけがない。
「僕は、そういうのが見える病気だから。君が見た白い靴や足とかもそう」
『自称、見えるヒト』というわけだ。しかし彼は、その原因を自ら告白した。
病気。
それは私の体験した全てを説明できなくとも、何かしらの説得力を持っていた。
少なくとも、たまにTVに出てくるナントカ霊能力者。
彼らの様に、何の説明もなく、幽霊やその他が見えると言われるよりも、はるかにずっと。
「君は、僕の病気が伝染ったんだよ。たまにそういう人いるらしいから。……君は前から見えてたわけじゃないんでしょ?」
伝染病。あの白い靴が見えたのは、彼の病気が私に伝染ったからだと彼は言った。
私は彼と同じ病気に罹ったのだろうか。
傍から見ても狼狽していたのだろう。私を安心させるためなのか、彼は辛うじてそうしたと分かる程度に小さく笑った。
「でも大丈夫だよ。その病気は、僕に近づかないようにすれば、自然と治るから」
私は何も言うことができなかった。

彼が中庭を去った後も、私は一人、噴水に腰かけていた。
それ以降の午後の授業も、私は心ここにあらずという状態で、先生の話も聞かず、黒板も見ていなかった。
何か考えていたはずなのだが、内容は覚えていない。

その日は五時間授業で学校が早く終わった。
放課後。一緒に帰ろうという友達の誘いを断り、皆から少しおくれて、一人で帰路につく。
ゆっくりと歩き、あの杉の木がある保育園までやって来た。園児たちの姿は無い。お昼寝の時間だろうか。
私は立ち止まり、樹齢は何年だろう、その大きな杉の木を見上げた。
今のところ不可解なものは何も見えない。見えるのは、空へと伸びる杉の木と、その先の青く広い空だけだ。
このまま家に帰れば、今まで通り何事もなく過ごせるだろう。
私はそれをちゃんと理解していた。しかし、私は歩き出せなかった。いや、歩き出さなかった。
その内、黒いランドセルを背負った彼がやって来た。私の姿を見とめたのか、はた、と歩くのを止める。
相変わらずの無表情で、何を考えているかわからない。しかし立ち止まったということは、私の存在が意外だったのだろう。
「や。こっち来いよ」
手を上げて私はそう言った。幾分時間を掛けて、彼が私の傍へやってくる。
「……どうかしたの?」
私はその言葉を無視して一人、杉の木を見上げた。
先程までは決して見えなかった、白い運動靴、足首、さらにその上のつるりとした膝と、ズボンの裾。
間違いない。彼の傍に居るから見えるのだ。そうして、見える範囲が昨日よりも広がっている。
「どうやったら、もっとよく見えるんだ?」
上を見上げたまま私は尋ねる。
「……見ない方がいいよ」
彼は昨日と同じ言葉を繰り返す。私は返事をしなかった。
しばらくお互いに無言のままだったが、
彼はやがて諦めたように、ふう、と小さく息をはくと、私と同じように杉の木を見上げた。
「昨日は、靴と足首だけだったんだよね。今は?」
「今は、膝らへんまで」
「ズボンは?」
「少し、見える」
「そう……」
次の瞬間。彼の右手が、私の左手首を掴んだ。それは思い掛けなく、唐突な出来事だった。
驚いて彼を見やる。その表情は変わっていない。視線も杉の木に固定されたまま、彼は残った手で上空を指差した。
「あの人の手は見える?ズボンの腰辺りで、ぶらぶらしてる、白い手」
戸惑いながらも、私は再び上を見やった。
手が見えた。
手首から先だけだったが、はっきりと。彼の言う通り、それは白い手だった。
彼に腕を掴まれたからか。ズボンも裾まででなく、腰の辺りまで見えるようになっていた。
「シマウマみたいな、長袖のシャツを着てるね」
隣で彼がそう言った瞬間、私の目はぼんやりと白と黒のボーダー柄のシャツを捉えていた。
それは徐々に鮮明になってゆき、しわまではっきりと分かるまでになった。
細かく説明されるごとに、『彼女』の見える部分が増えてゆく。
「首に、ロープが食い込んでる」
縄が見えた。張り出した枝から垂れたロープが、白く細い首に絡まっている。
「女の人だね。ショートヘアで、舌がちょっと出てて、目は……君の方を見てる」
そう言ったのを最後に、彼は私の手首を掴んでいた手を離した。
顔が見えた。
私にはもう何もかも見えていた。
その足も、その手も、その身体も、その顔も、口から少し飛び出た舌も、
瞬きもせずじっと私を捉える、その虚ろな目も。
「……あ」
思わず声が出ていた。
どうして今まで気づかなかったんだろう。
私はその人を知っていた。
彼女は、私がここの保育園で年中組と年長組だった時に、世話になった先生だった。
私は幼い頃。母が入退院を繰り返していて、小さな私は寂しい思いをしていた。
だから、十分に母に甘えられない分を、私は保育士だった彼女に求めたのかもしれない。
私はよく先生の足に縋りつくのが癖だった。まるで猿やコアラの赤子のように。
彼女は私を足にくっつけたまま、「よいしょよいしょ」と歩くのだ。そのまま他の用事をすることもあった。
優しい人だった。
その先生が首を吊って死んでいる。
私はそっと手を伸ばして、その白い運動靴に触れようとした。
指の先が少し触れたが、感触はどこにも無く、私の指は空を掻いた。
触れられない。
「大丈夫?」
気遣ってくれているのだろうか。
「……知ってる先生なんだ」
私は答える。それは自分でも驚くほど冷静な声だった。
おかしなことに、先生の死体を前にしても、実感はまるで湧かなかった。
それは、テレビの向こう側で行われる有名人のお葬式のようだった。
ロープで木にぶら下がった彼女は、ずっと私の方を見ている。
もしかしたら、私と彼女が知り合いであることに、彼は最初から気付いていたのかもしれない。
「『見守り杉』っていうんだねぇ、……この木」
隣で彼が小さく呟いた。

それから、どこで彼と別れて、どうやって家で帰ったのかは、記憶にない。
家に帰ってから、私は母に事情を聞いた。
先生の名前を出すと、母は観念したようで、色々と話してくれた。
黙っていたのは、忘れているのならそのままの方がいい、と思ったからだという。
先生は自ら命をたった。
失恋の果ての自殺。時期は、私が保育園を卒園してすぐのこと。
恋人は、当時同じ保育園に勤めていた人で、私の記憶にもある人物だった。
破局の理由は喧嘩でも浮気でも無く、先生の生まれ育った場所にあった。
周りから忌み嫌われる土地。
知識としてはあったが、そんなものはずっと昔の話だと思っていたし、何より理不尽で、やりきれなかった。
母は「あんた一時期、あの先生のことを、『お母さん』って呼んでたんよ」と言って、懐かしそうに笑った。
記憶の中の先生の姿が、目の前の母と重なる。
私の目から涙がぽろぽろと勝手にこぼれ落ちた。先生は死んだのだという実感がようやく沸いてきたのだ。
私は小さな子供のように泣いた。そんな私の頭を母はわしゃわしゃと撫でてくれた。

翌日。私は登校中に、保育園に立ち寄った。
門の傍には一人の保育士がいた。私はその人に、前日に母に用意してもらった小さな花束を渡す。
杉の木の下に供えてくれるようお願いすると、
その年配の保育士は心得ているのだろう、一瞬嬉しそうな、それでいて寂しそうな表情をした。
「ありがとうね」
彼女は私に向かってそう言った。
私は一度だけ杉の木の方を見やったが、先生の姿はどこにも見えなかった。
保育園に背を向けて、私は歩き出す。涙は出ない。先生のための分は、どうやら昨日の内に出しつくしてしまったようだ。

学校までの道、小学校の校門の前で、私は見覚えのある黒いランドセルを見つけた。
彼だ。
その背に声を掛けようと口を開く。しかし言葉が出てこなかった。
足が止まり、私はその場で立ち止まる。
彼が抱える病気。
『近づかない方がいい』という彼の言葉。
私を見下ろしていた先生の目。
見える、ということ。
様々な言葉や事柄が頭の中を駆け巡り、その背を追いかけることを躊躇わせた。
覚悟。そう言ってもいいかもしれない。当時の私は、まだそれを持ってはいなかった。
だから、私が彼のことを『くらげ』と呼ぶ様になるのは、もう少しだけ先の話になる。
後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、何ぼーっと突っ立ってんの?」
振り向くと、そこにはクラスメイトの女の子が、疑問符を頭の上に出して私を見やっていた。
若干慌てつつ、「何でもないって」と答えると、彼女はより不思議そうな顔をして。
「何かへんなものでも見たのー?」
そう言って屈託なく笑った。

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