ホラー

【洒落怖】くらげシリーズ まとめ

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その15 水を撒く

投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2018/06/10

 私が中学生だった頃の話だ。
 二月の平日。その日の朝、いつもより随分早く家を出た私は、中学校とは逆方向のとある友人の家へと向かっていた。
 冬の空気は澄んでいて、自転車を漕いで火照った体に冷たい風が心地いい。空は薄曇りだが、降ってきそうな程ではなく、そう言えば一年前は雪が降っていたんだよな、と、そんなことをふと思う。
 友人の家は、街の南側にある山を少し登った場所に建っている。家の周りを囲う塀に自転車を立て掛け門をくぐると、当の友人が一人、玄関先に手桶と柄杓で水を撒いていた。
 私に気付いたようで、その手が止まる。訪ねることは事前に伝えてあったので、驚いている様子ではない。
「よ」
 軽く手を上げると、彼も手にした柄杓を微かに上げて見せた。
 彼はくらげ、もちろんあだ名だ。小学時代からの友人で、所謂、『自称、見えるヒト』 でもある。
 傍らに歩み寄ると、くらげがちょいと後ろを振り返った。玄関の戸は少し開いていて、隙間から妙に薄暗い玄関と廊下が見えた。
 今日は、くらげの祖母の一回忌に当たる。彼は私服姿で、忌引き扱いにはならないはずだが、今日は学校を休むようだ。
「何してんだ?」
「水を、撒いてるんだけど」
「そりゃあ、見りゃわかる」
 この寒さだ。ただの打ち水でないことも、分かる。
 すると彼は手桶の中の水に視線を落とし、「今日はそういう日だから」 と言った。
 聞けば、彼の家では亡くなった人の魂を迎える際と送る際、家の周囲に水を撒くのだという。
 そういう風習があることを、私は知らなかった。「うちは元々やってなかったみたいだけど……」 彼が言った。
「おばあちゃんの方の家では、そうしてたらしいから」
 一人でやってるのか。
 言いかけて、止めた。
「上がってもいいか?」
 代わりにそう尋ねると、彼はもう一度後ろを振り返ってから、小さく頷いた。
 玄関を抜けてすぐ左が居間になる。くらげの後について部屋に入る。室内には誰の姿もなかった。
 丁度一年前、葬儀を行ったのもこの部屋だった。
 神棚には供え物と一緒に一枚の遺影が立て掛けてあり、当たり前の話だが、写真の中の彼女は一年前に見た時と全く同じ表情をしている。
 隣を見やると、彼もまた普段となんら変わらず、表情は乏しい。
 霊前に進み、二礼二拍手一礼。頭を下げ手を合わせ、目を閉じる。
 彼女とはこの家で何度か会って、何度か話もした。最初の印象は、しわだらけで、まるで童話に出て来る魔女のようなおばあさんだったのだが、その性格は至って穏やかで、いつか、私が孫のことをくらげと呼んでいることを知ると、ひどく嬉しそうな顔で、「うふ、うふ」 と笑っていた。
 目を開く。霊前、写真の中の祖母の表情が変わっている、といったこともなく、彼女はやはりあの皺だらけの笑顔で私のことを見やっていた。
 一年前、私はここで不思議な光景を見たのだが、今回は、例えば霊前に無数の光るくらげが浮いている、といったことも無かった。
「ありがとう」
 お参りを済まして振り返ると、戸口の辺りで突っ立っていたくらげに礼を言われた。「何が?」 と訊き返すと、彼は小さく首を傾げて、
「……何だろう?」
「何だそりゃ」
「ごめん」
 そうして彼は、何故か困ったように、少しだけ笑った。
 二人で外に出る。空模様もここに来た時と何も変わらない。くらげが玄関わきに置いてあった柄杓と桶を拾い上げる。また水を撒くのか。
 予定では、お参りが済んだらすぐに学校に向かうつもりだったのだが。何となくそんな気にならず、私は玄関横の壁に背中を預けた。
「そもそもさ、何で水を撒く習慣が出来たんだろうな」
 私の言葉に、くらげは一度自分の足元に水を撒いてから、「……おばあちゃんから聞いた話だけど」 と言った。
「こういう日、お盆とか、一回忌とか。昔は、海からここまで大勢で水を撒きながら帰って来たって」
 私たちが現在居る家から山一つ越えれば、そこはもう太平洋だ。
「目印だったんじゃないかな」
 それ以上、くらげは何も言わなかった。目印。私は思う。もし海から水を撒いて戻る行為が目印を残すためだとすれば。それはもちろん、生きた人間のためではなく、そうでないモノたちが、迷わず帰ってくるためのものなのだろう。
 何故か、 童話、『ヘンゼルとグレーテル』 で兄妹が落としていったパンくずを思い出した。ただあのパンくずは確か小鳥に食べられてしまうのだったか。
 何にせよ、昔の人たちは、水を撒くことによって海から死者を招こうとしたのだろう。
「……戻ってきた人、見たことあるか?」
 訊くと、彼は桶の中の水に目を落として、「無いよ」 と言った。そうして再びぱしゃりと水を撒いた。
 見たことないのに、やってるのか。言いかけて、止めた。今日はこんなことばかりしている気がする。
「じゃあそれって、海の水?」
 代わりにそう尋ねながら、桶を覗きこむ。三分の一ほどに減った水面にぷつぷつと泡が浮いている。やはり海水のようだ。
 その時、ふと水面の泡に混じって、何か別の小さなものが浮かんでいることに気が付いた。何だろうか、丸くて小さな何か。
 目を細めていると、くらげも同じように桶を覗きこんできた。
「……くらげが居るね」
 くらげが言った。
 桶の中には、小指の先程の小さなくらげが一匹、ゆらゆらと揺れていた。もし私の目が良くなければ、見逃していただろう。
「これ、お前にも見えてるんだよな」
 分かりきったことを訊いてみると、彼はこくりと頷いた。
「庭に撒くところだった」
 くらげがこぼす。そうして小さく二度、笑った。血が繋がっているのだから当たり前だが、何となく彼の祖母の笑い方と、少しだけ似ているような気がした。
 その後、くらげと二人で裏の山を越えて海へ向かった。
 くらげは頑なについて来るなと言っていたのだが、結局、彼の家の電話を借り、身体の弱い母が体調を崩していると嘘をついて、学校はサボることにした。実際、過去にそういう理由で休んだことが何度かあるので、先生も疑問に思わなかったようだ。
 くらげが桶の水をこぼさないようにゆっくり歩くので、峠を越え海が見えた頃には、曇り空の向こうの陽もかなり高くに上がって来ており、結局海に着いたのが昼前だった。

 小さな漁港は閑散としていて人影はなく、冬の海はどこか色が暗く静かだった。
 くらげが堤防の縁に立ち、桶の中の水をゆっくりと海に撒いた。海面が一瞬だけ白く粟立つ。いくら目の良い私でも、さすがに海にまかれた小さなくらげの姿は確認できなかった。
 隣のくらげは、しばらく今しがた自分が水を撒いた海面を見やっていたが、その内、防波堤の縁に腰を降ろして、水平線の方に視線を向けたまま動かなくなった。山越えで疲れたのだろう。少し、休んでいくつもりらしい。
「なあ、くらげさ」
 彼の横で立ったまま、尋ねる。
「海に出るくらげって、毎年お盆を過ぎたら出て来るって言うだろ」
「うん」
「あれ、何でだろうな」
 隣のくらげが座ったままこちらを見上げた。
「さあ?」
「くらげのくせに、知らねーのかよ」
「……何それ」
 その不服そうな呟きに、私は水平線に向かって軽く吹き出し、くらげはそんな私を見て呆れたように小さく息を吐いていた。
 くらげが再び桶いっぱいに海水を汲んだため、帰りも行きと同じくらいの時間がかかった。訊けば、明日の朝の分だという。海水で一杯の桶は結構重いらしく、よろよろしながら歩いていた。
 山道を登って下りて、ようやく彼の家にたどり着いた。くらげはもう疲労困憊といった有様で、とりあえず今から少し寝ると言う。どうしようかと迷ったが、学校をサボった手前家にも帰り辛いし、さすがに私も少し疲れていたので、一緒に昼寝をさせてもらうことにした。
 私もいいかと訊くと、彼はどことなく迷惑そうな顔をしたが、追い出すのも億劫だったのか、「夕方になったら人が来るから、それまでなら」 と言った。

 やはり相当疲れているらしく、二階の自室まで上がる気力も無いようで、玄関を上がるとそのまま大広間に入り、押し入れから敷布団を一枚と掛布団を二枚引っ張り出すと、自分はその内の掛布団一枚にくるまるように、畳の上に転がった。私も習って同じようにミノムシになる。
 布団からは少し、古くくすんだ匂いがした。
 目を閉じたが、ふと、誰かに見られている気がして、布団から頭を出した。くらげは身体を丸めて、頭まで布団の中にすっぽりと隠れてしまっている。逆の方に目をやると、神棚の一番上で祖母の遺影がこちらを見つめていた。
 しばらく視線を交わしてから、目を逸らした。
「最初の海の水もさ、くらげが汲んできたのか」
 隣の彼に尋ねると、「……朝は、父さんが」 とだけ返って来た。あまりに眠たそうな声だったので、それ以上何かを訊くことは止めにした。
 仰向けになり天井を見上げると、寝転がっているからか、ただでさえ広い居間が余計にだだっ広く感じられた。
 そうやって畳の上でごろごろしていると、徐々に深くなる眠気と共に、一年前のことがぼんやりと浮かんできた。
 葬式。
 私だけに見えた霊前に浮かぶ無数のくらげ。
 遺体が火葬場で焼かれている間、外で待っていた時の寒さ。
 そう言えば、ヘンゼルとグレーテルの魔女も、最終的にはかまどで焼かれるんだったか。
 くらげの兄と父親、亡くなった祖母。異様なほど黒い外観に住んでいる、住んでいた人々のこと。
 やっぱり、おかしな家だよな。
 取り留めのない記憶や考えが、ふらふらと頭をよぎる。
 その内、私は眠りに落ちた。
 どれくらい眠っただろうか。ふと気が付けば、寝ている私たちの周りに大勢の誰かが立っていて、私とくらげをじっと見下ろしている。
 そういう夢を、見た。

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その16 河童の出る池

投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2018/06/10

 私が中学生だった頃の話だ。
 自分がその日の記憶をいくらか失っていることに気付いたのは、私を轢いた車が、その場から去っていくのを見送った後のことだった。
 川沿いの道から、自宅がある住宅街に入ろうとした瞬間。十字路。田舎道で、見晴らしが悪いわけでもなかったが、左右の確認もせずそのまま十字路を横断しようとした時、丁度右から来た車とぶつかったのだ。
 ボンネットに叩きつけられ、気づいた時には道路脇に転がっていた。
 私と衝突したのは青色のハイエースで、作業着を着た若い男が慌てた様子で車から降りてきた。
 車に轢かれた混乱と、妙な気恥しさが手伝って、私は急いで立ち上がった。
 結局、警察も救急車も呼ばれることは無かった。それは相手の非ではなく、私が頑なに、「大丈夫です」 を繰り返したせいだ。
 しばらく押し問答があった後、男を乗せた青いハイエースは去り、私の手には無理矢理渡された一万円札と連絡先が書かれたメモが握られていた。
 頭と体の熱が冷めるまで、少しばかり時間がかかった。見ると、右半分の肘と脛の部分に擦り傷が出来ていて、微かに熱を持っていた。
 身体の状態を一通り確認してから、倒れた自転車の元に向かった。荷物籠と前輪が少しゆがんでいたが何とか走れそうだ。幾分ほっとしながら自転車を起こし、跨った。
 その時だった。
 あれ、と思った。ペダルに足を乗せたまま、私は固まっていた。
 自転車に乗ったはいいが、行先が分からないのだ。
 私は、どこへ行こうとしていたのか。どこからどこへ向かう途中だったのか。そもそも、私は今日何をしていたのか。
 思い出せない。
 記憶が無い。車に轢かれる前のことが、思い出せない。
 自覚した瞬間、言いようのない不安がどっと押し寄せてきた。衝動的に自分の名前を何度もつぶやく。名前は言える。自分が誰かもわかる。今日が休日だということも、ここが何処かも知っている。
 幸い、全てを忘れてしまったわけではないようだ。私は次第に落ち着きを取り戻していった。
 一つ、息を吐いた。事故に遭ってから、初めて呼吸をしたような気がする。
 初夏の空はまだ十分青いが、太陽は大分西に傾いていた。時計の類は持っていない。五時過ぎ頃だろうか。とすれば、私は今日どこかに出掛け、家に帰る途中だったのか。
 自転車に跨ったまま、十字路を見やる。当然、道は四方向に分かれているが、自分がどの方向からやって来たのかは何となく分かった。東に延びる道、街の中心へと向かう道だ。
 不意に、一つの映像が頭に浮かんだ。橋だ。コンクリートで固められた川に架かる、赤い橋。街の中心を流れる川には所々橋が掛かっているが、赤い色をしているのは一本だけだ。地蔵橋。それが橋の名前だった。そうして、地蔵橋は東へ伸びる道の先にある。
 思い出したのはそれだけだった。
 不安はいつの間にか小さくなり、代わりに、奇妙な好奇心が頭をもたげていた。
 私は手の一万円札とメモ用紙をポケットにねじ込むと、サドルの上の腰の位置を据え直した。足と頭の奥に微かな痛みを感じたが、無視した。ペダルを踏み込む。手負いの自転車はギコギコと軋むような音と共に、ぎこちなく前に進みだした。自宅に向かって、ではなく、地蔵橋へ。橋を見ればまた何か思い出すかもしれない、そう考えたのだ。
 人に話したら呆れられただろう。
 車に轢かれたというのに。自転車がひん曲がったというのに。記憶の一部を失ったというのに。私はその時、少しだけわくわくしていた。
 

 
 私が中学生だった頃の話だ。
 六月中旬。週末。朝から快晴。学校は休み。所謂、絶好の探検日和だ。自宅で昼食を食べてから、私は自転車に跨り街の中心に架かる地蔵橋へと向かった。
 橋に着くと友人が一人、橋上で川を眺めていた。「よ、」 と声を掛けると、彼はこちらをちらりと振り向いて、返事の代わりに軽く片手を上げた。
 彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
 『自称、見えるヒト』
 彼の特徴を端的に書くと、そういうことになる。加えて、彼がその奇妙なあだ名を賜ることになった原因もそこにある。
「んじゃ、行くか」
 私の言葉に、くらげは小さく頷いて、自分の自転車に跨った。
 二人並んで自転車を漕ぎだす。目的地は事前に伝えてあった。
 隣町に、河童が出るという噂の池があるらしい。所謂、ご当地オカルトスポットだ。河童ではなく、遥か昔、その池に沈められ死んだ男の幽霊が出る、という話もあった。ともかくその池には何かが出るらしい。
心地よい風を肩で切りながら、私は隣の友人に訊いてみた。
「くらげはさー、河童とか見たことある?」
「無いよ」
 短く答えてから、彼は前を向いたまま、「たぶん」 と付け足した。
「そう言えばさ、河童って頭の皿が乾くと死ぬって言うじゃん。あれ、死因は何なんだろうな。脱水症状?」
 彼が一度こちらを見やってから、視線を空にやった。真面目に考えているようにも、ただ単に呆れているようにも見える。
「……脳漿かもね」
 少し間を置いて、ぽつりと呟いた。
「のうしょうって何だっけ?」
「頭の中に溜まっている水のこと」
 頭蓋骨の中には水があり、脳はその中に浮かんでいる。それは私も知っていた。ただ、河童の皿の水がその脳漿であるなら、その脳天には常時穴が開いていることになる。私は脳漿が乾ききった、頭蓋に穴の開いた河童の死骸を想像して、多少鼻白んだ。
「……何だよ、怖いこと言うなよ」
「ごめん」
 それからくらげは明後日の方向を見やった。
「そう言えば、昔、おばあちゃんに聞いた気がする」
「何を?」
「河童の皿について、だったと思う」
「どんな話?」
 しばらく、沈黙があった。
「よく覚えてない」
「……だったら言うなよ。気になるだろ」
「ごめん。思い出したら、言うよ」
 そんな取り留めもない話をしながら、太陽の下、私たちは隣町を目指して自転車を走らせた。

 

 
 夕刻。
 私の記憶通り、地蔵橋は街の北半分と南半分を繋ぐ形で掛かっていた。
 橋の袂で自転車を停める。
遠くの方で車の音がするだけで、辺りに人の姿はない。行きがけの小さな公園にあった時計は午後五時半をいくらか過ぎていた。
 実際に橋を目にしても、失った記憶は戻って来なかった。ただ、もし私がこの赤い橋を目指していたというのなら、理由は一つしかない。友人と待ち合わせをしていたのだ。そうして、私が地蔵橋で落ち合う友人は一人しかいない。
 彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
 その友人は、自分のことを病気だと言う。死んだはずの人間。存在しないはずの何か。自宅の風呂に浮かぶくらげの群れ。そういったモノが見えてしまう病気なのだと。さらに、彼の言う病気は感染症であり、稀に他人に感染ることがあるとも。
 自転車を降り、スタンドがひん曲がったそれを欄干に立てかける。疲れているのか、たったそれだけの動作に少し手間取った。
 一息ついてから、いつもくらげがそうしているように。欄干に手を置いて川を見やった。コンクリートで両岸を固められた川は、しばらくまっすぐに伸び、途中から遠方の山を迂回するように大きく弧を描いている。
 橋の下から、微かに川の流れる音がする。右のこめかみに微かな痛みを感じて、私は目を閉じた。
 ――よ、――
 瞼の裏の暗闇の中で、誰かが誰かを呼ぶ声がした。思わず目をむき、振り返る。
 橋の周りには、私以外誰も居ない。それでも確かに聞こえた。聞き覚えの有る声。当たり前だ。あれは、私の声だった。
 一つ、思い出していた。
 河童の出る池。
 以前から、噂は聞いていたのだ。そこには河童か幽霊か、もしくは得体のしれない何かが出ると。地図で場所を調べ、くらげを誘ったのが数日前。不思議な体験をしたいなら、彼と一緒の方がいいからだ。
直前で私の気が変わったり、くらげに止められたりしたのでなければ、私たちは今日、隣町にある池に向かったはずだ。
 ただ思い出せたのはそこまでだった。河童の出る池に向かったとして、河童は居たのか。私は何か見たのか。くらげには見えたのか。それらは未だ空白のままだ。
 どこかでカラスが鳴いた。隣町まで、この自転車だと四十分といったところだろうか。
 そろそろ日も暮れるだろう。私は再び自転車に跨った。帰るか、進むか。考えるまでもなく答えは決まっていた。
 川沿いの道に、太陽を背にした私の影が長く伸びている。昼、この道を走った時、影は真下にあったはずだ。覚えていない。道中何を話したかも覚えていない。河童の話でもしていたのか。
 相変わらず歯切れの悪い自転車を漕ぎだす。そう言えば、河童は頭の皿が乾くと死ぬと言うが、死因は一体何だろう。そんなことを、ふと思った。

 地蔵橋から県道を東へしばらく走ったところで、隣町に入ったと標識が知らせてくれた。天気は良く、風は心地よく、格好の自転車日和だ。とびっきりの日差しの中、私は何度か意味もなく立ち漕ぎをし、その都度くらげは追いつくのに難儀しているようだった。
 隣町は私たちの住む街と同じくらい田舎で、同じくらい山に囲まれた、同じくらい小さな町だ。
 目的の池は、街はずれの森の中にあるという話だった。大体の場所は頭にあったが、一応、通りすがりに出会った老人に詳しい場所を訊いて、情報通り、とある地区の集会所に向かった。
 集会所に着くと、建物の脇には森へと続く藪道があった。あまり人は通らないのか、まだ伸びきってはいないが、カヤや、猫じゃらしに良く似たエノコロ草がわっと生えてあって、自転車はここまでだろう。
 集会所の横に自転車を置いて歩き出す。藪道はここらでは、『かまち』 と呼ばれる農業用水路に沿って続いていた。
 雑草を踏み越えながら少し歩くと、前方に荒いコンクリートの壁が現れた。壁の上には傾斜の急な道が山を駆け上るように走り、集会所のあるこちら側と池がある森を分断している。
 山道の下にはトンネルが一本通っていた。
 奥行は五十メートル程。広さは大型乗用車がギリギリ一台通れるくらい。中に電灯は無く、壁はあちらこちら凸凹していて、トンネルというよりは隧道と言った方がしっくりくるかもしれない。
 トンネルの先はもう森の中のようだった。半月状にくりぬかれた出口の向こうで、木漏れ日が微かに揺れている。
 足を踏み入れると、空気がさっと冷たくなった。私とくらげ、二人分の足音が響く。夜にでも来れば良い肝試しになるだろう。
「……さっきの河童の話だけど」
 トンネルを半分ほど過ぎた頃だった。隣に顔を向けると、くらげも私の方を見やり、「思い出したから」 と言った。どうやら今までずっと、記憶を辿っていたらしい。
「おばあちゃんじゃなくて、別の人から聞いた話だったけど」
 彼が語り出す。
 それは、河童の皿で酒を飲んだ男に関する話だった。
 その村には、河童を水の神として祭るという風習があったそうだ。村の神社には、河童の頭の皿が奉納されており、皿に水を満たして飲むと、河童の知恵、つまり水の神の知恵が授けられ、その年の水害やまたは干害が予知できる、とされていた。
 通常は祭事などで年に一度使われるだけだったが、ある日の夜のこと。神主の息子が勝手に皿を外へと持ち出した。息子は神仏を信じておらず、その日は仲間と酒盛りをしており、酔いも手伝っていたのだろう。
 そうして彼は、持ち出した河童の皿で酒を飲みだした。
 一緒に飲んでいた仲間の話によると、しばらくは何事もなかったそうだが、酒が進むうちに、次第に彼は自分を河童だと言い始めた。そうして、面白がる仲間たちに、今年の雨の降り方や河での泳ぎ方を語り出したという。
 酒も尽きかけると、神主の息子は、「そろそろ戻る」 と言い残し姿を消した。それっきり彼は姿をけし、翌日川の縁に脱ぎ捨てられた着物と履物と、二つに割れた河童の皿が見つかった。
 酔って川に入り溺れたのだろうと誰もが思った。ただ遺体は上がらず、代わりに、その川にはしばしば河童が現れるようになった。
 目撃された河童は、神主の息子によく似ていたそうだ。
「つまり、酔っぱらいが一人で溺れただけだろ」
 私が素直な感想を漏らすと、彼は小さく苦笑し、「そうなんだろうね」 と言った。
 トンネルを抜けると、木々がうっそうと茂る森の中だった。足元には、おそらく先程の水路に繋がっているのだろう、天然の沢が流れ、小魚が泳ぎ沢蟹が水底を歩いている。
 沢沿いにしばらく歩くと、古ぼけた鳥居が見えてきた。奥には掘っ建て小屋のような社がぽつりと建っている。
 目的の池はその神社の脇にあった。直径七、八メートルほどの円状の池で、全体的に苔むした岩が周りを囲んでいる。水深は一番深いところで一メートルもないだろうか。
 残念ながら、河童が住めるような池には見えない。ただ見た目には、まるで河童の皿のような池ではあった。
 

 
 少し肌寒くなった風と茜色の風景の中、県道を東へ走り隣町にたどり着いた。
 農作業の帰りらしい老人に道を尋ねると、老人は何故か怪訝な顔をして私を見やった。私は昼間にも同じように老人に声を掛け、河童の出る池までの道を訊いたのだと言う。
「双子なんです」
 まさか車に轢かれて記憶を失ったと言うわけにもいかない。とっさに口から出た嘘だったが、老人はあっさり信じたようで、「そう言われりゃぁ、ちぃと顔が違うかよ」 と一人頷くと、再び池までの道を私に教えてくれた。
 老人に教わった道を行き、小さな集会所の脇に壊れかけた自転車を停める。この先は徒歩だ。
 太陽はすでに山の向こうに隠れてしまい、夕焼けの名残もそろそろ消えようとしている。身体がやけに重い。
 雑草が生い茂る藪道に風が吹き、まるで道自体がうねうねと揺れ動いたような気がした。記憶の中の景色と違う。まだ全てを思い出してもいないのに、そんなことを思う。
 藪道を進むと、目の前にぽっかりと穴が現れた。山道の下に抜かれたトンネル。中に明かりは無く、目を凝らすと、暗闇の向こう側に辛うじて出口が見えた。
 穴の入り口の前で、ふと足を止める。ここをくぐれば河童の出る池に着くはずだ。ただ、薄暗い空にはもう一番星が輝き始めている。そうして、私は懐中電灯の類を持っていなかった。もし森の中で完全に夜になれば、何も見えなくなるだろう。
 ここらが潮時だった。もちろん消化不良ではあったが、無くした記憶の分は、また明日にでもくらげに訊けばいい。
 そんなことを考えながら、私はぼんやりと目の前の暗闇を眺めていた。何か、頭の中に熱があった。小さな火が、消えるでもなく燃え広がるでもなく燻っているような、そんな感覚。
 唐突に、声がした。話し声。トンネルの中から聞こえてくる。加えて足音。一人ではなく、二人分。それらの音は微かに反響しながら、確かに、目の前の穴の中から聞こえてきていた。
 歩きながら、一人がもう一人に向かって話をしているらしい。
 語られているのは昔話のようだった。
 河童の皿で酒を飲んだ男の話。
 話し声は、子供が歩くくらいの速度で、まるで私から遠ざかるようにトンネルの奥へと向かっていく。気付けば、私はその声を追いかけるように、黒々とした穴の中に足を踏み入れていた。
 数メートルも進むと自分の靴も見えなくなり、半分まで来ると、地面も壁も境界を失い、まるで光の無い巨大な空間に一人放り出されたような気分になった。それでも、怖いと思わなかったのは、先導する声があったからだ。
 河童の皿で酒を飲んだ男は、河童の記憶を飲み過ぎ、最終的にはその記憶に喰われ、自ら河童となってしまった。昔話はそう物語っているように、私には聞こえた。
 ――つまり、酔っ払いが一人で溺れただけだろ――
 すぐ目の前で、誰かの声がした。
 ――そうなんだろうね――
 隣の誰かが言った。
 出口から洩れる微かな明かりの中で、並んで歩く二人分の影がおぼろげに浮かんでいる。
 私と、くらげだ。
 記憶の中の光景。私はそれを、第三者の視点から眺めていた。
 穴を抜けると、影は消えていた。トンネル内程ではないが、鬱蒼と茂る森の中は十二分に暗く、辛うじて道は分かるが、すぐ足元を流れる沢は細かな流れの筋が微かに見えるだけだった。
 頭の中の熱はまだ消えずそこにあった。疲れもあったが、その熱が力となって私の足を動かした。すでに引き返すという選択肢は頭になかった。
 私はできるだけ足元に気を付けながら、森の奥へ、河童の出る池へと向かった。

 木々の隙間から光が漏れている。
 青々とした新緑の森の中。賽銭箱の前の階段に腰を降ろし、しばらく二人で池を眺めた。
 座る際に、邪魔だったのだろう、くらげは尻のポケットから手のひらサイズの小さな懐中電灯を取り出して、自分の傍に転がした。
「そんなもん持って来てたのか」
「森に行く、って言ってたから」
 河童の出る池に行くとは伝えたが、森の中にあることまで話しただろうか。ふと浮かんだ疑問は、すぐに薄れて消えていった。
 池には名前の知らない細長い水草と、蓮の葉が浮かんでいる。水中を泳ぐ小魚の影も見えた。河童は居ない。幽霊の姿も、私には見えない。
「おい、何か見えるか?」
 私の問いに彼は池を見やり、
「魚がいるね」
 と答えた。
 私は両手を突き上げ、伸びをした。まだ可能性が無くなったわけじゃない。そんなことを考えながら、背後の賽銭箱にもたれかかる。
 気温は暑くもなく寒くもなく、木漏れ日とそよ風と。昼寝をするにはもってこいだが、さすがに昼寝をするためにここに来たのではない。
 隣を見やると、くらげは先程と全く変わらない姿勢でじっと池を見つめていた。瞬きもしてないのではないだろうか。すると、彼が私の視線に気が付いて、「何?」 とでも言うように目を瞬かせた。
「あのさ、くらげの覚えてる中で一番古い記憶って何?」
 何時ものように、その場で思いついたことを訊いてみる。彼の視線はしばらく私の顔に留まり、それから数秒宙を彷徨い、最後に目の前の池に落ち着いた。
 彼は、「自分でも、本当かどうかよく分からないけど……」 と前置きしてから、
「水の中に、浮かんでる記憶」
 その言い方に、私は微かな引っ掛かりを覚えた。
「……それって、何時の?」
「覚えてないけど。たぶん、赤ん坊の頃じゃないかな」
「浮かんでるって、風呂?」
 私が訊くと、くらげは首を傾げて、「そうだと思うけど」 と言った。果たして、赤ん坊というものは水に浮かぶのだろうか。ふと、そんな疑問が頭をよぎる。
「誰かに、風呂に入れてもらってたんだな」 
 するとくらげは首を小さく横に振り、おもむろに、傍に落ちていた白い石ころを池の中に放り投げた。石は、小さな水しぶきを上げて、あっと言う間に底へと沈んでいった。そうして、彼は石を見やりながら、再び、今度はゆっくりとその言葉を口にした。
「水の中に、浮かんでたんだ」
 水底に転がる白い石。水面ではなく、水の中。幾分時間をかけて、その言葉を呑み込む。
「……それって、息できないじゃん」
「そうだね」
 彼の口調はまるで平然としていた。
 もしもその記憶が真実なら、それは浮かんでいる記憶ではなく、沈んでいる記憶ではないのか。もしくは、沈められた記憶。危うく口が滑りそうになったが、さすがに不謹慎すぎて、思わず私は自分の頬を一発ひっぱたいた。
 そうやって気を取り直してから、私は言った。
「……お前、実は河童の生まれ変わりなんじゃね?」
 怪訝そうにこちらを見ていたくらげが、一度二度瞬きをした。それからまた池の方を見やり、小さく笑った。
「そうかもしれないね」
 笑いながら、彼が呟くように言った。
 その後、二時間ほど粘ってみたが、池では特に何も起きなかった。唯一妙だったと言えば、珍しくくらげから話題を振られたと思えば、。
 退屈が限度を超えたあたりで、私たちは帰ることにした。
「そう言えば、来月、夏祭りあるよな」
 行きにも通ったトンネルを歩いていた時のことだ。
 私たちの街では毎年、盆の始まりと終わりに二度祭りを行う。どちらも仮装した行列が町と海とを往復するというものなのだが、その祭りのやり方にも起源にも、色々と面白そうなところがあった。
「一緒に行こうぜ」
 くらげがふと立ち止まった。そうして何かに気を取られたように、後ろを振り返った。何見てんだ。そう訊こうとして、私は口をつぐんだ。彼の視線の先には、私たちが歩いてきたトンネルがあるだけだった。
「やめとくよ」
 彼が言った。
 真っ先に感じたのは、何故という疑問ではなく新鮮な驚きだった。彼が何かをはっきり断るのを、私はその時初めて聞いた気がした。それから彼は、どこか弁解するような口調で、「ほら、そろそろ、受験も近いし」 そう付け足した。
 一日くらい大丈夫だろ。そんな言葉が頭に浮かんだが、言えなかった。
 出会った当初から、彼は忠告してくれていた。彼が抱える病気。私が感染した病気。見える、ということ。彼にしてみれば、長すぎる程だったのかもしれない。
何か、夏休みの宿題に一切手を付けないまま残り数日を迎えたような、そんな感覚を覚えた。あの時も、まだ大丈夫だと思っていたのは私だけだった。
「そっか、分かった」
 その言葉は、以外にあっさりと出てきた。目の前の彼が、少しだけ笑ったような気がした。
 トンネルを抜けると、日差しが眩しく感じた。私たちは再び自転車を漕いで地蔵橋まで戻り、そこで別れた。
 別れ際。ふと、何か彼に言い忘れていたことがあったような、そんな感覚を覚えた。自転車を停めて振り返ったが、すでに彼の背中は遠く小さくなっていた。大声を出そうとして、止めた。頭の中は空っぽで、何の言葉も無かったからだ。
 ただ、何かを言い忘れたという、感覚だけが残っていた。
 あの時、私は、何を言おうとしたのか。
 帰り道、自転車を漕ぎながら、私はそのことばかりを考えていた。

トンネルを抜けた後は、ほとんど手探りで歩かなければならなかった。
暗闇の中、鳥居を抜けた先に神社を見つけた。頭上の木々の間から降り注ぐ星明りが、境内をうっすらと照らしている。
社の隣に小さな池を見つけた。これが、目的の池のはずだった。落ちないよう覗き込むと、黒々とした水面に数粒の星が映って見えた。
池は静まり返っていた。生き物は住んでいるのか。深いのか、浅いのか。それすら分からない。相変わらず、頭には少しの熱と痛みがある。
ふと、社に据えてある賽銭箱の前に、何か黒いものが転がっていることに気が付いた。近づいて拾い上げると、それは手のひらに収まる程の、小さなライトだった。
スイッチを入れると、はっきりとした細い光の筋が伸びた。その瞬間、私はこのライトが友人の物であることを思い出していた。
水面に、蓮の葉が浮かんでいる。池を囲む苔むした岩。古ぼけた社。ライトが照らす僅かな範囲だけ色がつく。そうして色がついた分だけ、記憶が蘇ってくる。
まるで空っぽの頭蓋に水が流れ込んできたようだった。池に河童はおらず、何も起きなかった。私はここでくらげと他愛もない話をしただけだ。
頭の中にあった熱が消える感覚があり、代わりに頭痛がひどくなってきた。
後頭部から頭頂にかけて手でなぞると、何か細かなものがぼろぼろと剥がれ落ちた。ライトで照らしてみると、指先に小さな血の塊がこびりついている。どうやら、怪我は腕と脚だけでは無かったようだ。
 光を池に向ける。木の葉でも落ちたのだろうか、水面に微かな波紋が広がって、消えた。
 夜虫の鳴き声。木々の擦れる音。
 帰ろう、そう思った。時刻はもう七時をとうに過ぎているはずだ。夜の森の中で一人。加えて頭には傷があり身体は疲れ切って重たい。改めて確認するまでもなく、異常な状況であることは間違いなかった。
戻る前に、私はポケットの中にあった一万円札を、諸々の不安と一緒に賽銭箱の中に突っ込んだ。それで、気持ちはいくらか楽になった。
 ライトで確認しながら、来た道を辿る。地面は木の根や石が散らばっていて、見えているにも関わらず、二度ほど躓いて転びそうになった。
 そうやって、トンネルのある場所まで戻ってきた。今日ここをくぐるのは四度目になるのか、そんなことを改めて思う。
 ライトを中に向けると、まるで当然のごとく、見覚えのある二人の背中が見えた。何か話しながら、歩いている。後頭部がずきずきと痛んだ。光を逸らせば、二人の姿は見えなくなる。声も聞こえなくなる。
 まだ全てを思い出したわけではない。私は自らの記憶を照らしながら、彼らの背中を追った。
 トンネルの中ほどまで来た頃、前を行く二人の内の、私だ。私が、思い出したように言った。
 ――そう言えば、来月、夏祭りあるよな――
 そう言えば、そうだ。私たちの街では毎年、盆の始まりと終わりに二度祭りを行う。どちらも仮装した行列が町と海とを往復するというものなのだが、その祭りのやり方にも起源にも、色々と面白そうなところがあった。
 ――一緒に行こうぜ――
 私の言葉に、隣のくらげがふと足を止めた。後ろを行く私も、記憶の中の私も立ち止まる。
不意に彼がこちらを振り返った。私が持つライトの光が、その病人のように白い顔を浮かび上がらせる。光の先、記憶の中の彼の目。見間違いでも記憶違いでもない。確かに、視線が合った。
これは果たして現実だろうか、とふと思った。もしかしたら、私はあの時、車に轢かれたまま死んだのかもしれない。
 彼は何も答えず無言のまま、あちらの私に背を向け、こちらの私を見やっている。
 何かが違う、そう感じた。
後頭部に、今までで一番ひどい、刺すような痛みが走った。思わず体を丸めて目を閉じる。痛みはすぐに去った。はっとして、再び前方に光を向ける。
 くらげは相変わらずそこに立っていた。光から目を庇うように、片手をかざしている。
「……眩しい」
 かざした指の隙間から覗き込むようにして、彼が言った。抗議の響きは無かったが、私がゆっくりと光を逸らすと、彼も手を下ろした。
 二人とも、無言だった。目の前の彼が幻覚でもフラッシュバックでもなく、現実にここに存在していると実感するまで、随分と時間が掛かった。
「……何してんだよ。こんな時間に」
 先に、私が口火を切った。ただ、もし彼が先だった場合でも、きっと同じ質問が出ただろう。
「忘れ物を取りに来ただけだよ」
 そう言って、くらげは私の持っているライトを指差した。
「……明かりも持たずに来たのかよ」
「そうだね」 彼が言った。「忘れて来たから」
 何かひどくおかしい会話のような気がしたが、何がおかしいのかはよく分からなかった。身体も頭もずしりと重たい。ただ、今までこびりついていたはずの頭痛は徐々に引いていた。
「君の方は?」
 何故ここに居るのか、とくらげが訊き返す。思わず私が上げた小さな笑い声が、トンネルの中にこだました。
「歩きながら話す。とにかく、出ようぜ」
 それから私は、今日、地蔵橋で彼と別れた後のことをくらげに語って聞かせた。
あの後すぐに車に轢かれて、数時間分の記憶を失ったこと。その後、好奇心に駆られて再び河童池を目指したこと。池で何も無かったことを再確認したこと。話していると、三たび、その時間を通りすぎているような、誰かが後ろから私たちを追いかけているような、そんな気分になった。
 くらげとトンネルではち合せた場面で、私の話は終わった。
 隣のくらげは、横やりも相槌も何一つ挟むことなく、ただ黙って私の話を聞いてくれていた。
 藪道を抜け、集会所にたどり着く。
「……そう言えばさ、来月、夏まつりだよな」
 くらげが私を見やる。
 私の記憶が確かなら、数時間前にも同じ質問をしたはずだった。ただ、私は何もかも忘れたふりをした。何故そうしたのかは、自分でも分からない。
「一緒に、行こうぜ」
 その質問の答えは、未だどうしても思い出せない、最後の断片だった。
 しばらく、彼は突っ立ったまま動かなかった。ライトはすでに彼のポケットの中で、近くには外灯もなく、星明りだけでは、どんな顔をしているのかもよく分からない。
「そうだね」
 目の前の影が、ぽつりと呟いた。
「行こうか」
 その瞬間、私は事故で失った全ての記憶を取り戻していた。
 しばらくの間、言葉が出てこなかった。
「……そっか、分かった」
 やっと出てきた言葉は、自分でも驚くほどあっさりしていた。
 やはり理由を訊くことはできなかった。訊けば、せっかく繋がった何かがまた切れてしまうような気がした。ただもしかしたら、数時間前に私が感じたように、彼もまた、『一日くらいなら』 とでも考えたのかもしれない。
 その後、私たちは自転車を漕いで地蔵橋まで戻り、そこで別れた。
 別れ際、「また明日な」 と私が言うと、暗がりの中、彼はこちらを見やり、小さく頷いた。
 帰り道。事故に遭った十字路を通り過ぎる。夜道のうえに自転車のライトは壊れて点かなくなっていたが、今度は轢かれて記憶を失うようなこともなく、無事家にたどり着くことができた。
 あの日以来、河童の出る池には行っていない。
 結局、私の怪我は大したこともなく、自転車の方がよっぽど重症だった。ただ、つむじの近くに出来た傷だけが完全には治らず、小さな禿として今でも残っている。

(おわり)

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