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【禍話】「苧うに」(怪談手帳より)

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苧う(おう)には、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』で描かれている日本の妖怪。口が耳まで裂けた鬼女のような顔をした妖怪で、全身が毛に覆われている。石燕による解説文はなく、どのような妖怪であるかは不明である。「苧うに」の「苧お」とは植物のカラムシ、あるいはカラムシや麻の繊維から作られた糸を束ねた房を意味しており、この妖怪の髪や体毛が積み上げた苧を連想させることから、石燕が「苧うに」と名づけたといわれる。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

昔、山仕事──今でいう林業に従事していたYさんから、親族のAさんが生前に聞いたという話である。

Yさんは元々の性格に加え、特にその頃若かったのもあって、同業の間では珍しいほど理屈っぽかった。山仕事の先輩からは「お前は頭を回しすぎる」とたしなめられていたらしい。結果的にはその性格のお陰で色々と革新的な仕事をし、財を成して一定の成功を収めた御仁ではあるのだが、この話はその性格のせいで恐ろしい目にあったという、若いころの失敗談だそうだ。

彼が若いころ住んでいた近隣に、ほとんど忌山のような、山というかどうか微妙なくらいの低い山があった。「ほとんど」と言ったのは、別に昔からそういった禁忌があるとか、山岳信仰などの宗教的な理由付けがあるという訳ではなく、暗黙の了解のような感じで、近隣住民や同じ山仕事仲間のあいだでその山は避けられていたのである。
正確にはその山に踏み入れることというより、中腹にある、湧き水の出る水場に行くことが忌避されており、その理由というのが、「山の婆ばばあ」だった。
曰く、婆ばばあの小屋がその水場の近くにあって、“それ”はそこで暮らしている。水場に近づいた者は、婆ばばあに取って食われてしまう、生き肝を抜かれた者や、骨から肉をきれいに外されて、岩場の上に晒された猟師がいる、だから近づいてはならない、等々……。いわゆる山姥系の逸話であって、ありふれたと言えばありふれた内容だ。当時ですら、「今日び山姥もあるまい」といった感じで、Yさんは正直馬鹿馬鹿しいと思っていた。
一方、林業仲間のあいだで、種明かしというか、その婆ばばあの背景として語られている噂もあった。なんでもその婆ばばあは、別に妖怪変化の類ではなく、娘を亡くしておかしくなった老婆が山に入って、そのようにして暮らしている、完全に狂ってしまっているので、まるで獣のように人に危害を加えるのだと。
実際、一部の山姥の逸話や、四国の子鳴き爺のように、正体は実は地域レベルでは有名な徘徊老人だった、という山の怪は存在する。だがYさんは、この話も胡散臭いと感じていた。その辺りは狭いコミュニティーである。そんな経緯で山に入った婆さんがいるなら、どこそこの誰、という情報が広まっていないとおかしい。さらにまた、それが本当に老婆と呼べるほど高齢で、かつ正常な判断力を失っていたならば、山の環境で一人暮らしで長く生きられるはずがない。それなのに、婆ばばあの話は相当前から語り継がれている。そしてそんな婆ばばあが、山歩きをするような人間、ましてや猟師を襲って殺せるというのも信じがたい。先ほどの死骸を解体して晒した、という話なども、生き物の解体がいかに大仕事で骨の折れる作業であるかを知らない人間が流したとしか思えず、その辺りには棲息しないはずの大型の熊なんかの仕業として喧伝されている方がまだ理解できる。山を知る人間がそれを信じているのが滑稽なくらいだ。大体、地元の人間とはっきり判っている狂人によって、そんなに何人も犠牲が出ているなら、警察の介入があって然るべきであろう、とも思っていた。
勿論若く理屈っぽいとはいえ、Yさんも山仕事の人間であり、当時は現代とは違うまだまだ古い慣習が息づいていた時代である。いわゆる「本物の忌山」のことはYさんも知っており、そういう場所には宗教的な障害や長年のルール、不可解な現象が積み重なって、常識が通用しない場合があることも承知していた。けれど「婆ばばあのいる山」というのは、そうではないのだ。そこまでの大きい山ではなく、仰々しい曰くもない。生活圏からもそれなりに近く地続きの、ただの小さな山なのである。
結論として、当時のYさんは、婆ばばあにまつわる噂の悉くをくだらないものだと断じていた。前述したような理屈を、年長の同業者に向けてはっきり意見を表明したこともある。すると意外なことに、その人はあっさりと折れた。
「まあな、お前の理屈は分かるんだよ。俺たちだってな、ここらの連中だって、そのくらいのことは分かってんだよ。」
余計に釈然としないYさんに対して、その人は続けた。
「けどなあ、そうじゃないんだ。無駄に考えて深入りしない方がいいことだってある。山にはそういうこともあるんだ。お前はそれを知らねえとなあ。」
Yさんもそこからさらに食い下がって、仕事の先輩を怒らせて無駄に争うほどの反骨心は無かった。素直に「分かりました」と言って、話はそこまでとなった。
現実問題として、そもそもその山はたいして重要な山ではなかった。その辺りにはもっと大きくて資源も豊富な山が近くあり、Yさんたちは専らそちらで仕事をしていた。「婆ばばあのいる山」は地理的にも重要などこかへ通じるものでもなく、あえて暗黙の了解を破って中に入るほどのものではなかった、というのが正直なところであったという。

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そんなYさんが、ある年、「婆ばばあのいる山」に足を踏み入れたのは、普段仕事をしている山が気候や山の草木の具合によって記録的な資源不足となったからであった。
地元民や他の同業者たちは、ある程度で見切りをつけて遠出するなど、その年の生活を遣り繰りするために別の方策をとっていた。無論、「婆ばばあのいる山」に入ろうなどと言う者は誰もいなかった。
しかしYさんは馬鹿らしいと思った。普段入らずとも、麓近くの植物の分布などから「婆ばばあのいる山」はそれなりに資源のある山だということは分かっていた。こういう時に、これを利用しない手はないだろう。正直に言えば、普段思っていた疑念や粗だらけの噂への反感などから、良い機会だと思ったことは否めないという。
そして、Yさんはその山へと踏み入った。
思っていた通り、木材や炭材はそれなりにではあるが豊富で、さらには嬉しい誤算として、食料となる山菜やキノコ類が予想以上に多かった。今季はこれで賄えそうだ、と満足していたYさんは、ふと水音を耳にした。噂にあった水場が近いらしい。
決心したYさんが草を掻き分けてそちらへ進んでいくと、不意に目の前が開け、朽ちかけた小屋が現れた。

──「山の婆ばばあは、水場の近くに小屋をかけて住んでいる」
婆ばばあの実在から疑っていたYさんは流石にギョッとしたが、気を取り直して小屋へと近づいていった。本当にその婆さんの棲家かどうかは分からない。何か別の小屋かもしれないではないか。けれどもそういった考えは、小屋の前まで来てその全容を目の当たりにしたのと同時に、全く別の感覚によって塗りつぶされてしまった。
「なんだこれは……」
Yさんはそう呟いたという。誰か別の者が住む小屋、どころではない。それどころか怪しげなその婆さんが住む小屋ですらないと、Yさんは判断した。
それは、人の住むような建物ではなかった。
申し訳程度に土台を据え、四方に乱雑に壁を立てて、上に大雑把に屋根を葺いただけ。壁はそこら中に隙間が生じ、屋根は半分崩れて、中が完全に露出してしまっている。設けられた戸も、朽ちて壊れて外れかけたままになっており、開け閉めもできそうになく、ポカンと開けた口のようである。そこから覗く屋内に床はなく、山の草木の生えた土がむき出しだ。生活を示す品の一つもない。代わりに、どこかの寺社のものと思しき、お札らしき紙があちこちにベタベタと貼りつけてある。
何者かが住んでいた小屋が、主を亡くして年月の経過とともにそうなったのではなく、最初から人の住む所として作られていない、というのがYさんの印象だった。精々見てくれだけを最低限小屋と思わせるように、建材を雑に並べただけの代物──こんなものに誰か住めるわけがない。なにせ最初から、その目的で作られていないのだから。これは廃墟ですらない。
Yさんがそう感じたのにはもう一つ理由があった。使われている材木がだいぶん新しいのだ。少なくとも、伝承に伝えられてきたような、長い年月を経てきたものではない。下手をすれば、ここ数年くらいに作られたもののように見える。中に貼られたお札も同様で、こんな雨曝しなのに大半がまだ形を保っている。
Yさんは最初、この小屋を朽ちかけた小屋だと思った。小屋は確かに朽ちている。しかしそれは経年の劣化ではなく、急速かつ部分的な劣化であって、なにかの病気のような、あるいは老人の顔に出る老人斑を濃くしたような黒ずんだまだらが小屋のあちこちに浮いて、ところどころが腐り落ちているのである。だから、あまりに長い年月の経過が、ちゃんとした住居を住居でないと見紛うほどに変質させてしまったというような、時間の蓄積による線も消える。まとめると、比較的最近、乱雑かつ急に造られた、建物として機能しない建物もどきの、その中にお札をベタベタと貼り付けていたことになる。
(誰が何のためにわざわざこんなものを?)
それは、幾度となく聞いていた、婆ばばあの古臭くわざとらしい逸話とは明らかに異質な雰囲気のものであった。
小屋の壁を撫でながら、不可解さに混乱したYさんは、胸のうちから湧いてくる何か得体の知れない不安を理性によって押さえつけ、そのまま水音に誘われるように水場へと向かった。

近づいた者が婆ばばあに捕まり殺される、山の婆ばばあの縄張り──そこは、落ちてくる木漏れ日を受けて、きらきらと輝いている山清水、輝きが湧き出てくる岩場と、周りを覆う瑞々しい緑。周辺よりも濃く、さらに背の高い木々がその辺りをかすませている。小さいながらも幻想的ですらあるその聖域の光景に、Yさんは思わず踏み入るのを躊躇して、疑念や不安を忘れて感嘆の息を吐いた──その次の瞬間。Yさんは深い緑の向こうに“それ”を見た。

水場を閉ざす緑と、青暗くうっそりとした木陰。そこに、老婆だと思った。確かにそれは老婆らしき顔であった。薄闇に暗くかすんでいて、輪郭がはっきりしない。それなのに、その目が、こちらを見下ろしていながらポツンと開いた穴のように何も見ていないのが分かった。
そして、そのシルエットが異様であった。最初、真っ黒い布にすっぽりと包まれているのかと思った。そうではなかった。それは髪の毛だった。首の下が、薄闇の中でも分かるほどつややかな髪で覆われている。まるで長い毛の獣と見紛うような、とんでもなく長いその黒髪が、顔の周りを流れそのまま首から下を包んでいる。
そんなものが、木々のつくる薄闇に紛れて高い場所──間違いなく4、5メートルはあった──そこから、Yさんを見下ろしていた。はっきりと、水場の向こうにいる。
水場の手前に立ったまま、Yさんは動けなくなっていた。金縛りのように硬直したまま、目の前にいるそれを凝視していた。何十分、あるいは何分、あるいはほんの何秒だったかもしれない。けれども凍り付いたようなその凝視の中で、やがてYさんはもう一つのことに気が付いた。
“それ”の首から下、衣服のように身を覆っている黒髪。そこにいくつも切れ目があって、その向こうから差し込む木漏れ日と思しき白い光が漏れている。それが何を意味するのか、麻痺した頭で数秒遅れて理解した。──あの老婆には身体が無い。
Yさんの頭にその一文が浮かんだとほぼ同時に、向かい側にいたその老婆の顔がスゥッと水平に移動し始めた。
──こいつは水場から俺の方に回り込もうとしてるんだ!

気が付くと全身に水を被ったような汗みどろになりながら、麓の民家の上り框に半ば倒れこむようにして、荒い息を吐いていた。頭がズキズキと疼き、肺は刺されたように痛く、身体じゅうが草で付いたのであろう、擦り傷と切り傷だらけだった。獣のような吼え声を上げながら、山の斜面を駆け下りていったことだけは辛うじて覚えていた。
Yさんを取り囲んでいた住民と同業の先輩たちは、正気を取り戻した彼を見て、
「良かった、良かった」と口々に言い合っている。
疼く額を押さえ、今見たものを説明しようとしたYさんに、同業の先輩が水を差しだして「飲め」と促した。そしてゆっくりと時間を置き、Yさんが落ち着いたのを確かめてから、先輩はぽつぽつと話してくれた。

「……小屋を見たか?」
「はい、あの、あれ……」
「ありゃな、4年ぐらい前に、遠くから来た猟師が死んだ時に、前のが焼けちまってたからさ、建て直したモンだ。ここらの男たちでな」
「ええっ?」
「昔から何度か建て直しているらしい。まあ、なるべくなら誰も山ん中入りたくないけどもな。」
「でも、あれはどういう……」
「前にお前が言ってたろ、全部嘘なんだよ。」
先輩があっさりとそう言い切ったので、Yさんはますます混乱した。
「嘘って……、でも、俺は……!」
そう言って体験の全てをわっと語ろうとするYさんを押しとどめて、先輩は続けた。
「“あれ”はな、本当は何も分からねえんだ。なんであんな里に近い山ん中にいるのか、どこから来たどういうモンなのか、いつからあそこにいるのかもな」
「えっ……」
「山姥の昔話なんか、ここらにゃねえよ。娘が死んで山に入った狂い婆ももちろんいねえ。取って食われるってのも作り話だ。“あれ”に遭って死ぬときは、みんな狂い死ぬか、腐った肉みたいになって見つかるんだ。だから、全部みんなで作ったんだ、適当な嘘話だ。“あれ”がババアっぽい見た目してるからババアってことにしてるんだよ。とにかく、近づけないように、誰もあの山に入らないようにするためにな。」

先輩が語るには、あの小屋もそういったカモフラージュの一環だという。その山には小屋に暮らす恐ろしい鬼婆がいて、人を取って食うのだという噂話の。
中に貼り付けたお札も、一応願掛けのようにしてそうしているが、効果があるのかどうかも分からない。十何年か前に、どこからか噂を聞きつけて山に入った旅の坊主が、二目と見られない姿になって見つかったという話もある。
ただ、小屋のようなものをそうやって建てている限りは、“あれ”はその近辺に留まっているらしい。実際“あれ”が外に出てこないのは、小屋があるお陰なのかどうか確証はない。けれど現に数十年はそれでなんとかなっているので、そうしているだけに過ぎない。止めてしまって、“あれ”が山から出てきたら、取り返しがつかないことになるから──動物の経験則のようなものだ。
なるべくなら無かったことにしたい、しかし“それ”は確かにそこにいる。何も理解も説明も出来ないものを、せめて説明できるものにしておきたい。そのような地域の人々の思いが、こんなわざとらしい噂話と暗黙の了解を作り上げたのだった。
放心して話を聞いていたYさんは、その時ハッとして、自分の顔の左側を触った。何かザラザラとした感触がある。
「お前もダメかと思ったよ……。あのまま狂い死ぬかと……。まあ、今見た感じじゃ、頭もはっきりしている。それくらいで済んで幸いだったなあ」
先輩が呟いている。近くに置いてあった民家の大きな盥を覗き込んだYさんは、「あッ」と声を上げた。
Yさんの顔の左半面は、まだらに黒ずんで、ブチを散らしたようになっていた。丁度、あの山で見た、小屋もどきの壁のように。

◆◆◆◆◆◆

この話を青年時代にYさんから聞いたというAさんもそれなりに高齢であり、恐らくこの話は戦前のものではないか、とのことである。
Yさんは結婚の前に仕事場を別に移したため、その山のその後のことは分からないと言っていた。

そしてAさん曰く、Yさんの顔の左半面には、確かに自然に出来た老人斑とは明らかに違う、黒いまだら模様がいくつも浮いていた、という。

参照元:https://twitcasting.tv/magabanasi/movie/664540219

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