師匠シリーズ

【師匠シリーズ】毒 前編

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『毒 前編』5/5 『いつもそれで赤点だったのね』

参照元:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=12818977

5 いつもそれで赤点だったのね

京介さんから聞いた話だ。

高校1年の12月のことだった。
寒いのは好きじゃないので、毎年この時期はつらい。まして高校生にもなって、制服がスカートなのが納得いかない。ジーンズを穿いて登校したい。そう言うと、クラスメートの高野志穂は、こんなかわいい格好できるのは、いまだけだよ、と妙にババくさいことを言った。
気安くなるにつれて、志穂からは、どんどん説教じみたことを言われるようになってきたのだが、そう嫌でもなかった。そのくらいで、ちょうどいいのかも知れない。私たちの関係は。
夏休み気分を引きずったまま、気がつくと2学期も終わりに近づき、冬休みが迫ってきていた。それはつまり、学期末試験が近づいているということでもあり、クラスでも、休み時間にノートを見る子が増えてきた気がする。
私は、あいかわらずクラスにはなじめなかったが、それなりに女子高生としての日々を送っていた。
その、学期末試験も間近、というこの時期に、校長の発案で、タイムカプセルを校庭に埋めるというイベントが催された。学校創設何十周年だかの記念でだ。そこで、私たちには、『未来の自分への手紙』を書いてそれに入れる、というミッションが下された。
小学生じゃあるまいし、高校生ともなれば、私たちはもう大人だ。そんな手紙なんか書きたくはない。みんなしらけていたが、校長や一部の教師がノリノリで、やけに張り切っている。ゲンナリだ。
「ちひろちゃん、タイムカプセルの手紙、もう書いた?」
教室で志穂に訊かれて、首を振った。
「まだ」
「私、書いたよ。なに書こうか迷ったけど、やっぱり将来の自分が見たときに、元気が出るようなこと書いたほうがいいかなって思って、応援メッセージにしたよ」
「おまえは、真面目だな。生徒の鑑だよ」
そんなやりとりをしているとき、担任のザビエルに声をかけられた。
「このあと、放課後、ちょっといいか」
「あ、はい」
なんだろう。私は、最近煙草を吸った場所のことを思い出そうとする。またバレたのだろうか。
ザビエルが去ったあと、志穂が私の制服に鼻を近づけて、スンスンと嗅いだ。
「なんだよ」
「また煙草じゃないかな、って」
「今日はまだだよ」
そう言うと、志穂は膨れていた。
そして放課後、職員室でザビエルと向かい合う。まわりに、ほかの教師はいない。
「なんですか」
「いや、ちょっと聞きたいことがあってな」
そう言ったきり、ザビエルは話しにくそうにしている。私のことだとすると、煙草よりも深刻そうだ。そんなにまずいことをしただろうか、と少し不安になる。
「あー……。その、なんだ。最近、学校でクスリの噂を聞かないか?」
「クスリ?」
それはたしかに、煙草よりも深刻だ。しかし幸いなことに心当たりはなかった。
「やってないですよ、私」
「いや、お前じゃなくて、まわりでな。どうだ」
「さあ。聞かないです」
「そうか……」
ザビエルは腕組みをしてため息をついた。
「どうして私に?」
「お前は口が堅いからな。ほかの生徒にこういう話をすると、噂が10倍になって広がってしまう」
それはたしかにそうかも知れない。だが、口が堅いからこそ、仲間を売らない、という可能性もあるはずだ。それをあえてザビエルに指摘するほど、私は間抜けではなかったが。
「だれかやってるっぽいんですか」
「いや、最近このあたりで、なにか妙なクスリが流行ってるっていう話を耳にしてな。うちの生徒にも広がってやしないかと、不安なんだよ」
ザビエルは生徒指導の担当でもないのに、放課後や休日にゲームセンターや盛り場を1人で回っては、発見した学校の生徒に説教をして帰らせる、という活動をずっと続けていた。実に迷惑な教師だ。私も捕まったことは、一度や二度ではない。
「妙なクスリって、どう妙なんですか」
ザビエルの微妙な言い回しに違和感を覚えて、訊ねてみた。
「うん?よくはわからん。実物も見てないし。ただ、いわゆるドラッグじゃないみたいなんだ。気持ちよくなるとかじゃなくて、変なことが起こる、みたいなそんな噂を聞いた」
ザビエルはそう言ってから、しまった、という顔をした。私が、口が堅いだけではなく、占いなどオカルティックなことが好きな生徒だ、ということを思い出したらしい。その私の興味を引くような言いかたをして、やぶ蛇になってしまったんじゃないか、と思ったのだろう。
「話は終わりだ。もう帰っていいぞ」
そう言って、ぷい、と横を向いてしまった。
「はあい」
「返事は、はい、だ」
ザビエルから解放されて、私は思った。ご期待にそわなくちゃいけないかな、と。

次の日、私は別のクラスの吉永という子のところへ行った。
春にいろいろあってから、多少親しくなった子だ。彼女は他校の不良とつるんでいて、ドラッグを持っていたことがバレて、停学になっていた。戻ってきてからは、心を入れ替えたように勉強に打ち込んでいるらしい。元々賢い子らしいので、2学期の成績では私はかなり水を開けられそうだった。
「妙なクスリ?」
「そう。なんか、噂を聞かないかと思ってさ」
「さあ、知らないなぁ。ていうかあたし、もうそういうのやってないし」
「いや、それはわかってるんだけど」
「あ、そういえば、あれか。ジュンちゃんが言ってたやつかな」
「ジュンちゃんって、不良仲間だった子だろ」
「そういう言いかたしないでよ。幼馴染だったんだから。いまでも友だちだよ。お互いちょっと距離は置いてるけど」
「悪い、悪い。で、そのジュンちゃんがなんて?」
「なんかね、夢が変わるドラッグがあるって」
「夢が変わる?」
「そう。なんか水みたいなやつで、全然体に悪そうじゃないのに、飲むだけで、そんなちょっとした遊びができるんだってさ」
「ふうん」
やはり興味をそそられた。
「どこで手に入れるんだ」
「なんだっけなぁ。たしか白町の路地で売ってるとかなんとか。ああ、そうそう。千円で買えるらしい」
「安いな」
それならお小遣いで買えそうだ。
「クスリに興味あんの?」
「いや、別に」
「やめたほうがいいよ、クスリなんて。いいことないよ。絶対」
体験者からそう言われると、そうなんだろうな、という気になった。でも、水みたいなものなら、いいんじゃないか、と自分に訊いてみた。すると、私のなかの悪い私が、煙草のケムリを吐き出しながら、『ぜひもなし』と言った。よくわからない言葉だったが、私はそれを好意的に解釈することにした。

その次の日が、タイムカプセルを埋めるセレモニーの日だった。私は、結局未来の自分への手紙を、白紙で出した。自分に言いたいことなど、特になにもなかったからだ。私はやりたいようにやって、やりたいように生きていくし、未来でもきっと、やりたいようにやって、やりたいように生きているんだろう。
みんなの手紙を腹に詰め込んだ、銀色の巨大な球体が、校庭の隅に埋められていくのを見ながら、私はなんの感慨もいだかなかった。
その日の放課後、私は早く帰って試験勉強をするつもりが、なんとなく街をブラブラして、気がつくと雑貨屋などに吸い込まれていた。現実逃避というやつだ。
その雑貨屋で、意外な人間に出会った。間崎京子が、制服姿で猫の柄の便箋を手にとって、しげしげと眺めているのだ。まわりの中学生が、ひそひそと彼女のほうを見ながら話をしている。『モデルじゃない?』『足ながーい』などと言って。
間崎京子は私よりも背が高く、スラっとして、ショートカットの似合う子だ。だが、そのスタイルよりも、切れ長で、黒目がちな瞳の、妖しい煌きのほうが印象的だった。大都会ではないこの辺りでは、探してもちょっと見つからないような美貌だ。
その間崎京子が、私に気づいて、声をかけてきた。
「あら、山中さん。あなたも試験勉強はもうバッチリなの?」
会って早々、この嫌味だ。本当に小憎らしいやつだ。
「そーだよ。あとは答案に間違えないように名前を書くだけだ」
「あら、いつもそれで赤点だったのね」
「うっせぇ」
これでも、仲は良くなったほうなのだ。会ったばかりのころはもっとギスギスしていた。間崎京子のほうが、ずっとちょっかいを出してきていて、私はそれにキツい対応をしてきたつもりだった。それが、先月招かれた京子のお誕生日会で、いつも冷静沈着でクールな彼女の、隠された苦しみを知ってしまい、私もちょっと彼女への接しかたが変わってきた。
そのとき、彼女からまるで憐れみのように差し出された手を、私は拒否した。しかしそれは、いまでは、あの子なりの、ただ友だちになって欲しいという、不器用な意思表示だったのではないか、という気がしているのだ。
油断のできない相手ではあったが、私も、大人だ。それなりにつきやってやろうじゃないか。そう思っていた。
「京子。タイムカプセルは、なに書いたんだ」
嫌味のつもりだった。間崎京子が、未来の自分に向けて、手紙を書く!これはきっと内容にかかわらず、恥ずかしいことに違いない。ニヤニヤしていると、京子は平然と答える。
「短歌を書いたわ」
「短歌?」
あれ。ちょっと雲行きが怪しい。なんか、かっこいい気がする。私の白紙よりも。
「あなたは?」
「私は……。どうだっていいだろ」
なんだか、白紙で出したことを、言い出せない気分になってしまった。
「短歌ってどんなだよ」
京子は、フフフ、と笑うと、猫の便箋をかかげ、その上に、指ですらすらと文字のようなものを書いた。
「くずし字でね、全部繋げて書いたの。最後の文字だけ残してね」
「残して、ってのは、なんだよ」
「ちょっとした遊びよ」
京子は楽しそうに笑っている。一見すると、妖艶な美女が、相手を蔑んでいるような笑いだったが、付き合いが長くなってくると、それが単に楽しそうな笑いなのだとわかってくる。もっとも、一周して、騙されているのかも知れないが。
「最近、私の占いでね、良くない結果が出るのよ」
「良くないって、どんな」
「私自身の運命よ。たゆたっているわ。生と死の狭間で」
京子は真剣な顔だった。ただ事実を告げているような、静かな声で。
「この街でひそかに進んでいるカタストロフィと、なにか関係があるかも知れないわね」
そのころ、カタストロフィといえば、ノストラダムスの大予言が流行していたので、オカルト界隈ではよく耳にする言葉だった。それが、京子の口から出ると、なんだか変な気分だ。
「なんか、前にもそんなこと言ってたな。なんなんだ、そりゃあ」
「さあ、私もわからないわ。未来は、私にもわからない。でも、ちょっとしたおまじないを試してみたの。それがその短歌よ」
「おまじない?」
「ええ。紙に、ボタン電池を張って、ある薬品を塗って、それから別の薬品を溶いた墨で短歌を書いたのよ。最後の文字が前の文字とひと筆でつながれば、発火するようになっているの」
いきなり発火なんていう単語がでてきて、聞き間違えかと思ったが、どうやら本気で言っているらしい。
「私は最後の文字はつなげていない。でも、そこでおまじないをかけたのよ。私の命が尽きるとき、その文字がつながり、辞世の歌が完成するようにと」
「それをタイムカプセルに入れたのか」
「そうよ。あらかじめ校長先生にカプセルの大きさと、手紙の総量の推計を見せてもらって、計算しておいたの。かなり大きいカプセルだったから、酸素が尽きるまでに、ほとんどの手紙が延焼してしまうはず」
京子はニコリと笑った。本人は悪戯っ子のような笑顔のつもりだろうか。私には悪魔的ななにかに見えた。
「お前、なんてことすんだよ」
「どうせみんな、あんなもの書きたくなかったんでしょう。私も、自分の死後に続いていく他人の未来には、興味がないわ。すべて燃えて、あとかたもなく消えてしまえばいい」
「そのおまじないとやらが、本当に実現すると思ってるのか」
「ええ。私は、そう信じている。だから、あのタイムカプセルはいま、続いていく未来と、消滅する未来とが重なっている状態よ。それが、私の運命とともに、たゆたっている」
ああ、そうだ。こういうやつだった。こいつは。私は額を押さえて、ため息をついた。
「そういえば、山中さん。昨日、吉永さんになにか訊ねていたらしいわね」
急に話題を変えられて、めんくらった。なんで知ってるんだ、というツッコミの前に、答えていた。
「クスリのことで、ちょっとな」
「あら、面白そうね。私にも教えてくださらない?」
私は、京子をじっと見つめる。巻き込んでやろうか、と思った。その次の瞬間、よせよせ、ろくなことにならない、という思いもわいてきた。
思案していると、私のなかの悪そうな顔をした私が、キセルで煙草を吸いながら、また、『ぜひもなし』と言った。
なんだかその響きが面白くて、「ぜひもなし」と呟いた。
すると京子は、「あら、大河ドラマね。私も見てるわ」と言うのだ。
しまった。それで頭にこびりついていたのか。
有名俳優が演じる武将の決め台詞だった。私は恥ずかしくなってしまった。
「教えてくれるのね」
しかたがない。そういう意味の言葉だったはずだ。京子に、知っていることを話した。
「行ってみましょうよ。白町に、今夜にも」
京子はやけに乗り気で、そんな提案をしてきた。
「私も聞いたことがあったの。なんだか変なお面を被っている人が、売っているらしいわ」
「お前も知ってたのか」
「ちょっと興味があったけど、1人で行くのは怖いから、山中さんが一緒なら安心よ」
京子は、剣道の素振りをする真似をした。
「木刀なんか持っていかないぞ。そんなもの持ち歩いてたら、一発で補導される」
「冗談よ。でも、よろしくね」
そんなやりとりをしていると、気がつくと私は、間崎京子と夜の白町を探索することになっていた。家で真面目に試験勉強をするべきなんじゃないか、と思ったが、むしろそこから逃げるために、京子の提案を受けたのかも知れない。
はあ。まあ、しかたがない。ぜひもなし、というやつだ。

その夜、駅前の噴水のところで待ち合わせて、京子と合流した。もう12時近いので、待ち合わせスポットの噴水前も人影はまばらだ。
私は、いつも着ているジーンズに、赤いスカジャンという格好。京子は、グレーとホワイトのチェックのコート姿だった。こういう大人びた服装でいると、容姿もあいまって、まるで芸能人のようだ。私も、もうちょっとマシな格好してこなきゃ、悪かったかな、と一瞬気後おくれしてしまった。
「いきましょ」
いきなり京子は私の腕をとって、組んで歩こうとした。
私は無言でそれを振り払う。
「もう、ケチね」
なにがケチだ。
並んで歩いて、繁華街のほうへ向かう。学生向けのカラオケ屋などが並んでいる通りを抜けると、酔っ払いたちがうごめいているゾーンに入る。この辺りからが白町だ。私も昼間には通ることがあるが、この時間帯は高校生にはあまり縁のない空間だった。
「あれあれあれ。オネエちゃんたち、美人だねぇ。おっちゃんたちと飲もうよ」
そんな酔っ払いの、うっとおしい呼びかけを無視して歩き続ける。
「私、こういう夜遊びってはじめて。山中さんと一緒にいられて楽しいわ」
「うそつけ」
「本当よ」
「センコーに見つかったらアウトなんだぞ。もっと注意しながら、シャンと歩けよ」
私はいつにも増して、京子を邪険に扱っていたが、半分は照れ隠しなのではないか、と自分でも気づいていた。こんな美人な友だちと一緒に街を歩く、というのは、たぶん男性ならずとも、虚栄心を満たされるものなのだろう。私のなかにもたしかにそんな気持ちがあった。それは、胸をドキドキさせ、よくわからない緊張を私のなかにもたらしていた。
ヨーコとも、こうして街を歩いていたことを思い出す。なんの気負いもなく、じゃれあいながら、笑って歩いていた。あのころのことを、ふと懐かしく思った。
そうして、夜の繁華街を慎重に散策していると、ふいに、京子が立ち止まった。
「いるわ」
居酒屋の横にあった、狭い路地に視線を向けている。私は京子の前に出て、目を凝らした。
建物ぞいに、大きなコンテナがいくつか積み重ねられていて、その奥に人影があった。顔のところに、なにかお面のようなものをつけている。
「ハロー?」
私は小さな声で、そう呼びかけながら、様子を伺った。
人影は立ったまま、こちらを向いている。私は路地に足を踏み込み、近づいていった。
「千円で、売ってる人?」
その人物は、黒いマントを着ていた。見るからに怪しいやつだ。顔には、お面というか、白くてのっぺりした仮面を被っている。その仮面には、黒い波のような縁取りが描かれていた。えたいの知れない悪意を感じる、不気味な仮面だった。
仮面の人物は、マントの下から、小さな瓶を取り出した。
あれがそうなのか。
私は、ポケットのなかの財布から千円札を取り出そうとしたが、その前に、間崎京子が千円札を2枚、仮面のほうへ突き出していた。
「2人分、くださらない?」
仮面は、一歩前に進むと、京子の手から千円札を受け取り、かわりに2つの小瓶を両手にそれぞれ持って、差し出した。無言のままだった。
私たちは、頷いてそれを受け取る。
取引は終了した。拍子抜けするほど、あっさりしている。こんなものか。ドラッグの売買も、あんがいこんな簡単なものなのかも知れない。
仮面の人物に興味はあったけれど、ひとまず今日の目的は達成したので、なにか変なことに巻き込まれるまえに、帰ろう。そう思ったときだった。
京子が、仮面に話しかけた。
「あなた、劇団くじら座の人かしら」
劇団?そういえば、チラシや看板を何度か見たことがある。白い仮面を被っている演劇の看板だ。だが、目の前の仮面はそれとはちょっと違うようだ。
「それとも、毒を飲む会の人かしら」
暗い路地の奥で、仮面はかすかに揺れている。
「なんだよ、それ」
京子の服の端をつん、と引っ張る。
「船医をしている私の父が、日本にいたときに言っていたのよ。怪奇趣味のあるあの父よ。この街に、毒を飲む会という変な集まりがあるらしいって。仮面で顔を隠して、毒を飲む、耽美な会だって。これは、その会となにか関係があるのかしら」
京子は仮面から買ったばかりの小瓶をかかげる。私も小瓶を見てみたが、透明な液体で満たされている。毒、と聞いて、持っているだけで気味が悪くなった。
「私、どちらも興味があるのよ。劇団くじら座の公演は、去年一度見たわ。タイトルは『変身』だったかしら。いつか夢で見たような、不思議で、引きつけられるお話だった。あれを書いた脚本家にお会いしたいと思っていたの。脚本は座長さんだそうね。くじら座という名前も好きなの。座長さんはいつも仮面を被っていると伺ったわ。あなたがそうじゃなくて?」
京子の言葉に、仮面はなにか小刻みに震えているようだった。
笑っている?
私がそう思った次の瞬間、仮面から、不気味な音が聞こえた。
《毒を飲む会に、ご興味がおありで?》
一瞬ゾッとしたが、すぐにそれがボイスチェンジャーによる声だと気がついた。仮面の下に仕込んでいるのだろうか。
京子も、驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻して、訊ねた。
「ええ。あなたが関係者なら、一度参加させていただけないかしら。まさか、すぐに毒殺されるわけではないんでしょう?」
「おい、よせよ。こんなうす気味悪いやつに」
「いいじゃない。こんな子どものなかで流行っているようなクスリよりも、ずっと面白そうでしょ」
仮面は値踏みするように、京子と私とを、交互に見た。そしてまた不気味な声を出す。
《いたって健全な会ですよ。毒を飲むといっても、希釈して、毒性を抑えてありますから。ときに、リシンやテトロドトキシンなどの猛毒を摂取するという、貴重な体験をしていただいたり、またときには、ソクラテスの刑死に使われた毒ニンジンや、神明裁判に使われたカラバル豆など、歴史的な赴きの深い毒物を口にすることで、人類史と毒物の関係に思いをはせていただく。そういう会なのです》
「気持ち悪りぃ」
私の正直な感想が、口をついて出ていた。自殺願望のある、変態の集まりじゃないか。進んで毒を飲むなんて、手首を切る自傷行為と、なんら変わらない、と思った。
「私も参加できるのかしら」
《本来ならば、会員の紹介が必要なのですが、あなたなら、特別に、ご招待いたしましょう》
仮面は、丁寧に腰を折り、手を胸にあてて、挨拶をした。
《かの五色地図をお持ちの、あなたならば》
その言葉を聞いた瞬間、私も京子も、ハッとしてあとずさった。
耳鳴りがした。超音波が叩きつけられているような感覚。
京子の着ているコートの胸元から、青い光が漏れている。そこから、ヒィーン、という、なにかが回転するような、甲高い異音がしていた。
京子は胸元を押さえる。顔面は蒼白だ。
「あなた、なに者なの」
声がかすかに震えている。京子のそんな余裕のない姿は、はじめてだった。
《それがわかるまで、今夜、だれも寝てはならぬ》
仮面はゆっくりと顔を上げながら、そう言った。黒い縁取りが、うごめいているように錯覚して、私は目をこする。
「どういう意味だ」
私は、京子と仮面のあいだに立った。京子を庇っていることに、自分でも気がついていなかった。
《いえ、今度の公演のセリフですよ。台本のとおりの質問をされたのでね、つい。お気になさらないでください》
「やっぱり、くじら座もあなたが?」
京子が私の肩に手を置いて、隣に並んだ。胸を押さえたまま、気丈に声を張っていた。
《ええ。座長を務めています。偽名ですが》
私は、仮面の首を見ていた。身長は私と同じくらいだが、声はボイスチェンジャーだし、男か女かは、よくわからなかった。喉仏がはっきりとあれば、男だとわかるのだが。仮面の下から布が垂れていて、喉のあたりを覆っていたので、それも不明だった。
《毒を飲む会の会合は、2日後にございます。招待状をお渡しいたしましょう》
仮面は、懐から封筒のようなものを取り出し、私たちの前に差し出した。
私は、挑発だと感じたが、それを手に取るのを躊躇した。しかし、京子はフッ、と笑うと前へ進み、封筒を受け取った。
またあとずさって、私の隣に立つと、その場で封を開けて、なかを見た。私も、覗き込んだが、日にちと時間と場所が書いてあるだけのようだった。
京子は、封筒を元に戻すと、右手に掲げるようにして持ったまま、言った。
「参加させていただくわ」
その次の瞬間、封筒が黒い炎のようなものに包まれて、燃え上がった。そのまま京子の手のなかで、封筒は灰になり、サラサラと砂のように消えた。
私は驚いて隣の京子を見つめた。
こいつがやったのか。
ゾクリとした。やっぱりこいつも、私たちみたいな普通の人間ではない、ということを再確認する。
《お1人では、寂しいでしょう。お友だちもご一緒にどうぞ》
仮面がそう言って私を見る。京子も私を見ている。
「山中さん」
《どうぞご一緒に》
おいおいおい。
どうしてそこで、2対1みたいになるんだ。
この異常なやつらに挟まれて、私は心臓がバクバクしていた。
どう考えても普通じゃない。毒を飲む会?おかしいだろ、そんなの。
京子が、潤んだ瞳で私を見ている。美人だなぁ、こいつ。違う。どうして、私がそんな変な会に。
「ぜひもなし、ですものね?」
思わず頷きそうになったが、さすがに思いとどまる。だが、次に、京子が私に、懇願するように手を伸ばそうとして、躊躇し、その手を引っ込めたとき、ああ、と思った。
どうしても、こうなるのか。私は、あの孤独な館で、京子から差し出された手を拒否したときから、こうなる運命だったような気がしてくる。いや、お友だちになってあげると言われたあの日から、そうだったのかも知れない。
観念して、「わかったよ、わかった」と、やけ気味に言う。
「ありがとう」
京子は嬉しそうだ。
《そのクスリも、試してみてください》
仮面はそう言って、路地の奥をチラリと見た。
《では私はこれで》
私は、手のなかの小瓶を見た。
「毒じゃないだろうな」
仮面は小さく首を横に振った。そして、そのまま路地の奥へ去ろうとして、ピタ、と足を止めた。
《そうそう。くじら座が、お好きだとおっしゃいましたね》
京子が小首を傾げながら、「ええ」と返事をした。
《わたしも好きなのですよ。だから、劇団の名前にしたのです。その名を耳にするたびに、暖かく冷たい感傷に浸れるのです》
ボイスチェンジャーの抑揚のない声が、感傷を語るという滑稽さに、私は「なーにが」と吐き捨てる寸前だった。
しかし、仮面の下から続けて出た言葉に私は凍りついた。
《……かつて、黄道より落ちし、哀れな怪物への……憧憬のために》
白い仮面は、溶けるように闇のなかへ消えていった。足音も残さず。
私の隣で、京子も固まっている。時間が止まったように。私も驚いていた。あの仮面の人物は、なに者なのか。あの館の夜、京子から告白された、彼女にしか知りえないことを、言っていたように思う。
黄道より落ちし、哀れな怪物……。
「京子」
声をかけると、時は動き出し、彼女は「ええ」と答えた。その目は、闇の奥を、うつろに見つめていた。

〈『毒 前編』完〉

『毒 中編』に続く

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