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【洒落怖】和霊神社の成り立ち

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愛媛県宇和島市にある「和霊神社」の成り立ちが怖かったのでまとめました。

和霊騒動

和霊騒動(われいそうどう)は、愛媛県宇和島市にある神社「和霊神社」が建てられることになった経緯と怨霊騒動。和霊神社の主祭神は山家公頼

山家公頼(通称 清兵衛)

山家 公頼(やんべ きんより)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、伊達家の家臣。
最初は最上氏に仕えていた。その後、伊達政宗に仕えて頭角を現した。その後1615年、政宗の長男・伊達秀宗が宇和島に移封されるのに従い、宇和島藩家老として藩政を支えた。宇和島はそれまでの領主の悪政により疲弊していたが、公頼は租税軽減や産業振興を行い、効果を上げた。

公頼は財政難の宇和島藩において質素倹約を旨とし、領民に重い年貢を課そうとせずできるだけ負担を軽くしようとしたため、領民からは慕われていた。ただ、そのために軍費を厳しく削減したため、桜田元親ら武功派には恨まれた。

また公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間である。そのためか、事あるごと様々なことに口を挟んだため、秀宗は疎ましく感じていたとされる。

そして、1620年(元和6年)に藩主秀宗は公頼を嫉妬する藩士による讒言を信じ、公頼はその息子らとともに殺害された(和霊騒動)

和霊騒動

和霊騒動(われいそうどう)は、元和6年6月29日(1620年7月28日)に発生した宇和島藩のお家騒動のことである。山家清兵衛事件ともいう。

騒動前夜

宇和島藩は、慶長19年(1614年)に伊達政宗の庶長子伊達秀宗が伊予に10万石を与えられて成立した藩である。政宗は秀宗に「五十七騎」と呼ばれる家臣を付け、重臣として藩を運営させた。その中で山家清兵衛公頼が筆頭家老として実質的に藩政を執っていた

和霊騒動

元和6年(1620年)、1月の大坂城石垣普請工事で共に奉行を務めた桜田元親が、公頼が不正をしたと秀宗に讒訴したため、公頼は帰国して秀宗に弁明し、謹慎した。これは工事の進捗状況の報告で公頼と桜田の報告に齟齬があり、公頼が正当だったので面目を失った桜田が讒訴に及んだとされる。これにより、同年6月29日、秀宗の命を受けた桜田一派の家臣達が山家邸を襲撃、翌未明に公頼らは討ち取られた。

山家公頼は享年42歳。この襲撃事件で公頼のみならず、次男と三男も斬殺され、9歳の四男に至っては井戸に投げ込まれて殺された(なお、あまりに幼子であったため井戸には祠が祭られた)。さらに娘婿の塩谷内匠父子3人も殺され、生き残ったのは商人に匿われた公頼の母と妻だけだった(長男は仙台にいたため無事だった)。秀宗の命による「御成敗」により、桜田玄蕃一派が襲撃したと言われるが、玄蕃本人は襲撃当日には大坂城の石垣修復に従事していた。

遺骸は公頼を慕う領民により、金剛山大隆寺の西方約60mの場所に密かに葬られた。また、公頼は蚊帳の四隅を切断されて殺されたことから、命日などは蚊帳を吊らない風習が近代まで残るなど、領民に慕われたことが伺える。

襲撃後の秀宗の行動

秀宗はこの事件を江戸幕府はおろか、政宗にも報告しなかった。父である伊達政宗はこのことに激怒し秀宗は勘当される。公頼はもともと政宗の家臣であり、本家側の人間であった。さらに翌元和7年(1621年)、怒りの収まらない政宗は老中土井利勝に対して宇和島藩の返上を申し入れた)。

慌てた秀宗は幕府や政宗に釈明の使者を出したり、妻の実家である彦根藩の井伊直孝に仲介を依頼した。彦根藩や仙台藩の仲介工作の結果、当時老中だった土井利勝は政宗の嘆願を上奏せず、宇和島藩は改易を免れたが、これにより宇和島伊達家は本家と気まずい仲になる。

結局、利勝のとりなしで政宗は申し入れを取り下げ、政宗と秀宗は面会し、その場で秀宗は、長男であるにもかかわらず徳川時代に入って仙台藩の家督を嗣げなかったことや、長期にわたって人質生活を送らされていたことから、政宗に対しかなりの恨みを持っていることを話した。政宗もその秀宗の気持ちを理解し、勘当は解かれた。この件をきっかけとして親子の関係は良好になったとされる。

事件後の怨霊騒動

公頼の死後、宇和島藩内では怨霊騒動が続いた。事件後、寛永9年(1632年)、秀宗正室・桂林院の三回忌法要の際、大風によって金剛山正眼院本堂の梁が落下し、桜田玄蕃が圧死した。その後も山家清兵衛の政敵たちが海難事故や落雷によって相次いで死亡した。そこで、宇和島藩家老の神尾勘解由が、宇和島城の北にある八面大荒神の社隅に小さな祠を建てて、児玉(みこたま)明神とした。しかしその甲斐なく、秀宗は病床に伏し、秀宗の六男徳松、長男左近太夫宗實が早世、次男左京亮宗時が病没した。災難は家中にとどまらず、飢饉や台風、大地震が相次いだ。

これら、政敵の桜田元親の変死、宇和島を襲った大地震や台風・飢饉などの凶事をはじめ、秀宗の長男・宗実と次男・宗時、六男・徳松の早世、秀宗の発病などは全て公頼の祟りとして恐れられた

このことが「清兵衛が怨霊となり怨みを晴らしているのだ」と噂になった。また公頼の無実も判明したため、承応2年(1653年)に秀宗の命により和霊神社が創建されることとなった。ただし怨霊伝説がある一方で、公頼には殺害の首謀者であった秀宗の夢枕に立って火事を事前に伝えたなどとされる忠臣伝説もあり、宇和島では公頼は「和霊様」と呼ばれている。

和霊神社の創設

秀宗は公頼を祀る神社を創建し、山頼和霊神社と称した。その後、参拝者が増大し社域が狭隘になったことから社地は向山(宇和島市立城北中学校内)、次いで森安へと移った。さらに第四代藩主である伊達村年治世の1731年(享保16年)3月27日には、「和霊社勧化を以造営在之ニ付、小関兵右衛門右奉行被仰付候事」となり鎌江城跡の一角に社地が再び移されることとなり、1735年(享保20年)に現在地に遷座した。1919年(大正8年)に県社に列した。1953年(昭和28年)に神社本庁の別表神社に加列された。

1945年(昭和20年)に空襲で焼失されたが、1957年(昭和32年)に見事再建された。当社の分霊を祀る神社が、四国・中国地方を中心に日本各地にある。

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秀宗の人物・逸話

秀宗は宇和島藩祖であるが、宇和島では余り崇敬を集めておらず、宇和島市内には顕彰碑も銅像も無く、「秀宗公」と尊称する人もいない。これは幕末・維新期の藩主宗紀と宗城が名君だったためにその陰にかくれたためとされている。ただし秀宗も名君だったと伝わり、参勤交代の際に宇和島の帰国途中で海が荒れて船が転覆しそうになった時、秀宗だけが泰然自若、少しも騒がなかった。あるいは豊臣秀頼と組み討ち遊びの時、年長の秀宗は秀頼を組み敷いたが、踏みつける際に咄嗟に懐紙を取り出し、直に踏まなかったので豊臣秀吉・淀殿夫妻をはじめ豊臣家の面々は秀宗に大いに感心した、と伝わっている。

その後

現在、宇和島市立城北中学校にある校庭に「入らずの森」として、和霊神社の森の一部が校内にはみ出す形で残っている。入らずの森とはいわゆる「禁足地(きんそくち)」のことである。
土地の者によると伐採しようとすると祟リが起こるので伐採ができないという。いまでも中学校の内部に、和霊神社の森の一部が残っている。

参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/和霊神社
参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/和霊騒動
参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/山家公頼
参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/伊達秀宗

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