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ここでは千葉県の八幡にある禁足地「八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)」についてまとめました。
ガチの禁足地「八幡の藪知らず」
千葉県の八幡に禁足地「八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)」があります。
この地に入っては出てこられなくなるという言い伝えがあり今でも入り口はありません。この伝承は古くは江戸時代にさかのぼります。なぜこの地が禁足地になったか、由来は諸説あり、明確な根拠があるわけではないです。しかしいずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーとなっています。
足を踏み入れると二度と帰ってこれないと言われていて、現在も柵で閉鎖されています #行ってはいけない場所
— いろはに (@irohani_live) July 16, 2020
コメント
この神隠しの森にて、ものの怪と対峙された水戸黄門様が戦われた戦闘の記録あります。
お気付きでしょうか?厳重に封鎖されたこの森には入口など存在しないのです…
文献を紐解いても土に触れるなと死者行方不明者の記録ばかり、一体何が埋めてあるのか…
😆
月岡米次郎による「不知薮八幡の実怪」の浮世絵
日本で一番有名な禁足地(自称)
八幡の藪知らず
八幡の藪知らずを浮世絵師が描くとこうなります
幕末から明治初期にかけて活躍した
浮世絵師、月岡米次郎(月岡芳年)による「不知薮八幡の実怪」という作品
藪知らずに足を踏み入れた水戸黄門が現れた妖怪と対峙している様子
— (@motoyawata_shi) November 3, 2018
あらおどろおどろしくて素敵。
月岡芳年なんて有名浮世絵師に描いていただけるとは。
その当時からお江戸にも知れ渡ってたんですね。
入ってしまった方の話
わたしここ入っちゃいました💦
入口のチェーンも確かにありましたけどはずしました(>▽<;;
職場の人間と製薬会社の人間とで・・・^^;
結論からいうとその数年後に製薬会社の方がひとり「原因不明」の病で伏せられたと聞いています😂💦
@motoyawata_shi
え!?どういう事ですか!?詳細を教えてください!!
@Ultrano_haha
市役所前の通り沿いの入り口からみんなで入ったんです
入口にはチェーンがしてありましたが・・・
普通に散策しみんなで記念撮影もした記憶があります
もう25年くらい前の話になりますー
@motoyawata_shi
そうだったんですね…念の為の確認ですがここで間違いないですよね!?
@Ultrano_haha
そうです!
@motoyawata_shi
八幡の藪知らずの真ん中付近は
くぼんでいると聞いたことがあるのですがどうでしたか!?
@Ultrano_haha
ん~どうだったかなぁ?
忘年会の時でお酒も入ってましたしね
もう忘れちゃいましたね~^^;
そんな「怖ろしげな」ところだとも思っていなかったのでw笑
@motoyawata_shi
そうですよね〜それにしても原因不明の病とは…恐ろしいです…
@Ultrano_haha
足を悪くされたと聞いています
参照元:https://twitter.com/Ultrano_haha/status/1059086680240533504
以下、Wikipediaでの「八幡の藪知らず」の記述
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Wikipediaの記述
八幡の藪知らず
八幡の藪知らず(やわたのやぶしらず)は、千葉県市川市八幡にある森の通称。古くから禁足地とされており、「足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という神隠しの伝承とともに有名である。
市川市が設けた解説板には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記されており、ほかに「不知森(しらずもり)」「不知藪(しらずやぶ)」とも称される。現在は不知森神社(しらずもりじんじゃ)の一角のみ立ち入りができる。
概況
八幡の藪知らずは、本八幡駅から徒歩5分程度離れた千葉街道(国道14号線)沿い、市川市役所の斜め向い側にあり、隣には駐輪場がある。周辺は宅地化が進んでいるため、人通りは多い。近くには八幡の地名の由来となった葛飾八幡宮もある。藪の広さは奥行き・幅ともに18メートルほどで、決して方向感覚を失って迷うほどの広さではない。
かつては細竹、漆、松、杉、柏、栗などの樹木が生い茂る雑木林であり、昭和の末頃までは、樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見ることができたが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみである。また、藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴がある。もともと藪の範囲は今より広かったとも言われるが、少なくとも江戸時代の文献には、既に現在と同程度の広さであったことが記されている。なお、近年の道路拡張で一部が削り取られている。
「この藪に足を踏み入れると二度と出てこられなくなる」という伝承は、後述するように由来には諸説あるが、少なくとも江戸時代から当地で語り継がれており、藪の周りは柵で囲まれ人が入れないようになっている。街道に面して小さな社殿が設けられており、その横には「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と記された安政4年(1857年)伊勢屋宇兵衛[1]建立の石碑がある。この社殿は凹状となった藪囲いの外側にあり、社殿の敷地に立ち入って参拝をすることができる。なお、伸びすぎた孟宗竹の剪定・伐採は(域内に入らないかたちで)時折行われている。
▲航空写真から見た八幡の藪知らず(写真・オレンジ色で囲まれた部分)。左の緑の円はJR本八幡駅。
由来
八幡の藪知らずの伝承は、江戸時代に記された書籍にすでに見ることができるが、それ以前から存在したか否かは定かではない。また、なぜこの地が禁足地になったかの理由についても、明確な根拠があるわけではない。しかし諸説いずれにせよ、近隣の人たちはこの地に対して畏敬の念を抱いており、現在も立ち入る事はタブーである。
以下、伝承の由来に関する有名な説を挙げる。
- 日本武尊の陣屋説
- 平良将の墓所説
- 平将門の墓所説
- 将門の家臣の墓所説:当地で将門の首を守りつづけ、そのまま泥人形になったといわれている。寛延2年(1749年)に書かれた『葛飾記』には、討たれた将門が当地を通った際に慕って付いてきた家来6名が土人形として顕れ、風雪により土と化した、とある。
これらの偉人に関する説は、いずれも該当する人物の祟りなどのために立入禁止になったといわれている。ただし、墓所・陣屋跡の比定地には異説も多い。
- 将門が朝廷軍と戦ったとき、将門軍の鬼門に当たった場所であったとする節。
- 将門征伐のために布かれた八陣の法の跡説 - 陣を布いた平貞盛と藤原秀郷が乱平定後帰京に際し、地元民に「この場所は八門遁甲の死門(天地の鬼神が各方隅を循環して生殺するとの信仰に基づく8つの門のうちのひとつ)であるゆえ、今後足を踏み入れてはならない。踏み入れた者には必ず害がある」と告げて言った、とする説。
- その他、昔の豪族・貴族の墓所とする説
- 水戸黄門が迷って出てこられなかった説
水戸黄門が伝承を聞き、馬鹿げた話だと当地に立ち入ったところ、白髪の老人が現れ「戒めを破って入るとは何事か、汝は貴人であるから罪は許すが、以後戒めを破ってはならぬ」と告げたとする伝承。後に錦絵に描かれ広まった[2]。しかし、それ以前からここは禁足地であったということが前提であるため、明確な説明にはなっていない。 - 藪の中央部の窪地から毒ガスが出ているという説
中央部が窪んでいることにも関連しているが、科学的な根拠に乏しい。事実であるなら、藪の周辺すら人が通ることは危険なはずである。 - 藪に底なし沼があるという説
これも、中央部が窪地になっていることに由来する。 - 葛飾八幡宮の跡地説
至近にある葛飾八幡宮の旧地とする説 - 文化7年 (1810年) 刊行の『葛飾誌略』には、地元の古老の話では仮遷宮(本殿落成の間や社殿改築工事の間、神体を移しておく仮の社殿)だった、とある[3]。また、この地には死んだ動物を供養するための八幡宮の池があり、周囲の人々から「むやみに池に入ってはいけない」と言われていたものが、この行事が廃れたために「入ってはならない」という話だけ今に残ったのではないか、という仮説。 - 近隣の行徳村の飛び地(入会地)説
地元である八幡の住民は当地に入れないため、このような伝説ができたという説
慣用句
伝承が有名になったため、「八幡の藪知らず」は「入ったら出られない藪や迷路」の総称となった。それが更に転じて「道に迷うこと」「出口のわからないこと」を「八幡の藪知らず」「やわたしらず」と言うようになった。
また、江戸時代にはこの森を真似て迷宮式の藪を作り、入場料を取って中に入らせ、無事に出てこられた者に賞品を出すという興行場が現れたことがあった。これが明治10年頃に復活し、大流行となった。こうした迷路は八幡不知(やわたしらず)のほか、八陣、かくれ杉などと呼ばれた。
参照元:https://ja.wikipedia.org/wiki/八幡の藪知らず