三億円事件とは東京都府中市で1968年12月10日に発生した、窃盗事件である。三億円強奪事件ともいわれる。
現金輸送車に積まれた東京芝浦電気(現・東芝)従業員のボーナス約3億円(2億9430万7500円)が、白バイまで用意した偽の白バイ隊員に奪われた事件である。被害金額3億円は現金強奪事件としては当時の最高金額であった。その後の現金強奪事件では金額こそ三億円事件よりも強奪金額が多い事件があるが、1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約10億円にあたり、貨幣価値においては現金強奪事件としては最高クラスである。
グリコ・森永事件
グリコ・森永事件は1984年(昭和59年)と1985年(昭和60年)に、阪神を舞台として食品会社を標的とした一連の企業脅迫事件である。警察庁広域重要指定114号事件。犯人が「かい人21面相」と名乗ったことから、かい人21面相事件などとも呼ぶ。
1984年3月の江崎グリコ社長を誘拐して身代金を要求した事件を皮切りに、江崎グリコに対して脅迫や放火を起こす。その後、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋など食品企業を次々と脅迫。現金の引き渡しにおいては次々と指定場所を変えたが、犯人は一度も現金の引き渡し場所に現れなかった。犯人と思しき人物が何度か目撃されたが逃げられてしまったため、結局正体は分からなかった。
その他、1984年5月と9月、1985年2月に小売店で青酸入り菓子を置き、日本全国を不安に陥れた。
1984年4月12日に警察庁広域重要指定事件に指定された。
2000年(平成12年)2月13日に東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎え、全ての事件の公訴時効が成立。警察庁広域重要指定事件としては初めて犯人を検挙出来なかった未解決事件となった。
2005年(平成17年)3月に除斥期間(民法第724条)が経過し、民法上の損害賠償請求権が消滅した。
企業への脅迫状とは別に報道機関や週刊誌などに挑戦状を送りつけ、毒入り菓子をばらまいて社会一般を騒ぎに巻き込んだことで、評論家の赤塚行雄から劇場型犯罪と名付けられた。同時期に世間を騒がせた三浦和義のロス疑惑とともに当時の世相として振り返られることも多い。
グリコ・森永事件→ http://ja.wikipedia.org/wiki/グリコ・森永事件
大久保清は日本の連続殺人犯。1971年に画家を装い、若い女性に近づき言葉巧みに愛車に乗せ、人気のない場所で暴行、殺害し遺体は山中に埋めた。この手口で同年に2ヶ月足らずの内に8人を殺害し逮捕。1973年に死刑判決を受け1976年1月22日、死刑執行。
吉展ちゃん誘拐殺人事件は1963年3月31日に東京都台東区入谷(現在の松が谷)で起きた男児誘拐殺人事件。吉展ちゃん事件とも呼ぶ。
日本で初めて報道協定が結ばれた事件であり、この事件から、被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。また報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。
吉展ちゃん誘拐殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/吉展ちゃん誘拐殺人事件
これどっかで聞いたことあるわ
なんとかいう刑事が犯人に取調室で土下座して泣き落として誘拐された子の遺体を埋めたところを吐かせたとかなんとか
なんかドラマにもなってたとか聞いたけど忘れた
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新宿西口バス放火事件は1980年8月19日の夜、東京都新宿区の新宿駅西口バスターミナルで起きた路線バスの車両が放火された事件。
1980年8月19日(火)21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄(現・京王電鉄。当該事業は分社化により京王バス東が継承)の運行する宿41系統・6号通り経由中野車庫行きバス(日野RE100・A2158号車 登録番号:練馬22か ・771)の車内に、男が後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。
火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。
犯人の男(当時38歳)は北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれたが、父親は定職を持たないアルコール依存症で、親が教育に無理解であったため小学5年生ごろからほとんど登校していなかった。犯人は父親の病死を機に建設作業員として全国を転々とする。1972年に結婚するも、妻が長男を出産した翌年に離婚。子供を児童施設に預けて毎月仕送りを欠かさずに、各地を転々としながら現場作業員として働いていた。
新宿西口バス放火事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/新宿西口バス放火事件
事件当夜、駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、何者かに「ここから出て行け」と言われ、カッとなって犯行に及んだ。
書いてて思ったが、昭和じゃないなこれ
豊田商事事件は豊田商事による金の地金を用いた悪徳商法(現物まがい商法)を手口とする組織的詐欺事件。
高齢者を中心に数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円近くと見積もられ、2009年現在詐欺事件としては最大の被害額である。強引な勧誘によって契約させられた挙句に老後の蓄えを失った被害者も多く、会長の永野一男がマスコミの前で惨殺されたり、その犯人に対して本事件を考慮した温情判決も出されるなど、大きな社会問題となった。
1981年、前身となる「大阪豊田商事株式会社」設立。
1982年、豊田商事株式会社に改名。
1985年、豊田商事の商法が社会問題化。国民生活センターなどにより豊田商事関連の110番が設置された。
4月、関連会社の鹿島商事の外務員が逮捕され、捜査が本格化する。
6月18日、豊田商事会長刺殺事件が発生。
7月1日、豊田商事が破産宣告を受ける。破産管財人として、弁護士の中坊公平が選出される。
豊田商事会長刺殺事件
豊田商事会長刺殺事件は1985年(昭和60年)6月18日に発生した殺人事件。
1985年6月18日、大阪市北区にあった永野一男豊田商事会長の自宅マンションの玄関前に「今日逮捕」との情報を聞きつけてマスコミ取材班が集まっていた。
午後4時30分過ぎ、被害者の元上司に当たる自称右翼の男2人が永野の部屋の前に姿を現した。2人は張り込んでいたガードマンに「永野に会わせろ」と要求。連絡を取るためにガードマンが階下に下りた後、2人は元部下の被害者6人から「もう金はええ、永野をぶっ殺してくれ」と頼まれたと報道陣に語った。
そして窓の格子を蹴破り、窓ガラスを破って侵入、永野の頭部など全身13箇所を銃剣で刺した。当時永野の住んでいた部屋のドアの前などには大勢のマスコミがいたが、誰も止めようとはしなかった。永野は直ちに病院へ運ばれたが、腹部を刺されたのが致命傷となり、出血多量により約45分後の午後5時15分に息を引き取った。この時の永野の所持金はわずか711円だった。部屋から出た犯人らは、「警察を呼べ。俺が犯人や」と報道陣に語り、マンションから出たところで逮捕された。また、逮捕直前にかけつけた警察に対しマスコミが「(犯人を)早く逮捕せいや」などと強い口調で言ったため犯人が激高しマスコミに襲い掛かるという一面もあった。
永野が惨殺された際の映像(永野は室内にいたため殺害そのものの様子は写らなかったが、上記の犯人の侵入の様子および、窓際に置き去りにされた血塗れの永野がストレッチャーで運ばれる様子が映像に残された)はNHKニュースや民放テレビ各局で中継された。この時NHKは「子供には見せないでください」と慌ててアナウンサーが呼びかけた。その後発売された『FOCUS』では、犯人の1人が血塗れで断末魔の形相の永野を抱え、もう1人が銃剣を持つ写真が誌面を飾った。
読売新聞が読者投票で選ぶ1985年の日本10大ニュースでは、この惨殺事件が日本航空123便墜落事故に次いで第2位に選ばれた。
その後の詐欺事件の捜査で、豊田商事が集めた金のほとんどが流用され残っていなかったことが判明するが、最高幹部が死亡したため、金の流れに関して解明が難しくなった。結果的に捜査に支障をきたしたため、犯人は関係者に口封じのために殺人を依頼されたのではないかといった憶測も流れた。
1986年3月12日、大阪地裁で犯人2名に対しに懲役10年と懲役8年の実刑判決を言い渡された。それぞれが控訴し、1990年、1989年に刑が確定した。
その後、犯人の1人は、周りにいたマスコミに犯行の示唆教唆があったとして4度再審請求をしたが、いずれも棄却されている。
豊田商事会長刺殺事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/豊田商事会長刺殺事件
これは間違いなく口封じですわ
浅沼稲次郎暗殺事件は1960年10月12日、東京都千代田区にある日比谷公会堂において、演説中の日本社会党委員長・浅沼稲次郎が、17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺されたテロ事件である。
この日、日比谷公会堂では、近く解散・総選挙が行われる情勢で、自民党・社会党・民社党3党党首立会演説会「総選挙に臨む我が党の態度」(東京選挙管理委員会・公明選挙連盟<現・(財)明るい選挙推進協会>、日本放送協会が主催)が行われていた。会場は2500人の聴衆で埋まり、民社党委員長・西尾末広、社会党委員長・浅沼、自民党総裁・池田勇人の順で登壇し演説することになっていた。
浅沼は午後3時頃演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後右翼団体の野次が激しくなり、ビラを撒く者も出たので、司会のNHKアナウンサー・小林利光が自制を求めると、場内には拍手が起き、一瞬野次が止まった。それを見計らって浅沼は自民党の選挙政策についての批判演説を続けた。
浅沼が「選挙の際は、国民に評判の悪い政策は、全部伏せておいて、選挙で多数を占むると……」と言いかけた午後3時5分頃、山口が壇上に駆け昇り、持っていた刃渡り33センチメートルの銃剣で浅沼の胸を2度突き刺した。浅沼はよろめきながら数歩歩いたのち倒れ、駆けつけた側近に抱きかかえられてただちに病院に直行した。秘書官は浅沼の体を見回し、出血がなかったことから安心したが、それは巨漢ゆえに傷口が脂肪で塞がれたために外出血が見られなかっただけのことであり、実際には一撃目の左側胸部に受けた深さ30センチメートル以上の刺し傷によって大動脈が切断されていた。内出血による出血多量によりほぼ即死状態で、近くの日比谷病院に収容された午後3時40分にはすでに死亡していた。側近によれば、運ばれる途中踊り場で絶命したという。この殺害行為の発生により、演説会はそのまま打ち切られた。
山口はその場で現行犯逮捕、取調べに対し山口は若年ながら理路整然と受け答えしていたという。11月2日夜、東京少年鑑別所の単独室で、白い歯磨き粉を溶いた液で書いた「七生報国 天皇陛下万才」(原文ママ)の文字を監房の壁に残した後、自殺した。また、この事件で警視庁は、山口のほかに、「全アジア反共青年連盟」責任者・吉松法俊(当時32歳)を恐喝、右翼団体「防共挺身隊」隊長・福田進(同・32歳)を公正証書原本不実記載および強要、また大日本愛国党総裁・赤尾敏(同・61歳)を威力業務妨害容疑で、それぞれ逮捕した。
公党の党首に対する攻撃を防げなかったとして山崎巌国家公安委員会委員長が引責辞任。この事件を機に、刃物の追放運動が全国に広がるようになり、また要人警護の手法が“目立たないように”から“見せる警護”へと改められることになった。
浅沼稲次郎暗殺事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/浅沼稲次郎暗殺事件
おせんころがし殺人事件
昭和27年に起きた、母子4人を強姦したうえ、当時外房の難所であった通称「おせんころがし」から全員を投げ落として殺傷した事件。
この犯人はほかに4名を殺害しており、これらを一連の事件を含めてこの名称を使用することもある。
犯人には生い立ちなどに同情すべき部分もあったが、起こした結果が重大であったため極刑は免れようもなかった。また収監されて以降、一言でいえば往生際の悪い行動を繰り返した。
なお、昭和中期に死刑廃止運動が起きた際に、極刑で臨まなければならない犯罪の例として、本事件の犯人が名指しされた。
おせんころがし殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/おせんころがし殺人事件
永山則夫連続射殺魔事件は1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市において発生した、拳銃による連続殺人事件である。
横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだ拳銃により、社会への復讐のために短期間のうちに4人を射殺した。
少年は人を殺した。理由はない。(この事件を契機に「永山基準」と呼ばれる死刑基準ができた)
永山則夫連続射殺魔事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/永山則夫連続射殺魔事件
寿産院事件
昭和23年に発覚した大量の嬰児遺棄致死事件。正確な被害人数は不明で200名弱、あるいはそれ以上が死亡したものと思われる。
経営者夫婦と元助手の女、一回500円で遺体引き取りを請け負っていた男が逮捕された。
当時は食糧難経済難ゆえ、生まれた嬰児を一人数千円で引き取る業者がおり、これらの中には施設整備がされていないにも関わらず、一人あたりで計算される配給品を受け取り横流しをして儲ける悪徳業者があった。寿産院もそういった施設の一つだった。
預けられた子供はタコ部屋のごとく部屋にすし詰めにされ食糧はほとんど与えられなかった。また死因は、遺棄致死ではなく子供への暴力のために死亡した者もあったことが犯人への調べで分かっている
また赤ちゃんが死亡する際には役所への届け出が必要だが、届け出を受けていた新宿区役所では、寿産院から大量の死亡者が出ているにも関わらず特段の注意を行わずただ漫然と手続きを進めていただけであったため、発覚後は役所への非難の声も上がった。
これだけの事件であるにも関わらず、主犯である女は懲役四年、夫が懲役二年。
昭和32年に愛新覚羅慧生(清朝末帝 愛新覚羅溥儀の姪)と学習院大学で同級であった男との心中事件。
事件の真相は今もって謎であるが、多くは男の一方的な無理心中が真相と考えられている。
ただし慧生はその身の上から、常に孤独感にさいなまれており一方的とはいえ自分に対して
思いを注ぐ男に惹かれていたことも残る書簡や友人の証言などで分かっている。また、日本
での身の寄せ先である嵯峨家の内情も本件に少なからずかかわりがあったと考えられる。
当時皇帝の縁戚がこのような事件を起こしたことで煽情的にマスコミで報道され、翌年には
本件を元にした映画が封切りされた。
尊属殺法定刑違憲事件は1973年(昭和48年)4月4日に最高裁において、刑法に規定された「尊属殺」の重罰規定が法の下の平等に反し違憲であるとの判決が下された殺人事件であり、かつ同時に最高裁判所が違憲立法審査権を発動し、既存の法律を違憲と判断した最初の判例となった。「尊属殺重罰規定違憲判決」、「栃木実父殺し事件」とも呼ばれる。
1968年10月5日、女性A(当時29歳)は実父B(当時53歳)を絞殺した。殺害の日まで被告人Aは被害者Bによって10日間にわたり自宅に監禁状態にあり、最終的に口論の末に殺害した。
旧刑法200条は被害者が被疑者の父母・祖母祖父などの直系尊属である場合における普通殺人罪の加重罪であった。その為普通殺人罪が定める法定刑に比べ、尊属殺人罪が定める法定刑は「死刑又ハ無期懲役」ときわめて重かった。
この事件において1審の宇都宮地裁は刑法旧200条を違憲とし、情状を考慮し過剰防衛であったとして刑を免除する判決を出したのに対し2審の東京高裁は同条は合憲であるとして、その上で最大限の減軽を行いかつ未決勾留期間のすべてを算入して懲役3年6月の実刑を言い渡した。
が結局終審たる最高裁判所は尊属殺重罰規定を違憲とし被告人に対し通常の殺人罪を適用し懲役2年6月、執行猶予3年を言い渡した。
尊属殺法定刑違憲事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/尊属殺法定刑違憲事件
ピアノ騒音殺人事件
昭和49年に発生した団地住民同士によるピアノ騒音を原因にした殺人事件。
階上の男が、ピアノを弾いていた8歳の長女、その横にいた4歳の次女、そしてゴミ捨てから帰ってきた母の3人を刺殺した。日本における騒音を原因とする殺人事件の第一号と考えられている。
犯人の男は以前に聴覚障害と思われる症状を起こしてから、近所の生活音による炸裂音がするような症状に悩まされており騒音を原因として近所住民や職場での周囲との軋轢を頻繁に起こしていた。
事件現場となる団地には犯人が先に住んでおり、犯人夫婦は犯人がこのような症状を持つこともあり、生活音を出さないような気配りを十二分に行っていた。
しかしながらそこへ被害者一家が越してくると、件の原因となるアップライトピアノによる頻繁な演奏に加え日曜大工等での騒音などが常態化するようになった。
犯人から直接的に階下へ相談などはほとんど行わなかったようだが、当時は住民同士の騒音問題が社会問題化しはじめたことで団地自治会による自粛呼びかけがある程度なされていた。
間接的にはこれが功を奏したこともあったが、多少改善した程度だった。また犯人は事件当時失業しており妻に逃げられていたため精神的に追い込まれていたということもあった。
犯人は昭和52年に死刑が確定。
減刑運動や精神鑑定などから再審請求などもあったが犯人自らが取り下げた。
なお犯人は今もって東京拘置所にて拘留中で、死刑囚では最古参となっている。
ピアノ騒音殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/ピアノ騒音殺人事件
クラクション殺人事件とかもあった
練馬一家5人殺害事件は1983年(昭和58年)6月27日に東京都練馬区大泉学園町で起こったバラバラ殺人事件。不動産競売の取引をめぐるトラブルから、幼い子供を含む一家5人が殺害された。
不動産鑑定士・朝倉幸治郎は東京のとある物件を購入しすぐにそれを転売しようと試みていた。
4月13日、朝倉は渋谷の不動産屋と売買契約を成立させる。値段は1億2950万円、明け渡し期限は6月30日で朝倉は内金1500万円をこの不動産屋から受け取っていた。
この物件には、もともと新宿区西早稲田にある日本洋書販売配給会社の商品管理課長の白井明(45歳)一家6人が住んでいた為立ち退き料は必要であったが、払っても1000万円の儲けにはなるはずだと見込んでいた。
朝倉は落札した直後から立ち退きの交渉を始めていたが白井が期限までに立ち退いてくれなければ、転売先に内金の倍額の違約金3000万円を払わなければならないことになる。
一日も早く立ち退いてもらいたい朝倉は、3日に一度は交渉のために白井宅を訪ねた。
しかし白井は一向に立ち退こうとする素振りを見せなかった
そんな白井に業を煮やした朝倉は遂に凶行に出てしまった。
1983年6月27日、朝倉は鑑定士は立退き交渉と偽って午後2時46分ごろに白井宅に入り込み白井の妻(41歳)・次男(1歳)をかなづちで撲殺後三女(6歳)をかなづちで殴打後扼殺し小学校から帰宅した次女(9歳)の首を手で絞めた後電気掃除機のコードで絞殺、その後午後9時半に帰宅した白井(45歳)をマサカリで切りつけ殺害、白井と妻の遺体を浴室で切断し解体した。
その後朝倉は逮捕、1996年11月14日に最高裁判所で上告棄却されて死刑が確定した。
練馬一家5人殺害事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/練馬一家5人殺害事件
敦化事件
戦時中でも昭和の事件なら何でもOKです
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ロボトミー殺人事件
マニラ湾の夕陽を見て俺には何の感情も湧いてこない、自分はもう人間ではないんだ、と有名な言葉を残した犯人が昭和54年に起こした殺人事件。
犯人は昭和39年にロボトミー手術の一種であるチングレトミー手術を、被害者となった女と義母の夫である医師から半ば強制的に施術された。
その後自分の性格が変わってしまったことに絶望し、ロボトミー手術の危険性を訴えることも目的に(犯人は元々スポーツジャーナリスト)医師を巻き添えに無理心中を図って事件を起こそうと考えた。
しかしながら、目的の医師は帰宅せず、在宅であったその妻と母の二名を刺殺し金品を奪った。医師は結果的に無事だった。
精神鑑定が行われたが、その際に手術器具が残置されている医療過誤が発見されたものの、責任能力はありと判定された。犯人は無実か、死刑かを望んだが、無期懲役が確定するとその後自死権なるものを求めて国を訴えており棄却されている。
1970年代になると精神外科は、多大な人権侵害を伴うものとして全世界的に行われなくなった。
ロボトミー殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/ロボトミー殺人事件
羽田沖と御巣鷹とあるな
ロッド空港乱射事件とか日本赤軍だけでもすごい
三無事件
昭和36年に起きた右翼結社が起こしたクーデター未遂事件。オウム真理教事件で有名になった破壊活動防止法の
最初の適用事件。三無は「さんゆう」と読み、無税・無失業・無戦争を主張していた。
自衛隊にいる一部豚氏の同志と呼応して国会議事堂を襲撃する計画だった。
なお関与者として7名が逮捕されているが、元陸軍少将を含む元軍人が3名、造船所社長のほかに最年少で25歳の
青年が二名いた。
一名はのちに千葉県市川市市議会議長を務めた男で平成18年に死去。
もう一名は、過日朝鮮総連本部ビルを競売の上落札した真言宗法主。この男は永田町では怪僧として知られており
安倍首相とも親交がある上、九州の指定暴力団との密接な関係を取りざたされている。またこの男が住職を務める
寺には金日成主席観世音菩薩なるものが鎮座している。
津山事件(津山三十人殺しとも)は1938年(昭和13年)5月21日未明に岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件。
日本刀と猟銃を用いて二時間余りの間に31人の命を奪い3人に重軽傷を負わせた。これは犠牲者の数でオウム真理教事件を上回る数字であり日本の犯罪史上最悪の殺戮事件である。
1938年5月20日、犯人の都井睦雄は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わずこれについて電気の管理会社への通報や原因の特定などを試みることはなかった。
翌5月21日1時40分頃都井は行動を開始する。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。
首からは自転車用のナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。
都井は最初に、自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させた。その後近隣の住人を約1時間半のうちに次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。
犯行があらかた終わると遺書用の鉛筆と紙を借りるために隣の集落へ赴きそこで鉛筆と紙を受け取ると荒坂峠の山頂で一人猟銃を用い自殺した。
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敦化事件は1945年8月27日に満洲国吉林省敦化でソ連軍によって連日に渡り集団強姦され続けていた日満パルプ製造敦化工場の女性社員や家族が集団自決した事件。
1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受諾し終戦を迎えるがそれによって全ての戦闘行動が停止された訳ではなかった。
終戦後の8月22日、ソ連軍は日満パルプ製造敦化工場に進駐した。
ソ連軍は社宅に侵入すると1時間以内に社宅の一角を引き渡すよう要求し従業員の女性2人を引きずり出すとジープで社宅から連れ去った。
数時間後に拉致された女性がぼろぼろになって社宅に帰ってきたが、もう一人の若い娘は強姦された後に牡丹江に流され行方不明となった。
その後もソ連軍人たちによる強姦や輪姦は収まらず、ついにそんな状況に嫌気が差した女性従業員たちが青酸カリや剃刀などを用いて集団自決を図った。
世田谷中学校「9」の字事件
昭和63年に世田谷区立砧南中学校のグラウンドで起きた、机を「9」の字に並べた事件。
結論から言うと、犯人は9人のチンピラで、9の字の意味は主犯の男曰く「数字で一番大きい
字であり好きだったから」という程度のものだった。
主犯の男は同中学の卒業生で、犯人グループの一部も卒業生だった。なお、9の字のデザイン
は信州大に通う卒業生の一人が行っており、作成には9名で3時間かかった。なお盗まれたもの
は無く、使用された机には元の持ち主の生徒のものが律儀にも置かれていた。
この事件の特異な部分は真相部分ではなく、この事件が未解決の2か月の間に起きたマスコミを中心とした分析や推理が盛んに報道されたことや、模倣事件の発生による部分が大きい。
犯人ではない差出人不明のものから中学校あてに「日本帝国主義革命連合軍・別動・黒い九月一派」なる者から犯行声明が届き、その犯行文には当時問題となっていた近藤真彦母遺骨盗難事件との絡みもほのめかされるなど、周辺状況は拡大の一途をたどった。
机「9」文字事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/机「9」文字事件
日本航空123便墜落事故は1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京発大阪行123便ボーイング747SR-46が群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根に墜落した事故である。
運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書によると乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名であった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では2013年12月の時点で最多であり単独機の航空事故でも世界最多である。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。特にこの事故を指して『日航機墜落事故』『日航ジャンボ機墜落事故』と呼ばれることもある。
著名人としては『上を向いて歩こう』で有名な坂本九や、元宝塚歌劇団の北原遥子、阪神タイガース球団社長であった中埜肇などがこの事故で亡くなった。
日本航空123便墜落事故→http://ja.wikipedia.org/wiki/日本航空123便墜落事故
ロッキード事件はアメリカのロッキード社の航空機売り込みに際し,日本の政界の一部に多額の工作資金が賄賂として渡された疑獄事件。1976年アメリカ上院外交委員会で発覚。
受託収賄・外国為替管理法違反容疑で事件当時の首相田中角栄をはじめ政治家や航空会社・商社関係者らが逮捕された。
あさま山荘事件は1972年(昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器の保養所「浅間山荘」において連合赤軍が人質をとって立てこもった事件。
日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人(坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久)が浅間山荘の管理人の妻(当時31歳)を人質に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊が人質救出作戦を行うが難航し死者3名、重軽傷者27名を出した。
10日目の2月28日に部隊が強行突入し人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間監禁されており警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。
酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し18時26分には民放・NHKを合わせて視聴率89.7%に達した。
また同日のNHKの報道特別番組は平均50.8%の視聴率を記録した。
これは事件から40年以上が経過した現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
昭和45年埼玉県戸田市で起きた一家4人の惨殺事件。
犯行現場のあまりのむごたらしさから強烈な怨恨によるものと当初考えられていたが、犯人は
異常性欲者であった。被害者の頭は鉈のようなもので頭蓋陥没の上、脳が減刑をとどめていな
かった。また被害者である妻には精液が付着していた。
犯人は一家主人の弟だった。犯行理由は「ムラムラしてやりました」。
兄一家を薪割りで滅多打ちにした後、瀕死の兄嫁を強姦。ときどき中断しては身もだえる被害者
達を再度滅多打ちにするというありさまだった。強姦中に兄嫁の肉を食べたくて切り取る刃物を
探したがついに見つからず、食べることは叶わなかった。滅多打ちと屍姦を繰り返すうち疲労し
て、朝になり薪割りを近くのどぶ川へ捨てて寄宿先へと何食わぬ顔をして帰った。
ちなみにこの薪割りの発見が即犯人逮捕につながった。
取り調べ時の刑事と犯人のやり取りで、「おまえ、セックスのことしか頭にないのか」と言われ、
「はい」と頷いた。
裁判時の裁判長と犯人のやり取りで、
「犯行のあと肉を食べなかったのが残念で仕方ないと供述書にあるが、これは本当かね」
「はい」
「いまでもそう思っているのかね」
「はい、そう思っています」
という問答もあった。
精神鑑定結果には
「意志薄弱性、無情性の精神病質。さらに情性欠如の特徴がみられ、われわれ精神医学者から見て
もまれに見る異常人格であり、怪物といっても差し支えない」
となっていた。
判決は死刑。なお戦後死刑判決を控訴しなかった者は2名いるが、彼がその一人。
昭和51年刑執行。
※本件はWiki記事なし。またWEB上には関連写真等ありませんでした。
三菱銀行人質事件は1979年(昭和54年)1月26日に三菱銀行北畠支店(現三菱東京UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り客と行員30人以上を人質にした銀行強盗および人質・猟奇殺人事件。実行犯の名前から梅川事件とも呼ばれる。
1979年(昭和54年)1月26日に犯人の梅川昭美は三菱銀行北畠支店に銀行強盗目的で侵入。客と行員30人以上を人質として立てこもり、警察官2名・行員2名の計4名を射殺した後女性行員を裸にしてバリケード代わりに並ばせるなどした。
大阪府警察本部は梅川に投降するよう交渉を続けたが事件発生から42時間後の1月28日、SATの前身である大阪府警察本部警備部第2機動隊・零(ゼロ)中隊により梅川は射殺され、最終的に事件解決するに至った。
三菱銀行人質事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/三菱銀行人質事件
戦後日本の人質事件が犯人射殺という形で解決した事件は1970年の瀬戸内シージャック事件、1977年の長崎バスジャック事件とこの事件の3つだけであり三菱銀行人質事件以降平成期においては存在しない。
108: 名無しさん 2014/03/28(金)08:39:43 ID:YaEIWnqiC
>>63
当日写真撮りにいったわw
一週間後シャッター前に花束置いてる構図写しにいった時に、
シャッターに穴開いてたからバス停から灰皿持ってきて上に乗って中覗いたら
観葉植物と梅川が座っていた支店長席が遠くに見えて感動したw
もしかして日本は治安よくなってるんじゃね?
市長とか暗殺されるし
JCが夏祭りの帰りに変死したり
ヤフーチャット万歳もあるし
目的がチープなくせに派手な事件ってのが平成の特徴かも
リクルート事件は1988年(昭和63)に発覚した、情報関連企業のリクルート社が株式譲渡の形で政・官・財界要人に巨額の贈賄を行った大疑獄事件。
リクルート社は1984年12月,子会社のリクルートコスモス社の未公開株約125万株を79名に,86年7‐9月には同76万株を65名に譲渡し同株の店頭公開(1986年10月)直後の値上がりにより受領者側が合計66億7000万円の利益を得たとされ,その額はロッキード疑獄(ロッキード事件)の3倍にのぼる。戦後最大の贈収賄事件とも。
この事件の影響で従来ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎や宮澤喜一、渡辺美智雄といった政治家は竹下登首相退陣後の総理・総裁に名乗りを上げることができず、竹下退陣後は短命の宇野宗佑政権を経て58歳と比較的若い海部俊樹が総理・総裁となり、結果的に世代交代を促すことになった。
二又トンネル爆発事故
1945年(昭和20年)11月12日に福岡県田川郡添田町で発生した爆発事故。
同町落合の日田彦山線彦山駅から南方500メートルにあった二又トンネル(鉄道路線は未開通)において、アメリカ軍が当トンネル内に保管されていた大日本帝国陸軍の火薬を焼却処理しようとしたところ、点火から約2時間後に大爆発を起こし、山全体と多数の民家が吹き飛ばされて死者147人、負傷者149人、家屋135戸が被災する大惨事となった。
当時彦山駅以南が建設中であった日田彦山線内の二又トンネルおよび吉木トンネルを、旧日本軍が
空襲の恐れのない場所として、火薬庫として指定した。
結果的に二又トンネルには532トン余りの爆薬が保管されることとなったが、そのまま終戦を迎え米軍の処理対象となった。米軍はこれを焼却処分とすることに決め事故当日は警察をともなって当時責任者だった米軍少尉が実地の指揮を執った。まず少尉は吉木トンネルにて現場を見て点火しても問題ない旨とそれを確認するために少量の火薬に点火してそれを確認すると下士官に点火させて周辺住民には避難を命じた。次に同様に二又トンネルでも点火作業を行った。
しかしながら、吉木トンネルと違い格納率が非常に高かった二又トンネルでは同様の処理には問題
があり、点火後火薬を燃やす炎が想定を越える大きな炎となった。現場から100m離れた民家
がトンネル出口から発せられる炎により延焼するほどで火が次々と燃え広がってしまった。
そして点火から二時間後、轟音とともに大爆発を起こしトンネル上部の山体を完全に吹き飛ばして
大量の土砂を舞い上がらせ、消火活動をしていた住民や、現場近くでドングリ採集などをしていた
小学生29名、彦山駅で炎の状況を見物しながら列車を待っていた十数名など多大な人的被害をもた
らした。なお爆破時刻前後に彦山駅に到着する予定だった列車は駅員が状況を見て急いで駅手前で
食い止め乗客、列車とも無事だった。
戦後の混乱期であったこともあり、本件は一般には広く知られなかった。本件は処理を行った米軍
に多大な過失があるものとして国家賠償請求が行われたが、最終的に国の敗訴が確定、また当時指
揮にあたった米軍少尉は軍法会議で不名誉除隊処分となった。
二又トンネル爆発事故→http://ja.wikipedia.org/wiki/二又トンネル爆発事故
北陸トンネル火災事故
北陸トンネル火災事故は1972年(昭和47年)11月6日未明に福井県敦賀市の北陸本線敦賀駅?南今庄駅間にある北陸トンネルで発生した列車火災事故。火災対策の不備により乗客乗員に多数の死傷者を出す大惨事となった。
1972年11月6日午前1時9分頃、北陸トンネル内を走行中の大阪発青森行き501列車 「きたぐに」の食堂車の喫煙室椅子下から火災が発生。
それに気付いた乗客からの通報を受けた車掌の非常ブレーキ操作と機関士の非常停止措置により列車は運転規定に基づいて直ちに停車した。
しかし炎の予想外の激しさとトンネル内の暗闇で作業は難航。また深夜の火災ということもあって多くの乗客が逃げ遅れ煙に巻かれた。
この事故を教訓に地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準やトンネル内での火災発生時におけるマニュアルの改訂がなされ車両の防火対策が進められることとなった。
北陸トンネル火災事故→http://ja.wikipedia.org/wiki/北陸トンネル火災事故
青酸コーラ無差別殺人事件
昭和52年に起きた青酸カリを混入したコカ・コーラの瓶を電話ボックスなどにおいて無差別に殺人が行われた未解決事件。
第一の事件は品川の国道上で、新幹線ビュッフェで働くグループの一人が寮への帰宅後、電話ボックスで拾ったコーラを飲み死亡。
第二の事件は、第一の事件と同日に電話ボックスから数百メートル離れた歩道上で中年の男が倒れているのが見つかり、その後死亡。その後警察の捜査で品川区内で青酸カリが混入されたコーラの瓶が発見された。
犯人捜しの捜査で分かったことは、
・以前にも何度かコーラ瓶が事件周辺地域にて目撃されていること
・私用された毒物は周囲に点在するメッキ工場で使用されていたものであろうこと
・コーラはコカ・コーラの多摩工場製で前年に製造されたものであること
までで、この後は行き詰った。
犯人は逮捕されなかったが、日本において社会に与えた影響は大きく、直接的に模倣犯という形で同類の事件が繰り返され、「道に落ちていたりするものは食べたり飲んだりしない」「青酸カリという怖い毒物が存在する」ということを国民の脳裏に植え付けた。
青酸コーラ無差別殺人事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/青酸コーラ無差別殺人事件
千日デパート火災は1972年(昭和47年)5月13日、大阪市南区(現在の中央区)千日前の千日デパートで起きた火災。
死者118名・重軽傷者78名を出す日本のビル火災史上最悪の大惨事となった火災事故。
1972年(昭和47年)5月13日、下階店舗が閉店した直後の22時27分頃3階婦人服売り場より出火。延焼は5階までだったが、建材の燃焼による有毒ガスが階上に充満し、避難設備の不備と従業員の不手際が重なって多数の死傷者を出す惨事となった。
出火原因は電気工事関係者のたばこの不始末で、出火場所は3階フロアーの南東角の部分であったという。逃げ道であるはずの階段室が煙突の役目を果たし営業中であった7階のキャバレーにまで煙が充満。しかも土曜日で休みの前日に当たり店内には客が多かったこともあって被害がより大きくなってしまった。
また真偽は定かではないがあの「マネキン」の写真はあまりにも有名
二回も指摘受けちゃってるから
>>1の代わりに防火管理者のボクが貼っておくよ。
大洋デパート火災も日本の火災史では超重要な案件だよ。
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飛騨川バス転落事故
名古屋市内から乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土石流に巻き込まれて、増水していた飛騨川に転落し水没、乗員・乗客107人のうち104人が死亡した。
この事故は、日本のバス事故史上における最大の事故となった。世界のバス事故史上においても最大級に分類される事故である。
本件は、当初企図されていた名古屋市内で募集されたバスツアーのバス15台に750名が便乗して挙行されたうちの2台107名が遭難したもの。当日は台風7号の影響で事故現場は毎時50?以上という猛烈な豪雨となっていたため、一旦引き返して南下していた。
この最中に災害時の最危険地帯である現場に通りかかり、土砂崩れで前後を阻まれ完全に停滞してしまい、午前二時ごろ運悪くダンプカー250台分の土石流が発生、バス2台が巻き込まれた。
転落を免れた者たちが近くにある上麻生ダムへ徒歩で土砂崩れを乗り越えて事故の一報をもたらし、
翌日から救助活動が始まった。転落現場付近で遺体が収容されるが転落したバスの救助ができないため、上麻生ダムの放流を停止させて救助を行う策が取られた。このダムの放流停止は洪水調節機能をもたないダムでは、堤体決壊の危険性を持つ異例中の異例の行為。この措置が取られたのは、本件同様有名な玄倉川水難事故で玄倉ダムを放流停止した際との二回のみである。
転落したバスは見る影もなく大破、遺体の収容は困難を極め下流ダム湖の貯水放流や伊勢湾まで捜索
の手が広げられた。最終的には9名の遺体が見つからず、生き残った者は転落時に幸運にも窓から投げ出され樹木などに引っかかった3名だけだった。
なお、のちの本件の損害賠償訴訟の過程において、自賠責の責任証明は完全に無責であると証明できた場合のみ適用される、と判断されることとなった。
飛騨川バス転落事故→http://ja.wikipedia.org/wiki/飛騨川バス転落事故
徳島ラジオ商殺人事件
1953年に徳島県徳島市で発生した強盗殺人事件。
犯人とされた冨士茂子に対し、刑の確定および死後に再審によって無罪が言い渡された冤罪事件である。日本弁護士連合会が支援していた。日本初の死後再審が行われ、死後に無罪判例によって名誉回復がなされた。
事件の経緯は下記の通り。
早朝に店主が殺害、のちに犯人として逮捕される内縁の妻も負傷する。
警察は市内の暴力団関係者二名を逮捕するが証拠がなく不起訴となる。その後、ラジオ商の住み込み店員を逮捕し不適切な誘導尋問により内縁の妻が犯人であるかのように供述させ、内縁の妻を逮捕した。内縁の妻は無実を訴え、高裁まで争うが裁判費用が出せず上告を断念。しかしその直後に住み込み店員だった男が偽証を告白するも、検察から犯人親族に脅されてそのように告白したと一方的に発表される。
さらに本件の真犯人を名乗る者が警察に自首するも、不起訴処分。犯人とされた女は服役の後、支援者とともに再審請求を行うが昭和54年にがんのため死去した。
その6年後、6回目の再審請求で再審開始が決定され、女の死後から6年後の昭和60年に無罪判決が出された。
本件が発生した前後は多くの有名な冤罪事件が発生しており、戦後の混乱期であったことを差し引いても日本の捜査当局が当時は自白を主眼に置いた思い込みによる非科学的な捜査に頼っていたことや、その後の身内に対する隠ぺい体質ともいえる組織構造を露呈した。
徳島ラジオ商殺人事件→https://ja.wikipedia.org/wiki/徳島ラジオ商殺し事件
これは家庭内暴力殺人の走りかな
あとサレジオ出た?
昭和天皇誤導事件は1934年(昭和9年)に群馬県で行われた陸軍大演習において視察に訪れた昭和天皇一行の先導をしていた警部が緊張のあまり道を誤ってしまい、天皇一行が一時行方不明になったと大騒ぎになった警察の失態事件。
昭和9年(1934年)11月16日、昭和天皇臨席のもと陸軍大演習が群馬県の高崎練兵場で行われた。観兵式に出席した後昭和天皇一行が群馬県桐生市を視察することになっていた。
予定された視察順序は「桐生駅 - 桐生西小 - 桐生高工」となっていた。地元住民は「現人神」である天皇を迎えるために1年前から予行演習を重ねており、出迎える際はひざまづくようにと指示されていた。
こうした非日常の光景の中、先導役の本多重平警部は左折すべき末広町交差点を直進する過失を犯してしまった。そのため視察の順序は桐生高工 - 桐生西小と全く逆になり、先に昭和天皇が訪問するはずだった桐生西小では天皇御一行が行方不明になったと大騒ぎになった。
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本件は犯人逮捕後にさらに一件の婦女暴行殺人事件が発覚する。犯人は在日朝鮮人で高校の同級生だった男である。本事件は凶悪な連続婦女暴行殺人というだけでなく、在日朝鮮人に対する差別に絡めた助命嘆願運動との関連性という二面性を持つ。
女子高生が行方不明後、犯人が自ら新聞社へかけた電話が下記のような内容である。
「特ダネを提供するよ。俺が家出した女を殺したんだ。被害者は江戸川区の○○というんだ。死体は小松川高校の横穴の中にある」
「小松川高校のどこですか」
「穴があるだろう、その穴の中だ」
電話に応対した記者が言われた名前の住所を訪ねると、果たして行方不明となっていた。捜索願が出されて
いるものの警察がこの電話内容を元に捜索するも発見できない。今度は警察に直接犯人から電話。
「○○を捜しているんだろう。それは小松川高校の屋上で殺されている。死体は穴の中だ」
「あなたはどなたですか」
「俺は犯人だ」
電話のとおり屋上から腐乱死体となった若い女性の死体を発見した。その後警察あてに遺留品が郵送されてきたり新聞社にはその後の反響を楽しむような電話がかかってきた。
新聞社員と30分もの間得意げにしゃべり続けてる間に電話局が逆探知に成功、警察が公衆電話に向かったが間一髪で姿がなかった。しかし周辺住民の目撃情報が残ったこと、犯人の声がラジオで公開されたことから情報が多数あつまり、事件発覚から10日後に当時18歳だった少年が逮捕された。
また電話で話している最中に暴露したもう一件の殺人事件について、警察は犯人が以前に書いた小説(この小説は件の新聞社へ投稿し落選している)の内容から特定し、取調中に追及したところこれも白状した。犯人は取り調べや裁判当初時は夢のようで自分のことのような気がしない、などと述べている。
この後、裁判が進むにあたり、事件当時18歳だった犯人を少年法で裁くか、刑法で裁くかが問題となったが犯した罪の内容と、18歳という年齢から少年法の適用外とされることが早期に確定した。
また、死刑が確定したのち、戦後俄かに台頭した朝鮮人差別問題と絡められ文化人による助命嘆願運動が起きた。犯人である当の本人は当初については自己の犯罪について上記のような感想しか持っていなかったが、外野で発生したこのような運動にのちに呼応するようになり急激に民族的意識を芽生えさせはじめ、人間的な贖罪の心を見せるに至るようになった。模範囚となり、作業で得た金銭を両親に送金し、送ってもらった聖書などを熟読していたという。
しかしながら罪の重さや確定した刑が消えるはずもなく、昭和36年に死刑は執行された。
三島事件は1970年(昭和45年)11月25日に三島由紀夫が憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件。
970年(昭和45年)11月25日の午前10時58分頃三島由紀夫は楯の会のメンバー(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と共に東京都新宿区市ヶ谷の自衛隊駐屯地陸上自衛隊東部方面総監部二階の総監室を訪問。
総監を人質に取るとバルコニーに姿を現し有名な「三島演説」を行った。
演説を終えると再度総監室に戻り最期は割腹自殺を図りその生涯を終えた。
ノーベル文学賞候補と言われた彼の一連の騒動は社会に大きな影響を及ぼした。
昭和34年に発生した台風15号による東海地方を中心とした被害をもたらした一連の災害の通称。
死者・行方不明者5098名 負傷者約4万名、比較被害額は関東大震災に匹敵し昭和期最大の台風
被害といわれる。阪神淡路大震災が発生するまでは戦後最大の災害だった。
9月20日に発生した弱い熱帯低気圧はサイパン島東を北上しながら発達し、9月21日深夜から発達
をはじめ台風となった。その後発達を続けながら最大風速75m/sの状態で北上を続けて、26日の
18時ころ930ヘクトパスカルという巨大な台風となって潮岬に上陸した。その後紀伊半島から北東
方向へ速度を上げながら進み、27日0時には日本海へ抜けた。
一夜明けると被害状況が分かってきたが、伊勢湾の最奥部にかけて最大4mもの高潮が発生した
ため、標高の低い沿岸部は壊滅的な状態となり、犠牲者の多くは愛知県と三重県の沿岸地域に
集中する結果となった。特に名古屋港には当時広大な貯木場があり、この木材が高潮に乗って
標高の低い地域の家屋を直撃して被害を大幅に拡大させることになった。
また水が引くまでに1か月以上を要し、堤防を作り直してポンプで排水している間に次の台風が来て、
さらにチリ地震津波による被害も発生するなど復興には相当な期間を要した。また山間部でも
急激な豪雨により土石流が多く発生し家屋や田畑の消失が広範囲に及んだ。
伊勢湾台風→http://ja.wikipedia.org/wiki/伊勢湾台風
自分の知ってること晒すのは楽しい罠。
気が向いたら続きよろしく
>>95
知らなかった事件がたくさんあったわ
五・一五事件は1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。
武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入し内閣総理大臣犬養毅を殺害した。
当時の日本は議会制民主主義が根付き始めたが1929年(昭和4年)の世界恐慌に端を発した大不況で企業の倒産が相次ぎ、社会不安が増していた。1931年(昭和6年)には関東軍の一部が満州事変を引き起こしたが政府はこれを収拾できずかえって引きずられる形だった。
犬養政権は金輸出再禁止などの不況対策を行うことを公約に1932年(昭和7年)2月の総選挙で大勝をおさめたが、一方で満州事変を黙認し陸軍との関係も悪くなかった。
しかし、1930年(昭和5年)ロンドン海軍軍縮条約を締結した前総理若槻禮次郎に対し不満を持っていた海軍将校は、若槻襲撃の機会を狙っていた。
ところが、立憲民政党(民政党)は大敗、若槻内閣は退陣を余儀なくされた。
これで事なきを得たかに思われたがそうではなかった。計画の中心人物だった藤井斉が「後を頼む」と遺言を残して中国で戦死し、この遺言を知った仲間が事件を起こすことになる。
第一次石油危機1973年(昭和48年)に起こった、原油の供給逼迫および価格高騰と、それによる世界の経済混乱。
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に石油輸出国機構 (OPEC) 加盟産油国のうちペルシア湾岸の6ヶ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。翌日10月17日には、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減を決定した。
石油価格の上昇はエネルギー源を中東の石油に依存してきた先進工業国の経済を脅かした。
特に日本では1960年代以降にエネルギー革命を迎えエネルギー源を石油に置き換え、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた景気を直撃。
前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが石油危機により相次いだ便乗値上げなどによりさらにインフレーションが加速されることとなった。
日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23%上昇し「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資などを抑制する政策がとられた。結果、1974年(昭和49年)は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。
オイルショックの影響で人々がトイレットペーパーを求めスーパーに殺到している写真は誰もが一度は目にしたことがあるはず。
第一次石油危機→http://ja.wikipedia.org/wiki/第一次石油危機
小笠原事件
パリ人肉食事件
三里塚闘争は1966年(昭和41年)7月20日から始まった、千葉県成田市の農村地区名称である三里塚とその近辺で行われた成田国際空港建設に反対する闘争およびこれに関連する事柄のことを指す。成田闘争とも。
1960年代初頭、来るべく国際化に伴う空港需要の増大を見越し政府は羽田の東京国際空港に代わる本格的な国際空港の建設を計画した。
1963年(昭和38年)の案では現空港の4km南にある富里地区を候補に上げた。しかし、富里は農場経営のモデルケースだったことから激しい反対運動が勃発し2年後に富里地区建設案は白紙撤回された。
その後、候補地は四転五転したがいずれも反対運動にあったため建設計画自体が頓挫する恐れが出てきた。このことを懸念した佐藤栄作内閣は1966年(昭和41年)6月に御料牧場があった三里塚・芝山地区を候補地として、同年7月4日に閣議決定した。
御料牧場は空港予定地の4割弱しか占めていなかったにもかかわらず、政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。
政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は7月20日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。
おやすみ
またよろしく
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申し訳ない…
頑張ろう
三河島事故は1962年(昭和37年)5月3日21時37分頃、東京都荒川区の日本国有鉄道常磐線三河島駅構内で発生した列車脱線多重衝突事故。「国鉄戦後五大事故」の一つ。
常磐線三河島駅構内で、貨物線から進行方向右側の下り本線に進入しようとした貨物列車が出発信号機の停止信号を行き過ぎて安全側線に進入し脱線。先頭の機関車とタンク車が下り本線上に飛び出した。
その直後に三河島駅を4分遅れで出発し下り本線を進行してきた電車が下り本線を塞いでいたタンク車に衝突。先頭車と2両目の車両が脱線し、上り本線上に飛び出した。
さらに約7分後その現場に上り電車が進入し、線路上に降りて移動中だった電車の乗客多数をはね、上り本線上に停止していた先頭車と衝突した。
これにより先頭車と2両目の前部が原形を留めず粉砕された。
結果として死者160人、負傷者296人を出す大惨事となった。
この事故を契機として、自動列車停止装置(ATS)が、計画を前倒しにする形で国鉄全線に設置されることになり、1966年(昭和41年)までに一応の整備を完了した。
また国鉄はこの事件がきっかけで保有するプロ野球球団国鉄スワローズをフジサンケイグループに売却することになった。
更にこの事故により「三河島」という地名が全国にマイナスイメージとして持たれるようになったため、1968年の住居表示施行を機に一帯の「三河島町」という町名は消滅する事態にもなった。
金閣寺放火事件は1950年7月2日未明に、京都府京都市上京区金閣寺町にある鹿苑寺、通称・金閣寺において発生した放火事件。
1950年7月2日未明、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけたがその時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかった。
幸い人的被害はなかったが国宝の舎利殿が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍・足利義満の木像(当時国宝)や観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻などの文化財6点も焼失した。
鎮火後行われた現場検証では普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた。
その結果同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢が行方不明であることが判明し捜索が行われたが、夕方になり寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕された。
動機は「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていたとされるが実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていることのほか同寺が観光客の参観料で運営されており僧侶よりも事務方が幅を利かせていると見ていたこともあり、厭世感情からくる複雑な感情が入り乱れていたとされる。
そのためこの複雑な感情を解き明かすべく多くの作家により文学作品が創作された。
例として三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』などがある。
特に水上は舞鶴市で教員をしていたころ、実際に犯人と会っていると述べ、事件に強い衝撃を受けたとされる。また、この事件に関して各方面への取材を重ね1979年にノンフィクション『金閣炎上』を出版した。
八海事件
八海事件は1951年(昭和26年)に山口県熊毛郡麻郷村八海で発生した強盗殺人事件。
二度の差し戻しを経て、1968年(昭和43年)の最高裁判決で被告人5人のうち、犯人が共犯者として名指しし逮捕された4人が無罪となった。
この事件における警察の強引な捜査のやり方は後に大きく問題視されることとなった。
1951年1月24日、山口県熊毛郡麻郷村八海で早川惣兵衛さん夫婦が殺され、現金約1万7000円が奪われた。近くに住む青年・吉岡晃が逮捕され当初単独犯行を自供したが、やがて「仲間4人と5人でやった」と供述を一転させた。
嘘の自白により逮捕された阿藤周平さん(当時24歳)ら4人は厳しい取調べに吉岡の供述に合わせる自白をしてしまう。裁判では1審、2審と阿藤さんに死刑、他は無期懲役、懲役12?15年という有罪判決が下された。
ところがその後、冤罪を確信した弁護士らの尽力により事件発生から17年後の1968年10月25日になって阿藤さんらはようやく最高裁から無罪判決を受けた。
判決後、阿藤さんらは取材記者に対して「本当に長かった。僕はこれでいいんです。自分たちの無実が晴れればそれで良いんです」と語った。
血のメーデー事件
血のメーデー事件は1952年(昭和27年)5月1日に東京の皇居外苑で発生した、デモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件。事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものとも。戦後の学生運動で初の死者を出した。
1952年5月1日、この日の第23回メーデーで参加したデモ隊が使用不許可とされていた皇居前広場(人民広場)に突入し、警官隊と衝突。2人が死亡した。
※メーデー・・・・毎年5月1日に行われる国際的な労働者の祭典。1886年5月1日、米国で行われた8時間労働制要求のゼネストとデモが発端となった。89年の第二インターナショナル創立大会で決定し、90年から挙行。日本では大正9年(1920)に第一回が行われ、昭和11年(1936)以降禁止されたが、同21年復活。労働祭。五月祭。
この日行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人や日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向いその途中で駐留米国軍人の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続けた。
そして馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込んだ。
これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じ、デモ隊に応戦しようとしたがデモ隊の苛烈な攻撃に次第に耐えきれなくなりやむを得ず拳銃を発砲する事態となった。
デモ隊・警察部隊両者とも激しくぶつかり合い、流血の大惨事となった。
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金嬉老事件は1968年(昭和43年)2月20日に3在日韓国人二世の金嬉老(キム・ヒロ)が犯した殺人を発端とする監禁事件。寸又峡事件とも呼ばれる。いわゆる劇場型犯罪の最初のケース。
1968年2月20日夜、静岡県清水市のクラブで金嬉老(当時39歳)が、知人2人を射殺。そのまま逃亡した。
金はその足で寸又峡温泉の旅館「ふじみや」に向かい、旅館の一家と客を人質にとり篭城した。
横須賀線電車爆破事件
昭和48年国鉄横須賀線大船駅付近を走行中の列車内で発生した爆弾事件。1名死亡14名重軽傷。
犯人は大工の男で、動機は振られた女がデートの際によく利用していた横須賀線に時限爆弾をセットしたという単純なものだった。捜査は爆発物に使用された火薬が猟銃用の特殊な弾薬であることと、梱包に使用していた新聞紙と土産物の箱から犯人を特定した。
犯人は裁判時に有名な草加次郎事件を持ち出し、草加次郎さえいなければこんな事件は起こさなかった、と嘯いた。その後、犯人は死刑判決を受けたのちに信頼を寄せた牧師に従いキリスト教の洗礼を受け、歌人となってさかんに短歌をキリスト教関係誌に投稿していた。
犯人の刑執行後20年の後、遺族によりその歌集が出版された。
本件はまた、前年に発生した山陽電鉄爆破事件や、本件直前に警視庁刑事部あてに届いた脅迫状(いずれも本件とは無関係)から広範な捜査網を敷くに至ったが、発生当時世間は騒然とした。
なおこの本件は警察庁広域重要指定事件に指定された事件としては、唯一単独案件で指定されたものである。
横須賀線電車爆破事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/横須賀線電車爆破事件
昭和23年6月28日16時過ぎに発生した福井県丸岡町付近を震源地としたM7.1の超大型の都市直下型地震。
死者行方不明者3769名 負傷者22203名。被害規模は関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災に並
ぶ日本災害史上最大規模のもの。特に震源となった福井市および坂井郡では人口の1%超が死亡すると
いう日本近代史に例を見ない大きなものとなった。
特に被害が多かったのは地盤の弱い福井平野で、且つ戦後で基礎もままらないバラックのような建物
が林立する地域に人口が集中してしまったことが人的被害を拡大させたものと思われる。本件は戦後
の混乱期であったこともあり復旧活動は困難を極めた。災害ボランティアが東京に向けて送った追加
救援要請は「被害甚大。衣食携行、決死の覚悟で来い」という悲壮なものであった。
当時福井市は終戦直前に起きた福井大空襲、福井地震直後に起きた集中豪雨による九頭竜川堤防決壊
という三度の壊滅的被害を受け再起不能とまで言われたが、そこから見事の復興し「不死鳥の町」を
自称するに至った。
なお、本件を契機として気象庁は震度階級に「震度7(激震)」を追加した。また建築基準法には
地域別の設計震度が導入されることとなった。
福井地震→http://ja.wikipedia.org/wiki/福井地震
東大安田講堂事件
東大安田講堂事件は学生の自発的組織である全学共闘会議(全共闘)および新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講堂を占拠していた事件と、大学から依頼を受けた警視庁が1969(昭和44年)年1月18日から1月19日に封鎖解除を行った事件。東大安田講堂攻防戦ともいう。
1960年代後半、ベトナム戦争が激化していたことや1970年で期限の切れる日米安全保障条約の自動延長を阻止・廃棄を目指す動きが左派陣営で起きていたことが引き金となり学生によるベトナム反戦運動・第二次反安保闘争が活発化した。
それと時を同じくして高度経済成長の中、全国の国公立・私立大学においてはベビーブーム世代が大量に入学する一方で時に権威主義的で旧態依然とした大学運営がみられた。
これに対して学生側は授業料値上げ反対・学園民主化などを求め各大学で結成された全共闘や、それに呼応した新左翼の学生が闘争を展開する大学紛争(大学闘争)が起こった。
その中で東京大学における闘争は1968年(昭和43年)1月に、東大・医学部の学生が「インターン制度に代わる登録医制度」に反対したことから始まる。
医学部の学生達は、この制度改定に反対するため無期限ストを実施。さらに、東大・医局長を缶詰状態にして制度改定反対を申し入れた。
しかし東大・医学部は、この缶詰事件で17人の学生の処分を発表。ところが、処分発表された1人は、缶詰事件に関与していないことがその後判明し、学生側と東大側で紛争の火種となった。この処分撤回を要求する学生側と東大側で平行線が続き、遂に6月に反日共系の学生たちが、東大のシンボルである安田講堂を不法占拠した。
これに対して、大河内東大総長は警察に出動要請。機動隊12000人が大学構内に入り、不法占拠を排除したがこれに対し学生の反発が強まり安田講堂がバリケード封鎖された。
そして1969年(昭和44年)1月18日、東京大学・加藤一郎大学総長代行は、東大・安田講堂、その他の教室を不法占拠している全学共闘会議の学生達を排除するため、警察に出動要請を行った。この要請に警察は、8500人の機動隊を派遣し35時間の攻防戦を展開した。
こうして俗にいう「安田講堂攻防戦」が開始させられた。
「ひかりごけ」事件
昭和19年に起きた北海道の知床岬で起きた死体損壊事件。
日本において法廷で食人が罪であるか、を初めて裁いた事件である。
昭和18年12月根室港を発った7名の船員を乗せた軍徴用船は翌日に知床岬沖で大時化に遭いそのまま消息を絶った。
その後同船は不明のまま真冬の時季でもあり絶望とみられていた。ところが翌19年2月に羅臼町に住む漁民の家に一人の男が現れた。その男は不明船の船長で、この2か月の間に流れ着いた岸の番屋にあったわずかな食糧とアザラシを捕って食べて凌いでいたと述べた。漁民一家は真冬の知床の厳しさを知っていたため驚愕し、たちまち本件は巷間の知るところとなって時節柄「不死身の神兵」などと祭り上げられた。
しかし同年5月に漁業を再開に来た漁民(不明船船長が寒さを凌いだという番屋の持ち主)が、番屋近く岩場にあったリンゴ箱におさめられた白骨死体を発見した。この死体は人間の表皮や頭部を割られて脳漿が空になった頭蓋、肉がナイフのようなものできれいに切り取られた骨等がいっぱいに詰まっていた。この漁民は人肉食を疑い警察に届け出た。警察は現場検証後、死体を解体して食したことは明らかとして、船長を殺人、死体損壊、遺棄容疑で逮捕するに至った。
逮捕された船長はあっさりと人肉食を認めたものの殺人については否定した。
事の経緯としては、遭難後に船から避難する為に岬に降り立ったものの折からの極寒と雪のために船長ともう一人の船員以外とはぐれた。件の番屋を見つけてここで風よけはできたものの食糧は岸に流れ着く昆布やワカメなどしかなく、これを番屋に残されていた少量の味噌で味噌汁を作ってしのいでいた。やがて遭難から45日を経過したのちもう一人の船員が体力消耗のため死亡した。船長がその船員の肉を食したのはその二日後、番屋を脱出して漁民一家にたどりついたのはその二週間後だった。
なお、日本には食人を罰する規定はない。
そのため裁判では弁護人は無罪を主張した。また極限状態に置かれた船長が人肉を食さなければ死に至ると考えて食人を行ったとすれば死体損壊罪についても、いわゆる緊急避難にあたると考えられ違法性が無いため無罪を主張した。
結局判決としては、犯人は食人を侵さなければ必ず死に至る、ましてやそれが同胞のものであるのであればなおのこと社会生活の文化秩序維持の精神に悖るとして、有罪判決となった。懲役1年。
本件を有名にしたのは、武田泰淳が本件を元に執筆した小説戯曲「ひかりごけ」から、ひかりごけ事件といわれるのがいまは一般的である。
昭和ってすごかったんだな
1970年(昭和45年)7月、日高山脈を縦走せんとしていた福岡大学ワンゲル部5名が執拗にヒグマに襲われ、3人が次々と命を落としていった事件。
1970年7月、福岡大学ワンダーフォーゲル部員の5人パーティーが日高山脈の芽室岳からペテガリ岳までの日高山系縦走すべく入山した。
パーティーは竹末一敏さん(リーダー)、滝俊二さん(サブリーダー)、興梠盛男さん、西井義春さん、河原吉孝さんの五人だった。
7月25日、中間地点のカムイエクウチカウシ山にさしかかっていた5人だったが大幅に予定が遅れていたため翌日の登頂後に下山することにし「九ノ沢カール」という箇所でテントを張った。
しかしここでヒグマからの最初の襲撃を受けた。
発見したのは竹末さんでテントから7mほど離れたところにヒグマはおり、当初パーティーは誰もヒグマを怖がっておらずしばらく興味本位で見ていたが、やがてヒグマの方から近づいてきてテントの外にあった登山用のザックを漁り中の食料を食べ始めた。
発見してから30分ほど経った頃である。
メンバーはラジオの音量を上げ、火を点し食器を打ち鳴らしてなんとかヒグマを追い払うことに成功した。
しかし午後9時頃、疲れて眠っていたパーティーはヒグマの鼻息で目を覚ますこととなる。ヒグマはテントにこぶし大の穴を開けた後、去って行った。これが2度目の襲撃で、メンバーは2人ずつ2時間交替で見張りを立てることにした。
その後もヒグマは執拗に五人をつけ回し、結果的に三人のメンバーを殺害。
三人の遺体は顔半分がなかったり腹部から腸が引きずり出されるなど、目を背けたくなる光景だったそうである。
これ怖いよなぁ
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恐らくまだ出てないですね
お気に入りに入れとこう
よど号ハイジャック事件
よど号ハイジャック事件は1970年(昭和45年)3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。日本における最初のハイジャック事件。
1970年3月31日、羽田空港発板付空港(現福岡空港)行きの日本航空351便・通称「よど号」が赤軍派を名乗る9人によってハイジャックされた。
犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。
よど号は福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。
かねてより赤軍派は、国内での非合法闘争の継続には後方基地としての海外のベースが必要であると考え、海外にメンバーを送り込む計画を立てていた。
ところが、1970年3月15日に赤軍派議長の塩見孝也が逮捕されてしまう。
逮捕された際、塩見は「H・J」(High Jackの意)と書かれたハイジャック計画に関するメモを所持していたが、当時の公安警察はメモの「H・J」がハイジャックを意味するものだとは気付かなかった。
よど号ハイジャック事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/よど号ハイジャック事件
運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、運輸政務次官山村新治郎が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した後に帰国した。
昭和電工事件は1948年(昭和23年)におきた贈収賄汚職事件。昭電疑獄とも。
復興資金として復興金融金庫からの融資を得るために、大手化学工業会社・昭和電工の日野原節三社長が行った政府高官や政府金融機関幹部に対する贈収賄事件である。1948年6月に発覚。
疑惑に先に手を付けたのは警察だった。警察は内定を進めていくうちに政界がらみの大きな汚職事件になると確信し政府がつぶれる危機すら抱いたが、それでも捜査を進めた。
そして捜査の過程でGHQ職員らも金を受け取っている、政・財・GHQの三つ巴の構造汚職であることを掴む。
このためこれを察知したGHQは圧力をかけ、捜査から警察を締め出しGHQのいうがままに動く検察主導で行わせるよう工作。そこで秦野は一策を講じ、クリスチャン・サイエンス・モニターの記者であったゴードン・ウォーカーを呼びGHQ関係者の名前がずらりと並んだ汚職容疑者リストをすべて彼に渡した。
ゴードン・ウォーカーはさっそくGHQを訪れ「GHQは、日本の警察の邪魔をするのか」といい、そのリストを見せた。するとGHQの警察への干渉はぴたりと止まった。
うまくいったと思った直後、ゴードン・ウォーカーはなんと突然朝鮮半島へ転任にされてしまう。
また秦野と藤田刑事部長の2人も突如転任となり、その後捜査は警察から検察へ移ることになった。
検察の捜査ではGHQへの疑惑は全く出なかった。
しかし大蔵官僚・福田赳夫(後の首相)や野党・民主自由党の重鎮・大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕に始まり、政府高官や閣僚の逮捕に及ぶなど波紋は確実に広がった。
また栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙され芦田内閣の総辞職をもたらした。
その後前首相であった芦田自身も逮捕されたが裁判では栗栖以外の政治家は無罪となった。
やっぱり崩壊直後に新しく創設されたこういう組織の話は面白いな
腐敗しきってると思いきや組織全体が若いから正義に向かって動こうとするの
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昭和46年岩手県雫石町上空で発生した、練習中の自衛隊戦闘機F-86Fと全日空58便千歳発羽田行の空中衝突事故。
いわゆる日航123便事故が発生するまでは日本国内最悪の航空事故で、事故現場は凄惨を極めた。
全日空側の乗員乗客162名全員が死亡、自衛隊機側パイロット1名は脱出に成功して無事だった。
事故は速度的に速い自衛隊機が、当日ルートを逸脱していたと思われる全日空機に対して適切な回避行動を取ることができず、さらに自衛隊機を視認していたにもかかわらず回避行動を取らなかった双方のミスが重なり、自衛隊機が全日空機尾翼を切り取る形で接触し、双方そのまま墜落した。
衝突から10数秒後に全日空機は高度8500メートルから5000メートル付近まで急降下したのち音速の壁を越えて、ソニックブームを起こして空中で圧壊し、そのままバラバラになった機体とともに乗客乗員は雫石町へ墜落した。
ソニックブームが起きた際、町の住民や農作業中の者が、折からの好天もあって空に一度きれいに花火のような爆発があったのを見た後、きらきらしたものがたくさん降ってくることに好奇心を駆り立てられてわざわざこれを見物しに出てきて、空から悲鳴とともに高速で降ってくる阿鼻叫喚の絵図を見ることとなった。
特に小学校校庭や近くの畑、そして現在慰霊の森のある山には多数の遺体が墜落することとなり、見るに堪えない凄惨な状況となった。また時季が夏であったため、状況から遺体のすべてを回収できるはずもなく、夜になるとリンが燃えて青白い炎がしばらく沸き立ったという。なお幸いなことに墜落物体による被害者は、家にランディングギアが落ちてきたお婆さん一人が負傷しただけだった。
本件は事故原因がどちらにあるかでその後も大きく世間をゆるがした。
また本件のその後の影響として、自衛隊訓練空域と民間航空路のエリアを完全に分離すること、空中衝突防止装置の開発と搭載の義務化、自衛隊機を含めた航空管制区域内での義務適用厳格化が行われた。
全日空機雫石衝突事故→http://ja.wikipedia.org/wiki/全日空機雫石衝突事故
下山事件
下山事件は1949年(昭和24年)7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
事件発生直後から自殺説・他殺説が入り乱れ、警視庁は公式の捜査結果を発表することなく本捜査を打ち切った。また下山事件から約1ヵ月の間に国鉄に関連した三鷹事件、松川事件が相次いで発生し、三事件を合わせて「国鉄三大ミステリー事件」と呼ぶ。
1949年6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)の初代総裁に就任したばかりの下山定則は7月5日朝、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。そして出勤途中に運転手に日本橋の三越に行くよう指示した。
三越に到着したものの開店前だったため一旦国鉄本社のある東京駅前に行って千代田銀行(三菱銀行、現在の三菱東京UFJ銀行)に立ち寄るなどした後再度三越に戻った。
そして午前9時37分頃公用車から降りた下山は「五分くらいだから待ってくれ」と運転手に告げ、急ぎ足で三越に入りそのまま消息を絶った。
普段下山は午前9時前には国鉄本社に出勤し、毎朝秘書が玄関で出迎えていたが失踪当日は国鉄の人員整理をめぐり緊張した状況にあり午前9時には重要な局長会議が予定されていたため、自宅に確認したところ「普段通り公用車で出た」との回答に国鉄庁内は大騒ぎとなり、警察に連絡。失踪事件として捜査が開始された。
そして翌7月6日午前0時30分過ぎに足立区綾瀬の国鉄常磐線北千住駅 - 綾瀬駅間で汽車に轢断された下山の遺体が発見されるに至る。
捜査は難航し、結局1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となり事件は一応の終幕を迎えた。
下山事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/下山事件
第四艦隊事件
昭和10年岩手県東沖合で発生した日本海軍第四艦隊演習中での大規模な海難事故。
演習に参加していた大部分の艦艇が損傷し、駆逐艦二隻は艦首部を喪失するという類を見ない損害を出した。殉職者54名 損害艦艇 空母中破2重巡小破1軽巡小破1駆逐艦大破6小破多数
事件は第一、第二艦隊との合同演習のさなかに発生した。折からの荒天(台風だった)ではあったものの、荒天時の訓練も有意義であるとの判断に加えて、横須賀沖での伏見宮ご観閲による演習を控えていたため、演習は強行された。
主力部隊は960ヘクトパスカルの台風の中心部に入り波高20mにも上る大波を受けて、艦艇の大部分がその直撃を受けた。被害として転覆、沈没は免れたものの、特に特型と呼ばれる駆逐艦二隻
は艦首を切断するという前代未聞の損傷をだし(これまで戦闘以外での航海中に船体切断が起きた軍艦艇は、就役直後のイギリス駆逐艦1隻だけであった。
その後の調査で、特型駆逐艦については強度不足が発覚し以前の検査で強度的に問題がないとされた艦艇すべてを再検査する事態となった。また前年に同様の理由で転覆した水雷艇友鶴の件もあり、徹底的に安全確認がされることとなった。このような被害が出た主な理由としては、ロンドン海軍条約で定められた規定内限界まで、ほとんど全艦艇を艤装していることと、当時はまだ技術的に未熟だったが資材不足により多用されていた溶接による接合部が主な問題点だった。
本件は起きた問題の大きさから国民には隠匿された。しかし造船技術として、必須の部分には枯れた技術を採用すること、溶接技術の更なる改良発展を続けることとなった。
戦後日本が造船王国として世界に君臨する遠因として本件を契機とみる向きは多い。
第四艦隊事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/第四艦隊事件
死のう団
昭和8年に起きた「日蓮会殉教衆青年党」(通称「死のう団」)なる結社による一連の騒擾事件。
主に集団で「死のう死のう死のう」などと叫びながら行進を続けたためにデモ隊員が逮捕された。
この事件はその後特高による宗教団体への弾圧が約4年半に及び、最後に盟主が病死したのち、
後追いで会員が自殺を遂げて終焉した。
事件にかかわった「日蓮会」は既存の仏教の堕落に絶望していた盟主である男が起こした新宗教。
死のう団はその日蓮会の青年部(これも日蓮会内部での軋轢により生まれた一組織だった)に
属していた者たちが作った結社だった。
曰く法華経から「不惜身命」を行動規範の柱とし、以下を血判で宣言するに至る。
我が祖国の為めに、死なう!!!
我が主義の為めに、死なう!!!
我が宗教の為めに、死なう!!!
我が盟主の為めに、死なう!!!
我が同志の為めに、死なう!!! 日蓮会青年部
昭和8年夏に不帰の旅路と称して日蓮会は「殉教千里行」なるものを決行した。鎌倉鶴岡八幡宮で祈願したあとひたすらに「死のう死のう死のう」などと叫びながら練り歩く白装束の集団は周辺住民から奇異の目で見られた。
その日横浜と鎌倉の境である朝比奈の山で野宿する予定だったところへ特高警察が急襲し、全員を逮捕した。団員はただの取り調べ程度と考えていたが、実際には違っており折からの日蓮系宗教団体を精神的支柱に持つ団体が起こした事件(血盟団事件や五一五事件など)との関連を疑われ、治安維持法に基づいた弾圧を加えられることとなった。
その後、折につけ特高からのマークや嫌がらせのような弾圧を受けたが、後に特高がでっちあげたクーデター計画や女性団員に対する暴行などが発覚して、盟主が特高を告訴するに至ってマスコミの疑惑の目は逆に特高に対して向けられるようになった。
この後さらに特高の日蓮会に対する弾圧は苛烈を極め、会員の脱会者が相次ぎ、数少ない残された会員は日に日に病気を進行させて死期の近い盟主を見るにつけ血判宣言のごとく死のうと考えるようになっていた。
残り少なくなった5人が国に対する弾圧を訴えて、自決を演じることとなった。自決のそれぞれの場所は警視庁、国会、首相官邸(と思って入ったが外務次官邸)だった。この自決劇(もともと示し合わせて自決を演じただけだったため致命傷を受けたものはなし)の後、歌舞伎座や電車の中で「死のう」と書かれたビラをばらまくなどの行為が相次いだ。
翌年に盟主が病死し、数少なく残っていた団員達は盟主の後を追って次々に自殺を遂げ、最後に残った団員が定期船の船上から突然「死のう!」と叫びながらビラを撒いて海中へ没し、ここに完全に「死のう団」(彼らは一度もその名を名乗ったことは無くマスコミが作り上げた造語)なる結社は終焉した。
昭和40年東京の寿司屋で発生した傷害致死事件。
被告となったのは聾唖者で当時の障碍者に対する差別が浮き彫りにされ、その後の障碍者に対する人権
問題提起の大きなきっかけとなった。
発端は店内にいた聴覚障碍者の二人の青年と、手話を見てそれをからかった他の客三人とが起こした
喧嘩だった。三人は奇異の目でからかい、聾唖の青年がそれを何度も制止したにもかかわらず喧嘩と
なった。これを見た店主が喧嘩の仲裁に入ったところ、口で言ってもわからない状況に店主が聾唖の
青年に対して激昂してしまい食器等で殴打するような状況となった。青年は争いになるなか、店主を
投げ飛ばしたところ運悪く後頭部を強打してそのまま翌朝に死亡した。
事件としては不運な傷害致死ではあるが、裁判中に聾唖の青年が、裁判所の準備した手話通訳者と意志
疎通がうまくできず、明らかに自分の主張が通じていないとして何度も手話通訳者を交代するよう
訴えたが聞き入れられ無かった。最終的に通常より重い懲役四年の実刑判決を受けることとなった。
この時代はまだ聾唖者に対する手話通訳の重要性が認識されておらず、戦時中は手話通訳そのものが
禁止されるというようなこともあり、意志疎通の十分にできる環境にはなかった。また裁判所でも
通訳を受ける権利は保障されていなかった。
この事件を契機に聾唖者に対する権利主張が活発化し、手話通訳運動にまつわる重要な契機となり、
手話通訳に従事する者は必ず知るところとなる案件となった。
蛇の目寿司事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/蛇の目寿司事件
戸塚ヨットスクール
昭和58年に発覚した航海技術養成学校「戸塚ヨットスクール」で起きた一連の生徒不審死事件。
立件された案件で死者3名行方不明者1名。他体罰によると考えられる傷害は多数あるとみられ、さらに事件後に再開された学校での再びの自殺や自殺未遂が平成20年代に入って相次いでいる。
事件のあった本校は、発覚前まではマスコミに青少年育成に効果がある学校として好意的に取り上げられていた。当時の世相として、経済的に安定期に入ってきていたことから子供の教育に目を向けられ、子供の不登校や情緒障害児などに対する治療や指導に注目が集まっていた。同校はマスコミに取り上げられると同時に生徒が増加、校長は時代の寵児となっていた。
マスコミが注目する中、発生した事件が必然的に発覚する事態となり疑惑の目を向けられるようになった。
昭和57年に発生した高知県沖太平洋上での少年2名が行方不明となった事件では、入校を拒否する二人を強引に連れていき格子戸を嵌めた部屋で手錠をかけて監禁し、常に逃走防止の監視をつけるという状態で、入所からたった20日間ほどで洋上で消息を絶った。同年12月に13歳の少年が入校一週間で校長とコーチから、ヨットから何度も投げ落とされて死亡。遺体の状況から傷害致死であると警察は断定、スクールを家宅捜索し校長以下コーチらを逮捕するに至った。
その後の裁判で校長らは教育にすぎないことを訴えて裁判が長期化。15人全員の有罪が確定するまで実に19年を要する長期裁判となった。
なお冒頭で記述した通り、校長は平成18年に出所。スクールを再開する旨をマスコミに語り、その通りスクールに返り咲いた後、複数の生徒自殺・自殺未遂事件を起こし、新たな疑惑の渦中にいる。
戸塚ヨットスクール事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/戸塚ヨットスクール事件
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桜田門事件は1932年(昭和7年)1月8日に発生した昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件。犯人の朝鮮人は天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、死刑となった。
桜田門は皇居にある門の一つであり、1860年には江戸幕府大老・井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」の現場でもある。
1932年1月8日、昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道から手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣・一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。
これにより近衛兵1人が負傷、馬車は破壊され馬2頭が負傷した。
犯人は、大韓民国臨時政府が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって派遣された刺客・李奉昌であった。李は昭和天皇が観兵式に臨席することを新聞で知り、犯行の前々日に偶然入手した憲兵の名刺を使って観兵式の警戒網を突破したが、精神的動揺のために襲撃に失敗したものであった。
逮捕後、李は大逆罪に問われ、同年9月30日に大審院において死刑判決が下り、10月10日に処刑。
事件発生を受けて犬養内閣は責任を取るために内閣総辞職を決定するが、翌9日に昭和天皇からの慰留によって、犬養毅首相以下全閣僚が残留することになった。ちなみに上海では中国国民党機関紙「民国日報」が事件について好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展して日中関係が緊迫化し、これが第1次上海事変の原因の1つになった。
張作霖爆殺事件
昭和三年に中国満州鉄道連長線上で起きた満州奉天軍大元帥張作霖を狙った列車爆破事件。
本件においてターゲットとなった張作霖含め側近ら17名が死亡。日本軍によるテロで、直接の実行は関東軍と朝鮮軍で行われた。
、
当時中国は国民党と共産党が南部で争っており、第一次国共合作を反古にして共産党を412クーデターで弾圧した蒋介石が南京国民政府を立てるにあたり国民党が優勢な状況となっていた。国民党には反共で目的が合致している列強がバックにおり、国民党はこれをうけていよいよ北伐を開始しようとしていたところだった。
張作霖は当時日本軍のバックアップを受けて関東を拠点に奉天軍を組織しており、国共合作破棄後のライバルの退場を受けて増長し、北京へ入城したのちに大元帥を名乗って北部をほぼ制圧するとともに次第に反日的な欧米勢力へのすり寄りがみられた。また関東軍の意向にも従わなくなってきていた。
しかしながら、南部で国民党が力をつけており、さらに日本軍では関東に新国家を打ち立てる動きがあり、張作霖の立場は微妙になりつつあった。張作霖はその後国民党にすり寄る姿勢をみせて、関東以西を明け渡し関東で勢力を維持する密約を取り付けていた。
また時を同じくしてアメリカが九か国条約を提示して満州での関東軍の動きを抑制する動きを見せ、日本にとっていよいよ張作霖の存在が不要のものとなりつつあった。そのような中、秘密裏に爆破テロは実行された。
本件は直接的には実行犯である関東軍大佐が停職の後退役(ただしその後満州の石炭鉱山の理事長となって巨万の富を得ている)、田中義一内閣が責任を取らされて総辞職となった。また張作霖の息子張学良はこのときすでに国民党と和解しており、事件の真相を知って激怒して奉天軍がそのまま国民党政府に合流することとなった。
いいっすねぇ…
この辺の時代は本当に面白い
瀬戸内シージャック事件
昭和45年に5月に広島で発生した観光船乗っ取りを中心とした一連の事件。
本件は人質事件としては犯人射殺により解決した初の案件。また射殺の瞬間をマスコミが報じ
ることなどにより人権問題へと発展し、日本の警察における銃器使用に非常に大きな影響をも
たらした。
犯人は所謂問題児で、小学生のころから素行不良となり施設や少年院への出入りを繰り返して
いるような男だった。犯行は仲間三人と福岡市内で乗用車を盗難したところから始まり、
検問でまず警官ともみ合いになり警官を刺した男が逮捕され、二人で広島方面へ逃げた。
その間に山口県内で別の軽乗用車を盗難して、広島の郵便局強盗を二人で計画、ところが
広島市内に入ると警察による警戒線が多数張られており何もできないまま市内山中で仮眠し
ていたところを発見された。追跡を受け、持っていた猟銃で犯人が警官を威嚇するとその隙に
もう一人の男は逃走、犯人は通りかかった軽乗用車に銃を向けてその車に乗り込み市内へと
逃げた。市内でなじみだった銃砲店に押し込みライフル2丁、猟銃1丁、銃弾380発を
強盗してフェリーターミナルのある宇品港へと向かった。
その後犯人は停泊して観光客を乗せていたフェリーを乗っ取り乗客乗員46名を人質にして
籠城した。フェリーは一度松山へ向け出港し、その間に警備艇にいた警官一名をライフルで
銃撃して重傷を負わせている。
松山に行く途中で肉親からの説得を受けるが、全く聞き入れられなかった。松山港についた
観光船は乗客を全員下船させて給油の後再度広島へ向かい宇品港へと戻ってきた。
戻ってきた犯人はライフルを乱射して仲間の男の釈放を求めるなどした。この際に警察の
ヘリに向かって発砲し、このヘリは危うく墜落しそうになった。宇品港に戻った1時間後に
待機していた大阪府警のライフル隊の銃撃によって左肩付近を撃たれて銃撃後1時間半あまり
で病院にて死亡。銃撃の瞬間はテレビカメラでゆっくりと犯人が崩れ落ちるシーンが生中継
されており、国民に衝撃をもたらした。
事件の後、人権擁護の観点から学者やマスコミから他の方法で犯人確保できたのではないか
との非難の声があがった。最終的に人権団体が犯人銃撃にかかわった大阪府警の巡査部長と
広島県警本部長を広島地検に告訴するに至った。しかしながら裁判所は各所への聞き取り調査
の後、業務は正当防衛であり、正当な職務行為となる理由があるとして不法行為には当たらな
いとの判断を下して不起訴、その後の抗告に対しても棄却が決定されて最高裁で確定した。
本件を受けて、警察は業務時の拳銃使用に非常に消極的になり、拳銃を業務で極力使用
しないようになり、特に海外からの流入による拳銃事件が多発するようになるに従い、警官
の殉職事案が多発するようになってしまった。これを受けて平成13年に法律が改定されて
使用要件が明確化されて改定前に比較して拳銃の使用回数が大幅に増加することとなった。
また、本件の直前に起きたよど号ハイジャック事件の影響があり、本件は「瀬戸内”シー
ジャック”事件」と呼ばれるようになった。”シージャック”とは和製英語であるが、
その後に長崎で起きたバス乗っ取り事件も「長崎バス”ジャック”事件」と呼ばれるよう
になり、誤用が一般化してしまった。
瀬戸内シージャック事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/瀬戸内シージャック事件
薬害エイズ事件
薬害エイズ事件1980年代に主に血友病患者に対し加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出した事件。非加熱製剤によるHIV感染の薬害被害は世界的に起こったが、日本では全血友病患者の約4割にあたる1800人がHIVに感染し、うち約600人以上がすでに死亡しているといわれる。
原因はヒト免疫不全ウイルス (HIV) に感染したと推定される外国の供血者からの血液を原料に製造された血液凝固因子製剤を、ウイルスの不活性化を行なわないままに流通させ治療に使用したことである。
後にウイルスを加熱処理で不活性化した加熱製剤が登場したため、従前の非加熱で薬害の原因となった物を非加熱製剤と呼ぶようになった。HIVに汚染された血液製剤が流通しそれを投与された患者がHIVに感染して、エイズを発症したことから多数の死者を出した。
日本においても非加熱製剤によるエイズ被害が発生し行政の不作為が問題視された。
しかしエイズが感染後に長期の潜伏期間を経て高確率で発症することが明らかになったのは1980年代の後半以降であり1986,1987年頃までは専門家の間でも抗体陽性者の発症率は低いとする見解もあった。
そして1989年5月に大阪で、10月に東京で後述の製薬会社と非加熱製剤を承認した厚生省に対して損害賠償を求める民事訴訟が提訴された。
1996年2月16日、菅直人厚生大臣は原告団に謝罪。3月7日、東京・大阪両地裁は発症者に月15万円を支給する第二次和解案を提示し5社が3月14日に,国も翌15日に和解受け入れを発表。
原告側も3月20日に受け入れを決め、3月29日に両地裁で和解が成立した。
力道山刺殺事件
昭和38年当時絶大な人気を誇っていたプロレスラー力道山(日本名:百田光浩、朝鮮名:金信洛)
が刺殺された事件。
本件は被害者本人が事件直後に病院で治療を受けていれば問題なく治癒していたと思われ、力道山
が奇しくも豪放な正確な持ち主であったことを知らしめるエピソードを残してしまった。
事件そのものは赤坂のクラブで飲んでいた力道山が、たまたま同店で飲んでいた暴力団員と口論
になり暴力団員が持っていた登山ナイフで力道山を刺傷した。力道山は傷が浅いと感じていた(
実際には根元まで刺さっていた)ことと自ら持ちかけた喧嘩だったことから警察沙汰にせずに応
急処置だけして帰宅してしまった。翌日になり症状が悪化したため、力士時代から贔屓にしていた
山王病院へ入院した。しかしこの病院には力道山を執刀できる外科医がおらず別の医者を呼びつけ
て当日夜に執刀し、手術は無事終了した。ところがその1週間後、傷口を見た院長が腸閉塞を起こ
しているのを発見し、急いで手術医を呼び寄せて再手術するも手術後にショック症状を起こして
そのまま死亡した。死に際し力道山は何か呻くように三本の指を出しながら最期を迎えたという。
三本の指が何を意味するのかは今もって謎である。
死因としては直接的には化膿性腹膜炎とされているが、なぜ患部が化膿したのかは定かではなく、
医療過誤であるとか力道山が術後禁止されているサイダーを飲みすぎたなどといわれている。
本件の犯人の男は懲役7年が最高裁で確定して服役、平成25年まで生きた。
京大天皇事件
京大天皇事件は1951年(昭和26年)11月12日の昭和天皇の京都大学来学に際して発生した混乱、及びこれを発端とする学生処分事件。「京大事件」あるいは「天皇事件」とも称される。
1951年11月12日、関西巡幸途上の昭和天皇が京都大学に来学するとこれを見物しようとして同大学正門付近に押しかけた多数の学生と警備の警察官との間で若干の小競り合いが生じ、また天皇が京大に滞在している最中遠巻きに見物していた学生のなかから反戦歌の合唱が起こった。
この出来事自体は逮捕者すら出ない突発的ハプニングに過ぎなかったが、直後の国会審議で文相および保守派の議員が学生の態度を「不敬」などとして非難しマスコミも同様の論調をとった。
これに反応した京大当局は15日、天皇に「公開質問状」を提出した同学会(京大全学学生自治会)に解散処分を下し17日には学生8名を無期限停学とした。
昭和天皇が関西地方巡幸の過程で京都を訪れた1951年は、講和問題や賃上げ問題などをめぐって全般的に労働運動・学生運動が復活の動きを見せた年であったこともこの騒動の遠因である。
京大天皇事件→http://ja.wikipedia.org/wiki/京大天皇事件
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光クラブ事件
昭和24年に起きた高利貸金業者を物価統制令違反として検挙した事件。
警察による検挙の案件だけでなく、ターゲットとなった「光クラブ」の創業からその終焉まで全体を捉えて「光クラブ事件」と呼ぶことが多い。
戦後の「アプレゲール犯罪」の代表とされる事件。
昭和23年光クラブは当時東大生であった男が、仲間である日本医科大生や中央大生など大学生を集めて、ヤミの高利貸し業を始めた。光クラブはほかの業者と違い、現在でいうところのマーケティング能力に非常に優れており、たちまちにして多額の資金調達に成功して急激に成長した。金融業としては変わった名前で素人受けし、東大生が運営しているなど信用も勝ち取った。翌24年には資本金600万社員30人を擁していた。
ところがこの年の夏、この東大生は警察に物価統制令違反を名目として逮捕された。
物価統制令とは当時のGHQの施策によって発令された法律であり、直接の違反条項となったのは第十条の何人ト雖モ暴利ト為ルベキ価格等ヲ得ベキ契約ヲ為シ又ハ暴利ト為ルベキ価格等ヲ受領スルコトヲ得ズとの事だった。東大生の男は本件においてもあわてず持ち前の法律知識を持ち出して本条項の問題点である何をもって暴利とするのか、という部分を巧みに突き、最終的に不起訴処分を勝ち取った。
ところが、検挙に伴ってマーケティング効果で得ていた巷間の信用を一気に失墜させるところとなり、逮捕に動揺した出資者が資金の返還を求めてきた。最終的に3000万円を用立てする必要に迫られたが、遂にその資金を集めることができず、逮捕の4か月後、返済期日の前夜に服毒自殺を遂げた。
光クラブがなぜ検挙されたかという点は、当時横行していた闇金に対する一罰百戒の意味を込めて目立っていた光クラブがやり玉に上げられてしまい(結果的に立件はできなかったが目的達成には奏功した)、さらに光クラブ内にいた内通者(秘書の女が税務署官の恋人だった)がいて内情を探ることができたためと考えられる。
本件は自殺した東大生の言行録が現代にいたるまで残されており、その特異な人物像が語り継がれている。
本件はライブドア事件が発生した際に、嘗て近似の事件があったとして再注目された。
中川一郎怪死事件は1983年(昭和58年)1月9日早朝、自民党の大物政治家・中川一郎が札幌パークホテルの浴室で謎の死を遂げた事件。
1983年1月9日早朝、自民党の中川一郎(当時57歳)が宿泊先の札幌パークホテルの浴室で死んでいるのを夫人の貞子さんが発見し事件が発覚した。
当初、死因は「急性心筋梗塞」ということだった。ところが、2日後の11日になって、死因は「首吊り自殺」であったことが発表された。
しかし中川の首吊り自殺は不審な点が多く、いまでも「他殺か自殺」か論議が分かれている。
まず、自殺方法に疑問を呈する声がある。
中川は、浴槽に座ったまま浴衣の紐で自分の首とタオル台の留め金を結んで自殺していた。警察の検証ではこの方法でも死ぬことは可能であることが立証されたが、この方法は最期の瞬間まで自身の意志で死に向かい続けなければならない。
このようなことが人間として可能なのだろうか、という点が挙げられる。
さらに、死亡してから僅か2日後に荼毘に付されており遺体の検証も十分でなかったと指摘する声もあった。
一般に大物政治家であれば遺族は党との相談で葬儀をする事情から死亡してから数日間はそのままの状態で置かれる場合が多い。が、中川の場合あまりにも荼毘に付すのが早いと思われた。
最後に中川は遺書らしいものは何も残していなかった点である。これも自殺する場合、通常では考えられないことであり、よって他殺説が今でも根強く指摘されている。
息子の酩酊会見と病死も頼む
玉の井バラバラ殺人事件
この事件によって、殺害された被害者の遺体を切り刻む猟奇殺人の名称として「バラバラ殺人」が定着した。
関東大震災後に発達した私娼街で玉の井という場所があり(現在の東向島)、ここはモグリの私娼街
として発達していた。永井荷風などが小説の舞台としていた場所である。ここにお歯黒ドブという
ヘドロで腐臭を放つドブ川が流れていた。生まれた嬰児を処置に困って捨てた遺体や動物の骸などが
良く上がるような川だった。
ある朝子供が誤ってこのどぶに下駄を落としてしまい、呉服商のおじさんが見かねて棒でつついて
取ってやろうとした。すると俄かに赤黒い血のようなものが広がり白地の布に紐でぐるぐる巻きに
縛ったものが浮き上がってきた。警察と一緒にこれを解いてみると果たして男の胴体の腹部であるこ
とが分かった。
その後付近からさらに首、胸部、腰、手のない両腕、が発見された。手、足、胴の真ん中部分はその後ドブさらいを徹底的に行ったものの発見されなかった。
その後解剖されて身体の特徴から肉体労働者であろうことは分かるもののそれ以上のことが分からず、
たちまち迷宮入りかと思われた。
ところが急転直下で本件は解決へ向かうこととなる。ある日現地視察に来た別の警察署の警官が
以前に見かけた浮浪者親子の親と非常に人相が似ており、その浮浪者が被害者ではないかと直感
した。この浮浪者のその後の消息をたどるとある建具職人の家に下宿していたことが分かり、この
下宿職人宅の主人を連行して追求した結果、殺害を認めるに至った。
結論として犯人宅の3人兄弟全員による犯行だった。殺害した原因は以下の通り。
犯人宅の長男は建具職人だが仕事がなく日給30銭、次男は春画などを書いては小遣い程度を稼ぐ状態、
長女が銀座のバーで働いて日給40銭。病床の母を養いつつ電気代も払えない状態だった。
ある日次男が件の被害者である浮浪者親子を見つけて連れて帰ってきた。この浮浪者は非常に口の
立つ男で故郷に財産があり助けてくれれば一儲けできるとウソを言って犯人宅へ連れ帰させたのだっ
た(実は犯人逮捕につながった浮浪者を尋問した警官もウソをつかれて汽車賃をくれてしまった)。
これに気を良くした犯人一家は、長女と浮浪者を夫婦同然にして故郷へ返して金策をしてくるように
送り出したのだった。ところが浮浪者の男は無一文で帰参し、故郷が小作争議で云々などと言い訳を
して一文も持ち帰らなかった。
不審に思った次男は男の身元を調べて、実は無一文であることを知る。
激怒し家族で追い出したものの、逆に男は居座り一家に暴力をふるうようになった。
春画を売るような稼業をしていることから警察沙汰を恐れた家人はしばらく従うしかなくなってしまった。
しかし、いよいよ困窮を極めた一家は、邪魔になっている男を一家総出で始末しようということになり、長女が見張りをしている間に長男と次男がバットとスパナで滅多打ちにして殺した。
母と被害者の子がいない間に二日かけて死体を全員でバラバラにし、お歯黒ドブへ遺棄、他の部分は
長男の学校であった東京帝大工学部の使われていない校舎に隠したのだった。
最終的に長男は懲役8年、次男が懲役15年、長女は懲役6月執行猶予3年という判決だった。
なおこの事件の前後は大事件が頻発する騒然とした世情だった。
第一次上海事変、熱海事件、首なし娘事件、血盟団事件、満州国建国、五一五事件、
ロス五輪での日本人選手の活躍、白木屋百貨店火災、桜田門事件、矢作事件、坂田山心中事件と昭和史に残る事件が連発した。
玉の井バラバラ殺人事件→https://ja.wikipedia.org/wiki/玉の井バラバラ殺人事件
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上野消火器商一家殺害事件
東京都台東区上野で発生した、一家4人と知り合いの男性の合わせて5人が惨殺された事件。
本件の特異なところは共犯の男が、全くこの一家とつながりを持たず、主犯の男との単なる”友情”
だけで犯罪に加担したところである。
一家は訪ねてきた親戚により発見された。
血の海となっている現場は頭を鈍器で殴られ紐やコードで首をしばりつけられ、浴槽に灯油がかけられた遺体が放り込まれている有様であった。
最初捜査員は一家心中を疑ったのだが、タンスがぶちまけられたり執拗な物色の跡を見るにつけ、次第に強盗殺人かと思うようになった。しかしそれにしては殺害方法が異様なほど凄惨であると見えた。
現場検証をしているうちに、家人のものではないと思われる衣服があり、これには名前が律儀にも記されていた。この遺留物によって同業者の工場で以前営業として働いていた男がすぐに捜査線上に浮上した。さらにこの男以外の衣服も現場にあり、その衣服の特殊性からこれまたすぐに別のとび職の男が浮上した。指名手配から本当にあっさりとその日中に二人とも逮捕されてしまった。
主犯の男は、主犯の父とともに被害者一家の経営する消火器商でセールスを請け負っていた(社員
ではなく外注だった)。
ところが、被害者の会社はのちに自社営業を行うようになり、犯人親子は次々に得意先を失ってしまった。これに逆恨みをした犯人が、友人である共犯とともに本件を計画したのだった。
この共犯の男は、出生が似ていたことと、お互いがゲイであったことから強い友情で結ばれていたようで(しかし体の関係はなかったようである)、主犯の男から本件の計画を持ちこまれると二つ返事でOKしたのだった。
捜査員が動機を怨恨か物盗りかで判断しかねていたのは、動機がどちらもあったから、という結果だった。犯行時二人はお互いを励まし合いながら5時間にわたり現場を荒らしたあと、主犯の男は蒲田でゲイバーやホテルなどで使い果たしてしまった。
しかしながら共犯の男は主犯の男にくらべおとなしい性格であったため、その後の裁判などでもなぜこのような凶悪な犯罪に加担してしまったのか、終始謎のままであった。
裁判は昭和54年に結審し二名とも死刑。
主犯の男は、犯行に巻き込んでしまった共犯の男を減刑するよう終始嘆願し、巻き添えにしてしまったことを最期まで嘆いていた。
共犯の男が結審の7年後に刑執行、その二年後に主犯の男が刑執行された。
上野消火器商一家殺人事件→ https://ja.wikipedia.org/wiki/上野消火器商一家殺人事件
金属バット殺人事件
当時成人にになったばかりの予備校生が両親を金属バットで殴殺した非常に有名な事件。
エリートの父親と母親を金属バットで殴り殺したという話題性から、ノンフィクションやテレビドラマの題材となった。まだ教育虐待という言葉もなかった時代であったが、受験戦争を象徴する事件として話題となった。
犯人の男は、某東証一部上場企業の幹部の父、山口の有名酒造家の娘の母、早大生の兄のいる家の次男だった。裁判時の精神鑑定で発達障害が認められ、子供の時分からあまり出来の良い子ではなかった。
しかしながら、中学高校となんとか進学校へ進めたものの、その後成績は下がる一方で現役での合格はおろか、今でいうところのFランクラスの大学に進める程度の成績だった。
一度成績で両親に叱責された後、1日だけ大阪へ家出まがいにでかけて何もしないで帰ってきている。
そうこうしている間に、予備校生になってからは親の財布からキャッシュカードを盗んでは小金を下してサボるようなことを繰り返し、進学をあきらめて別の道に進みたいなどと思いついたように言っては両親の不興を買うありさまだった。
犯行当日、犯人がキャッシュカードを盗んでいたことを知った父親が激怒し、応接間で叱った後に、更に怒りが増して自室へ退いた犯人の部屋へ乗り込んだところ、犯人は盗んだ金で買ったウィスキーをラッパ飲みしている最中だった。
父親は叫ぶように泥棒を置いておくわけにはいかないから出ていけ!と罵り、今まで犯人をかばってきた母親からついに突き放すような言葉を頂戴するにあたり犯人の心が砕けた。
翌日、物盗りの仕業に見せかけるよう精いっぱいの偽装工作をした犯人は警察へ通報。駆けつけた警察は現場の惨状に息をのんだ。父親は寝室で頭蓋を割られて飛び散った血は天井まで達し、母親は奥の八畳間で完全に破壊された頭から脳漿があたり一面に飛び散っていた。
その翌日、親類から追及を受けてあっさり自分が犯人であることを認め、親類が警察へ通報して逮捕となった。
本件は裁判で犯人の責任能力が争われたが、責任能力そのものは認められたものの、精神が相当に減弱している中でアルコールに酔った自己喪失の中での偶発的犯行と考えられ、更に逮捕後は相応の悔悟の態度を見せており厚生の可能性ありと判断されて、懲役13年の実刑となった。
1審で控訴せず有罪が確定。収監された。
本件については、事件の背景が明らかになるにつれて受験戦争の弊害として、当時はそれを糾弾する風潮へと向かっていくようになった。好景気になりつつある頃でもあった時代背景もそれに合致したものとみられる。なお犯人は現在刑期満了にて出所している。
神奈川金属バット両親殺害事件→ https://ja.wikipedia.org/wiki/神奈川金属バット両親殺害事件
昭和20年から25年にかけて発生したとみられるマリアナ諸島アナタハン島でおきた大量に死者を
出した事件。本件は終戦直前から終戦後にかけてという期間と、日本の敗戦後にアメリカの信託
統治領となった地域特性から、権力の及ばない実質的な無法地帯で起きた非常に特異な事件で
ある。
アナタハン島にてコプラの生産を行っていた会社の社員夫婦の内、主な当事者となるA子、隣家
で会社の上司夫婦のうちの夫であるB夫は、運悪く当日ほかの日本人が出払っている中で、米軍の
空爆を受けてしまう。命からがらになんとか生きていけるだけの状況を確認した二人は更なる
災難に見舞われる。この爆撃により遭難した日本軍人や漁師などの31名の男性がアナタハン島に
上陸してきたのだ。この後、最低限の衣食住の環境しかない孤島で32人の男と1人の女の過酷な
サバイバルと肉欲の生活が始まった。
生活はほぼ男は全裸、A子は上半身裸の腰ミノ一つという状態で、男が狩りをおこなって、A子が
調理するということで何とか生き延びようとした(この間に米軍が日本の敗戦をしきりに告げて
来たものの誰一人信用しなかった)。
最初のうちは、みな生きるのに必死だったため性欲は抑えられていたが、ある程度慣れてくると
日本人の女は一人という状況で32人の男があからさまにA子を求めて対立するようになった。
またそれはB夫がA子の夫ではないことが知れ、更にヤシの実から酒を生成することに成功すると
いよいよ理性が保てなくなってきていた。
これを危険と察知したA子はB夫に助けを求める形で半ば済し崩し的に事実上の夫婦となった。
しかしそのうちB夫はA子を独占したいがために嫉妬深くなり暴力を働くようになった。これに
嫌気したA子はCと関係して駆け落ちまがいのことをして連れ戻されている(これまでの間に
二名の行方不明者を出している)。
続く
これを使用できるDとEが当然のようにA子を求めた。B夫は恐れおののいてA子をDとEに差出した。
そのうちDとEが諍いからEが拳銃で殺害され、更にA子にしつこく言い寄っていたFが殺害された。
ところが、なぜかDがそののちに不審死を遂げる。今度は拳銃をGが独占して所持、Gも当然の
ようにA子を独占し、すぐにB夫を殺害した。更にこの後にGが謎の死を遂げる。
これを受けてあまりの状況異常さから、その後合議で拳銃は海中に沈め、A子に夫を選んでもら
いその夫婦を邪魔しないと誓うことにした。A子はCを選び夫婦となった。
しかしこれもすべてはかりそめの約束となっていた。なぜならここに居る者すべてがすでに
文化的理性というものを無くしてしまっていたからである。拳銃が無くなった後も執拗に男た
ちはA子を追い立て回した。
A子は遂に我慢の限界に達し逃亡の上、米軍への投降を試みる。必死の思いで男たちから逃げ
おおせ、海岸で腰ミノ一枚で白い布を振り米艦艇に救出されたのだった。
この時すでに昭和25年。5年の月日が去っていた。
男たちは、A子に遅れること1年後に投降。
生き残った者はA子および男19名。12名が死亡または行方不明となった。
この事件はA子が帰国後、マスコミによって恰好のエサになり「アナタハンの毒婦」などと煽情
的に報道が過熱し大衆の好奇の目に大いにさらされることとなった。世間はアナタハンブームに
湧き、A子の写真まで売られた。A子は更に闇ブローカーのような男にだまされてストリップの
ステージに立ったり、インチキまがいの本件を題材にした映画に出演させられたりした。
A子は失意のうちに故郷へ帰って行った。
これにひきかえ男たちは特に何の咎めも受けることなく帰還している。
残念ながら戦後の混乱期の世情も相まってマスコミに翻弄され、本来帰国によって行われる
べきだった真相究明は行われることなく、時間と共に事件そのものも消え去ってしまった。
アナタハンの女王事件→ https://ja.wikipedia.org/wiki/アナタハンの女王事件
これA子結婚してたんだっけ
爆撃を受けた時にはちゃんと夫がいたが、当日留守にしていた(異説もあって殺されたとされている文献もある)。
唯一の慰めは失意のうちに故郷に帰った後で良い旦那を見つけて、開店したたこ焼き屋が繁盛したことかな。
弥彦神社圧死事故
昭和31年新潟県にある越後国一宮彌彦神社で発生した将棋倒しによる集団圧死事件。
死者124名重軽傷者77名。日本で近代に起きた群衆事故としては記録にある限りでは最大のものと思われる。
当日は年始参りで恒例の福餅まきが始まるのを今か今かと群衆が殺到している拝殿前で待機している状態だった。福餅は縁起が良いとして当日参拝客の一番の目当てであった。年が明けた直後の0時10分頃、餅をもらい終わった帰りの客と今から参拝する客で中央の石段付近で衝突が起き、双方からの荷重に耐えられなくなって玉垣が崩壊。これによって段上の参拝客が押し出されるようにして次々に石段下へ落下していき折り重なって倒れることとなった。
当日は参拝客推定4万人に対して警備が16名しかいない上に多くがバス駐車場の交通整理に振り向けられてしまい現場はほぼ無秩序状態だった。更に照明設備が整っていない状態で周囲が暗く状況が把握できなかったことが拍車をかけて、最終的に状況が改善されるまでに30分から40分を要すこととなってしまったことも被害の拡大に拍車をかけた。
この事故が起きた遠因として、同年は折からの豊作と公共交通の発達から当神社への参拝客が爆発的に増えてしまったことが挙げられた。
本件は裁判によって警察の責任が認められ、県警本部長が引責辞任の上、幹部らが懲戒処分、また神社の宮司及び権宮司も引責辞職した。
なお、現在は直接の原因となった年明けの餅まきそのものが行われておらず、境内も一方通行となって改善された。
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W3事件
昭和40年当時人気漫画家だった手塚治虫が少年マガジンで連載していた「W3(ワンダースリー)」
を少年サンデーへ連載誌を突如変更したという事件。
この事件は当事者の意図とは離れ、後の日本漫画史における重要な分岐点となった。
当初手塚率いる虫プロは新たな作品発表のために企画を行っていた。その企画がなぜか開始前にライバル会社から非常によく似たプロットでアニメやコミックの連載が始まるということが続いた。このことがきっかけで手塚や虫プロ上層部は、虫プロ社内にスパイがいるものと確信し、疑念を深めていく。
上記の状況から企画を何度も変更した新作の「W3」を折から依頼を受けていた講談社出版の週刊少年マガジンで連載開始、同時にアニメの放映が決定することとなった。講談社にとっては悲願の超人気作家の獲得ということで社内的に湧いた状態だったが、ところがこの決定と前後して事件が発生する。それは、手塚が企画を盗まれたと考えていた漫画「宇宙少年ソラン」がほぼ同時に連載を開始することとなったことが発覚したのだった。「ソラン」がマガジンで連載開始となった理由は単純にスポンサーとの関係のためだったが、手塚は折からの状況から疑念を深め、マガジン編集部に対して「ソラン」の連載中止を申し入れて猛烈に抗議した。しかしそうこうしている間に手塚は勝手に小学館へ出向き連載が開始されたばかりの「W3」の連載を7回目から少年サンデーへ移籍すると決めてきてしまった。
講談社側は和解に向けて手はずを整えている最中に一方的に移籍を決められてしまい、手出しでき
なくなってしまった。少年マガジンは本件に加えて、作者逮捕により看板漫画だった「8マン」の連載中止、同じく看板だった「ハリスの旋風」の長期休載が重なりライバル誌に対して大きく水をあけられることとなり、編集長が引責辞任する事態となった。
事件の直接の経緯は上記の通りだが、この後日本漫画界はこれを契機として流れが大きく変わって行くこととなる。
手塚を失った少年マガジンは、今までの編集方針を大きく変更し、貸本漫画作家を大きく起用する方針とした。その代表的な漫画家が梶原一騎、水木しげる、さいとう・たかをといった面々である。単純なコミック調の漫画から、劇画調の漫画が多くを占めるようになり、これは読者に歓迎を持って迎えられた。この後週刊少年マガジンの黄金時代が到来し、逆に手塚は低迷した。
この一連の流れは、日本における漫画の流れを手塚が得意としたストーリーもの、マガジンが切り開いた劇画、もう一つの潮流である心理描写を生かした少女漫画というトレンドを作り出すに至ったものと考えられる。本件は、日本の漫画が手塚を中心として制作されてきた”古臭いマンガ”とは別の潮流を生み出すことになった非常に大きな転換点となることとなったと評価されている。
なお、手塚は本件から9年を経過して「三つ目がとおる」を連載するまで講談社とは絶縁関係になり、虫プロの経営にも大きな影を落とすこととなった。手塚はのちに本件について、講談社側に大きな迷惑をかけてしまったと述べている。
ジャンプやチャンピオンに比べて何か大人が読むような絵柄に見えたのは
編集方針だったのかw
漫画の神様とか言われてるけど
自我の強さは半端ではなかったらしいからな
無国籍スナイパー、ゴルゴ13のヒットに対抗して
命を救う無免許医、ブラックジャックで対抗とかな
自衛隊機乗り逃げ事件は1973年(昭和48年)6月23日、飲酒した陸上自衛官が航空機に乗って飛び去り機と一緒に行方不明になった事件。尚乗り逃げした機体および自衛隊員が発見されることはなかった。
1973年6月23日の午後9時頃、栃木県宇都宮市にある陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の滑走路から、突然LM-1型連絡機が離陸した。
夜間のことであり管制塔が閉鎖されていたためすぐに大騒ぎになった。
その後の隊内の調査で同駐屯地に駐屯していた航空学校宇都宮分校所属の整備員3等陸曹(当時20歳)が飲酒の上、行方不明となっていることが判明した。
飛行機は南に向かって飛び立ったのが目撃されているがレーダーでは捕捉されず、かなりの低空飛行だったと推測されている。
無線の使い方がわからなかったのか、意図的に応じなかったのか定かではないが呼びかけにも応答せず、同機に搭載された5時間20分相当の燃料が尽きたため墜落したと思われる。
格納庫は緊急事態に備えるため、閂がかかっていただけで施錠はされていなかった。また3曹は整備士として副操縦席に搭乗経験があったのみでまともに操縦訓練は受けておらず、搭乗経験もLM-1では2時間10分しかなかったのに市街地に墜落せず飛行できたのは正に奇跡以外の何物でもなかった。
後日防衛庁・陸上自衛隊は、彼が酔った勢いで突如航空機を操縦してみたいという衝動に駆られ乗り逃げしたものと断定した。
1ヶ月間にわたる捜索でも機体は発見できず、3曹は8月1日付けで行方不明のまま懲戒免職とされた。なお、関係者7人も航空機の管理責任を問われる形で処分されている。
自衛隊機乗り逃げ事件→ https://ja.wikipedia.org/wiki/自衛隊機乗り逃げ事件
大友克洋「気分はもう戦争」のモチーフのひとつ
神戸チフス菌事件
昭和14年神戸でチフス菌を混入されたかるかん饅頭を送られた医師一家が集団でチフスに感染し結果的に医師の弟が死亡した事件。
本件は内情が明るみに出るにつれ、センセーショナルにマスコミに報道され犯人に対する同情が集まり減刑嘆願運動が起きた。
犯人の女は、現場となる医師の元内縁の妻だった。
年上だった彼女は、当時まだ医学生であった医師と同じ職場におり恋仲であった。この医学生は最後の実習の際に犯人に結婚を申し込んだが、すぐには学資出資者がある手前婚姻しないで自分が副院長か博士号を得るまで待つようになどと言った。結婚式を地味に内々に済ませ、新婚旅行費用も彼女が出す中で、たったの10日間の同居を経て、彼女は夫の学費を稼ぐためにと故郷へ帰り開業したのだった。
彼女の稼ぎはほぼ全額がこの夫に送金され、ときどき現れる夫である男に故郷の面々はひそかに妾女、淫婦などと白眼視していた。犯人は夫のためとして、5年もの間その環境に耐えた。ようやく夫が医学博士となったことからとるものもとりあえず夫の家へ行くと、夫はそっけなく彼女を「親戚の女です」などと周囲に紹介し彼女はあっけにとられた。
また男には別の女がいることがわかり、夫から世間体が悪いので開業するまでは辛抱しろなどと言われたが、1か月ほどはなんとか同棲生活を送った。しかしその同棲生活の間でも世間体を家人から気にされ、家からは洗濯や家事でも出ることができず、窓もカーテンも閉め切られ玄関からは靴も隠されるような有様だった。しまいに義父から出て行けと言われ、夫の妹からは「賢者としては偉いかもしれないけど家庭人としてはゼロだ」などと言われてついに彼女は家を去ることになった。
離婚に際し、弁護人がなぜか夫側に同情的で慰謝料は取れたものの、送り返されてきた夫の家にあった自分の荷物からは、夫に関するすべてのものが抜き取られた上に着払いで来た。
状況から故郷にも帰れない状態となり、俄かに夫宅への復讐心を募らせた犯行に及ぶ結果となった。
デパートでかるかん饅頭ひと箱を購入、チフス菌が確実に発症するように二種類の株をすべての饅頭に注射器で仕込むという念の入れようだった。なお送付元は病院の元患者と称していた。
事件が報道されると、世間は犯人に一心に同情を集め、一審で無期懲役の求刑を言い渡されると、犯人が無期なら夫は懲役何年なのかなどという手紙が判事宛に届いたりした。
判決は同情すべき余地があったとして懲役8年。
とりあえず200まで来たからボクは寝ます。
また明日やってるようだったら続けたく思います。
参照元:https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1395926269/