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その13 水溜め
投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2016/10/20
私が小学校六年生だった頃の話だ。
十一月のある日。学校が終わり、放課後。少しばかり遠い寄り道をするため、自宅の前をそのまま通り過ぎた私は、街のほぼ中心に架かる地蔵橋の辺りまで差し掛かっていた。
その日は同じクラスの友人が一人風邪で学校を休んでおり、私は彼の家にプリントを届けに行く最中だった。
といっても私と友人はご近所同士ではなく、街の北側の住人である私に対し、友人は南側、しかも彼の家は南地区の住宅街を抜けた山の中腹あたりに建っている。ではどうして私がその役目を任されたのかといえば、単純な話、当時クラス内で彼の家の詳しい場所を知っている人間が、担任を除けば私しかいなかったからだ。
友人は、くらげというあだ名のちょっと変わった男だった。
何でも彼の家の風呂にはくらげが湧くらしい。所謂、『自称、見えるヒト』 だ。
風呂に浮かぶくらげの他にも、彼は様々なものを見る。それは形のはっきりしない何かであったり、浮遊する光の筋だったり、随分前に亡くなっていたはずの私の知人だったりもした。
彼曰く、「僕は、そういうのが見える病気だから」 だそうだ。その病気は感染症だとも言った。だから、自分には近寄らない方がいい、とも。
地蔵橋を越えて、南地区に入る。空に広がる薄い雨雲には所々切れ間があって、そこから青い空が顔をのぞかせている。天気予報では朝から雨とのことだったが、今のところ天気はもっていた。
鼻歌など歌いつつ、手に持った傘で、空中にアヒルのコックさんを描きながら歩く。
南地区の住宅街を抜けると道は狭い上り坂になる。急な坂道をしばらく上っていると、前方に友人の家が見えてきた。
周りを白い塀がぐるりと取り囲んでおり、その向こうの、えらく黒ずんだ日本家屋が彼の住む家だった。門柱にインターホンのようなものはなく、私は勝手に門をくぐり中に入った。
広い庭を抜け、玄関のチャイムを押す。しばらくの間があって、ガラリと戸が開き、中から腰の曲がった老婆が出てきた。友人の祖母だった。
「どうも」
軽くお辞儀をすると、彼女はその曲がった腰の先の顔をぐっと近づけて来た。まじまじと私を見やり、そうして顔中のしわと同じくらい目を細めて、「うふ、うふ」 と笑った。
「あの子は今日、風邪をひいて寝とるよ」
「あ、知ってます。それで、学校のプリントを持ってきたんですけど……」
言いながら私が背中の鞄を降ろそうとすると、その動きを制するように、彼女の片手が上がった。
「まあ、お上がんなさい。お茶とお菓子があるけぇよ」
一瞬どうしようかと迷ったが、彼女は返事も待たずに一人家の奥へと消えて行ってしまった。こうなっては仕方が無い。それに正直なところ、ここまで歩いてきて喉も乾いていた。
「……おっじゃましまーす」
小声でつぶやき、傘と靴を玄関に置いて家の中に入る。以前くらげに家中を案内してもらったことがあるので、玄関を上がって左手が客間だということは知っていた。
前に訪問した時と変わらず、一度に大勢がくつろげそうな大広間には、食事用のテーブルが一つだけぽつんと置かれているだけだった。
部屋の入り口辺りに立ったまま、しばらく部屋の様子を眺める。
広いだけでなく天井も高い。友人宅は二階建てなのだが、この部屋だけが吹き抜けになっているようだ。壁には何人かの遺影が掛けてあった。その内の一つと視線が合い、私は慌てて目を逸らした。
その内菓子とお茶が乗った盆を持って、祖母が現れた。
「まあ、まあ。そんなとこに立っとらんで、座りんさい」
言われた通りテーブルに着くと、彼女も私の対面に腰を下ろした。盆の上の菓子はどれも高級そうで、差し出された色の濃いお茶は熱くて少し苦かった。
「部屋の中には、何かおったかえ」
彼女が言った。初めは意味が分からなかったが、数秒、質問の意味と口の中の菓子を呑み込むと、私は急いで首を横に振った。
「うふ、うふ」
彼女が笑う。
言い忘れていたが、彼女もくらげと同じく、『見えるヒト』 なのだそうだ。その目は孫以上に様々なモノを見るという。
それは例えば、形のはっきりしない何かであったり、雨の日に地面から湧き出て、空を埋め尽くす無数のくらげの姿だったり、随分前に亡くなったはずの彼女の夫だったりもする。
以前、この部屋で夕食を御馳走になったことがある。その際、テーブルには一人分多く食事が用意され、彼女は何もない空間に向かって語りかけ、相槌を打ち、たまに楽しそうに笑っていた。
今も、彼女には見えているのだろうか。
しかし、私がそれを尋ねることは無かった。答えがイエスであってもノーであっても、どちらにせよ、私には何も見えないのだ。
代わりに、友人の容態はどうかと訊いてみた。すると彼女は、顔の前で手を振り、
「こたぁないこたぁない、ただの風邪よ」
と言った。その言い草に、私は何故か少しだけほっとしたのを覚えている。
それから二人でしばらく話をした。学校での孫の様子はどうかと訊かれ、私は素直に証言した。授業は真面目に聞いている。休み時間は大抵本を読んでいる。友達はあまりいない。全体的に動きが遅い。ひょろい。白い。
そんな口の悪い私の話を、彼女はじっと微笑みながら聞いてくれた。その際、話の中で私が彼のことを、『くらげ』 と呼んでいることを知ると、何故か妙に嬉しそうに、「うふ、うふ」 と笑っていた。
ひとしきり喋った後、今度は私から尋ねてみた。
「あの、くらげって三人兄弟なんですよね」
彼女は声には出さずゆっくりと頷いた。
「仲、悪いんですか?」
くらげには歳の離れた兄が二人居るということは、以前彼自身から聞いて知っていた。そうして彼がそのどちらからも嫌われているとも。
しかしながら、今考えてみてもぶしつけな質問だったと思う。
さすがに今度は彼女も頷かなかった。ただ否定もしなかった。言葉もなく、その表情も変わらず、ほんの少し微笑みながら私を見やっていた。
しばらく沈黙が続いた。
「えっと……、ごめんなさい」
耐え切れず謝ると、「うふ、うふ」 と彼女が笑った。そうしてふと私から視線を外し、テーブルの上、自分の両手の中の未だ口を付けていない湯呑を見やった。
「あの子が、四歳くらいのころやったかねえ……」
彼女のゆったりとした昔話は、二人しかいないはずの広間によく響いた。
数年前。当時、幼かったくらげは幼稚園にも保育園にも通わず、この家で過ごしていたそうだ。父親は仕事で、医者であった祖父はまだ現役。二人の兄は学校があり、くらげの面倒はほとんど祖母である彼女が見ていた。とはいえ、彼はそれほど手間のかかる子ではなかったという。
「夕方になると、一人で庭に出て行ってねぇ……。玄関に座って、じぃっと二人のお兄が帰って来るのを待つんよ。帰って来たち、お帰りも言わん、遊んでも言わん。やけんど、毎日、毎日ねぇ。そいで、後から帰って来た方の後ろについて、家にもんてくるんよ」
庭に出て兄の帰りを待つ幼いくらげの姿。何となくだがその光景は想像できる。私が知っている彼も、待たすよりは待つ方だ。
けれども、その日は少し様子が違っていたそうだ。
「二人のお兄は帰って来たけんど、あの子の姿が見えんでねぇ。家にもおらん、庭にもおらん。二人に聞いても、どっちも、『見とらん』 言うろうが。あの時は肝が冷えてねぇ……」
それから、彼女と二人の兄でそこら中を探し回ったが、くらげの姿はなかったそうだ。その内、連絡を受けた祖父も帰ってきて一緒に探したが、見つからなかった。
「そろそろ日も落ちてくる。こらぁもういかん警察じゃと言うてな。……そん時よ。下のお兄が、『おった』 言うたんよ」
いつの間にか、私はお茶も飲まず菓子も食べずじっと彼女の話に聞き入っていた。
話を続ける代わりに彼女はふと首を曲げ、ある方向を見やった。私も釣られるように同じ方を見やる。
その視線の先には花の絵をあしらった襖があった。押し入れのようだ。
もしかして、くらげはあの押し入れの中に居たのだろうか。
「この家ん外の、塀の向こうは竹林になっとろうが」
彼女の言葉に私は小さく頷く。確かに、ここに来るときにも見たが、この家の東側には竹林が広がっている。
「あそこは昔畑でねぇ。そこで使われとった水溜め。……そん中に、おったんよ」
そう、彼女は言った。
彼女が言う水溜めとは、随分昔にその竹林が畑であった頃、農業用の貯水槽として使っていたものらしい。
水溜めはコンクリート製で形はほぼ正方形、一辺は大人の背丈程、山の斜面に半ば埋め込むようにして置かれているのだそうだ。昔は山から水を引いて溜めていたのだが、今は蓋がしてあり、中は空だという。
幼いくらげは、その中に居たのだ。
他の三人がそこに駆け付けた時、水溜めの蓋は僅かに開いていた。下の兄に訊くと、見つけた時は完全に閉まっていて、開けようとしたが鉄製の蓋は重たく、少しだけずらすのが精いっぱいだったという。
くらげが水溜めの底から引き揚げられた時、四歳の彼は、泣いてもいなければ、怯えてもいなかったそうだ。
祖父が何故こんなところに居たのかと尋ねると、幼いくらげはこう答えた。
――お兄ちゃんと一緒に入った――
「そう、言うたんよ」
そこで初めて、彼女は自分の茶を飲んだ。
二人の兄は二人とも、「知らない」 と答えたそうだ。
くらげが一人で水溜めに上り、落ちたのではないことははっきりしている。中に入るには鉄製の蓋を外さなければならないし、誤って落ちたのだとすれば、一つの怪我もなかったことが不自然だ。
けれども、くらげは水溜めでの出来事については、それ以上何を訊かれても一切答えなかった。二人の兄の内、どちらがやったのかと訊いても、正直に言いなさいと叱っても、俯いて頑なに口を閉ざし続けた。
そんな弟を、上の兄はまるで興味なさげに、下の兄はまるで理解できないといった風に眺めていたという。
結局原因も理由も犯人も分からないまま、この騒動は幕を閉じることとなった。
ただ、その日以降、くらげが外で兄の帰りを待つことは無くなったそうだ。
語り終えると、彼女は二口目の茶をゆっくりと口に運んだ。
「はよう飲んでしまわんと。茶が冷めようが」
彼女の言葉に、私ははっと我に返った。それは、私のぶしつけな質問に対する長い長い返答だった。
二人の兄のうち、どちらかが彼を閉じ込めたのだろうか。考えるほど嫌な気分になりそうだったので、私は封を開けた菓子を口に放り込むと、残りのお茶を一気に飲み干した。
「悪いんですね。仲」
つまりはそういう事だろう。しかし、彼女は否定も肯定もせずただ、「うふ、うふ」 と笑うだけだった。
その後、いつまでもご馳走になっているわけにもいかないので、私はおいとますることにした。くらげの様子を見て行こうかとも思ったが、何だか恩に着せるような行動に思えて嫌だったのと、風邪がうつると面倒なので止めておくことにした。
「あの子はねぇ、まあ、よう変わっとるけんど……」
玄関にまで行く途中、私の後ろで彼女が言った。しばらく待ってみたが、その続きはなかった。なので私は振り返り、彼女に向かって答えた。
「知ってます」
彼女が私を見やり、「うふ、うふ」 と笑った。私も笑い返す。
私の見解としては、彼はひどく生真面目で、休み時間は大抵本を読んでいて、友達はあまりおらず、全体的に動きが遅く、ひょろく、白く、そしてえらく変わってはいるけれど、少なくとも、まあ、悪い奴では無い。
最後に本日の目的であったはずのプリントを渡し、「ご馳走様でした」 と言って家を出た。空は相変わらず曇っていたが、まだ雨は降っていないようだった。
門を抜け、私はふと、先ほどの話に出てきた東側の竹林を見やった。長く青い幾本もの竹が、ざらざらと、風に吹かれてみな同じように揺れている。
足が向いた、という言葉があるが、あの時の私がまさにそれだった。いつの間にか、私は家を囲む塀に沿って、竹林の方へと向かっていた。
昔は畑だったというその場所には、過去の名残が微かに残っていた。急峻な斜面を段々に削って畑にしていたらしく、崩れかかった石垣が何段も連なっていた。上下の畑をつなぐ道らしき跡もあった。
一瞬躊躇するも、私はその薄暗い竹林の中に足を踏み入れた。
思っていたよりも近く。少しばかり歩き、石垣を数段上った場所にそれはあった。各辺が二メートルほどの、ざらざらした粒の荒いコンクリートの箱。水溜めは、最初からこうだったのか、年月がそうさせたのか、いやに黒っぽかった。
一枚蓋かと思っていたのだが、水溜めは、長方形の薄い二枚の鉄板で蓋がされていた。動かそうとしてみたが、ちょっとやそっとの力ではびくともしない。よくよく見てみると、二枚の蓋は中心が少しだけずれて隙間が空いていた。
そっと中を覗いてみる。
暗い。水溜めの中は、まるで墨を溶かしたような暗闇だった。隙間から差し込む微かな光が、辛うじて湿り気を帯びた内部をほんの少しだけ照らしている。
ふと、暗闇の中に何かの気配を感じた。昆虫か小動物だろうか。何本もの足を持つ生き物が、水溜めの中を這いずりまわっているような。
風もないのに、頭上でざらざらと竹が揺れた。
その瞬間、水溜めの中の、『それ』 が私に向かってぐっと身体を伸ばしてきた。
もちろんそれは想像上の出来事でしかなかったが、私は思わずのけ反り、危うく水溜めの上から転げ落ちそうになった。
蓋の隙間からは何も出てこない。ただ、中を覗いている間、私は自分がほとんど息をしていなかったことに気が付いた。
気が付けば、ここに来るとき自然に足が向いたように、今度も勝手に私の足は竹林の外へと向かっていた。
幼いくらげは、見つけてもらうまでの間ずっとあの中に居たのだ。
私は思う。もしもあの中に閉じ込められたのが、五歳の頃の私だったらどうなっていたか。きっと泣き叫んで、閉じ込めた奴を絶対に許さなかっただろう。
上の兄がやったのか、下の兄がやったのか。二人の共犯ということもあり得る。その時ふと、二人以外の誰かという可能性に思い至った。
祖母の話によれば、くらげは、「お兄ちゃんと一緒に入った」 としか言わなかったのだ。
しばらく考え、匙を投げる。
誰が犯人にせよ、くらげはそれ以上何も話さなかったのだ。そいつを庇っていたのだろうか。彼らしいかなと思う反面、理解はできなかった。
竹林を抜け、家の門の前まで戻って来た時だった。
門前の坂道を、誰かが自転車をついて上ってきていた。知らない顔だったが、見覚えのある高校の制服を着ている。
この家の先には山しかなく、私のように何か用事のある者でなければ、彼はこの家の次男であるはずだった。
似てない。と最初に思ったのはそれだった。背が高く、どこか浮ついた雰囲気がある。
すれ違う際、彼は、『何だこいつ』 とでも言いたげな目でこちらを見やった。むっとした私が同じような目で見返してやると、彼は目を瞬かせ、小さく肩をすくめて門の内へと入って行った。
しばらくの間その背を眺めた後、短く息を吐き、私は歩き出した。
自分だったら、ぶん殴ってる。
雨はまだ降ってはこないようだった。そんな中、私は一歩ごとにわざと大きく足を蹴り上げ、手にした傘で空中に描いた巨大なアヒルのコックさんをバッタバッタと切り伏せながら、下手に見える街並みに向かって急な坂道を下りて行った。
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その14 小舟
投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2016/10/21
私が中学生だった頃、一人の友人から聞いた話だ。
彼がまだ十歳になる前のことだったそうだ。
季節は夏。彼は当時、生まれ故郷の町から山を一つ越えた海沿いの小さな集落、そこに住む親戚の家に世話になっていた。
友人と私は同じ町の生まれなのだが、彼には小学校に上がってから数年間、各地の親戚の家を転々とした時期があった。
その日の午後、学校の授業を終えた彼はまっすぐ家には帰らず、道の途中、集落のはずれにある浜辺に座り一人海を眺めていた。
ごつごつした岩山に囲まれた浜辺は狭く、辺りに人影はない。足元には満潮時に打ち上げられた木くずやブイや発泡スチロールなどの漂着ゴミが行儀よく一列に並んでいる。
そこは、地元の人間にも忘れられたような、静かな海岸だった。
学校が終わり日暮れまでの数時間。彼はその海岸でよく、他に何をするでもなく海を見て過ごしていた。
彼がそれを見つけたのは太陽が幾分西に傾き、そろそろ夕方になろうかという頃だった。
白波が引いた波打ち際に、何かが転がっていた。沖から運ばれて来たのだろうか。陽の光を反射して、ちりちりと光っている。
ふと興味を覚えた彼は腰を上げて近寄り、次の波が来る前に拾い上げてみた。
その物体については最初、貝殻かと思ったそうだ。
それは、一対の皿を向い合せてぴたりと重ね合せたような、二枚の半球状のパーツからなっていた。形はどら焼きに近く、大きさは手のひら大。色はミルク色。表面にはエナメル質のような光沢に加え、縁の辺りに針で開けたような小さな穴がいくつも開いていた。
貝殻だと思って手に取ってみたものの、そのような特徴を持つ貝類を彼は知らなかった。それに、もしそれが二枚貝だとしたら、蝶番がどこにも見当たらないのも妙な点だ。
指先で叩いてみると、乾いた金属音がした。中は空洞になっているようだが、軽く振ってみても音はしない。
果たしてこれは貝なのか、それともまた違う別のものだろうか。
いくら眺めてみても正体は分からず、彼はそれをランドセルの中に仕舞い込み、持ち帰ってから改めて調べることにした。
当時世話になっていた親戚の家は、浜辺からそう遠くない海沿いの地にあった。
帰宅後、居間にいた叔母に帰ったことを告げてから、彼は自分にあてがわれた二階の部屋と向かった。机に腰を下ろし、鞄をひっくり返し中身を机の上に広げる。そうして本棚から海の生き物に関する図鑑を取り出した。
貝類の項目を中心に調べてみたが、該当しそうな生物は見当たらなかった。
表面にあいた無数の穴は呼吸孔のように見えたが、それは、アワビのような一枚貝に多くみられる特徴らしく。やはり単純な二枚貝ではないのかもしれない。
その内、階下から夕食が出来たと呼ぶ声がした。返事をして、開いた図鑑の上に貝殻を乗せたまま、部屋を後にする。
一階に降りると、居間にはやはり叔母だけが居た。漁師という職業柄か、彼はまだ叔父と一緒に夕食をとったことが無かった。
叔母は彼に背を向け台所で何か用事をしており、電源の入ったTVだけが楽しげに喋っている。
食事の際、叔母は一度だけ彼の方を振り向き、「おかわりは?」 と訊いた。彼が首を横に振ると、少しだけ笑みを浮かべ、「そう」 と言った。
夕食を終え、二階の自分の部屋へと戻る。室内の明かりをつけ、彼はふと動きを止めた。
部屋の中、何かが違っている。見ると、図鑑の上に置いたはずの貝殻が床に落ちていた。風でも吹いたのかと思い、窓の方を見やる。
窓の外はとっくに暗くなっていた。ガラスの向こうには、黄色い月がぽつりと浮かんでいる。辺りはしんとしていて、外の虫たちの鳴き声が、やけにはっきりと聞こえた。
そのまましばらくの間、彼は閉じた窓の向こう側を眺めていた。そうして机に座ると、拾い上げた貝殻を図鑑の脇に置き、調べ物を再開した。
その日の夜、彼は夢を見た。
彼は一人、緩やかな坂道を上っていた。時刻の感覚は無かったが、辺りの暗さから見て、真夜中のようであった。
歩いているのは、見覚えのない道だった。閑散とした林の中をまっすぐに伸びている。路肩には所々等間隔に腰の曲がった古びた外灯が立っていて、舗装されてない道を照らしていた。
歩みながら振り返ると、はるか後方までずっと同じ景色。違いはそれが上りか下りかだけだ。
彼は寝巻のままだった。明かりの類は何も持っておらず、代わりに何故か今日海辺で拾ったあの貝殻を手にしていた。
背後から吹き上がって来た風に、辺りの木々たちが無言で身じろぎをする。
夢の中で、彼はそれが夢であることに気が付いていた。とはいえ、明晰夢と呼べるほどはっきり意識できたわけではなく、ただぼんやり、そうなんだろうな、と思ったのだった。
また彼は、全く知らない道であるにも関わらず、この坂道がどこへ続いているのか、自分がどこへ向かっているのかを理解していた。
海だ。この坂道を上りきれば、海が見える。
ただ同時に、漠然とした疑問もあった。それは海へと向かう理由だった。
この道は海へと続いている。それは分かる。ではどうして、自分は海を目指して歩いているのだろう。
ぼんやりとした思考がそこに行きついた時だった。
足の裏に微かな痛みを感じた。
その瞬間に夢は覚め、気付けば彼は現実の中に佇んでいた。
あまりの唐突さに、まだ夢の中に居るのではと錯覚しかけたが、道を照らしていたはずの外灯と月は消え、代わりに目の前には、見渡す限りの暗闇が広がっていた。
夜風が身体を撫でていく。かすかに葉がすれる音と、夜鳥の鳴き声がした。
目が慣れてくるにつれ、彼は、そこが叔父の家から十数メートルほど離れた場所であることを知った。彼が立っていた場所のすぐ後方に家があった。玄関の戸が開いていて、明かりの消えた家の中は、周囲の闇よりさらに濃く暗い。
彼には、部屋の戸を開けた記憶も、階段を下りた記憶も、玄関をくぐった記憶もなかった。
無意識のうちに、ここまで歩いてきたのだろうか。
再び、足の裏に痛みを感じる。見ると彼は靴を履いておらず、どうやらかかとに小石か何かが食い込んでいるようだった。
地面に座り込んで傷の確認をしようとした時、乾いた音とたてて、彼の右手から何かが滑り落ちた。何か手に持っていたらしい。しゃがみ込み再び拾う。
暗闇の中、目を凝らす。それは浜辺で拾った貝殻だった。そういえば、夢の中でも彼はそれを手にしていた。
貝殻を持ったまま、彼はしばらくその場に立ち尽くしていた。しかし、考えたところで何かが分かるはずもなかった。
その内、小さく首を横に振ると、彼は足の裏の皮が破けていることを確認してから、家へと戻った。寝ている者を起こさないよう、慎重に汚れた床と足を洗い、二階へと上がり、布団にもぐりこむ。
間もなく彼は二度目の眠りに落ちた。今度は勝手に起き上がるようなことは無く、夢も見なかった。
次の日は学校が休みだった。幾分朝早く起きた彼は、朝食を食べ終わると、叔母に麦茶入りの水筒を用意してもらい、家から少し歩いたところにある小さな漁港へと向かった。
昨夜のことは、二人には話さなかった。話したところで余計な心配をさせるだけと考えたからだ。
晴れやかな日だった。朝の漁港はしんとしており、穏やかな波の上ではロープで繋がれた小型の漁船が何隻か、舳先にとまる海鳥と共に揺れていた。
松林の脇を通り抜け、途中で、『く』 の字に折れた防波堤を進む。
防波堤の先端では、一人の老人が釣り糸を垂らしていた。木で出来た釣り具箱を椅子にして、眼前の海をぼんやりと見つめている。
彼は老人に近づき、その隣に腰を降ろした。老人が、ちらりと彼を見やった。しかし言葉はなく、その視線はまた海へと向けられた。そのまましばらく二人で海を眺めた。
彼らの背後、どこかで遠くの方で鳥が鳴いた。
「……また家を追ん出されて来たか」
老人が言った。
「違うよ」
彼が言った。
またしばらく、無言が続いた。ささくれた麦わら帽子を頭に乗せ、身体は日に焼けて黒く、対照的に伸び放題の髭や眉ははっきり白い。
老人は彼にとって、この集落にやって来てから出来た唯一の友人だった。
「釣れた?」
少し声を大きくして尋ねる。
「釣れん」
短く呟くように、老人は答えた。確かに、すぐ足元に置いてある魚籠は空っぽだった。
老人は、その集落ではそれなりに有名な人物であり、またそれなりに避けられてもいた。
死体を釣る男。老人はそう呼ばれていた。
この漁港で、老人が釣り上げた水死体は数十体にも上る。その噂は、僅かに誇張された分を除けば、真実だった。
「ねえ、みちさん」
名前を呼ぶと、老人はゆっくりと彼を見やった。
「みちさんは、これ、何だと思う?」
彼はそう言うと、昨日拾った貝殻をポケットから取り出し、老人に見せた。老人はゆっくりとその奇妙な物体を見やった。帽子の下の目がすっと細まり、日に焼けた染みと皺だらけの手が伸びて来て、貝殻をつまみ上げた。
彼は老人に向かって、それを拾った経緯と、昨日の夜の出来事を短く話した。老人は、貝殻を眼前にかざし、しげしげと見つめながら、彼の話を聞いているようでもあり、全く聞いていないようでもあった。
「……中に、何かおるな」
ぼそりと、老人が言った。
「声がしよる」
老人の言葉に、彼は何度か目を瞬かせた。
貝殻を返してもらい、自分の耳に貝殻を当ててみる。目を閉じ、耳をすます。しかし何も聞こえなかった。鼓膜に意識を集中させる。風に木の葉がこすれる音、コンクリートを叩く波の音、セミと海鳥の鳴き声。やはり、貝殻からは何も聞こえてこない。
「僕には、聞こえない」
そう彼は呟いた。しかし反応はない。老人は少しだけ耳が悪かった。
「みちさんは、これを、何だと思う?」
声を大きくして、同じ質問をする。老人は、先ほどからピクリともしない浮きを眺めながら、「……分からん」 とだけ言った。
それから昼になるまで、彼と老人は二人で海を眺めていた。その間老人の竿は一度も反応せず、魚一匹もしくは誰一人、釣り上げることはなかった。
それは、昨晩とまるで同じ夢だった。
彼は一人、夜の道を海へと向かって歩いていた。
どこまでもまっすぐな、代わり映えの無い緩やかな坂道。点在する外灯。道の両脇に生える雑草と木々。寝巻のまま、手の中にはあの貝殻がある。
全てがまるで同じだった。ただ彼は、自分が昨晩よりも目的地の海へと近づいていることに気が付いていた。
彼は歩いた。相変わらず、何故自分が海へと向かっているのかは分からないまま、それでも彼は、はっきりとした足取りで坂道を上り続けた。
前方、坂道が途切れているのが、うっすらと見えた。峠だ。あと少しで海が見える。
不意に目が覚めた。
いきなり世界が切り替わる感覚に、彼は危うく転びかけた。
闇夜の中、彼は幾分時間をかけて辺りを見回し、自らが置かれた状況を理解した。
家から学校へと続く道の途中に、彼は居た。家を出て昨晩よりもずっと長い距離を歩いてきたようだ。
自分の右手をそっと見やる。彼は貝殻を握っていた。それは、つい今まで見ていた夢がそうであったように、昨晩とまるで同じ状況だった。
夢遊病、という言葉が漠然と頭をよぎる。その言葉が意味する症状も知識としてある。
自分は病気なのだろうか。自覚はまるで無く、少なくとも今まで同じような経験をしたことは無いはずだった。しかし現実に今こうしてここに立っている。しばらく経って彼が出した答えは、そうなのかもしれない、というひどく曖昧なものだった。
その内、思い出したように足がひどく痛みだした。外灯の下に行き照らしてみると、昨日けがをした場所が再び破けており、さらにどこかにぶつけたのか、片足の小指の爪が割れて血がにじみ出していた。小さな切り傷や擦り傷もいくつかある。
痛みをこらえながら戻ると、家には明かりが灯っていた。玄関へと近づくと、叔母の声が聞こえた。電話だろうか、誰かと話をしているらしい。その声からして、彼女は明らかに気が動転しているようだった。
不意に、懐中電灯の光が彼を照らした。見やると、山の方へと向かう道から、叔父がやって来ていた。彼を見つけると、飛ぶように走ってきた。一体何をしていたんだと怒鳴り、彼に向かって手を振り上げた。
しかし、その手が彼を叩くことはなかった。
叔父は振り上げた姿勢のまま、唖然とした表情で、彼の血だらけの素足を見やっていた。
家の中から叔母が出てきた。彼女もまた、彼を見やると、言葉もなくただ呆然とその場に立ち尽くした。
「ごめんなさい」
二人に向かって、彼はそう言った。
先に我に返った叔父が上げていた手を降ろし、無言で家に入るよう促した。どこに行っていたのか等は聞かれず、怪我の処置をしてもらった後、その日は朝まで一階の居間で眠るように言われた。
居間に布団を敷き、ぎこちのないまどろみの中、部屋の外で二人が話している声がぼんやりと聞こえた。「もし、こういうことが続いたら……」 叔母の声だった。 「声が大きい」 叔父が言った。それ以上は何も聞こえなかった。
彼は、薄い掛布団の中に頭までもぐりこんで、眠った。
次の日、昼過ぎに家を出た彼は、その日も漁港に居るはずの友人の元へと向かった。朝、叔父と叔母は彼を病院へ連れて行くかどうかを話し合っていたが、結局もう少し様子を見ることにしたようだった。
防波堤の先、昨日と全く同じ場所に老人は居た。その服装も、釣り糸を垂らす位置も前日と全く変わらず、夜通し釣りをしていたと言われても信じることが出来そうだった。
隣に座ると、老人が彼を見やった。
「……また家を追ん出されて来たか」
いつものように、老人が言った。
「違うよ」
同じく、いつものように返事をする。老人は、いつもよりほんの少し長く彼を見やってから、再び海に視線を向けた。
「釣れた?」
今度は彼が尋ねる。老人は無言だった。おそらく聞こえなかったのだろう。彼はちらりと魚籠の方を見やった。すると、いつも空っぽの魚籠の中に、青い色をした何かが入っている。
首を伸ばして魚籠を覗き込む。妙な色形の魚かと思ったら、それはただの青いゴム手袋だった。これが今日の釣果ということらしい。
彼はその手袋に触れようとした。
「……触らん方がええぞ」
唐突に、老人が言った。
「まだ、指が入っとる」
その言葉に、彼は魚籠の中に伸ばした手をそっと引っ込めた。老人を見やる。どうやら冗談では無いようだった。再び視線を落とすと、その青いゴム手袋には確かに妙に膨らんでいる箇所があった。
彼は老人の異名を思い出していた。
死体を釣る男。
その噂が事実であることは知っていたが、実際に釣り上げたところを見るのは初めてだった。
ゴム手袋ということは、指の持ち主は漁師だったのだろうか。溺れて亡くなり、バラバラになって海を漂っていたところを、老人に釣り上げられたのか。
老人はそれ以上何も言わず、指が答えるわけもない。
彼は老人の横に座り直した。欠けた人間の一部がすぐそばにある。しかし、嫌悪感は無かった。老人が居て、傍の魚籠に人の指がある。それが当たり前であり、ごく自然なことのように思えた。
しばらく、二人とも無言でいた。
海面の浮きに反応はない。空を飛ぶ海鳥の影がすぐ足元を一瞬で横切っていった。昨日よりも照りつける日差しが強く、セミの鳴き声がうるさい。座っているだけでじわりと汗が滲んでくる。
ふと、何かが彼の頭に乗せられた。見やると、それは老人の麦わら帽子だった。
老人は何事もなかったかのように釣りをしている。初めて見る老人の頭は、額が広く、髭と同じ色をした白髪があった。
老人の帽子は大きくつばも広かったので、その陰の下に小さな彼の身体はほとんど隠れてしまった。
ありがとうとは言わなかった。老人も何も言わなかった。しばらくして、彼は持参してきた水筒の蓋にお茶を注ぎ、老人に差し出した。老人はそれを受け取り、一口飲んで彼に返した。やはり、言葉は何もなかった。
そのまま、数時間が経った。辺りはまだ明るいが、陽は大分西の方に傾きかけている。
帰ろうと思い、彼は立ち上がった。老人はまだ釣りを続けている。帽子を脱いで老人の頭の上に戻し、そのまま立ち去ろうとした。
「……船かもしれんなぁ」
老人の言葉に振り返る。意味が分からず、彼は尋ね返した。
「船?」
「中に人がおって、海から来よったんなら、船じゃろう」
老人は、それ以上何も言わなかった。
彼はズボンのポケットに手を当てた。あの貝殻は、今日も持ってきていた。何故かは分からないが手放してはいけないような気がして、捨てる決心もつかず、ポケット入れたまま持ち歩いていたのだった。
船。形こそ彼が知っているものと違ったが、それが船であるという考えは、不思議なほどしっくりと来た。あの夢のことを考える。二日続けて見た、海へと向かう夢。
何か形の無いものが、ぴたりとはまる感覚があった。
自分は今日もあの夢を見るだろう。根拠は何もなかったが、彼ははっきりとそう思った。
しかし、再び家の者に迷惑をかけることは避けたかった。足の怪我だってひどくなるかもしれない。
彼は隣の友人を見やった。老人は釣竿を手に、いつものようにじっと海を眺めていた。どうしたらいいかと尋ねても、老人はきっと、「分からん」 と言うだけだろう。
彼は一人で考え、答えを出した。
着ていた上着を脱ぎ、防波堤の上に広げる。
そうして、再び老人の隣に腰を下ろし、広げた上着の上に寝転がった。横向きに膝を丸めて目を閉じる。
昼間に比べれば、刺すような陽の光は幾分弱まったものの、コンクリートの堤防にはまだ十分熱が残っており、広げた上着を通してそれが伝わってきた。
夜に家で眠るから問題になるのだ。だったら、先にここでひと眠りし、夜は起きていればいい。そうすれば少なくとも、家の者を悩ませたり、足の裏の怪我がひどくなることは無いだろう。
「ねえ……、みちさん」
寝転がったまま、目を閉じたまま、呟くように彼は尋ねた。
「……死んだ人って、どうやって釣るの?」
おそらく聞こえてなかったのだろう。老人は何も言わなかった。答えを待っているうちに、いつの間にか彼は眠りに落ちていた。
あの道を、歩いていた。
二日間見た夢と同じ道。右手にはあの貝殻。ただし、その日の夢の内容はこれまでとは少しだけ違っていた。まだ辺りが暗くなりきっておらず、夢の中の彼は寝巻ではなく靴も履いていた。
峠まであと少しの場所に彼は居た。
歩調を早める。すぐ前方に見える、坂道の終点。その先には、ほのかに暗くなり始めた空が広がっている。三日間かけて、彼はようやくたどり着いた。
峠に立った彼の目に、海が映った。
意外にも、海はすぐ近くにあった。
今まで上ってきた緩やかな坂道とは真逆の急な下り坂が、曲がりくねりながら海へとつながっている。
下り坂の終点。そこには、小高い岩山に囲まれた狭い浜辺があった。
見慣れた風景。学校帰りにいつも寄る、あの貝殻を拾った場所だった。
とはいえ、近くにあるはずの民家や登下校路は見当たらず、見覚えのない景色の中に突如現れたそれは、一枚のジグソーパズルの絵の中に一つだけ全く別のピースがはめ込まれているかのような、ひどくちぐはぐなものだった。
海岸には、大勢の何かがいた。遠目にもそれが分かった。
それらは人の形をしていたが、人とも言い切れない、おぼろげな何かだった。小さな浜辺にひしめき合い、ゆらゆらと揺れている。
彼は坂道を下り始めた。海に近づくにつれ、彼はあの海岸にたたずむ全員が、こちらを見つめていることに気が付いた。まるで、彼が来るのを待っているかのように。
唐突に、罪悪感にも似た感情が湧いてきた。転ばないように注意しながら、小走りで坂を駆け下りる。
その間にも徐々に陽は傾いていく。
急な坂道を下りきり、海岸にたどり着いたころには、山の向こうに落ちる夕日が、海をオレンジ色に染めていた。
海岸に居た大勢の何かは、彼が到着すると、一斉に左右によけ海までの道を開けた。
それらは、人の形をした靄のようでありながら、ちゃんと色がついていた。はっきりとは見えずとも、大まかな服装や年齢、男女の違いくらいは見て取れた。中には、一部体が欠損しているように見えるものもいれば、彼と同じくらいの背丈のものもいた。
それらは、声を発することはしなかった。ただじっとその場に立ち尽くし、彼を見つめていた。
走ってきたせいで乱れた息を整えながら、彼はゆっくりと、彼のために作られた道を海岸まで歩いた。
夢の中で、彼は理解していた。自分がしてしまったこと。そうして、自分がこれからしなければならないこと。
寄せてくる波が、足先に当たった。一瞬躊躇のような感覚を覚えるも、彼はそのまま海の中へと進んだ。そうして太腿が浸かるくらいの場所で、一度後ろを振り返り、彼を見つめる大勢の何かに向かって、頭を下げた。同時に何か言ったはずなのだが、言葉にならなかった。夢の世界には音がないのかもしれない。
そうして彼は、右手に持っていた貝殻を、海の中に離した。
その瞬間、一際大きな波が彼の背中にぶつかった。水しぶきが跳ね、思わず浜の方へよろける。再び見やった時にはもう、あの貝殻はどこにあるのか分からなくなってしまっていた。
ふと、浅瀬に立つ彼の横を、誰かが通り過ぎていった。夕日に染まる沖へ。段々と深くなる浜を、足、腰、肩、頭と水の中に消えていく。一人、二人、それ以降は数えられなかった。大きいものも小さいものも、男のようなものも女のようなものも、腕が無いものも足が無いものも。皆、沖へと向かって進んでいく。
今度は彼がその様子をじっと見やる番だった。
どれほどの時間そうしていたのか。随分と長い時間がかかったようにも感じた。最後の一人が海中へと消え、気が付けば、彼はただ一人浜辺に取り残されていた。
空が赤からに紺色に移り始め、空よりも先に海が黒く沈んでいく。
彼は、腰まで海水に濡れながら、海と空の色が移り変わるさまを、ぼんやりと眺めていた。
「風邪をひくぞ」
後ろで、声がした。
振り向くと、浜辺に老人が立っていた。いつの間にか、彼が下ってきたはずの一本道はなくなっていて、代わりに、そこには普段使う家から学校へとつながる道があった。
どのタイミングで夢から覚めたのか、彼には分からなかった。すでに辺りは十分暗い。老人は釣り道具と一緒に、彼が寝る前に敷布団にしていた上着を肩にかけていた。海から上がると、今更ながら足の傷に海水がしみてちくちく痛んだ。
夢の中で彼が気づいたこと、理解したこと、人のような何かに頭を下げた時に発したはずの言葉。すでにそれらは遠い過去の出来事のようで、普段見る夢がそうであるように、はっきりと思い出すことはできなかった。
あれは本当に船だったのか。だとしたら、誰が乗って来たのか、誰が乗って行ったのか。
老人から上着を受け取る。手に取るとまだ温かく、太陽の匂いがした。
ただ少なくともこれで、家の者に心配をかけることもなくなるだろう。それはやはり根拠のない確信だったが、実際その日以来、彼の夢遊病はぴたりと止んだ。
そうしてもう一つ、彼には確信していることがあった。それは今までがそうであったように、ここでの生活もまた、長くは続かないだろうということだった。
老人が、彼を置いて一人帰ろうとしている。
上着のボタンを止めながら、彼はその背中に声をかけた。
「ねえ、みちさん」
老人は返事をしない。それでも構わず、彼は言った。
「魚って、どうやって釣るの?」
それは彼にとって、死体を釣ることと同じくらい素朴な疑問だった。
老人が立ち止まり、振り返った。聞こえたのか、聞こえていないのか、どちらでも良かった。
彼は小走りで老人に追いつくと、この耳の遠い友人に向かってはっきりと、今度はちゃんと聞こえるように、同じ言葉を繰り返した。