師匠シリーズ

【師匠シリーズ】双子 4/4

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『双子 4/4』 https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=8666920

 6月28日、日曜日の朝だった。
 夜明け前に目を覚ました僕は、隣の師匠の部屋につっかえ棒が下りたままなのを確認してから、足音を忍ばせて階段を下りた。1階では、女将がもう朝の食事の支度をしていた。
「あら、今日はお早いですね」
「ちょっと、散歩でもしてこようかと」
「まだ暗いですよ」
「ええ」
 玄関を開けてもらって、外に出た。闇はほのかに白かった。息を吸い込むと、湿気を含む冷たい空気が体のなかに入ってくる。
 民宿の玄関の明かりが遠ざかっていくと、暗闇が深くなっていく。目を凝らすと、遠くの山のかなたに薄っすらと朝の光が控えているのが見える。川沿いの道を歩いていると、師匠が言っていたように、もやがたちこめていた。
 この朝の薄暗闇の向こうに、だれかがいる。そんな想像をしてみる。すると、もやのなかに人影が見えた気がして、目を擦った。
 これがかたわれどきか。
 僕にも、双子の妹がいるのだろうか。この世ではないどこかに。そう思いながら歩き続けると、もやのなかの人影が、まるでこちらを呼んでいるように揺らめいていた。
 しばらく歩いて、明るくなりはじめたころに引き返した。宿に戻ったときには、体が冷え切っていた。
 師匠も起きてきて、一緒に朝ごはんを食べた。昨夜は、車が動かなくなったような異変は、特におこらなかったようだ。
 することがないので、自分の部屋で2度寝していると、耳慣れた師匠の軽四の音がした。自動車屋が直して持ってきてくれたのだ。
 師匠は自動車屋に手持ちの金を渡して、残りを調査事務所に請求してもらうように話をつけた。これでようやく足が戻ったのだ。
「田舎で車がないと本当に大変だよな」
 師匠はそう言いながら、愛車のボンネットに頬ずりをした。そのあと僕が、頬が汚れたのを指摘したら、ボンネットを殴った。
「じゃあ、これで」
「ありがとうございました」
 僕らは見送りの女将にお礼を言って、やまと屋をあとにした。ご主人の滝野氏は、朝早くから畑に行ってしまって、会えなかった。道に出て、手を振る女将を振り返りながら、僕は師匠に訊ねた。
「これからどうします。夜まで時間ありますけど。どっかに隠れてます?」
「いや、村の人に見つかると、計画に支障があるかも知れない。約束の時間までに戻ってくればいいんだから、一度外に出よう。廿日美村の戻り沼につれていってやるよ」
「え、本当ですか」
「お、テンションがあがったねぇ。じゃあBGMだ」
 またステレオから稲川淳二がノリノリで喋りはじめた。
 村の境の、最初に見たあの大きな道祖神の横を通り過ぎるとき、師匠が「さあ、ここから先はあの世だ」と冗談を言った。
 稲川淳二が、「おやあ、なにか変だなあ」と言っていた。

 戻り沼にはなかなかたどりつけなかった。廿日美村の奥へ分け入って、山道をしばらく進んだあと、「このあたりから入るはずだ」と言って、路肩に車を停めた。そこからは道なき道をひたすら登り、「違った。こっちじゃないな」という師匠の言葉に不安になりつつ、元の場所に帰れるのか本気で心配しはじめたころに、鼻につく嫌な匂いに気がついた。
「あったあった」
 木々に囲まれた窪地に僕らは立っていた。眼前には葦やガマが生い茂る沼があった。嫌な匂いはそこから立ち上っている。
「沼気(しょうき)ってやつだな。沼底からメタンガスが出てるんだ」
 師匠が鼻をツイと摘みながらそう言った。
「もともとは綺麗な泉だったらしい。それがあるとき空を飛んでいた天狗が、宝物の珠を落としてしまった。珠は泉の底に沈み、珠から漏れ出る呪力で、美しかった水は汚泥と化して瘴気に満ちた沼になってしまったんだと。そんな言い伝えがあるそうだ」
「はあ」
 たしかにそんな言い伝えがあってもおかしくないような、不気味な気配が漂う場所だった。沼の周囲の木はどれも枯れていて、大きな根だけが、のたうつように地面を這っている。道中ずっとけたたましく響いていた山鳥の鳴き声が、ここでは聞こえなかった。
 師匠は、流行り病で妻に先立たれた男が、この沼で死のうとやってくる話をした。
 男が妻の形見の髪の毛の束を沼に投げ入れたところ、沼のなかほどから赤子のような悲鳴が聞こえ、沼面が沸き立ったという。それがおさまったとき、沼のなかに死んだはずの妻の顔が浮かんでいた。男は妻を沼から引きずり出した。しかし、姿かたちは生前の妻そのものだったが、問いかけに応えることもなく、まるで生き人形のようだったという。やがて笑みひとつ浮かべることなく、妻の形をしたものはモロモロと崩れ、男の目の前で泥になった。泥のなかには髪の毛の束が残っていた。
 男は死ぬことをやめ、山を下りて後妻を娶った。子はできなかったが、よく働く、気立てのよい女だった。数年が経ったある日、男は妻をつれて沼にやってきた。男は妻を沼に突き落とし、隠していた前妻の髪の毛を投げ入れた。すると泳ぎの上手かったはずの妻は、まるでだれかに足を掴まれたかのように、もがきながら沼の底に沈んでいった。沼は瘴気を撒き散らしながら沸き立ち、それがおさまったころ、女の顔が水のなかから浮かんできた。死んだ前妻の顔だった。男が沼から引きずり出すと、妻は今度は呼びかけに応えた。死人があの世から戻ったのだ。それから男は生き返った妻と幸せに暮らしたそうだ。それからこの沼は『戻り沼』と呼ばれるようになったという。
「それが天狗の珠の力だと?」
 僕の問いかけに、師匠は頷いた。
「天狗が天狗星の寓意だということは間違いないだろう。落とした珠というは、その欠片なのか。岩倉村に落ちたのは天狗星だって言ってたけど、本体は新城村に隕石湖を作ったほうのはずだ。岩倉村のものも、この廿日美村の戻り沼を作ったものも、どちらも天狗星が途中で砕けた破片ということになるな。そのどれもが、まるで人の死を覆すような逸話を伴っている」
 生い茂る葦を揺らせて風が吹き、静かな沼の水面に波紋を作っていった。
 ザワザワした気配に、僕は肌に鳥肌が立つような気持ち悪さを感じた。
「死んだ女房が生き返ったという男の話を噂で聞いた村の庄屋が、早死にした一人娘をあの世から呼び戻そうとして、同じことをしたんだと。髪の毛を投げ入れただけじゃなく、女中を騙して沼に沈めたのに、よみがえった娘には魂が宿っていなかったそうだ。そして土に還ってしまった。噂が代官のところにまで届き、また同じことをしたが、どうしても死者はよみがえらなかったそうだ」
「天狗の珠の力がなくなったということですか」
「いや、死者の体が復活するという奇跡は続いている。要は魂がどうやって宿るのかってことだ」
「魂ですか」
 昔テレビで見た、人形に魂を込めるという人形師のインタビューを思い出した。
 師匠はしゃがみこんで、ガマの花をいじりながら言った。
「ジェイムズ・フレージャーが分類した『類感呪術』ってやつは、類似した形状のものには空間を越えた繋がりがあるっていう考え方による。藁人形に釘を打つのはその典型だな。てるてる坊主なんかもそういう類の呪術だ。戻り沼で死者をよみがえらせる代償として差し出される人間は、『ヒト』という括りでは、類似性が弱いんだろうな」
「だったら、最初の男は庄屋たちとなにが違ったんですか」
「類似した形のものには、同じ魂が宿るんだ。妻をよみがえらせた男が、後妻に娶ったのは妻の双子の妹だった」
 僕はハッとした。双子という言葉に。ここにも双子が現われた。
「死んだ妻と、同じ姿かたちをした女を生贄にささげたから、妻の魂が宿ったって言うんですか」
「ああ。だけど、実はな、最初の男のほかに、死者をよみがえらせることに成功したという言い伝えがいくつか残っている。そんなに都合よく双子はいやしない。岩倉村じゃないんだ」
「じゃあ、ほかの人たちはどうやって?」
 師匠はしゃがんだまま、ちぎりとったガマの花を沼に投げ入れた。濁った水面は沸き立つこともなく、花はゆっくりと沈んでいった。
「人間にとって、類似した形のものは、肉体以外にもある。肉体以上にその人間の本質を表すもの。その類似性が魂の器として、等価交換に応じたんだよ」
「それは?」
 息をのんで訊ねた僕は、チリチリと産毛が焼けるような気がした。そのときの師匠の横顔が、いやにはっきりと脳裏に残っている。
 それは、岩倉村のできごととは別に、いつまでも僕のなかに残った。まるで墨を入れられたように。呪いの刻印のように。

 それから僕らは戻り沼をあとにして、山を下りた。
 廿日美村の山村センターというところで昼ごはんを食べ、笹川町の街なかで時間を潰した。
 ミノルとの約束の時間は夜の11時だった。10時ごろに笹川町を出て、岩倉に向かった。
「いよいよですね」
「ああ」
 窓の外を、暗い森が飛び去っていく。
「どうしたんですか。なんか元気がないですね」
 緊張しているのかと思った。しかし師匠は「なんでもない」と言ってはぐらかした。なにか気になることがあるのだろうか。
 僕も、天神山の聖域で師匠が指摘した、この村で起きている可能性のある遺伝子の異常のことが気にはなっていた。でも冷静になって考えると、1日2日いたくらいでそんなに影響はないだろう。たしかにミノルの言うとおり、そこで生まれた時から暮らしている人たちがいるのだから。
 山道なので、師匠はスピードを落として慎重に進んでいた。どれほどゆっくり走っても、追いついてくる車はなかった。対向車が何台か通っただけで、岩倉へ向かう車は僕らだけだった。普段からこんな交通量なのかも知れないが、なにしろ今夜は大ごもりの夜なのだ。わざわざ今ごろ岩倉に向かう地元の人もいないのだろう。
 来たときと同じ三叉路で左にハンドルを切った。ハイビームのライトに、大きな双体道祖神の石碑が浮かび上がる。
「夜に見ると、雰囲気がありますね」
 やけに不気味に見える巨大な像の横を通り過ぎて、僕らは岩倉に入った。
 カエルの鳴き声だけが聞こえている。人影はまったくない。やまと屋の前を通ったが、明かりはなかった。家がいくつかあったはずの場所を見ても、真っ暗だった。留守なのだろう。時間は夜11時少し前。いつもなら、そろそろ寝ようか、という時間かも知れないが、今夜ばかりはそういうわけにいかないのだ。大ごもりの夜なのだから。
 師匠が運転をしながら、かごめかごめの歌を口ずさんでいる。
「うしろのしょうめん、だあれ」
 その歌声を聴きながら、僕は少し怖くなってしまった。やっぱりこれは、師匠が言うように、おどし歌なのだろう。大ごもりの夜に、死者の国から這い出てきた双子のかたわれに出合う、という脅かしの歌。里美さんは、家にいるときにこの歌がどこからともなく聞こえてきた、と言って怯えていた。その恐ろしい縁起をはっきりとは知らないはずの彼女にも、岩倉で受け継がれてきた血の遺伝があったのだろうか。アタイズム。その知らないはずの景色への郷愁のように。
 車は人の気配のない上岩倉を走る。真っ暗闇だ。やがて北へ折れ、天神山へ向かう道に入る。空は曇っていて、星が見えない。岩倉を囲む北の山々も闇に溶けて見えなかった。
 鳥居の前に、男が立っていた。自転車が横に停まっている。僕らはジャリジャリと砂地の駐車スペースに車を停め、外に出た。
「遅かったですね。来ないかと思いましたよ」
「悪い。暗すぎて、ゆっくり走ってきたんだ」
 ミノルは持っていた懐中電灯を点けながら、「じゃあ、さっそく行きましょう」と言った。「父はもう、集会所回りが終わって、社殿に入ってます」
「もう大ごもりが始まっているんだな。この時間に上岩倉にいるのは私たちくらいか」
「ええ。怖いですか」
「どうかな」
 師匠は周囲を見回す真似をした。僕の霊感には、なにも映らなかった。師匠にはなにか見えているのだろうか。
 ミノルに先導され、足音を立てないように参道を静かに進む。
 宮司が祝詞を捧げているという社殿を通り過ぎて、社務所のほうへ進んだ。
「この裏が僕らの家なんです。母と祖母も、今夜は下岩倉の集会所です」
 ミノルは小声で言いながら、社務所の裏の住居へ僕らを案内した。
 電気がついて、廊下をそろそろと進む。広い日本家屋だった。その奥に、大きな書斎があった。骨董品と、本で埋まっている。
「父の書斎です。隣が父の寝室で、いつもは入れないんです。鍵のありかは知っていたので、さっき開けておきました。僕も双子に関する記録が、このどこにあるのか知りません。でもたぶんあると思います。祖父が言っていましたから。それを父が捨てるはずないです。もし、書斎になかったら、この奥に倉庫があります。そっちも調べてみてください。これ、見つけた鍵束です。引き出しがいくつかありますけど、どれかで開くと思います。動かしたものは元にもどしてくださいね。大ごもりは朝になったら、宮司がもう一度出向いて祝詞をあげ、それでお開きになります。朝7時から順次回り始めます。ギリギリまで社殿から出てこないはずですが、6時までにはここを引き上げるようにしてください。一度車で村の外に出て、三叉路を左に曲がったところで待っていてください。僕も大ごもりが解散になったらすぐに行きますから」
 ミノルは早口でそう言うと、焦った様子で、「じゃあ、僕はこれで集会所に戻ります」と頭を下げた。
「そんなに、怖いのか」
 師匠が挑発的に訊ねると、ミノルは「ええ」と素直に頷いた。
「12時を回ったら、いつ山から吼え声が聞こえてくるかわかりませんから」
「それが聞こえたら、死者が湧いて出てくるってわけか」
「岩倉の生まれじゃないから、大丈夫だと思いますけど、一応耳栓を渡しておきます」
 用意がいい。魂が抜かれるとかいう話を聞かされて、僕も怖かったので、感謝して受け取った。
「なにからなにまで、すまないな。どうしてそこまでしてくれるんだ」
「……どうしてでしょうね。僕にもわかりません。この神社を父から受け継ぐのは僕です。継ぐ前に、自分がなにものなのか、どうやってここで生きていきたいのか、確かめたいのかも知れません」
 ミノルは静かにそう言って、書斎を出て行った。最後にもう一度顔を出して、「あ、麦茶出しておきましたから、飲んでください。最後は流しに置いといてもらっていいですから」と言った。
 本当に気がきく。さっきからやけに蒸し暑くて、喉が渇いてしかたがなかった。半分は緊張のせいかもしれないが。
 ミノルが去ってから、僕は隣に立っている師匠に言った。
「あの人、本当は、自分に双子のきょうだいがいるんじゃないかって、疑っているのかも知れませんね」
 この村の人々は、みんな疑心暗鬼になっている。両親はけっしてなにも言わないからだ。だれもが、自分に忌み子と呼ばれ捨てられた双子のかたわれがいるのかも知れないと、心の奥底では思っている。ミノルは、そんな悲しい歴史を止めたいと思っているようだった。
「さあ、朝までに探さないといけないぞ」
 師匠は麦茶をがぶ飲みして、両手で自分の頬を叩いた。僕も真似をして、手分けして書類と本の束をかき分け始めた。
 どれくらい経っただろうか。
 暑さで頬に流れた汗を拭いたとき、ふいにくらりと眩暈がした。熱中症になったらいけない、と思ってまた麦茶のコップを手に取って飲み干した。
 眩暈が止まらなかった。おかしいな。そう思って額に手をやると、足が揺れた。膝の関節に力が入らない。次の瞬間、自分が猛烈な眠気に襲われているのに気がついた。
 な、なんだこれは。急にどうしたんだ。
 くらくらする頭で、師匠のほうを見ると、師匠も同じように頭を振っている。
「おい」
 師匠がこっちを見て、なにかを言った。
「やられた」
 そう言ったのか。なんだかわからない。もうだめだ。眠い。僕は自分の意識が暗い穴のなかに落ちていくのを感じていた。

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「う」
 顔に、水がかけられて目が覚めた。
「うわっ」
 僕は自分の状況を認識して驚いた。足を投げ出す格好で、うしろ手に縛られ、柱に括りつけられている。
 目の前には、ミノルがいた。大きなヘッドホンを首からかけて、僕のまえにしゃがみ込んでいる。
「目が覚めましたか」
 そう言いながら、コップに入った水をもう一度僕の顔にかけた。
 ぶっ。
 一瞬、息が詰まった。なんだ。なんなんだ、いったい。
「睡眠薬だよ。麦茶に盛ってやがった」
 声のしたほうを振り向くと、師匠が僕と同じような格好で柱に括りつけられていた。顔と髪の毛が濡れている。僕と同様に水をかけられたようだ。
「なんで。なんでだよ」
 僕は喚いた。うしろ手に縛られた拘束を解こうともがいたが、ロープできつく結ばれているようだ。さらにそのロープをうしろの柱の基部にくくりつけられていて、その場を動くことができなかった。
「ここは、社殿か?」
 師匠がミノルを睨みつけながら詰問する。そう聞いて、僕は周囲を見渡した。天井に黄色い電灯がついている。その明かりに板張りの部屋が照らしだされていた。目に前に祭壇のようなものが見える。祭壇の前には大きな鏡が置かれていた。僕と師匠は、部屋の左右にある柱にそれぞれ括りつけられている。
「そうですよ」
 ミノルは立ち上がり、祭壇の前に立った。爽やかな笑顔のままで。
「宮司はどこに行ったんだ? ひと晩中、社殿で祈ってるんじゃなかったのか」
「あの父がですか? ハハハ。とっくに逃げてますよ」
 ミノルは古そうな鏡の、錆の浮かぶフチを指で弾いた。
「逃げた?」
「表向きは大ごもりの祝詞が終わったら、ひとりで社殿にこもって朝まで祈っているはずなんですけどね。地の底から這い出てきた死者たちを、地の底に還すために。実際にはだれも見ていないことをいいことに、祝詞が終わったら、そのまま村の外に車で脱出するんですよ。朝になったら戻ってきます。都合のいいことに、大ごもりのしまいをつけるのも宮司の仕事です。父が車で戻ってきてから何食わぬ顔で集会所を回るまで、だれも外を出歩かないから、バレないんですよ」
 ミノルは楽しそうに笑っている。昨日僕らと談笑したそのままの笑顔だ。けれど、僕らが拘束されているこの状況の前では、異常な態度だった。
「最近は、集会所にこもらずに外で泊まって、朝帰ってくる連中もいますけどね。そいつらが帰ってくるのは、仕事に間に合うギリギリですから。出くわすこともありません」
「……車を壊したのは、おまえだな」
 師匠が怒りを押し殺したような声で言った。
「証拠でもあるんですか」
「車が壊れされたあと、おまえに神社へ呼び出された。おまえの親父に内緒だからって言って、自転車を鳥居のそばの木のうしろに隠しただろ。車じゃないんですか、なんて、しれっと言いやがって。車で来てたら、隠せる場所なんてないじゃないか。おまえ、私たちが最初から車で来ないって知ってたんだな」
 ハッとした。そう言えば、昨日神社から帰るときに、師匠がやけに鳥居のほうを振り返っていた。
「気づいてたんですか」と僕は言ったが、師匠はいまいましそうに首を振った。
「確信は持ってなかった。昨日のヤンキーどもがイタズラでやったかも知れなかった。それを聞いていただけかも知れない。一応油断はしないようにと思ってたけど、まさかここまでやるとはな」
 ミノルはニコニコしている。師匠の刺すような視線にも動じていない。
「車を壊したのは、帰さないためだな。私たちを呼んで、この大ごもりの夜の計画を話し、誘い込んだ。完全に嵌められたよ」
「目的も感づいているみたいですね。聡明なあなたのことだから」
「いいからほどけよ、この野郎」
 僕は喚いた。そして板張りの床をカカトでガンガン蹴った。ムカつく。最初から気に食わなかったんだ。話しかたも。顔つきも。ふざけんな。
「うるさい。黙ってろ」
 師匠に怒られて、黙った。なんで僕が怒られるんだ。
「おまえだったんだな。羽根川里美の双子の兄は」
「えっ、えっ。どういうことですか」
「黙ってろって言ったろ。こいつもサバ読んでやがったんだ。逆サバを」
「その通りです。23歳って言いましたけど、本当は21歳です」
 ミノルは祭壇の奥の棚から、手帳のようなものを手に取った。
「あなたたちに探してもらってたのは、これですよ」
 僕は唖然とする。とっくに自分で持ってたんじゃないか。
「見つけたのは5年前です。父が大ごごもりのあいだ、社殿からいなくなることを知ってから、その夜は僕の、自由でそして個人的な空間でした。初めてこれを見たときは、驚きましたよ。僕に双子の妹がいたなんて。ずっと見ていた怖い夢の正体が、村の外にいたんです。あいつは、僕と入れ替わろうとしている。そして、いつか僕の前に現れることを恐れていました。あなたは、本当の双子のきょうだいは死者じゃない。血のかよっている普通の人間だって言ってましたね。あの夢を見たことがないから、そんなことを言えるんですよ。あれは人間じゃない。はるか昔から伝えられてきたとおり、黄泉の国へ生まれるはずだった忌み子だ。僕は、自分自身を守らなくてはならない。父からあなたたちのことを聞いたときは、心臓が止まりそうになりました。父も驚いたと思います。羽根川里美は自分の娘なんですから。あなたたちがだれを探しにきたのか、父は僕に説明しませんでした。妹のことは、僕も知らない。父と母だけの秘密ですからね。でも森林組合の同僚が昨日の夜、電話をかけてきました。21歳の双子の兄を探しにきたやつがいたぞって。おまえじゃないのか、って。笑って言っていました。僕ですよ、21歳の双子は。この記録にある、最後の双子です」
 古い手帳を掲げて、ミノルの笑顔が初めて歪んだ。声がかすかに震えている。
「21歳の男で、里美と近い誕生日の男を捜せば、いずれ僕にたどり着いてしまうと思いました。あなたたちがどんなに間抜けでも。だからこうするしかなかったんです」
「どうするってんだ」
「そうだ。どうするんだよ」
 自由を奪われたままで、僕は湧いてくる恐怖心と戦っていた。目の前の男は、狂っている。理知的な態度だったが、その根本にある精神が、僕らの知っている倫理観や死生観と異なっているのだ。話しているだけで、そのことがひしひしと伝わってくる。なにをするのか、予測できなかった。
「そうですね。里美に、双子の兄は死んでいた、とでも言ってもらいましょうか。それとも、藤崎アキラがそうだったとか。慎重に考えないとね。もう二度と僕に近づかないようにするために。そのためには、あなたたちの弱みを握らないといけないな。人に見られたら死にたくなるような、恥ずかしい写真なんてどうですか」
「ふざけんな。殺すぞ」
 僕は腹の底から怒鳴った。まだ少し残っていた眠気が、吹き飛んだ。
 そのとき、どこからともなく、地響きのような音が聞こえてきた。オオオオオオ、という低い音だった。思わず周囲を見たが、発生源はどうやら床の下のようだった。
 なんだいまの音は。かすかに床が揺れているような気がする。
「もう時間がきましたね」
 ミノルは手帳を棚に置いた。そして、首にかけていたヘッドホンを耳元に構えた。胸にウォークマンのようなものがのぞいている。
「この社殿の地下には、空洞があるんですよ。天神山の地下空間と繋がっています。大ごもりの夜に、山の亀裂から死者の咆哮が吹き出るときには、この下からも空気が漏れて、聞こえるんですよ。それを塞ぎ、その怨念を封じるためにこの社殿は建てられています。あの生真面目な父が、逃げたんですよ。どんなものか想像がつきますか。遠くで僕が一度聞いたときは、本当に魂が抜けていくような感じがしました。何百年、何千年と積み重なってきた死者の呼び声をまともに聞くと、どうなってしまうんでしょうね」
 床板の隙間から、気流が漏れてきている。僕は自分の足元を見て、「ひっ」と声をあげた。立ち上がろうともがいたが、柱の下に結ばれたロープのせいで、それすらできなかった。
「それじゃあ、耳も塞げませんねえ」
 ミノルは僕を見てニコリと笑った。
「じゃあ、僕は一度離れます。大丈夫。近くにいますよ。声がおさまったら戻ってきます。もしおふたりが無事なら、記念写真でも撮りましょうか。楽しいポーズで」
「集会所に戻らないのか。あれほど怖がっていたのに」
「もちろんウソですよ。僕のかたわれは、村の外にいるんです。この山の地下から這い出てくるのは、アカの他人の双子の死者たちなんです。怯える必要はないじゃないですか。大ごもりの夜、川のこっち側の上岩倉にいるのは僕だけです。父すらいない。僕だけの世界です。死者の無数の黒い影がうごめいている暗い夜に、僕だけが自由に歩いている」
 ミノルの顔に喜悦が浮かんでいる。
「狂ってる」
 師匠が吐き捨てるように言った。
「こんな夜には、ドヴォルザークの『新世界より』が合うんですよ。それじゃあ、さようなら」
 ミノルはウォークマンのスイッチを入れて、大きなヘッドホンで両耳を覆った。
「ま、待て」
僕らの叫びに手を振って応えると、両手をズボンのポケットに突っ込み、猫のように背中を曲げて静かに横を通り過ぎていった。
「待てこの野郎」
返事はない。うしろから、社殿の扉が軋みながら開き、そして閉まる音がした。本当に出て行ったのだ。
 床の下の振動は、だんだん大きくなっている。
 うそだろ。うそだろ。
 僕は混乱していた。なにかが来る。なにか恐ろしいものが。心臓がバクバクしている。なんでこんなことになってるんだ!
「師匠!」
「まて、いま考える」
「考えるもなにも、動けないんですよ」
 僕は苛立ちを師匠にぶつけた。とにかく2人ともうしろ手に縛られて、腰のあたりで柱にくくりつけられているのだ。足は動かせるが、それだけだ。足をあげようが、上半身を丸めようが、耳をふさぐことができない。ヨガの達人のように体が柔らかければ、どうにかなったかも知れないが。たとえ足の裏で耳を塞いだとしても、そのくらいで声を聞かなくて済むとは思えなかった。
 ゴゴゴゴゴ……。という地響きのような振動がさらに大きくなってきている。ヤバイ、ヤバイ。これは本当にヤバイ。
 恐怖で涙が出てきた。ミノルは、天神山の地下水が温められて気流がなんとかって言ってた気がするけど、全然そんなんじゃない。わかる。わかってしまう。全身の細胞が身震いしている。僕の霊感が全力で危険を告げている。
 そうだ、耳栓は? ミノルに渡さされたものが、ズボンのポケットに入っている。その膨らみを見下ろしながら、なにもできないことに気づく。両手を拘束されている以上、取り出すこともできないし、よしんばうまく転がり落とせたとしても、耳に嵌められない。
「師匠ォッ!」
 半泣きで叫んだ。そうだ。大声を出したらどうだろうか。ほかの音が聞こえないくらい。
「゛ああああああああああああああっっ」
「うるせぇ!」
 声を限りに吼えたが、しばらくして肺の空気がなくなり、むせた。だめだ。こんなものいつまでも続かない。しかもいまの師匠のうるせぇも聞こえてしまった。
 この状況で、音を聞かなくて済む方法はないのか。ないのか、ないのかないのかないのか。人間の耳はなんで口のように閉じることができないんだ。欠陥じゃないのか。だれの設計なんだ。混乱している。考えがまとまらない。だめだ。まとまらない。おもいつかない。ねる? ねるのはどうだ。寝るしかない。
 僕は目を閉じて深く呼吸をした。睡眠薬で強制的にやってきた眠気が、もうほとんど残っていない。心臓がドキドキする音がやけに大きく聞こえる。寝られるのか、この状況で。
「なんだ。静かになったな」
「話しかけないで下さい。寝られないから!」
「なんだよ。あの睡眠薬、結構強力なやつだったから、気でも失ったのかと思ったぞ」
「失いたいんですよ!」
 もう余裕がどこにもなくなっていた。座って柱に括りつけられているこの格好で、すぐに眠りに落ちないといけない。そんなプレッシャーがある時点で、絶対に無理だ。僕は目の前が真っ暗になるような恐怖に襲われた。
 UUU…………nn。
UUU…………nn。
 地の底カからなにかが聞こえる。湧き出てくる。絶望的なものが。それを聞いてしまったら、どうなってしまうのか。
 体がガタガタと震えた。やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。
 心臓がバクバクする。呼吸が苦しい。
「そのまま強く短く呼吸しろ」
 師匠の声が聞こえた。
「過呼吸状態を続けろ。意識を失うまで」
 ハッハッハッ。
 過呼吸だって? 僕は激しく息をしながら、師匠のほうに顔を向ける。
「苦しくてもやれ。死ぬ気でやれ。気絶してもすぐに戻ってこないくらいに。死にはしない。たぶん」
 たぶん? 手の先が痺れてきた。
 僕はだんだん朦朧としはじめた頭で、師匠の言葉を聞いていた。なぜか映画のロッキーを思い出した。アポロクリードがハードなトレーニングをするロッキーに、ハッパをかけ続けて追い込む場面を。
「来るぞ。早く!」
 3だったか、4だったか。クラバー・ラング? イワン・ドラゴ? アポロはしんだんだっけ。いつしんだ。ミッキーはしんだな。
 ハッハッハッハッハッ……。
 世界が暗くなっていく。思考が分散して、幕が下りる。
 振動。
白い闇が。

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 …………………………
 …………………………………………………………
 争う音を聞いた。
 バタバタバタ。
「なっ、ぐっ」
 苦しそうな声。床を蹴りつける音。
 ズキッ、と頭に強い痛みが走った。目を強く閉じる。体に痺れがある。手や足の指、体の先端が。息苦しい。横になりたい。
「うおおおお」
 そんなうめき声がして、すぐにバタンと手足が床に落ちる音がした。
 僕は目を開ける。目の前には、祭壇がある。葉っぱと、鏡が飾ってある。神社だ。社殿。僕は手をうしろに回し、柱にくくりつけられている。頭が、記憶を再生し始める。
「師匠?」
 横を向くと、男が師匠の上に覆いかぶさっていた。ミノルだ。ミノルの背中が見える。師匠のシャツがたくし上げられているのがわかる。それを見た瞬間、ビクッとした。そして、混濁している頭に、鋭い刃物が差し込まれた。
「師匠!」
 しかしよく見ると、ミノルは師匠にもたれかかったまま、ピクリとも動かない。ミノルの首に、柱の前に腰を落としたままの師匠の両足が絡みついている。右足のふくらはぎが、首の左側に深くくいこんでいるのだ。ミノルの右手は、首と一緒に挟みこまれ、師匠の右胸の辺りを掴んでいた。師匠はうしろ手のまま反り返り、下からミノルを三角締めで落としていたのだった。
 師匠が力を振り絞っているのがわかる。上気した顔で、ふうっ、ふうっ、と息を吐いている。2人の2メートルくらい後ろに、ミノルのしていたヘッドホンが吹っ飛んでいた。
 しばらくその体勢で息を整えていた師匠が、一瞬足を軽く解き、振り上げた左足のカカトで、ミノルの背中を強く打った。
 ゴッ、という背骨に当たる鈍い音がして、ミノルがビクリと震えた。ついで、「うぉっ」という声。師匠はすぐさま両足を三角締めの形に固め、「動くな。何度でも落とすぞ」と言った。それでもミノルは暴れようとした。
「うおおおおおおっ」という吼える声。
 師匠は無言で、両足に力を込めた。僕は離れた場所で、見ていることしかできない。
 すぐにまたミノルは動かなくなる。
 師匠は呼吸を整えたあとで、もう一度左のカカトを振り下ろした。気がついたミノルに、師匠は押し殺した声で言った。
「次は殺す」
 ビクッと背中が跳ね、一瞬左右に振ろうとした動きのあと、観念したように、ミノルは脱力した。首を圧迫されて、くぐもった声を出しているが、よく聞こえない。
「左手を伸ばして、括った紐を解け」
 師匠はそう言うと、ぐっ、と足を体のほうに引き寄せた。体が前のめりになったミノルは、そのまま言われたとおり、左手を伸ばして師匠の腰の裏に手を回した。
「妙な動きをしたら、即締める」
 そう言われたミノルは、もう抵抗するつもりはないのか、左手だけを忙しげに動かしている。片手ではなかなか解けないようだったが、右手は肩ごと両足で挟んで殺している。それを自由にするわけにはいかなかった。
 かなりの時間が経ったが、ようやく、師匠の手が体の前に回った。
「痛ってぇ」
 そう言ってぶるぶると手を振ったあと、師匠はミノルの頭を両手で抱えながら、「ありがとう」と言った。
 次の瞬間には、もうミノルは落ちていた。
 師匠は覚醒させないように、慎重にミノルを裏返した。そして捲り上げられていたシャツを元に戻すと、さっきまで自分の手を縛っていたロープで、ミノルの手をうしろ手に縛る。立ち上がると、すぐに僕のほうへやってきて、ロープの拘束を解いてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 師匠はまた転がっているミノルのところへ取って返し、僕のロープで今度は足を縛った。
「つっ、かれた~」
 師匠は大の字になって床のうえに寝転んだ。
「何回落としたんだ。4回? 5回? 1回でわかれよ、あの野郎。頼むから」
 そうぼやいている師匠を見て、僕が気絶から覚める前からあのバトルが続いていたことを知った。
「なにがどうなったんですか」
「落としたんだよ。三角で」
「それはわかりますけど」
「おまえ、本当に失神したんだな。過呼吸でそうなることがあるとは聞いてたけど。やってみるもんだな。あのあと、あいつがノコノコ様子見に戻ってきたから、死んだフリしてたんだ。油断して近寄ってきたところを、この足でズバッと!」
 自慢げにそう言っている師匠のホットパンツから伸びる足を見て、僕は心のなかにこの足要注意、という付箋を張った。さすがは、好きなレスラーで藤原喜明を一番にあげるだけのことはある。
 僕は長時間同じ格好でいたせいか、手足が痺れていた。それだけじゃなく、睡眠薬を盛られたあとで強制的な過呼吸で失神する、という無茶をしたばかりだった。頭は痛いわ、体は痺れるわ、今にも倒れそうだった。
 僕も師匠の隣で、並んで寝転んだ。
「ううっ」
 ミノルが気づいたようだ。ゴホゴホと咳き込んだあとで、両手足が縛られていることに気づき、もがいている。
「よう。大丈夫だったか。悪かったな。何度も落として」
 師匠をそう言ったあと、思い出したようにブラジャーがズレているのを直した。
「……」
 ミノルはなにも言わず、師匠を睨みつけていた。僕はカッとして、殴りかかりそうになった。こいつ、師匠になにをしようとしやがったんだ。その動きを察して、師匠が僕の肩を抑える。
 どうしてだ。
 僕は苛立った。
「まあ、これでおあいこだろ。月本ミノル、おまえ、やっぱり面白いやつだったよ。もう会いたくないけどな。悪いけど、羽根川里美に、おまえが兄だってことを教えるぞ。あとは知らない。身内同士でやってくれ」
 師匠は起き上がった。
「さあ、帰るか。ここは、この世とあの世の境界があいまいになっているんだ。長居はしたくない」
「こ、ここにいれば大丈夫じゃないですか」
 僕は外に出るのが怖くなった。夜があけるまで、までここにいればいいんじゃないかと思ったのだ。腕時計を見ると、4時半過ぎだった。もうそんなに経っていたのか、と驚いた。普段ならそろそろ空に薄い光が現れ始めるころだが、この山に囲まれた岩倉では、おそらくまだ真っ暗だ。
「そうも言ってられない。見ろ」
 師匠のそう言われ、社殿の入り口の扉を見た。大きな開き戸だったが、その向こうに真っ黒い影が見えた。まるでこちらをうかがっているようだった。それは、扉の外にいるはずなのに、木製の扉が透けているかのように、はっきりと見えた。
 僕は思わず口をおさえてあとずさる。
「境界の破れ目がある山の麓だからな。まだまだ増えてる。囲まれるぞ」
 扉の黒い影のうしろから、別の影がいくつも揺れていた。
 あれが入ってきたら。
 そう思うとおぞけがはしった。
「あれは、私たちの知っているものじゃない。死んだ人間じゃないんだ。最初から死者として生まれたんだから。することも、思考も、想像がつかない。あれが、この村の共同幻想の産物だとしてもだ。双子のかたわれはあの世に生まれ、自分たちだけがこの世に生まれたという、罪の意識が千年のあいだ積み重なっている。その闇から生まれた化け物たちだ」
 扉の黒い影が、こちらを手招いている。双子のかたわれを探しているのか。
「ここもやばいぞ。安全なら、こいつの親父も逃げないだろ」
 師匠は倒れているミノルに近づいて、見下ろした。
「じゃあ、私たちはもう帰る。縄は多少緩めにしといたから、なんとか自力でほどけるだろ。親父殿が戻って来るまえに、全部しまいをつけるんだな。おまえが双子のかたわれだって知ってしまってることとか、『新世界より』を聴きながら、化け物どもと自分しかいない世界を楽しんでいる、倒錯的な趣味を知られなくなかったら」
 ミノルは、もがきながら口を歪めた。
「い」
 なにか言おうとしている。
「いもうとには、いわないでくれ」
 搾り出すように、ようやく発した言葉がそれだった。
 そのとき、なにか動いた気がして祭壇のほうを見た。祀られている大きな鏡に、人のような黒いものが映っている。それがこっちを見ている。
 板張りの床が一瞬透けて見えた。目を擦ると、元に戻った。けれど、揺らめくように、また透けて見える。暗い穴がぽっかりと空いている。どこまで深いのか、想像のつかない穴が。その奥底からあの呼び声が響いてきたのだ。そう思うと、僕は、「うわっ」と言いながら、穴から跳び下がった。
「いよいよまずいな」
 師匠がミノルの縄を軽く引っ張り、「あとは自分でやれ」と言って顔をあげた。床に落ちていた、ミノルの懐中電灯を拾い上げて、「借りとくぞ」と言う。
 それから僕らは扉に向い、師匠が蹴り破るように開け放った。外はまだ暗かった。その闇に、黒いものがいる。人の形をしているものもいれば、していないものもいる。懐中電灯で照らすと、闇はうしろに下がったが、黒いものは黒いままだった。光が吸い込まれるようだった。異様な光景に体が縮こまるような寒気がした。
「走れ」
 ジャッ、と砂利を蹴って師匠が走り出す。僕も必死でそれに続いた。周囲に黒いものがいくつも動いていた。這いずっているものも多かった。ヒルコという言葉が浮かんだ。海の向こうという、かくりよに追放された不具の神。僕は恐怖に吐き気を覚え、口を押さえた。
 ミノルは自分の双子は村の外にいるから、こいつらには怯えなくていい、なんて言ってたが、とてもそんな気持ちになれるとは思えなかった。幽霊ですらないのだ。この世に生を受けたことのない存在。それを、僕には想像ができない。
 途中で僕は振り返った。空も曇っているのか真っ暗で、そびえているはずの天神山は見えない。しかし、異様な重力のようなものが、そちらの方角から伝わってくるような気がした。
「早く来い」
 黒いものに触れないように走って参道を抜け、鳥居にたどり着いた。師匠が車に飛び乗る。僕も遅れて助手席に滑り込んだ。
 すぐさまエンジンを吹かし、発進した。ハイビームのライトに黒いものが映る。舗装もされていない道を、無数のものたちが蠢いていた。師匠はそれを左右に激しくハンドルを切りながら避けていく。車内はガタガタと揺れ続け、歯がカチカチと鳴る。
「どれだけいるんだ」
 師匠がうめいた。どこまでも黒いものの群は続いていた。やがて、東西に流れる川のところに出た。ここからは舗装道だ。ハンドルを右に切り、川を左手に見ながら西に向かう。村の出口の方角だ。
 道の左右には、家の明かりもまったく見えない。無人の世界だ。元小学校の校舎が見えた。黒いものたちがたくさん校庭に立っている。なにをしているのかもわからない。僕は目を閉じたかった。けれど、閉じることのほうが恐ろしい気がした。
 南の下岩倉へ行くための橋の前を通り過ぎるとき、そのたもとに黒いかたまりがあった。道祖神があるあたりだ。橋の向こうには黒いものはいなかった。橋を通れないのだ。道祖神のせいなのだろうか。無数の黒いものたちがそこに佇んでいた。下岩倉で集会所にこもっている人々は、地獄の蓋の開いたようなこの上岩倉の光景を知っているのだろうか。
 その息を潜めている人々のことを思った。彼らは何百年もこうしてきたのだろうか。ここで生きることは、その恐怖とつきあっていくことなのだろうか。畏れの表情を浮かべた人々の顔を思い出す。
 うつしよに生まれた片割れを妬み、恨み、夢のなかでよびかける存在。この岩倉で生きる人間は、その夢をなにより恐れている。入れ替わろうと訴えかける声を。
 どこからともなく、子どもたちの歌が聞こえる。それは僕の頭が僕の意思とはかかわりなく再生していた。
『か~ごめ かごめ
 か~ごのな~かの と~り~は
 いついつねやる かたわれどきに
 なぬか などぉって つぅべった
 うしろのしょうめん だぁれ……』
 助手席で体を縮め、僕は耳を塞いだ。
「師匠は、聞いたんですか」
 耳を塞いだまま訊ねた。「社殿の地下からの声を」
 師匠は僕を過呼吸で失神するように誘導した。師匠自身はどうしたのだろうと思った。ミノルが戻って来たとき、師匠は死んだフリをしていたと言っていた。起きていたのだ。
 手のひらと耳の間で、海鳴りのような音が渦巻いている。そして海の底から聞こえてくるような師匠の声がする。

聞いたよ。
あれは、興味本位で聞くものじゃないな。
寿命が縮まったよ。
3回分くらい……。
 
 僕はそれを、耳を塞いだまま聞いている。
 車は明かりのない道を走る。道沿いのやまと屋も暗いままだ。やがて、開けた場所から森のなかに入る。3日間いた岩倉ともこれでお別れだ。僕は助手席のシートに深く沈み込み、天井を見上げていた。
 ふいに、車が減速した。
 どうしたんだろう、と思うまもなく、師匠は車を止めた。ドアを開ける音。
 えっ。本当にどうしたんだ?
 僕は驚いて体を起こした。師匠が車の外に出た。そして前方に向かって歩いていく。
 なにが起こったのか、わからなかったが、僕もそろそろとドアを開けて外に出た。
 車のライトに照らされて、デコボコした道路が浮かび上がっている。その先の右手側の道ぶちに、道祖神があった。三叉路を入ってすぐの入り口にあった、最初に見た大きな双体道祖神だ。その向こうに、人影があった。一瞬ドキッとしたが、さっきまでの得体の知れない黒いものではなかった。普通の生身の人間だった。
 しかし、それを見た瞬間、僕の全身を不気味な感覚が貫いた。今日何度も味わってきた恐怖とは、異なる感覚だった。それは違和感の延長上にあるものだった。
「えっ、なんで?」
 僕は思わずそう口にしていた。
 羽根川里美がそこに立っていた。
顔が青白い。そして師匠と僕を前にしても、表情がまったくなかった。服装は事務所で会ったときと同じような格好だったが、それがいっそう違和感を煽った。
「おかしいと、思ったんだよ」
 師匠が羽根川里美と向かい合って、静かに言った。
「童歌やら、庚申信仰の記事やら、そう簡単に見つからないだろ。岩倉のことを相当調べている。それだけやってるのに、なぜ岩倉へ来て調べないんだろうって」
 いや、里美さんは岩倉に行ったと言っていた。ただ人々が閉鎖的で、取りつくシマがなかったと。
 僕は目の前の光景が現実のものか疑った。しかし、たしかにそこに依頼人が立っている。車もなく、明かりもなく、ただひとりでそこに。
「お父さんの本籍地だった篠田地区に、家は残っていなかったと言ったよな。でもあったぞ。本籍地の篠田十一番一に、羽根川という表札の家が。ボロボロだったけど。市販の住宅地図には載ってなかったけどな。おまえは、その地図を見ただけだったんだろ。地図で見て、ないと思ったんだ。岩倉に入って、私たちもいろいろ話を聞いたけど、たしかに閉鎖的だった。特に双子の話はタブーだったよ。そんな場所で最近双子の兄を探しにきていたにしては、だれもあんたのことに触れなかったよ。同じようによそ者がきて、同じように双子の兄を探してたのに。民宿のこともそうだ。この小さな村では民宿は1軒しかない。なのに、宿帳を見てもおまえの名前はなかった。なぜなんだろうな。こんなところまできて、日帰りだったってのか。ずいぶん諦めがいいな。その程度の調べものだったのかよ。違うだろ。おまえは、岩倉に来てないんだ」
 師匠は淡々と指摘する。羽根川里美は一言も発せず、青白い顔のまま、表情を変えない。
「岩倉村の南半分の下岩倉に、古い道祖神があった。もちろん双体道祖神だ。その片方の像の足首を、手が伸びてきてつかんでいた。黄泉からの手だ。死者を引き戻す手だよ。サトとソトの境界に、そんな像があるんだ。これは忌み子として村の外に捨てられた子どもが、戻ってこないようにという呪いがけだ。この岩倉では、人はすべて男女の双子で生じるという言い伝えがある。一方はうつしよに、一方はかくりよに。そのかくりよに生まれたものたちが、生者と入れ替わろうと溢れ出てくるのが、大ごもりの夜だ。恐れるべきは、黄泉の国から這い出てくるその片割れたちなんだ。なのに、これほど強い呪いを、サトとソトの境界に置いている。黄泉からの手は時代が下るにしたがって省略されているが、痕跡は残っている。そこにある道祖神もそうだ。この村の道祖神はすべてだ。つまり、この岩倉の人々は、あの世に生まれた双子も、あやまってこの世に生まれた忌み子も、同じように恐れている。それはなぜだ。不合理で、前近代的な因習のはずなのに。おまえは、どうして岩倉に入らなかった。なぜ自分では入らずに、他人を使った。そして、どうして……」
 師匠は、無言で立っている羽根川里美の足元を指差した。
「その、道祖神の向こうにいるんだ」
 羽根川里美は、村の入り口の巨大な双体道祖神の手前に立っていた。村の外側にだ。僕らがやってくるまで、そこに立っていた。
 その意味を考えてゾッとする。
 そこに立っている人間は、まるで絵画のように、現実感がない。たしかにそこにいるはずなのに。
「宮司の息子の月本ミノルは、恐れていたよ。子どものころから、怖い夢を見るんだと。忌み子として捨てられた双子の妹が、夢に出てくるって。出てきて、入れ替わろうとするって」
「師匠」
 僕は思わず前に右手を伸ばした。止めようとしたけれど、遅かった。師匠は、羽根川里美の探していた双子の兄の名前を告げてしまった。背筋がゾクゾクする。あれほどあいつが恐れていたことを。
 ふいに、羽根川里美の体が揺らいだ。たわみながら、前後に大きく揺れている。厚さがない。本当に絵画のようだった。
 僕は思わずあとずさる。
 目の前の光景が恐ろしかった。
 羽根川里美だったものは、完全に厚みを失い、ペロリとめくれあがって空中で消失した。
 僕は絶句した。
 師匠はそれを見て笑っている。
 縛り付けられ、胸をまくられもしたあの男を、あっさり許したとき、妙に違和感があったのだ。師匠の苛烈な性格を知っている僕は、それがひっかかっていた。
 師匠は、こうなることを予感していたんじゃないだろうか。僕は恐ろしかった。この人を怒らせるということが、どういうことなのか、わかった気がした。
 ミノルがどうなったのか、考えたくもなかった。
「見ろよ」
 師匠がそう言って、東の空を指さした。岩倉村のある方角だ。村から離れたせいか、岩倉を囲む遠くの山が少し低く見える。
 そう、山が見えている。あれほど真っ暗だったのに、いまは薄っすらと山の稜線に、光の筋が走っていた。
「朝日だ」
 岩倉村の中心部では、山に遮られてまだ迎えていないはずの日の出が、ここからは見えはじめていた。

 6月29日、月曜日。
 小川調査事務所に戻った僕たちに所長が告げたのは、依頼人から調査費用が全額振り込まれたということだった。本人に連絡をしようとしたが、聞いていた電話番号は存在していない番号だったそうだ。聞いていた市内の住所もそうだった。
 紹介者のはずの仁科さんに確認すると、そんな子は知らないと言っていた。
「やっぱり、あとをつけたほうがよかったですね」
 服部さんがそう言った。
 師匠は、今度は英語で言い返さなかった。

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-師匠シリーズ