208:1/3:2013/10/23(水) 00:51:14.94 ID:uTfU9U/b0
江戸川乱歩『指』
とある名のあるピアニストが暴漢に襲われ、右手首を失った。
物語の語り手である医者は、ピアニストに右手首切断のことを教えなかった。
「あ、君が世話をしてくれたのか、ありがとう」とピアニストは言った。
「何せ酔っ払っていたもので、暴漢が誰だか解らなかった。右手だね?
僕の右腕は……指は、大丈夫だろうか? 元のように動くだろうか?」
「大丈夫だよ」と医者は言った。「何、じきに治るよ」
医者は親友を落胆させるに忍びず、彼がピアニストとしての生涯を終えた
ことを、もう少し症状が良くなるまで伏せておこうと思った。
209:2/3:2013/10/23(水) 00:59:26.89 ID:uTfU9U/b0
「右手の指を少し動かしてもいいだろうか?」とピアニストは言った。
「新しい曲を作ったんでね、それを毎日練習してみないと気が済まないんだ」
医者はハッとし、看護婦に彼の尺骨神経を圧さえさせた。そこを圧迫すると、
指が無くとも、あるような感覚を脳中枢に伝えることができるからだ。
ピアニストは左腕の指を気持ちよさそうに動かしていたが、右腕の指が現実に
動いているわけではない。そうであるにも拘わらず、架空の曲を弾き続けていた。
「ああ、右の指は大丈夫だね。よく動くよ」
医者は耐えきれなくなり、病室を出た。
210:3/3:2013/10/23(水) 01:05:34.10 ID:uTfU9U/b0
そして手術室の前を通りかかると、一人の看護婦が、その部屋の戸棚を凝視している
のが見えた。彼女の様子は尋常のものではなかった。医者は手術室に入り、看護婦の
凝視していた戸棚を見た。そこには、ピアニストの腕をアルコール漬けにした瓶が置
いてあった。
医者はそれを一目見ると、身動きが出来なくなった。
瓶の中で、彼の手首が、いや、彼の五本の指が、白い蟹の脚のように動いていた。
ピアノのキイを叩く調子で、しかし、実際の動きよりもずっと小さく、幼児のように、
頼りなげに、しきりと動いていた。