師匠シリーズ

【師匠シリーズ】馬霊刀 1/4

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 僕のほうは精神を集中して、立ち並ぶ雑貨から、なにかの気配を感じ取ろうとしていたが、どうも思わしくなかった。
 ほとんどなにも感じないのだ。キョロキョロと周囲を見回すが、先日感じたようなほんの微かな違和感があるばかりだ。
 僕らの態度に、緒方氏は苛立ちを抑えたような表情をしはじめた。この調査に店の経営がかかっているのだ。さもありなん、だ。
「こっちは事務所ですか」
「事務所というか、私の控え室のような、あっ」
 師匠は、店の奥にあったドアを開けて、勝手になかに入った。
「へぇ。結構広いですね。2人くらい寝られそうだ」
 ドアの向こうには、仕事机や小さな冷蔵庫があった。奥には床のうえに畳が敷いてある。
「こっちは、特になにもないですよ」
 緒方氏は怒ったように言った。師匠はそれを無視して、部屋の物色を続ける。
「お、これはいいカメラですね。こっちは、ほうほう。立派なレザーベルトじゃないですか。店のほうに置かないんですか。……おや?」
 師匠は急に屈んで、床からなにかを拾い上げるような動きをした。
「アルバムが落ちてましたよ。緒方さんのですか」
 こちらを向いて、花柄の写真アルバムらしいものを師匠は捲ろうとする。
「か、返せ!」
 その瞬間、緒方氏は目を剥いて叫んだ。僕はビクッ、としてしまった。その豹変したような怒鳴り声に驚いたのだ。
 緒方氏は師匠の手からアルバムをもぎ取ろうとする。師匠はその手をひらりとかいくぐると、部屋から店内へ出た。緒方氏はさっきまでの人の良さそうな姿が別人のように、唸り声を上げながら師匠を追いかける。
「なんだよ。怖いなあ。からっぽのアルバムじゃないですか。そんなに目くじら立てなくても」
 師匠は店のなかで振り返ると、笑いながらアルバムを開いてこちらを向けた。写真が収まるはずのポケットはすべて空だった。
 緒方氏はギクリと足を止めた。
「な、なぜ」
「まあ、少し落ち着いてください。あなたの大事なアルバムは、家にあるはずでしょう。こんなところに置きっぱなしにしてるはずはない」
 うそだろ。
 僕も驚いていた。師匠はこの、呪いの雑貨を探す、という依頼を、まったく別のものに作り変えていた。僕も、そして緒方氏も知らないあいだに。なにが起こっているのか、さっぱりわからなかったが、それだけははっきりしていた。
「友人にな。非合法の写真屋がいるんだよ。普通の店じゃあ、現像してくれないような写真を扱う、特殊な写真屋だ。おまえ、以前そんな写真を持ち込もうとしたな。やつは覚えてたぞ。ついてなかったな。結果的に客にならなかったから、守秘義務じゃ守ってくれなかったぜ」
『写真屋』こと、天野のことか。小川調査事務所ご用達の、変態的なアングラ男だ。
 師匠の口調が変わっている。緒方を依頼客と見なさなくなったのだ。
「こないだのウチの事務所でも、私の足ばっかりエロい目で見やがって。脚線美なのは認めるけど」
 師匠は扇情的な動きで、素足の太ももを自分で撫でた。緒方の顔に異様な量の汗が噴き出し始めていた。
「なにがどうなってるんですか」
 態度のおかしい緒方を警戒しながら、僕は師匠に問いかける。
「この変態はな、閉店間際に店にいた女性の1人客を狙って、婦女暴行を働くのを趣味にしてる、人間のクズだ。さっきの部屋に引っ張り込んで、写真を撮ったりしてな。警察にチクったら、写真ばら撒くぞって脅してるんだろ」
 僕は驚いて、師匠と緒方を交互に見た。
「他の店はみんなとっくに閉まってるこんな時間まで、流行らない雑貨店を開けてること自体、おかしいだろ。アーケード街に人がいなくなって、ちょっとやそっと騒いでもバレないようにわざわざ9時閉店にしてんだよな。そうだろ」
 師匠が緒方を睨みつける。緒方の喉から、ぐぐぐ、という鈍い音が漏れている。僕はとっさに師匠を守れるように、すぐ側に寄って緒方に正対した。
「おーっと、もう観念したほうがいいぞ。写真はもうこっちが押さえてある。日中、留守の間に、ちょちょいっ、とな」
 服部さんに尾行させたのは、家をつきとめるためか!
 そして証拠を押さえる時間を確保するために、依頼日から3日間待たせたのだ。
「なんでわかったんですか」
「よく目を見てみろよ。こいつの。ドス黒い色情にまみれた霊がついてる」
 えっ。僕も驚いたが、緒方もまた驚愕して自分の顔を両手で覆い、輪郭をなぞり始めた。事務所で会ったときから感じていた微かな違和感は、そのせいだったのか。たしかに、今はその人の良い笑顔の裏に隠れていた醜い魂が、むき出しになっているようだった。
「霊っつっても、おまえの店で起こるっていう怪現象とは関係ないぞ。店に入ってみて確信した。ここには、呪いの雑貨なんてない。本当にそんなことを体験したというなら、それはおまえの罪悪感が生んだ幻だ」
 そうだ。緒方はたしかに、『変な噂が立ったら困るので』と言った。逆に言うと、客はまだその怪現象を体験していない、ということだ。緒方自身しかその現象に遭っていないのだ。すべては緒方の心の闇が生んだものだった、ということか。
「依頼のとき、私が来るのか、って確認してたな。もし今日1人で来てたら、どうするつもりだったんだ」
 そうか。カメラと、拘束用のベルトは、あわよくば今日使うつもりだったのか。
 怒りが腹から湧いてきた。僕の師匠に、この野郎。
「自首しろ」
 師匠は冷たく言い放った。「その業を落としてこい」
「うう」
 緒方の目の色が変ってきた。比喩ではなく、なにか混ざり始めたような感じ。ドロドロとした怨念のようなものが、外へ漏れ出ていく。
 僕が身構えようとした瞬間だった。異様な気配が、爆発するように店内の空気を一変させた。
「なにっ?」
 師匠と僕は驚いて、とっさに戦闘姿勢をとった。しかしすぐに、それが緒方からではないことに気づく。
「く……くるな。やめろ! うわぁああああ」
 緒方が両手を前に突き出して、狂ったように振り回した。
 後ろか。
 僕は振り返る。カーテンを閉めた入り口のドア。その向こうは、暗い外。そこに、なにか、いる。
「ギャアアアッ」
 悲鳴とともに、ガシャーン、と激しい音がして思わず振り向くと、緒方が店の奥の壁際にあったガラスケースに倒れ込んでいた。
 ガラスが割れる音と、なかにあった陶器の商品が割れる音が混ざって、耳を打った。
「や、や、や」
 緒方はガラスの破片まみれになって、頭から血を流し、ガタガタ震えている。それでも、上半身を起して、右手で頬を押さえながら、入り口のドアを左手で指差し、「や、や、や」と繰り返している。
「なんだ。なにが起きた」
 師匠は緒方に叫んだが、すぐに入り口のほうを向くと、走り出した。僕も後を追う。
 厚手のカーテンを開き、ドアを開けようとしたが、自動ドアはスイッチが切れたのか、動かなかった。2人がかりで隙間に指を入れてこじあけ、外に飛び出した。
「くそっ」
 左右を見たが、暗い照明の灯るアーケード街は、どこまでも無人の空間だった。人影はどこにもない。
 気がつくと、あの一瞬に店内で膨れ上がった真っ黒な気配は消え去っていた。
 店内に戻ると、僕はまだ倒れたままの緒方に問いかけた。
「なにがあったんです」
 緒方は小刻みに震えながら、恐怖に怯えた顔で、頬を押さえていた右の手のひらをどけた。そこには、抉られたような痛々しい傷があった。頬骨のところだったのか、白いものが見えていた。
 うわ。
 手のひらには真っ赤な血が滴っている。緒方はそれを見つめて、ぶるぶると声を絞り出した。
「や、やで……」
 師匠はハッとして、緒方の目を覗き込んだ。そしてゆっくりと確かめるように言った。
「矢…… 弓矢で、撃たれたんだな」
「そんなバカな。どこから、そんな」
 僕はうろたえながら、状況を確認する。緒方の正面は入り口のドアだ。厚手のカーテンも、自動ドアも閉まっていた。外から弓矢で撃たれるはずがない。散らばったガラスや陶器の破片のなかを探したが、緒方の頬を抉ったという矢は、どこにも見つからなかった。
「矢なんてないですよ」
「ない。矢を射掛けられて怪我をしたのに、矢がない…… 見つからない……」
 師匠は目を見開いて呟いている。
 緒方の頬の傷は本当に弓矢でついたのか? 転んで、ガラスで切っただけなんじゃないのか。
 僕はしごくまっとうな言葉を吐こうとしたが、師匠のただ事ではない様子に、口をつぐんだ。緒方は震え続けている。さっきまでのむき出しの暴力的な性のエネルギーは霧散していた。憑き物がとれたようだった。
「弓……」
 師匠は焦点のあっていない目元を、右の手のひらで覆った。
「ゆみ、つかい」
 師匠はもう一度外のほうへ顔を向け、ひとこと、そんな言葉をこぼした。


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「弓使い?」
 小川所長が呆れたように言った。
「そうだ」
 師匠は真剣な表情で所長を睨む。
 緒方の雑貨屋での事件から一夜明けて、僕と師匠は調査事務所で所長にことの顛末を報告していた。
 その事件で警察沙汰に巻き込まれたくなかったが、緒方の怪我を放っておくわけにもいかず、救急車を呼んだ。そして警察にはその場で師匠から電話した。
 当然緒方の罪状も説明することになるが、告発するための証拠となる写真の一部は師匠が持っていたものの、住居不法侵入の産物だった。師匠の立場がどうなるのか、不安でしょうがなかった。
 けれどやってきたのは西署の1課の当直の刑事だけでなく、なぜか応援で2課の刑事もいた。
 不破だ。不破は小川所長の刑事時代の元同期で、小川調査事務所、特に『オバケ』事案専門家の加奈子さんとは協力関係にある、素行不良刑事だ。
 2課で暴力犯を担当しているはずの2係主任の不破は、やってきた1課の強行犯担当の2人を差し置いて、その場で1課長の丸山警部の自宅に電話し、なにごとか話をつけた。
 それから師匠と僕は、西署に連れて行かれ、事情聴取を受けたが、状況説明をしただけで、日付が変るころには解放された。師匠の住居不法侵入及び写真窃盗のお咎めはなかった。
 最後の、緒方が見えない矢で襲撃されたという部分は、犯罪を追及されてうろたえ、ガラスケースに転倒した、ということにした。
 ただ、緒方が搬入された病院でも、雑貨店の外から弓矢で撃たれた、と言っているらしく、その部分だけ執拗に確認された。しかしそう言っているのは緒方だけで、状況から、その可能性はないに等しかった。僕自身も信じていない。師匠も淡々とそう説明していた。
 なのに、である。
 小川所長の前で、師匠は「弓使いが緒方を撃った」と言い切ったのだ。
「あー、ちょっといいかな。加奈ちゃん。自動ドアはスイッチを切られて、閉まっていた。カーテンも掛かっていて、外は見えない。なのに緒方は、店の外から弓で撃たれたっていうんだよね」
「そうだ」
「本人はそう言っています」と僕も加わる。
「で、カーテンにも自動ドアにも穴は開いてないし、矢も見つかってないと」
 小川所長はタバコを胸ポケットから取り出して、マッチで火をつけた。
「妄想だろう。店で起きてるっていう怪奇現象もそうだったんだろ。自分の悪癖がもたらした罪の意識に苛まれて、おかしくなってたんだな」
「所長。西署で事情を聞かれているとき、担当の刑事たちが『弓使い』という言葉を、お互いに交わしていました」
 それは、僕も聞いた。改めて彼らの会話を思い出すと、初めて使う言葉ではなく、日常で使っているようなイントネーションだったような気がする。
「去年の冬ごろから、弓矢を使った通り魔事件が続いていたでしょう。目立つ武器を使っていることと、被害者が犯人の姿を目撃しているにも拘らず、なかなか逮捕されなかった。最近あんまりニュースでも見なくなりましたけど、まだ捕まってないんですよ、あれ」
「ああ、あったな。そんな事件」
「県警では、その犯人を『弓使い』と呼んでるみたいですね。そして恐らく、今回の緒方の件と、共通点があるんですよ。『犯行に使われた、矢が見つからない』っていう」
「そんなこと、ニュースでやってなかったよ」
「隠してるんでしょう。マスコミ向き過ぎるから」
 なるほど。矢で射られたはずなのに、その矢が見つからない。そんな事件が連続して起こっている。マスコミの恰好のネタだ。
「これまでの報道を拾ってみました」
 師匠は、新聞の切抜きのコピーを数枚、所長のデスクの上に広げた。僕が所長の指示で、記事の分類ごとに整理したやつだ。役に立ってよかった。
「最初の事件は去年の冬。市内で古紙回収業を営む男、34歳が、深夜1時に友人宅へ行こうと家を出たところで、何者かに弓矢で撃たれ、上腕を貫通する怪我を負った」
 師匠は次々と、記事の概略を読み上げていく。
「2番目の事件はその2週間後。27歳のOLが深夜12時ごろ、オールナイトの映画を観るために外出し、駅前に向かっていたところ、表から1本入った路地で襲撃されています。彼女は脇腹を撃たれ、全治2ヶ月の重症。そして3番目の事件では被害者が亡くなっている。深夜2時過ぎに市内南部のコンビニで、車を置いていた55歳の会社員の男が、道路を渡った先の自販機の前で胸を撃たれた。コンビニまでたどり着いたが、搬送先の病院で死亡。4番目の事件は30歳の無職の男性が、深夜12時半ごろ、駅近くの呑み屋に向かっていたところ、線路沿いのひとけのない通りで、暗がりから弓矢で撃たれた。とっさにかばった右腕と肩に重傷を負っている」
 師匠はさらに2件を読み上げ、これまでに報道された6つの事件の概要を説明し終えた。
「いずれも目撃者はなし。犯人の心当たりも、襲われる心当たりもない。そして警察情報では、犯行に使われた凶器が見つかっていない。被害者が『弓矢で撃たれた』とはっきり言っているにも拘らず、だ。そして最後の事件から、3ヵ月ほど経つけど未だに犯人は捕まっていない、と、こんなところですね」
「師匠、その犯人ですけど、女だって言ってなかったですか」
「そう。被害者の供述によると、犯人はフード付きのコートを着ていて、顔ははっきりしないものの、体格から女性ではないかと言われている。身長は165センチから170センチと、女性にしては大柄。私くらいの背格好だな」
 師匠は自分の頭のうえに手のひらを乗せた。
 新しいタバコに火をつけながら、所長が口を挟む。
「犯行に使われた弓はともかく、矢が見つかっていないというのが解せないな。犯人が持ち去ったとしたら、被害者の身体に突き刺さった矢を抜いたことになる。たしかそんな供述なかったんだろ」
「そう。弓矢を撃って、そのまま犯人はその場を離れている。そのあたりの被害者の供述が、報道された情報でははっきりしない。ただ、どうやら、『矢は消えた』という噂もある」
「消えた? それは被害者が言ってるんですか」
「いや、これはある警察筋から仕入れた情報なんだがな……」
 師匠はズボンの尻のポケットからメモを取り出した。
「1人目の被害者は、事件現場に近い民家に助けを求めた際、『腕の矢を抜いてくれ』と喚いていたそうだ。腕から血は流れていたものの、なにも刺さってはいなかった。にも拘らず、だ」
「警察筋って、不破か? 加奈子、おまえ昨日も不破に助けられてるだろ。借りを作りすぎだ」
「昨日は高谷さんからも、話を通してくれたらしいですけど」
 師匠はそう言って口を尖らせた。高谷さんとは、小川所長の義理の父でもある、タカヤ総合リサーチの名物所長だ。
 県警のOBで、在職中は将来の刑事部長を嘱望された、切れ者だったという噂。現在でも県警には太いパイプがあるらしい。パイプというより、『弱み』を握っている、というほうが正確なのかも知れないが。
「……」

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 小川所長は後ろ頭を掻いている。どうやら、昨夜の依頼中に警察沙汰になったことを聞いて、高谷さんにご出陣願ったのは小川所長らしい。僕らにことさらそれを言わなかったのは、恩着せがましくないように、というより、困ったときのパパだのみ、という姿を知られたくなかったのだろう。
「とにかく、最初の事件では被害者はかなり錯乱していて、刺さった矢が途中で抜けた可能性もある。しかし、他の被害者も、おおむね似たような供述をしているようなんだな」
「つまり、矢が刺さってないのに、刺さってるって主張してるんですか」
 師匠は頷いた。
 一瞬、狂言、という言葉が浮かんだ。目的はわからないが、被害者たちは揃って、通り魔事件を装っているのではないか。そう考えたが、実際に矢傷のようなものを受けて重症を負っているのだし、死んだ人だっている。その考えには無理があった。思ったより、はるかにオカルティックな事件だった。
「被害者たちは、お互いに面識はなく、これといった共通点も見つかっていない。完全に通り魔的犯行だとしたら、目撃者の少ない深夜帯に行われていることと合わせて、犯人にたどり着くのはなかなか難しいだろうな。凶器の特殊性を加味しても」
「でも犯行に使われたのは弓道で使う、あの大きな弓だって話じゃないですか。そんな目立つものを持ち歩いていたら、いくら深夜でもどこかで見られてそうですけどね」
「被害者はそう供述している」
 師匠は意味深な口調でゆっくりとそう言った。
「弓も、持っていなかった可能性があると?」
 小川さんが師匠に問いかける。刺さっていない矢を、刺さっていると騒いだように、被害者の供述が信用できないのなら、そんな可能性だってあるということか。
「どうでしょうか」
 すましてそう言う師匠に、僕は我慢できず、「昨日の件は、結局なんだったんですか」と訊ねた。
「緒方は、見えない矢に撃たれたと言っている。この通り魔と同じだって、そう言いたいんでしょう。緒方は雑貨にくっついた悪霊のせいで、店で怪奇現象が起きている、という妄想にとりつかれていた。最後の弓矢で撃たれたっていう騒ぎも、妄想だった可能性が高い」
「本当にそう思うか」
 師匠の視線に射すくめられる。同時に、あのとき感じた異様な気配を思い出す。カーテンを閉めた店の外から、漏れ出るような殺意を感じたことを。それは、3日前に緒方が依頼のためにこの事務所へやってきたときに感じたものと同じだった。
「……いいえ。あれは、なんだったんでしょうか」
 師匠は僕のひとり言のような問いには答えず、デスクのうえの新聞記事の切り抜きファイルを指さした。
「さっき読み上げた、通り魔事件の概要のなかで、私がすべての事件で、わざと省略しなかった部分がある。なにかわかりますか」
 僕は少し考えたが、わからなかった。所長も両手の手のひらを上に向けた。
「第1の事件は、『深夜1時に友人宅へ行こうと家を出たところで』、第2の事件は、『深夜12時ごろ、オールナイトの映画を観るために外出したところで』、第3の事件は、『深夜2時過ぎに市内南部のコンビニに車を置いて、道路を渡った先の自販機の前で』、第4の事件は『深夜12時半ごろ、駅近くの飲み屋に向かっていたところ』……」
 そこまで師匠が繰り返したところで、ハッとした。それと同時に、えっ、と思った。奇妙な一致だったからだ。
「ええと。もしかして、外出した目的を省略しなかったってことですか」
「そうだ」
 師匠はニヤリとする。しかしそれは、別のことを意味していた。
「逆に言うと、全員、帰宅中じゃなかった」
 僕はそう呟いて、ぞわっとした。意味もわからず、背筋が。
「そう。いずれも事件は深夜に起こっている。だから通り魔なら、帰宅途中で起こる蓋然性が高い。なのに、1件も帰宅途中のものはなかった。コンビニに車を置いていた第3の事件も、被害者の実際の足取りでは、その30分前に家を出たばかりだったことがわかっている。つまり、全員が、外出した後に襲撃されている。おかしいと思わないか。そんな深夜に、外に出る用事がある人間ばかりが襲われているんだ」
「通り魔じゃ、ない?」
 犯人は、狙ったのか。待ち構えていて? だとすると、被害者を知っていたことになる。
「緒方も、以前から狙われていた」
 そうだ。そうだった。本人は気づいていなかったが、3日前も緒方は狙われていた。あの異様な気配は、今思い出しても寒気がする。
「でも緒方は結局、外出中に襲われたわけじゃなく、店のなかにいるときに襲われています」
「そうだ。店に、女性を呼び込んだところでな」
「女性を?」
 緒方はこれまで、閉店間際にやってきた女性客を狙って、性的暴行を加えていた。それも口止め用に写真を撮るという、卑劣な犯行を。そこに、若い女性である師匠が、1人でやってくる。店で起こる霊的な被害の調査のためだったが、あわよくば、という気持ちもあったのだろう。思惑外れて、助手の僕がくっついてきた上に、あの結末だったわけだが。
「犯人は、緒方の犯罪を知っていたって言うんですか」
「ああ。そう考えたほうがしっくりくる。最初は被害者のだれかじゃないか、と思ったんだけどな。復讐のために。でもこれが、見えない矢を使った一連の通り魔事件と、同一のものだとすると、別の絵が見えてくる。緒方の事件の状況を、ほかの事件に当てはめてみるんだ」
 僕は師匠の問いに、首を振った。小川所長は苦笑いのような表情を浮かべて、タバコをくわえながら僕らの様子を眺めているだけだ。
「緒方は、邪悪な目的を遂げようとしたところで、襲撃されている。他の被害者もまた、深夜に外出したところで襲撃されている。そして、その外出の目的は、全員が、自ら主張するだけで、いずれも裏づけがとれていない」
 えっ。
 その師匠の言葉に、驚いた。
「第1の被害者は、友人宅へ行こうと家を出たというけど、不破情報では、友人には事前に連絡してなかったそうだ。そして第2の被害者は、オールナイトの映画を観るために外出したというが、チケットはあらかじめ買っていなかったし、結果的に観ていない。第3の被害者は、同居の家族にもなにも言わずに家を出ている。そして死亡しているので、外出の目的はわからないままだ。第4の被害者は、呑み屋に向かっていたというが、これも結局行っていないので、本当にそうだったのかは、わからない。」
 たしかに。たしかに、被害者は全員、深夜に外出しており、その本当の目的は本人しか知りえない状況だ。だからと言って……。
「被害者が全員、なんらかの犯罪に関わっていたっていうんですか」
「犯罪をする前に、阻止されたんだよ」
 師匠はそう言い切った。
 そんなバカな。
「飛躍しすぎじゃないですか」
「んー」
 師匠は額を押さえて、自戒するように首を振った。
「そうだな。まだなにもわからない」
 ふーっ、と息を深くついて、師匠は広げたファイルを片付け始めた。じっと聞いていた小川所長が、そこでようやく口を開いた。
「加奈子。警察が動いているんだ。わかってるんだろうな」
「わかってますよ。連続通り魔事件が発覚してから、半年以上経つのに、まだ動きっぱなしだってこともね」
 所長は、やっぱりわかってない、という諦観をこめた手のひらを、自分の額にペチンと叩きつけた。
「うちは慈善事業じゃないんだ。依頼もないのに、警察が動いている連続殺傷事件をかき回して、なんの得があるんだ」
「ルパンが相手なら、天下御免で出動できるんでショ」
 師匠は急に、色っぽい声を出した。カリ城の不二子の真似か。たしかそのセリフの意図するところは……。
「オバケが絡むとなると、私は勝手にやらせてもらう。個人的にね」
 師匠は帽子を手に取って、キュッと被った。
「待て、わかったから、連絡は入れろ。昨日みたいなことになったら、手遅れになるぞ」
「うう~ん。ス・テ・キ。さすが所長」
 師匠にしなだれかかられ、小川所長は食いしばった口の端を微妙にグニグニさせていた。僕はそれを見て、もやっとすると同時に、師匠の言葉の一部にひっかかるものを感じていた。
「オバケが絡んでるんですか」
「ああ。まだカンだけどな」
 師匠は、つつつ、と所長のシャツの上から胸を指でなぞった。所長は妙な顔をしている。ヤメロ、妙な顔をするな!
「さあ、なにが出るかな」
 師匠は遠くを見るような目をした。その瞳のなかには、青白い炎がたなびいている。瞳の先には、まだ見ぬ怪物の姿があるのか。
 弓使い。
 警察のあいだで、そう呼ばれている通り魔事件の犯人を、師匠は追うと言うのだ。
 その、見えない矢を。
 僕は、ゾクゾクした。

『馬霊刀 2/4』に続く

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