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その15 桜の木の下には
投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2016/10/23
私が小学校を卒業し、中学生になろうかといった頃の話だ。
三月下旬。その日は地区の子供会が毎年行っている花見の行事があり、私は昼ごろから、母を連れて、大きな枝垂桜がある花見会場へと向かっていた。
昨晩ぱらついた小雨は明け方には止んでおり、他の山桜の様子を見ても心配していたほど散ってはいないようだ。
目的の桜は町の南に位置する山の中ごろにあった。昔は名士の家だったそうだが、今は改築され、公民館として使われている屋敷の庭の隅に、その立派な根を張っている。
私たちが着いた時にはもう花見は始まっていた。庭にはゴザと長机が準備され、子供用のジュースにお菓子、大人用の酒とつまみが並べてあった。見れば、大人たちの半分以上は早くも出来上がっており、子供たちは菓子をつまみにおしゃべりをしたり、木の枝や丸めた新聞紙でチャンバラをしたりと、それぞれ好き勝手に遊んでいる。
今日の私の仕事は、体の弱い母をここまで連れて来ることと、酔った母を無事家まで連れて帰ることだった。
すでに仕事の半分を終えた私は、母を酔っ払いの輪に放り込み、仲の良い友達が来ていないかと辺りを見回した。けれども、はっきりそうだと言える人物は居なかった。卒業生は入学準備で忙しい時期だし、それにそろそろ地域の活動とやらが疎ましく思えてくる年頃だ。私だって、母が行きたいと駄々をこねなければ来なかっただろう。
手持ち無沙汰な私は、とりあえず桜を眺めることにした。
樹齢は四百年とか五百年だとかで、幹は太く樹高は高い。今は七分咲きほどだろうか。どの方角にもまんべんなく枝を伸ばし、名前の通り、枝先に行くほど地面に向かってしな垂れるその姿は、まるで一本の巨大な傘を思わせた。
その幹に触れようと、桜の木に近づいた時だった。
身体がびくりと硬直する。見上げてばかりいたので気付かなかった。私のすぐ足元、桜の根の近くに蛇が居たのだ。小さな蛇だった。
片足を宙に浮かせたまま数秒。一つ息を吐いて、足を地面に降ろした。その蛇は死んでいた。誰かに踏まれたのか頭の部分が潰れていて、前日の雨で微かにぬかるんだ地面に、半分埋まるように横たわっていた。冬眠から覚めるにはまだ少し早い時期だが、近ごろの陽気につられて出て来たか、もしかしたら私達が起こしてしまったのかもしれない。
私はしばらくの間その蛇の死骸を見下ろしていた。すぐ目の前には満開の桜。後ろの方では酔った大人たちがくだを巻き、子供たちは元気にはしゃいでいる。そんな中、ひっそりと蹲る頭の潰れた小さな蛇の死骸は、ひどく場違いなものに思えた。
その内、私は靴のつま先で地面に穴を掘りだした。
別に、可哀想だから埋葬してあげよう、などと思ったわけではない。どちらかと言えば、見られたくないものをこっそりと隠すような、そんな感覚だった。
完成した穴の中に蛇の死骸を蹴り入れ土を被せる。しばらくの内に、その姿はすっかり隠れてしまい、私は何か一仕事終えたような気分になっていた。
ぱこん。
小気味良い音と共に、脳天に軽い衝撃があった。
驚いて振り返ると、そこには、新聞紙の刀を持ったチビすけが私に向かって満面の笑みを浮かべていた。
どうやら私は一本取られてしまったらしい。
ぐっとこらえつつ、こちらも満面の笑みで両頬をつねり上げてやると、その子はやめろやめろ痛い痛いと泣き笑いながら逃げて行った。
周りを見渡す。花より何とやらとは言うが、大人も子供も、私も含めて、桜をじっくり見てやろうという者は少ないようだった。
さてどうしようか、と思う。何となくこの場に居るのが億劫になっていた私は、母に一言だけ告げると、丁度この近くに住んでいる一人の友人の家へと向かうことにした。
彼の家は、宴会をしている公民館から山の斜面をいくらか上った場所にある。
坂道をぶらぶら歩きながら、私はふと、『桜の木の下には死体が埋まっている』 という、どこかで聞いたことのあるようなフレーズを思い出していた。
人間の死体ではないが、あの大きな枝垂桜の下にも死骸が埋まっている。私にとって、あの桜は桜であると同時に、一匹の蛇の墓標であるとも言えた。そうして、そういう見方をしているのが自分一人だけだという事実は、私を何とも言えない妙な気分にさせた。
それにしても、『桜の木の下には死体が埋まっている』 なんて、一体誰が最初に言い出したのだろう。
そんなことをつらつら考えていると、いつの間にか友人の家の前に着いていた。
屋根つきの立派な門をくぐって、広い庭を抜け玄関のチャイムを押す。誰も居ないのかと思わせる静寂がしばらく続いた後、扉越しに人の気配がした。扉が開き、顔を覗かせたのは友人の祖母だった。
「あ、どうも」
軽く頭を下げる。私とみとめると、彼女は、「うふ、うふ」 と笑った。
「部屋におるよ。呼んでこようかねぇ」
友人は居ますかと聞く必要はなく、彼女家の奥へと消えていった。その後すぐに友人が現れた。連絡も無しに来たせいか、ほんの少し面喰っているような、そんな風にも見える。
彼はくらげ。もちろん、あだ名だ。
その妙なあだ名は、彼が所謂、『自称、見えるヒト』 であるところから来ている。
彼の目には常人には見えざるモノが映る。それは、一般に幽霊と呼ばれる存在であったり、神様と呼ばれるような何かであったり、風呂の中に浮かぶ無数のくらげの姿だったりする。
以前、そういった他人には見えないモノが見えることについて私が尋ねると、彼は、「僕は病気だから」 と言った。見えてしまう、という病気。そうして、その病気は感染症だとも言った。
普通の人であれば、到底信じられないような話だ。けれども私は、少なくとも彼がただの嘘つきではないことを知っている。
「よ」
と片手を上げると、くらげは玄関まで下りてきて私の前に立ち、一言、
「……どうしたの?」
と言った。その言い草は、まるで私が悪いニュースを運んできたと思い込んでいるようだった。とはいえ、どうして来たのかと訊かれると、私にも明確な答えがあったわけではない。何となく暇だったから来た、というのが本音だが、それをそのまま言ってしまうのも味気ない。
数秒考えてから、私はこう言った。
「今日は天気もいいしさ、花見でもしようぜ」
しばらく無言のまま私の顔を見やっていたくらげは、その表情を変えないまま、「……いいけど」 と言った。
私にとって本日二度目の花見は、そういう経緯で始まった。その際くらげから、少し降りたところに有名な枝垂桜があると提案があったのだが、それは私の個人的な理由でNGとした。それに、その枝垂桜には及ばないが、彼の家の庭にも一本だけ桜の木が植えてあった。
二人で縁側に腰掛け、彼の祖母に持ってきてもらった緑茶と煎餅でもって、桜を眺める。
しばらくは、互いに何もしゃべらなかった。煎餅と茶で口がふさがっていたのもあったが、先ほどの乱雑な花見の後だったので、私としては、こうやってゆっくりと桜を眺められるのも良いもんだ、と素直に思えた。
桜の木は、家を囲む白い塀の傍に植えられていた。品種はよく分からないが、高さは一階の屋根に届くかといったところで、あまり大きくはなく、花弁の量もそれほど多いわけではない。ただ、まるで子供が塀の内から外を覗き見ようとしているようなその外観は、見ていて面白いものだった。
何か話そうとして、私は隣の友人を見やる。けれど、言おうとしていた言葉は出てこなかった。
くらげは桜を見てはいなかった。その俯き加減の視線を辿ってみると、彼はどうやら、丁度私達と桜の木の間にある水たまりを見ているようだった。
私の視線に気づいたらしく、ふと目が合った。何見てたんだ。そう訊こうとして、やめた。代わりに、私はへらっと笑ってから、
「なあ、くらげさ、『桜の木の下には死体が埋まっている』 って聞いたことあるか?」
と訊いてみた。
予期してない質問だったのだろう。彼は目を瞬かせていた。どこか驚いているようにも見える。そうして一つ小さく首を傾げてから、彼の目が、何かを思い出すかのように宙を泳いだ。
「カジイモトジロウ?」
その口から、聞きなれない単語が出て来る。「何だそれ?」 と私が訊くと、「それじゃなくて、人だよ。梶井、基次郎」 と彼は言った。
「昔の……、確か大正時代か明治時代くらいの作家。その人が書いた、『桜の木の下には』 っていう話に、そういう言葉が出て来る」
「……お前何でそんなこと知ってんの?」
当然の疑問をぶつけてみると、「本を読んだことあるから」 と如何にもあっさりとした答えが返って来た。
「僕の部屋にあるけど、読んでみる?」
私は以前訪れた彼の部屋を思い出す。以前は祖父の書斎だったというその部屋には、題名を読んだだけで胸やけをおこしそうな字面の書物がたくさんあった。
「小難しそうだから、いい」
私の返答にくらげは、「そう」 とそれだけ言った。ちなみに梶井基次郎については数年後、現代文の授業で有名な、『檸檬』 を知り、その作風に興味を覚えるのだが、それはまた別の話だ。
くらげはまた桜の木がある方向に目をやったが、彼が見ているのは相変わらず桜ではなく、その手前の、土の露出した部分にできた水たまりだった。もしかしたら、水面に映る桜を見ているのかもしれない。それならそれでややこしいことをするもんだ、と私は思った。
「……昔、うちで犬を飼ってたんだ」
突然、くらげが言った。あまりに脈絡のない話に、今度は私が目を白黒させた。
「犬?」
「うん。雑種の子犬。僕が小さかった頃、兄さんが拾ってきたんだけど……」
視線を水たまりに固定したまま、彼は続けた。
「さくらっていう名前も、兄さんが付けた」
私は思わず庭に生えた桜の木を見やった。その話自体は別に何でもない。彼の家では以前桜という名前の犬を飼っていて、その犬は彼の兄が拾ってきた。それだけの話だ。
しかし、どうしてくらげは突然そんな話を始めたのだろうか。
じわりと、嫌な予感がした。
――桜の下には死体が埋まっている――
つい先ほど自分が口にした言葉が頭をよぎる。ただ、彼はそれからしばらくの間口を閉じ、じっと黙りこんでしまった。
どうしてそんな話をしたのか。あの桜の木の下には何かが埋まっているのか。犬はどうなったのか。くらげには兄が二人いるが、犬を拾ってきたのはどちらか。訊きたいことは山ほどあったが、私も同じようにじっと黙っていた。訊けばきっと彼は教えてくれただろうが、そうすれば、彼自身の話がそこで途切れてしまうような気がしたのだ。
桜の木を見やりながら、彼が再び話し出すのを待つ。いつの間にか、私の視線も桜の花から枝を伝い根もと、地面近くへと降りて来ていた。
「……手を噛まれたんだ」
水たまりを見やったまま、くらげが言った。
「一緒に遊ぼうと思ったんだけど、嫌だったんだろうね……。元々、僕にはあまりなついてなかったから」
言いながら、噛まれた箇所を思い出しているのか、彼は視線の先に右手をそっとかざした。
「でも、その日から、さくらは犬小屋から出て来なくなって。誰が呼んでも怯えるようになって。ご飯も食べなくなって。……気が付いたら、死んでた」
彼の話ぶりは、まるでそれが他人事であるかのように、あくまでも淡々としていた。
私は彼を見やる。
くらげの話はまるで、彼が手を噛まれたせいで犬が死んだのだと、そう言っているように聞こえた。しかし私には、そんなことは有り得ないと言い切ることができなかった。
くらげが以前口にした言葉が頭をよぎる。
見えてしまう、という病気。そうしてその、『病気』 が感染症であるということ。
いくつもの言葉がのどから出かかって、口の中でぐるぐる回っては引っ込んでいく。そうして結局、私は何も言うことができず、彼から視線を外し、無言のまま桜の木を見やった。
時間だけが過ぎる。
そうした中、くらげがぽつりと、呟くように言った。
「ハナイカダ」
再び彼の方を見やる。一体何事かと思った。
「そう、花筏。やっと思い出した」
淡々とした口調はまるで変わっていない。けれど私には、その声が先ほどとはどこか違って聞こえた。一方、彼の発した言葉はまるで意味不明だった。
「……何だそれ?」
思わず尋ねると、彼は黙って自分が見ていた水たまりを指差した。
「あそこに一枚だけ桜の花びらが浮いてるんだけど……。あれのこと」
目を凝らすと、くらげの言う通り、水たまりには一片の花びらが浮かんでいた。花筏。なるほど確かに、その姿は湖に浮かぶイカダのようにも見える。しかしそれは、改めて言われてみなければ分からないほど、ほんの小さな景色だった。
「……お前何でそんなことばっか知ってんの?」
再び訊いてみると、「おばあちゃんから聞いた」 とまた如何にもありきたりな答えが返って来た。数秒後、私は何故か吹き出してしまった。理由は分からない。くらげはそんな私を見て、少しだけ不思議そうに首を傾げた。
それからしばらく、茶を飲んだり煎餅を齧ったりくらげと適当な会話を続けたりしていたが、時間も経ち、そろそろ母のことも気になって来たので、おいとますることにした。
くらげは玄関まで見送りに来ていた。
結局、彼が口にした、さくらという名の犬と庭の桜の木について、山のように浮かんだ疑問は未だ山のようにそこにあり、ほとんど何一つはっきりとはしないままだった。それは私が彼にくわしく訊かなかったせいでもあるのだが、急ぐ必要はなかった。何故なら、私たちは同じ中学に通うのだから。
「なあ、くらげさ」
帰り際、玄関で靴紐を結びながら、私は彼に背を向けたまま声を掛ける。
「この家の下の方にさ、大きな枝垂桜があるだろ」
後ろでくらげが、「うん」 と言った。靴を履き終えた私は立ちあがり、振り返って彼の方を見やった。
「今日ここに来る前さ、あの木の下に蛇の死体を埋めたんだ」
「……え、」
「そんだけ」
ぽかんとしているらしい友人を尻目に、「じゃ」 と片手を上げ、彼の家を後にした。
砂利の敷き詰められた庭を過ぎ、門を出て少し歩いたところで私は立ち止まった。振り向くと、塀の向こうから一本の桜の木が顔を覗かせ、こちらを伺っていた。
――桜の木の下には死体が埋まっている――
私は思う。
その言葉が確かな事実となった人間が、一体この世にどれだけいるのか。多くはないかもしれない。しかし少なくとも、それは自分一人だけじゃないはずだ。そうした想像は、やはり私を妙な気分にさせた。
桜に背を向け、またぶらぶらと歩きだす。
下の花見会場では、久しぶりに飲みすぎたらしい母が、桜の木の下で死体のようになっていた。
その16 祖父の川
投稿者「匿名 ◆etpFl2/6」 2018/06/10
私が中学生だった頃の話だ。
八月中旬、学校は夏休み。生来身体の弱い母が検査入院という形で幾日か家を空けることになり、加えて消防署に務めている父の仕事の都合もあって、数日の間、私一人で母方の祖母の家に泊まりに行くことになった。
別に一人で留守番していても良かったのだが、事情を知った祖母が電話の向こうからこっちに来いとうるさいのと、行けば面倒くさい家事をしなくても良い、という事実につられて、行くことにした。
祖母の家までは電車で一時間半ほど。県境の山奥へと線路は谷間を縫うように進み、駅に着いたのは正午前だった。
冷房の効いた車内から、ホームに降り立つ。ドアが開いた瞬間、むっとした外気と緑の匂いがまとわりついてきた。周囲は勾配のきつい山とその谷底を流れる川と青い空と青い茶畑が大部分、あとは国道沿いにぽつりぽつりと家が建っている。
随分昔、いくつかの小さな集落が集まって出来た、それでもやはり小さな町。ここが祖母の住む町であり、私の母の生まれ故郷でもある。正月から数えて数か月ぶりの訪問だったが、一人で来たのはいつ以来だっただろうか。幼いころには、こういったことがもっと頻繁にあったように思う。
駅から坂道を下り、川に掛かった沈下橋を渡る。日差しは肌を射すようで、あちらこちらから聞こえるセミの鳴き声がやかましい。橋の丁度真ん中あたりで立ち止まり、欄干も無い石橋の縁から下を覗き込んでみる。水は澄んでいて、川底まではっきりと見通せた。
しばらくじっと川を見やる。
町と同じ名前であるこの川は、水が綺麗なことで知られる県下でも有数の清流だった。そうして私が泳ぎを覚え、生まれて初めて溺れた川でもある。
よくは覚えていないのだが、幼い私は、まだ満足に泳げないくせに深みに入ってしまい、溺れているところを傍に居た祖父に引き上げられたそうだ。その後、河原でひとしきり泣いた私は、呑んでしまった分の水を両目から出し切ると、またけろりとして水に入って行ったという。
こうして聞くと完全に阿呆だが、祖父はそんな孫の行動を、「俺の血じゃ」 と言ってえらく喜んでいたらしい。
川に遊びに行く際、私のお守り役はいつも祖父だった。当時の記憶は飛び飛びの途切れ途切れだが、河原から孫を見守るだけで泳ぎも釣りもしない祖父に対し、一緒に遊んでくれればいいのに、と少々不満だったことは覚えている。
昼食を食べたらひと泳ぎしようか。青々とした流れを横目に私はまた歩き出した。
祖父母の家は、橋を渡って川沿いの坂道を少し上った場所に建っている。一見木造の平屋だが、よくよく近づいてみていると実は二階建てで、何だか普通の二階建ての日本家屋を、大きな掌で上から押しつぶしたような、少々不格好な家だ。
祖母は、家から道路を挟んだ斜面に沿った畑で、何やら作業をしていた。どうやら畑周りの雑草を刈っているようだ。
「おーい、ばあちゃん」
呼ぶと、彼女は腰を曲げたまま顔だけこちらに向けた。日差しから首筋まで守れる農作業用の帽子をちょいと上げ数秒、ようやく私だと分かったようだった。
「おーおー、来たかよ」
言いながら、祖母は鎌と器用に束ねたカヤの束を両手に、もはや斜面というより崖に近い段々畑を軽々と降りてきた。歳は七十に近いはずだが、足腰はまだまだ達者なようだ。
「時間を言うたら駅まで迎えに行ったんに」
少々口惜しそうに祖母は言った。そう言えば、小さい頃ここに来たときには、必ず祖父母そろってホームで待っていたことを思い出す。もちろん二人とも入場券など買わず、改札は顔パスだ。良くも悪くもこの町は狭く、住む人々の結びつきは強い。
「そんなんいいって。それより、腹減ってるんだけど」
「おうおう、もうそんな時間かよ。そうしたら急いで作るきよ、先におじいちゃんに挨拶しとき」
「それ、後じゃいかんの?」
「あこぎなこと言うとらんと、さっさと会うて来んさい」
親子だから当然なのだが、こういった物言いは母とそっくりだ。足腰だけじゃなく、まだまだ口も達者らしい。
玄関に荷物だけ置き、そのまま家の裏手に回る。先祖の骨が収められている納骨堂は、河原へと降りる道の傍にあった。お堂の周囲には、古い墓石がいくつか並べてある。元々はすぐそばの山を少し上がったところに墓地があったのだが、管理しやすいようにと、祖父の死の際に骨と墓石を降ろしたのだった。
墓前に立つ。
祖父が死んだのは、私が小学校低学年だった頃のことだ。
突然畑で倒れ、病院に運ばれた時には医者も呆れる程全身癌だらけだったらしい。それから一ヶ月もしないうちに祖父は亡くなった。入院中、痛いとも辛いとも、泣き言や弱音は一切吐かなかったそうだ。
祖父の入院中、一度だけ私は父と二人で見舞いに行った。しばらく見ない間に、祖父は随分と痩せてしまっていた。
祖父はベッドに横たわったまま、私を傍に呼ぶと、自分の子供時代のことを語り始めた。それはもっぱら川についての話だった。生まれ育った故郷を流れる川。私が泳ぎを覚えたように、祖父もこの川で泳ぎを覚え、モリ突きを覚え、投網のやり方を覚えた。
当時の川がどれほど綺麗だったか、どれだけ多くの魚が居たか、どのくらいの水量があったか、祖父は語った。
ただ、それらはすでに何度も聞いたことのある話で、退屈を持て余した私は、祖父の話よりも病室内の観察ばかりしていた。しばらくすると、語りつかれたのか祖父は寝息を立て始め、病室から出た私は脳天に父の無言の拳骨を食らった。
それから幾日か過ぎた後、祖父は死んだ。その日はひどい雨で、最後の言葉は、「川の様子を見てくる」 だったそうだ。
手を合わしながら、私は、そんなことを思い出していた。
墓参りが済むと、祖母と二人で昼食をとった。御多分に漏れず、「もっと食いんさい」 が口癖の祖母であるが、大皿いっぱいの芋の天ぷらには正直まいった。
「そのくらげ君っていうあだ名は、あんたが付けたんかよ」
「そう。小学六年の時からそう呼んでる」
二人で山盛りの料理をつつきながら、話題は私の同級生である一人の友人についてだった。
私にはくらげという友人が居る。もちろん、あだ名だ。
くらげは所謂、『自称、見えるヒト』 だ。
例えば、彼の自宅の風呂にはくらげが湧くらしい。だから、くらげ。また、彼はそうした自身の特徴について、「僕は病気だから」 と言う。見えてしまう病気。しかもそれは、稀に他人に感染ることがあるとも。
ただ、私が祖母に話した事柄は、自分にはくらげというあだ名の一風変わった友人が居て、彼には一般的に幽霊の呼ばれるようなものが見えるらしい、ということだけだ。
しかし何故か、祖母はそのくらげ君のことがいたく気に入ってしまったらしい。
「今度うちに連れて来んさい」
祖母が言った。最初は軽い冗談かと思ったが、それから何度も、「会ってみたい」 や、「連れて来い」 を繰り返すのを見ると、どうやら本気らしかった。
「あのさ……、誰が好き好んで他人のばあちゃんちに行きたいと思うんだよ」
「そんなもん聞いてみんと分からん。来たい言うかもしれん」
祖母は、何故か自信満々だった。
「大体さ、何て言って呼ぶんだよ」
「『家の前の川に死んだおじいちゃんが出るらしいから、見てくれんか』 って言うたらええが」
どうやら私の言葉を予想していたようで、祖母は間髪入れずに答えた。
そうきたか。
亡くなったはずの祖父を川で見た、という話が出てきたのは、祖父の葬式が済んでから半年ほど経った頃のことだったそうだ。
最初に目撃したのは、同じ集落に住むご近所さんで、朝の散歩の途中、川に架かる沈下橋を渡っている際に見たのだという。なんでも死んだはずの祖父が上半身裸で腰まで川に浸かり、モリで魚を突いていたのだとか。
それからというもの、同じように祖父の姿を川で見た、という人間は徐々に増えていった。祖父が出る場所は、きまって家の裏手を降りたところの川だった。泳いでいたり、縁に立ってただ川を眺めていたり、投網をしていたりと、バリエーションは様々で、時には複数人が同時に見たということもあったらしい。
ただそんな中、祖母自身は未だそうした夫の姿を見てはいない。が、だからといって、信じていないわけでもないらしい。
しかし、もし祖父の霊が居ると仮定して、くらげに見てもらって、その後どうするつもりなのだろうか。
「……あいつ、たぶんお祓いとかは出来んと思うけど」
私が呟くと、彼女は一瞬きょとんとした表情になって、それから小さく噴き出した。
「別に、そんな気はないけんど」
そうして祖母は、その顔に、まるでいたずらっ子のような笑みを浮かべ、
「ただ単に、見てもらいたいんよ」
そう言って、芋の天ぷらを一口、旨そうに齧った。
昼食が終わると、私は膨らんだ腹と釣り具をひっさげ家の裏手の川へと向かった。納骨堂の横を通り過ぎ、河原へと続く階段を下る。空は青く雲は白く日差しは依然ぎらりとしている。
そこら中に葦やカヤやイタドリといった背の高い草、河原には大きさの様々な石がごろごろしており、その向こうには深い青色をした水の塊がころころ流れている。
川岸にて、大きな一枚岩の上に釣り具とサンダルを放り出す。そうして私は助走をつけて走り出し、服のまま川に跳び込んだ。
小魚が数匹、いきなり現れた私に驚き茶色く苔むした岩の下へと逃げていく。水はきんと冷えていて、実に気持ちが良かった。
水中は、ゴーグル等をつけなくてもかなり遠くまで見通せる。昔に比べて足の届く範囲は広がったが、それでも一番深いところでは三メートル弱ほどの水深があり、流れもある。一人で遊ぶには十分な空間だった。
しばらく好き勝手に泳ぎ回り、気が済んだところで河原に上がった。釣竿を置いた岩の縁、微かに丸く窪んでいる箇所に腰を降ろす。跳び込んだ際に冷たい水が気持ちよかったように、今は照りつける日差しが心地いい。少しの間、釣竿も手に取らず、足をぶらぶらさせながら、ただぼんやりと目の前の川を眺めた。
幼い頃、祖父も同じようにこの場所に座り、川で遊ぶ私の姿を眺めていた。
私の記憶の中では、釣りも突きもせず、決して川に入ろうとしなかった祖父だが、若いころは一年中毎日のように川に関わっていたそうだ。
聞くところによると、モリ突きの腕は確かだったようで、息が長く、一度の潜水で五匹のアユを突いてきたこともあったという。投網も上手く、台風で憎水した日でも漁をしに川へ行き、祖母や母を心底心配かつ呆れさせたこともあったらしい。夏も始まらないうちから泳ぎ始め、秋になり、見ている方が寒くなってくる時期でも平然と川に入って行ったそうだ。
私がそうした祖父の姿を知ったのは、亡くなった後のことだった。
ふと、誰かに名前を呼ばれたような気がして、私は辺りを見回した。近くに人の姿は無い。聞き違いだろうかと思った瞬間、クラクションの音と共に今度ははっきりと誰かが私を呼んだ。
見ると、流れの上流、午前中に渡って来た沈下橋の上に一台の軽トラックが止まっていた。材木を運んでいるらしく、荷台の尻から丸太が付き出ている。運転席に居るのは、白いタオルを頭に巻いた若い兄ちゃんだ。開けた窓からこちらに片手を上げている。
私が手を振りかえすと、彼は橋の袂にトラックを止め河原に降りてきた。
「おー、こっち来とったんか」
「イチ兄、久しぶり」
イチ兄は私の又従兄弟にあたる人物だ。歳は十ほど離れているが、何故かうちの父とウマが合うようで、私も幼い頃からよく遊んでもらっていた。高校を卒業してから山師として働いていたが、数年前に辞め今はこの町で農業をしている。
「一人で来たんかよ?」
「うんそう。二、三日泊まってくつもり」
それからお互い近況報告のような会話を少し続けた後。橋の方を振り返りながら、イチ兄が言った。
「いやー、最近この辺りで泳ぐ奴とか滅多におらんからよ。またお前んとこのじいさんが出てきたんかと思ったわ」
それについては、つい先程の祖母と話したこともあって、私は二割増しほど驚いた。
「イチ兄、見たことあんの?」
「ん。一回こっきりやけどな。お前を見つけたように、向こうの橋の上からよ。俺が見た時には、モリ片手にそのへんを泳いどったな」
イチ兄がそれを見たのは、去年の夏のことだったらしい。
「見間違いとか、人違いじゃなくて?」
イチ兄は、私の無遠慮な質問にもあっけらかんとしたもので、「あー、そう言われると何とも言えんなぁ」 と、頭頂部あたりを指で掻きながら言った。
「けんど、この辺りでモリ突きやるのは、あのじいさんくらいやったしなぁ。……しっかしまあ確かにな。あれがお前んとこのじいさんやったら、死人のくせにえらい活き活きと泳ぎよったもんだ。こう腰にアユ何匹もぶら下げてな」
そうしてイチ兄はからからと笑いながら、ふと川の方を見やった。釣られるように、私もつい先ほど泳ぎ回った水の流れに目をやる。
「……まあ、心残りもあったんやろうな。あのじいさんも色々あったしよ」
イチ兄の視線が川を上流に辿っていく。
この川の上流にダムが出来たのは、三十年以上昔、この町がまだいくつかの小さな集落に分かれていた頃のことだったそうだ。
ダムの着工に当たる際、電力会社は地元の地理や人間関係に明るい人物をほしがった。そうして白羽の矢が立てられたのが、祖父だった。
祖父は当初、ダムの設置には反対していたそうだ。ただ、着工が決まってからは一言も口を挟まず、電力会社の求めにも、周囲の人間が意外に思う程あっさりと首を縦に振ったという。
ただその日以来、祖父は川に入ることをしなくなり、魚も一切捕らなくなった。
「お前のじいさんから聞いたけどよ、昔、ここの辺りは流れが早すぎて、川底に苔もつかんかったらしいからな。今は、水も魚も随分減ったとよ」
その話は私もよく聞かされた。晴れた日には、太陽の光が川底に反射して、赤や緑や白といった色の石がきらりきらりと輝くのだ。当時の川は、まるでビードロを溶かしたようだった、と、病室で私の頭をなでつつ、祖父は言った。ろくに話は聞いていなかったが、その言葉だけはよく覚えている。
私の知らない、祖父の記憶の中にある川。
「お前のじいさん見た時な」
イチ兄が言った。
「そん時だけよ、川がえらい澄んで見えたわ」
私はその髭面を見上げる。イチ兄は、強烈な陽の光に目を細めながら、ダムのある方角を見やっていた。
目の前の川に視線を戻す。私が初めて泳ぎ、溺れた川。
「今でも十分キレイと思うけどなー……」
呟くと、隣でイチ兄がからからと笑った。
それからしばらく話をして、イチ兄は畑に杭をたてる仕事があるということで、車に戻って行った。
「二、三日泊まってくなら一度くらい飯食いに来な。嫁さんもチビすけも喜ぶけぇよ」
車の中から、イチ兄はそんなことを言った。彼はつい近年結婚し、子供も生まれたばかりだった。トマトのような頬をした女の子で、一度抱っこしてみろと押し付けられた時に大泣きをされ、皆に笑われた苦い思い出がある。
「あー、気が向いたら、行く」
私がそう返事をすると、イチ兄が笑って片手を上げた。軽トラは緩やかな坂道を上りすぐ見えなくなった。
その後、私は持ってきた道具を広げ、釣りを始めた。二時間ほど粘ったが釣果は芳しくなく。釣れたのは痩せたアメゴが一匹だけだった。
そう言えば、祖父は突きも投網もやったが、釣りだけはしなかったそうだ。そう話してくれたのは祖母で、理由を訊くと、「あの人にゃあ、川に入ってばちゃばちゃやる方が性にあっちょったんよ」 と、可笑しそうに笑っていた。
今日はこれ以上続けても無駄だろう。服もすっかり乾き、大分腹もこなれてきた私は、一匹だけアメゴの入ったバケツを手に祖母の家に戻ることにした。
そうして、河原から家へと続く階段を上ろうとした時だった。背後からまた誰かに名前を呼ばれた気がして、私は振り返った。
そこには誰もおらず、ただ同じように川が流れていた。
もう一度名前を呼ばれた。見上げると、階段を上りきったところに祖母が居て、私が上ってくるのを待っているようだった。
私はもう一度だけ後ろを振り返り、それが確かに気のせいだったことを確認してから、再び石段を上りだした。
「じいさんはおったかよ」
途中、上から祖母が言った。私は首を横に振って、「おらーん」 と答える。そうしながら、ふと、もしくらげを連れて来たとしたら彼には見えるのだろうか、と、そんな想像が頭をよぎった。
イチ兄が見たという祖父の姿。そうして、まるでビー玉を溶かしたようだという、祖父の川。
気が付くと、いたずらっ子のような笑みを浮かべた祖母が、私を見やっていた。
「何だよ」
すると彼女は、まるで私の考えなどお見通しだでもというように、こう言った。
「次はくらげ君と来んさい」
私は祖母を見やり、手のバケツを見やり、その中のアメゴを見やり、息を吐いた。
「……気が向いたらなー」
祖母が笑った。
そうして、「じいさん聞いたかよー」 と、私の背後に向かって大きな声を響かせた。