師匠シリーズ

【師匠シリーズ】桜雨

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結局、尾行は失敗した。見つかってしまったのではなく、見失ったのだ。
まあこんなものか。
そう思って、私はついこの間ヨーコと一緒に見つけたクレープ屋でショコラクレープを買った。食べながら街をうろうろする。そうして気がついたことは、一人だとこうしていてもあまり楽しくないということだった。
「あいつ、風邪早く治るかな」
あの騒々しさが嫌いではなかった自分に少し驚く。
CDでも見て帰るか……
そう思ってCDショップのある方へ足を向けようとした時、いつかザビエルに見つかりそうになったホテル街が近くにあることを思い出した。
そう言えば、今までにザビエルに遭遇したのもこの辺りばかりだった気がする。もしかするとまた近くにいるのではないかと思い、CDショップは後回しにしてその通りに足を踏み入れた。
昼間はやけに閑散としている印象だ。通りに面した飲み屋らしい店にはほとんどシャッターが下りている。
そんな中、くたびれたジャンパーを着た中年の男が道の真ん中に立って、通行人をじろじろと見ていた。いかがわしい店の呼び込みにしても、声掛けさえしていない。たまに見かけるが、いったいああいう人はこの街でどんな役割があるというのだろう。垣間見る大人社会は、まだまだ不思議なことばかりだった。
それにしてもザビエルはどうしてこんなところをうろうろしているんだろう。補導ならゲームセンターでも巡回している方が現実的だ。こんな場所で行われる不良行為など、生徒の中のごく一握りだろうに。
ふと、ヨーコに聞かされた無責任な噂話が耳の奥で再生される。
ザビエルの特殊な性癖のことだ。女子高生が好きだなどという。私にはそんな風には見えなかった。あの落書きの相合傘の方がよほど信憑性がある。
しかし。この嫌に空疎な昼間のホテル街を歩いていると、なんだか変な空想が湧いてくるのだった。髪を触られそうになったことを思い出し、不快な気持ちになる。
と言って、ザビエル自身が心底嫌いな訳ではない。
そんなことを思いながらザビエルの顔を思い浮かべる。ただ、変な噂を立てられた中学の時の暗い思い出が蘇るのが嫌だった。
「ねえ、ちょっと」
ぼうっとしていた時に、ふいに横から声をかけられて驚いた。
「ここでなにしてるの。その制服、女子高だよね」
若い男だった。小洒落た服を着ていて、髪は黄色く染めている。
「別に」
なるべく無表情であしらおうとしたが、男はいやに身体を近づけてくる。「ねえ」
「別に」
そう言って離れようとするが、しつこかった。場所が場所だけに、少し怖くなる。周囲の目もかなぐり捨てて、走って逃げたほうがいいのか、一瞬迷った。
しかしその次の瞬間、背後から鋭い声が上がった。
「なにしてるっ」
驚いて振り向くと、少し前に見失ったザビエルがいた。
その剣幕に驚いて、若い男はへへへ、とバツの悪そうな乾いた笑いを残して去って行った。助かった、と思うと同時に、やっぱりいた、という嫌な感想が脳裏をよぎった。
「大丈夫か」
そう言って近寄ってくるのが、さっきの男と同じくらい不快で、思わず身体を硬くする。
「なにかされなかったか」
第一声が、だから言っただろう、という押し付けがましい説教ではなかったのが唯一の救いか。
「はい」そう返事をした後の、第二声は「だから言っただろう」だった。
そしてうんざりした私に向かって、第三声が続いた。
「なにか買わされそうにならなかったか」
緊張を帯びた声に、ドキリとする。
買わされる?
なにかの影が頭の中を走った。心臓が高鳴り始める。
「買うって、なにを?」
「なにって、その……」
ザビエルは困惑した顔で、口ごもった。
私は直感に従い、自分のスカートのポケットに入っているものを取り出した。
「これですか」
そのオレンジ色の袋を見た瞬間、ザビエルの顔色が変わった。なにか言い出そうとする前に、私はその機先を制する。
「さっき拾いました」
「なっ……」
と言って絶句する。
「ど、どこでだ。吉永かっ?」
いきなり口をついて出てきた脈絡もない名前に、また私の脳裏を暗い影が走る。
吉永。
二つ隣のクラスの女子にそういう名前の子がいた。顔ははっきりとは思い出せない。しかし、分かった。
あの、公園を出た後ですれ違った女子生徒がそうだ。青ざめた顔で慌てながら走って来た子。
そんな確信があった。
だったら……
寒気が体中を駆け抜けた。
「あの公園」
そう言いながら、私はオレンジ色の袋を投げる。それを落とさないようにうろたえながらキャッチしようとしているザビエルを尻目に、私は走り出す。
すべてが最悪のタイミングであり、最悪の組み合わせだった。
嘘だろ。
思わずそんな言葉を口をつく。
さらに間の悪いことに、その通りを抜ける先には見覚えのある顔が二つ並んでいた。その女子生徒二人は、凄い形相で走ってくる私に驚いて道を開けようとした。
見られていた。
これは偶然?
いや、どちらでもいい。

私は急ブレーキをかけて、その二人にすばやく声をかける。
「どうして囃し立てないの」
いつか校門のところでザビエルをからかっていた上級生だ。相合傘の落書きをされるような教師二人をからかうように、こんなところに二人でいるところを見てからかわないのだろうか。
「え? だって、捕まって説教されてたんでしょ」
二人はそう言って顔を見合わせる。
なぜ? どうして、そんな好意的な見方をしてくれるのか。ホテル街に二人でいたというのに。
私は、ヨーコから聞いたあの噂を早口で捲くし立てる。すると二人は笑い出して、ないない、とばかり手を振る。
「わたしら、一年の時、ザビエルが担任だったけど、それはないわ」
それを聞いて、いい加減なヨーコの言うことを真に受けてはいけない、ということを学んだ。
「ありがとう。じゃあね」
そうしてまた私は走り出す。
走った。とにかく走った。
もっと走りやすい靴を履いてくるんだった、と後悔したが、それでも必死で走り続けた。地元の強みで、いくつかショートカットをしながら街なかを駆け抜けた。
息を切らせながら、あの公園へ向かう直線の道へ入る。
嫌な予感が全身を覆っている。これまでに見てきた不吉なパーツパーツが、最悪の組み合せでそこにあるのだ。
電信柱のところには、もう不良たちはいなかった。
その横を走り抜ける。
公園がすぐ先に見えた。
「ヒロさんっ」
そのままのスピードで公園の中に駆け込むと、胸に突き刺さるような光景が目に飛び込んできた。
「ヒロさん!」
あのダンボールハウスはめちゃくちゃに壊されていた。なけなしの家具は土の上に散らかされている。
そしてその中にヒロさんは傷だらけになってうずくまっていた。
駆け寄って頭を抱く。
うう。と言ってヒロさんは唸った。
服は破かれ、顔や胸元などに殴られたり、蹴られたりしたような跡がある。ところどころに血が滲んでいる。
なにか言おうとしていた。しかし割れて血が滴っている唇はぶるぶると震えてなかなか言葉にはならなかった。
怒りが、私の身体の芯の部分に灯った。
「しっかり!」
その時の私には救急車を呼ぶ、という当然のことが浮かばなかった。背丈は伸びたが、それだけ子どもだったのだろうと思う。
公園の中を見回したが、他に誰の姿もなかった。暴行した犯人はすでに立ち去った後だ。
入り口のところに目をやると、こちらを恐々と覗き込んでいる三人組の女の子たちが目に入る。
「なにがあった?!」
私は声を張り上げる。女の子たちはびくりとして後ずさりしそうになった。小学生だろうか。
「お願い。教えて」
その必死な言葉に反応してくれたのか、その中の一人がおずおずと近づいてきて他の二人もそれに続く。
彼女たちが震える声で教えてくれたのは、私の想像したとおりのできごとだった。
セーラー服の女子生徒と学ランを来た数人の男子が公園にやってきたかと思うと、入り口の辺りでわめき出し、いきなりダンボールハウスを襲撃して、中からヒロさんを引きずり出した。
そして殴る蹴るの暴行を加えたと言うのだ。
ヒロさんは顔を庇いながら必死で助けを求めたが彼らは聞き入れず、何ごとか叫びながら殴り続けた。
『拾っただろう』『返せ』
そんな言葉だったと、女の子たちは言った。
私は自分が殴られたような気持ちになった。ハッとしてヒロさんの手を見る。右手の先を。
そこは、何度も踏みつけられたように皮膚の下が青くなり、表面にも擦過傷がたくさんできていた。
そしてその手のひらは開かれ、ぶるぶると震えている。なにがあっても、どんなに辛い思いをしても握ったままだった手のひらが。
「おのれ」
思わず口にした激しい言葉に、女の子たちが泣きそうな顔をしてびくっとする。
吉永という私と同じ一年の女子生徒は、あの不良たちの仲間だ。どこかで見たことがあると思ったが、やつらとつるんでこの辺りでだべっているのを見たのだった。
そして私がザビエルを尾行していた時に公園の入り口で見たのは、吉永と彼らが座り込んでいた跡だった。不良たちと別れて街へ向かった吉永は、落し物をしたことに気づく。それも重大な落し物だ。
それを手に入れるのに、警察の目を掻い潜らないといけないような代物。それも最近はある一人の教師が勘付いてそのあたりを巡回している。そんな危険を冒してやっと手に入れたモノなのに、落としてしまったのだ。吉永は焦って引き返す。もちろん、さっき座り込んでいた、あの公園にだ。そこしか考えられない。途中で電信柱の辺りにまだたむろしていた男たちに声をかけて、一緒に公園に駆け込む。
しかし、ない。
オレンジ色の袋は落ちていない。クスリの袋は。他の缶ジュースや菓子袋はそのままなのに。
公園の中には誰もいない。
いや、いる。
住み着いているホームレスが。汚らしい、落ちているものなら何でも拾う、社会のゴミが。
彼らはヒロさんを家から引きずり出し、暴行した。『拾っただろう』『返せ』と言いながら。
そして握り締めた右手に気づき、開かせようとする。ヒロさんは抵抗する。余計に興奮した彼らは『返せよ』とわめきながら暴行を続け、ついには無理やりに拳を開かせる。
数十年、握り締め続けた手のひら。
幸せの妖精をつかまえた手のひら。
そのために、人生のすべてを投げ打った、手のひらを。
「くそ」
私は地面を殴りつけた。
『バカよ、バカ。でもロマンティックね。幸せの妖精をつかまえたホームレス!』
ヨーコの言葉が頭の中をよぎる。
これがその結末か!?
目の前がチカチカとする。酸素が足りない。ちくしょう。なんなんだこれは。
ふいに腕の中のヒロさんが跳ね起きた。
「ごめんなさい」
そう言って、地面の上を這いずり始める。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
怪我をしたことなど忘れたかのように、地面の土を払いながらまばらに生えた雑草を掻き分ける。
「ごめんなさい。もうなくしません。ごめんなさい」
そんな言葉を繰り返しながら。
私は呆然としてそれを見ていたが、我に返ると、肩のあたりを抱きしめた。
「もういいよ。もういい。ヒロさん。もういいんだ」
ヒロさんの生き方を呪縛しつづけたものが、なんのなのか分からない。他人が口を出していいこととも思えない。しかし、その時の私にはそうすることしかできなかった。
それでもヒロさんは抱きしめる私に抵抗して、地面を探り続けた。なにも見えていない。その目には、なにも見えていなかった。
涙が出た。こんな涙、私の中にあったのか。それが不思議だった。でも、それでもなお、なにも見えていなかったのは、私の方だったのだ。
やがて女の子の一人が、家から持ってきたらしい救急箱を私たちへ差し出した。近所の子なのだろう。
ハッとして、私は力ずくでヒロさんを止めると、その傷口に応急処置を始めた。子どものころからずっと剣道をやっていたので、この手のことには慣れている。
それぞれの傷は思ったより深くなく、見た目の無残さも半ばは元々のホームレスとしての格好が自然にそう見えさせたものだった。
少し落ち着いて、私は女の子たちに水を汲んでくるように頼んだ。
そうして、一通り傷口の消毒を終えたころ、公園の入り口の方から「放せ」という声が聞こえた。目をやると、ザビエルがあの吉永という女子生徒の首根っこを掴んでこちらに引き摺ってくるところだった。
「放せよ」
そうわめく声には力がなかった。頬には打たれたような赤い跡がある。捕まえているザビエルの服にも乱れがあった。二人とも息が上がっている。
「山中。鍵だ」
ザビエルがそう叫んだ。
「ヒロさんは、鍵を持っていたらしい」
え?
私は自分の耳を疑った。
鍵? どういうこと?
「そうだな」

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ザビエルに詰問され、不貞腐れたように吉永は頷く。
「こいつらは、ヒロさんが自分たちのものを拾ったと勘違いして、無理やり手を開かせたら、鍵を握っていたって言うんだ」
どこへやった?
続けてそう訊くザビエルに、吉永は「知らねえよ。ドブの方に投げたんだよ」とわめいた。
鍵?
ヒロさん、そうなのか。
「ヒロさん」
私の呼びかけに、傷だらけの小さな身体が反応する。
頷いた。頷いた!
取り返しはつく。まだ。取り返しはつく。
私は立ち上がった。
「どこだ」
吉永はゆっくりと指をさす。
こいつに落とし前をつけさせるのは後だ。
そちらへ向かって歩き出した私に、ザビエルが「ほう」と目を見開くと「たいした不良娘だな」と言った。そうして自分の服の裾をまくり始める。
グレーチング、というのか、公園の外の側溝を覆う格子状の金属の蓋を取り外し、私たちはドブさらいを始めた。
吉永はそれを手伝おうとはしなかったが、逃げようともしなかった。ただ地面に座り込んで呆けたようにそれを見ていた。
やがてその騒ぎを聞きつけて数人の女子生徒がやってきた。うちの生徒たちだ。彼女たちはなにが起こっているのか分かっていないはずなのに、しばらく遠巻きに見ていたかと思うと、同じように腕まくりをしてドブに手を突っ込み始めた。
「鍵。鍵を探してくれ」
ザビエルが泥のついた顔でそう言う。
そうして側溝という側溝の蓋をすべて剥がし、私たちはドブさらいを続けた。
「先生~」
そんな声がして、汗だくのジャージ姿の男が駆け寄ってくる。
誰かが言いつけに行ったのか、ランニング中と思しき我が校の陸上部の一行だった。先頭に立つのは顧問の男性教師。
「手伝いますよ」
ザビエルは「すみません」とだけ言って一瞬顔を上げると、また泥の中に腕を差し入れる。
「こんなことなら任せてください」
陸上部の顧問は上気した声でそう言うと、後ろに控える陸上部員たちに「おい」と声をかける。
ええ~、という悲鳴のようなものが上がったが、しぶしぶという様子でみんな腕まくりを始める。
ヒロさんもドブの方へ近寄ろうとしていたが、何人かの女子生徒たちが押しとどめながら私がやりかけた応急処置の続きをしてくれていた。
泥の中で汗にまみれ、私は不思議な気持ちに包まれていた。なんだろう。これはなんだろう。
そう思いながら、額の汗を拭った。

「あった」
誰かが叫んだ。
そちらを見ると、陸上部のジャージを着た生徒が手を空にかざしている。
「あったあ」
周りのみんなが歓声を上げた。
その手の中のものは、そばにいたザビエルの手に渡る。ザビエルはホッとした顔でドブから足を抜き、「ヒロさん」と声をかけた。
『人には事情があるんだ。じろじろ見たりするんじゃないぞ』
不機嫌そうにそう言っていたその口が、今そんな優しい言葉を発するのが不思議だった。自分のマークしていた女子生徒の不良行為が、こんな事態を引き起こしたということに罪悪感を覚えていたからなのか。
いや。
私はその横顔を見て、違う、と思った。
ザビエルは、この公園の小さな住人を昔から知っていて、私と同じように気にかけていたのだろう。ただ、その生き方にお前たちみたいな子どもが気安く関わるなと告げて、思いやっていたのだ。
今はなぜかそれが分かるのだった。
「ヒロさん」
もう一度そう言って、ザビエルはヒロさんの元へ歩み寄った。そしてその手にそっと、銀色の小さな鍵を握らせようとした。
しかしヒロさんはその右手の手のひらの上に鍵を乗せたまま、それをしげしげと眺めている。
どうしたんだろうと思って、みんなそれを遠巻きに見つめている。
おっおっ、と嗚咽が漏れた。
子どものような無垢な顔をしたまま、その瞳から涙がぽろぽろとこぼれていった。
そしていつもの声で、つまり、つまりしながらヒロさんは喋り始めた。誰に聞かせるでもなく、自分とその鍵のことを。
私たちは息を飲んでそれに聞き入った。
いつにも増したどもりぐせのために聴き取りづらかったが、時間をかけて紡いだのはこんな物語だった。

            ◆

春。
桜が咲いていた。
山を越えた遠くの村で生まれたヒロさんは、流れ流れてこの街にやってきたのだった。
まだ若かったヒロさんは、頭は良くなかったが、身体は健康だったので色々な仕事をした。荷物運びのような単純な力仕事が多かった。頭の良い人にいいように使われて、お給料をあまりもらえないこともあったが、それでもなんとか自分ひとりが食べていけるくらいには頑張っていた。
そのころは労働者の住むドヤ街のような場所があり、そこの木賃宿に逗留して日々を過ごしていた。
ヒロさんは桜が好きだった。
このかわいい白い花を見ていると、故郷を思い出すのだ。ふるさとにあったどんなものよりも、この花が懐かしかった。
ヒロさんはその日も、街外れにあったお気に入りの空き地で横倒しになったドカンの上に腰掛けて、敷地の隅にあった桜の木を見ていた。
仕事は昨日で「もう来なくていい」と言われたので、その日は一日なにもすることがなかった。明日からまたご飯を食べられるように、なにか働き口を見つけなくてはならなかった。
でも今日は、いいや。
そう思って桜を見ていた。
その白い花はもう散りかけていた。明日には全部散ってしまっているかも知れない。
はらはらと、風に乗って花びらが舞う。
今日はこの友だちを見ていよう。
そう思ったのだった。
すると、いつの間にかなんとも言えない良い匂いがしてきて、思わず振り向くとドカンの端にもたれかかるようにして一人の女の人が微笑んでいた。
ドキドキした。
清潔そうな赤い服を着たその人は、とっても綺麗だった。
「なにをしているの」
そう問い掛けられた。
「さくらを、みてるんです」
女の人は「わたしも見て良い?」と訊いた。さらさらと長い髪が風に揺れた。
「いいです。さくらはみてもへりません」
我ながら上手な言い方ができた、と思った。そう思うと嬉しくなった。
女の人はクスリとかわいらしく笑うと、隣に座った。
そうして二人で同じ桜の木を見ていた。
いつまでも、いつまでも見ていた。
そのあいだも、ずっと桜の花びらは静かな春の空を舞い続けた。
綺麗だった。なにもかも。息が苦しいくらい。
「減ってくね」
女の人はぽつりとそう言った。
ヒロさんは少し悲しくなった。
「へっても、またかえってきます」
「どこから」
ヒロさんは答えられなかった。来年の春に、きっとまた桜は咲く。そう言いたかったのに。
赤い服の女の人は、優しい顔をして近づいてきた。
そうして胸元から細い鎖を取り出して、その先についていたものをゆっくりと外した。
銀色の小さな鍵だった。
ヒロさんは襟元に女の人の首筋が見えたとき、ドギマギしてしまった。
思わずそっぽを向こうとしたヒロさんの右手の手のひらの上に、その鍵が乗せられた。
「約束」
「え」
ヒロさんは顔を戻す。
すると目の前に女の人の顔があって、やっぱりそっぽを向きたくなった。
「約束。減っても、帰ってくるんでしょう」
「うん、うん」
ようやくそれだけを言った。
女の人は目を細めて笑う。
「それを、また見たいから」
そう言って手のひらをゆっくりと握らせる。手の暖かい感触にヒロさんの心臓はドキドキとしていた。
「二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。その約束の証に」
その笑顔がいつまでも、瞼の奥に残った。
記憶が色あせても、それでも時が止まったように。
いつまでも。
それから、ヒロさんの暮らしは少し変わった。今まではただ食べていくために生きていたのに、胸の中のどこか奥、なによりも大事な場所にその約束がどくんどくんと息をしていた。
そのために働いた。つらいことがあっても、この街で。
一年が過ぎた。
ヒロさんは、騙されたり、嘘をつかれたりしながら、泥にまみれる日々の暮らしの中でほんの少しの蓄えを作っていた。
また桜の木が花を咲かせると、仕事を止めてあの空き地にやってきた。そして日がな一日、ドカンの上に腰掛けて桜を見ていた。
ドキドキしながら。
あの人にまた会えるかも知れないから。
あの人がいつここにやって来ても会えるように、桜が散るまでの間、ずっとここにいられるようにこの一年を頑張ってきたのだ。
三日が経った。
五日が経った。
一週間が。そして二週間が経った。
そうして散っていく桜を見ていた。
一人で。ドカンの上に腰掛けて。
桜の花は黒い枝の先から、ひらひらとひらひらと少しずつ減っていった。
右手に握った鍵をそっと見る。するとほのかに胸の奥が暖かくなった。
『二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。その約束の証に』
その言葉が耳の中に蘇った。
約束。
そう。
へっても。またかえってくる。
約束。
その瞳の先に、花びらは舞い続ける。

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五年が経った。
それからずっとヒロさんは、毎年桜の咲く季節にはあの空き地に行って、一日中座り込んでいた。桜は散ってもまた来年には花を咲かせる。あの約束は果たせないままだったが、その言葉を胸にこの街で生き続けた。
ある冬の日の晩に、木賃宿に帰ってきたヒロさんはお尻のポケットが破れていることに気がついた。なにかに引っ掛けてしまったのか、大きな穴が開いている。その穴から、いつも肌身離さず持っていたあの鍵を落っことしてしまっていた。
ヒロさんは半狂乱になってあたりを探した。けれど見つからなかった。
何度も何度も謝った。ごめんなさい。ごめんなさい。もうなくしません。もうなくしませんから、どうか出てきてください。そうして泣きながら探し続けた。
あの鍵がなくなった後のことなんて考えることができなかった。もう人生の一部になっていたのだった。
鍵が出てきたのは二日後だった。同じ飯場で働いていた仲間が「これ、おめえのじゃねえか」と持ってきてくれたのだ。掘り返していた土砂の中に見つけたのだという。ヒロさんがいつも大事そうに持っていたのを覚えていてくれたのだ。
ヒロさんは感謝した。神様なんているのか分からなかったので、ただただ空に向かって感謝した。
そして誓ったのだった。
もう二度となくしません。この手に握って。けっして。
新しい約束がそうして生まれた。
それからのヒロさんは、右手を開かなくなった。どんなことがあっても。それまでしていた仕事もできなくなった。哀れに思った昔の仲間が、わずかばかりのお金や食べ物をくれたが、それもいつまでも続かなかった。みんな身体をギリギリまで痛めつけながら働いていたのだ。彼らもやがて一人、二人と、どこかへ去って行った。社会の最下層で、泥水を啜って生きていたような仲間たちだった。それなのに、いったい、どこへ行けるというのだろう。
その中でも一番底の底にいたヒロさんは、それでもその街で生きていた。見ず知らずの人になにかを恵んでもらう暮らし。落ちているものを拾って、それを頭を下げ下げ誰かに買ってもらう暮らし。
お金が払えなくなって、木賃宿も追い出された。寒さに凍えて街を彷徨い、たどり着いたのはあの空き地だった。そこにありったけのボロをまとって横になった。凍てつく夜空は澄んでいて、星が一面に輝いていた。
春が来る。
また桜が咲く。
それだけを思って眠りについた。
それからの暮らしは、誰とも共有できないヒロさんだけの思い出だった。つらい、しんどい、などという生易しい言葉では語れない、長い、長い日々。
それでも春は来た。そして桜は咲いた。そのたびにのそのそとねぐらから這い出て来て、待ち続けた。あの人が、あのころと変わらない笑顔でやってくることを。
いつか交わした約束は、たぶん夢じゃなかったはずだから。
…………
時代は移り変わる。
世の中にはヒロさんの知らない便利なものが増え、道行く人々もすんなりと足が伸びて、みんなお洒落な格好をして楽しそうにしている。そんな様子を見ていると、ヒロさんも楽しかった。
しかし空き地の桜の木はある日、タクチカイハツとやらが進む中で切られてしまった。ヒロさんは必死で抵抗したが、大きな身体の若者たちにかなうはずもなかった。半分の大きさになった空き地はやがて公園になった。
横倒しのドカンもなくなったが、そこはもうヒロさんの住処だった。呆然としながらも、そこで暮らすしかなかった。
それから何年かしてヒロさんは親切な人に小さな桜の苗木をもらった。それを公園の隅に植えた。そして他の草や木に栄養を取られないように、気をつけながら少しずつ育っていくのを見守ってきた。それが今、ヒロさんの背丈を越えるほどになって、公園の隅に小さな枝を伸ばしている。
へっても、かえってくる。だから、二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。
そんな約束を、昔した気がする。

            ◆

どもりながら、なにかに取り憑かれたかのように訥々と語る、ヒロさんの物語が終わった。
周りにいた何人かの女子生徒が涙を浮かべている。声を上げて泣いている子もいた。
かつてヒロさんが、たった一度だけ会った女性と大切な約束を交わしたその場所に私たちは立っていた。
吉永も泣いていた。地面に突っ伏して。
ザビエルが話し終えたヒロさんの手を取った。
そしてその手を胸元に引き寄せ、祈るようにそっと目を閉じる。その唇からやわらかな言葉が紡がれる。

「 心の貧しいものは幸いです。天の国はその人ものでしょう。
 悲しむものは幸いです。その人は慰められるでしょう。
 柔和なものは幸いです。その人は地を相続するでしょう。
 義に飢え渇いているものは幸いです。その人は満ち足りるでしょう。
 あわれみ深いものは幸いです。その人はあわれみを受けるでしょう。
 心のきよいものは幸いです。その人は神を見るでしょう。
 平和をつくるものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるでしょう 」

そして目を開き、ヒロさんの瞳を見つめてこう言った。
 
「 義のために迫害されている者は幸いです。天の国はその人のものなのだから 」

そこだけ時が止まったかのように、私には思えた。
ザビエルのあだ名の意味を今さらのように思い出す。フランシスコ・ザビエル。十六世紀に日本へやってきたカトリックの宣教師。日本人なら誰でも知っているような日本史を彩る有名人だ。
その先人をなぞらえたあだ名は、熱心なキリスト教徒であり、それを学校でも公言してはばからないことからつけられたものだった。生徒の間にも、その教えにちなんだ説教をすることで知られていた。もっとも、私たちにはどれもやぼったい、似たようなお説教にしか思えなかったのだが。
なのに、今ヒロさんの手を握りながら口にした言葉はどれも、とても美しく聞えた。
「やく、そく」
ヒロさんがそう呟いた。
目には大粒の涙がこぼれている。
ヒロさんは手にした鍵をザビエルに渡そうとしていた。
「え?」ザビエルは戸惑ってそれを受け取れないでいる。
「かえってきた」
ヒロさんはぼろぼろと涙を流しながら、確かにそう言った。そして公園の隅にある一本の痩せた木を震える指でさし示す。黒い樹皮。春だというのに、すっかり花が散ってしまっているその木。いや、あった。残っていた。枝の先に、言われないと気づかないような小さな花びらが、それでも懸命に。
その時私は、ザビエルも今、赤い服を着ていることを初めて認識した。泥にまみれているが、確かに赤い服だった。そして…………
ヒロさんの涙で滲んだ視界の中で、今きっとザビエルのことが、あのいつか出会った髪の長い女性に見えているのだろう。
あのころのままの、優しい笑顔をして。
そうに違いない。
ザビエルはその艶やかな長い髪をそっと整え、にっこりと微笑むと、「小さな桜ね。でもかえってきた。約束どおり。なにもかも、あなたのおかげよ」とささやいた。いつもの体育会系の延長のようなぞんざい喋り方とは全く違う。よそ行きの声。いや、それが本当の声だったのかも知れない。
ヒロさんは何度も頷いていた。何度も、何度も。
「でもこれからは」
ザビエルは少し声をつまらせて、それからまた微笑んだ。
「あなた自身のために生きて」
そうして止まっていた時間がようやく動き出したのだった。
一際強い風が吹いて、泥水に濡れた私たちの服を冷たく撫でた。陸上部の顧問が首にかけたタオルで頭を拭いている。額の上の辺りに泥がついて、それがそこにないはずの髪の毛に見えた。なんだか可笑しい。
私は目の前に視線を戻し、声を掛けようとして、一歩前に出た。
「ザビ…… じゃなかった、野田先生」
ザビエルはヒロさんの手を握ったまま私の方に顔を向けた。こんなに綺麗な人だったっけ。私はふと、そんなことを思った。

次の日、ヒロさんはもうあの公園にいなかった。山を越えた先にあるという故郷に帰ったのかも知れない。
霧雨のような雨が降っていた。昨日の夜半から降り始めた雨は、今朝まで断続的に続き、道路や家の屋根やねをすっかりと濡らしていた。
私はその中を傘もささずに自転車を漕いで駅に向かった。
会えないことは分かっていた。それでも駅の構内に立った。濡れた髪をハンカチで拭きながら。
ヒロさんは、あの年老いた小さな身体をひょこひょこと動かして、ここから旅立っていったのだろうか。元気でいてほしい。どこか知らない、その場所でも。
『義のために生きる、の、義(ぎ)って、どんな意味だ』
私はあの後でザビエルに聞いた。
『義は、そうだな。古い言葉で、ディカイオシュネーと言って、正しいこと。そして誠実であるということ。だ。どうした。キリスト教に興味があるのか』
『ばーか』
そんな言葉を選んだザビエルにも、深い意図はなかったのかも知れない。
ただ、そんなことのために生きた人が、いつか報われるといい。私はそれだけを思った。
甲高い音が鳴った。
構内アナウンスが列車の出発を告げたのだ。足元に目をやると、花びらが落ちているのに気づく。小さな白い花は、踏みつけられて足跡の形に床に張り付いていた。
桜が咲くころに降る雨のことを、桜雨というそうだ。そしてそれは、桜の花を散らせる雨でもある。
例年より開花が遅かったせいで、もう五月だと言うのにほんのわずか残っていた桜は、それでも昨日からの雨ですべて散ってしまっただろうか。
目の前で列車がゆっくりと動き出す。
顔を上げると、ホームには列車の窓に向かって手を振る女の子がいた。列車の窓からは、同じような年恰好の女の子が、やはり身を乗り出して手を振っている。
春は出会いの季節であり、別れの季節でもある。
こうしてこの駅のホームは、この春に幾度もの別れを見届けたことだろう。そして手を振り合う人々の間に交わされる新しい約束を。
私には、踏みつけられ、泥に汚れて地面に押し付けられた白い花が、新しい約束たちの、その証のための刻印のように思えてならなかった。

           ◆

京介さんの昔話が終わった。
俺はザビエルと呼ばれていた女性が去っていった改札の向こうを見つめる。
「ザビエルの本名は、松尾先生じゃなかったんですか」
「うん?」
なんだ、分からないのか。そんな顔で京介さんは苦笑した。
「美女は、野獣と結婚したんだよ」
どうやら、相合傘は本当に成就したらしい。
コレと、か。俺は親指を立てて苦笑する。
つまり、ザビエルこと野田先生は、ずっと一途に言い寄っていた陸上部の顧問である松尾先生の求愛を受け入れたということだ。そして姓も松尾に変わった。
「それから旦那の方が別の学校に移ったけど、ザビエルの方は私たちの学校に残ったんだ。私なんて三年間もずっとあいつが担任だったんだぞ」
その間、ずいぶん叱られたらしい。なにしろひどい不良娘だったのだから。
「寒いな」
京介さんはそう言って、マフラーを首に巻き直す。
「栗、ありがとう」
まだ仄かな過去の余韻が残る中、京介さんは小さく手を振り、颯爽と身を翻して、人でごった返す駅の地下を歩み去って行った。
春か。
冬支度の人々の群の中に消えて行く京介さんの背中を見つめながら、俺もまた、心のどこかで新しい春を、もう待ち始めていた。

(完)

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-師匠シリーズ