師匠シリーズ

【師匠シリーズ】書籍版 田舎〈3〉【みこがみを喰らうもの】

前の話:書籍版 田舎〈2〉【いざなぎ流】

●田舎〈3〉 【みこがみを喰らうもの】

「おはよう」
 ユキオの声に目を覚ました。
 思わず、夕べの続きのように瞬間に臨戦態勢に入った。
「寝起き、えいにゃあ」
 すぐに起き上がった俺を感心したように見て、ユキオは笑った。見回すと、師匠の布団はもう空だ。kokoさんもだった。起こしてくれてもいいのに。そう思いながら、ユキオに言った。
「みんなは?」
「散歩かな」ユキオはそう言いながら、1つの部屋に並ぶ3つの布団を眺めた。
「これ、どういう状況?」
 なにか変な想像でもしたのか、妙な表情になっている。俺はそれに構わず、部屋を出て、さらに縁側から外へと出た。離れのほうで人の気配がしていたので、そちらに向かう。
 外はいい天気だった。雲が1つ、2つと浮かんでいる、
 今日は昨日の続きのはずなのに、朝日のなかにいるせいか、あの恐ろしい体験が幻だったように現実感がない。事実、夢か幻だったのではないか。そんなことを思いながら、木戸を押して垣根の向こうへ抜けた。
 離れは昨夜と同じようにそこにあり、そこに師匠と京介さん、そしてkokoさんが集まっていた。師匠は部屋のなかに向かってなにか声をかけていたが、埒が明かない、というジェスチャーをしながら俺のほうを見た。
「おはよう」
「おはようございます」
 近づきながら、「どうしたんです」と問いかける。
「だめだ。入れてくれない」師匠はそう言って引き戸に手をかけるが、ガタガタと揺れるだけで開かなかった。なかから開かないように棒を当てられているらしい。
 窓も同じで、雨戸を閉められ、その向こうでジッサンの目らしきものが覗いているが、その前に手が伸びてきて、シッシッとばかりに追い払うような仕草をしている。
「本人は大丈夫そうだけど、だめだな、これは」
 師匠はため息をついて、ドン、と戸を叩いた。京介さんは両手を胸の前で組んでなにも言わない。目元を見ると、赤くなっていた。徹夜3日目に突入したのだ、痛々しいような状態だった。その横でkokoさんはたっぷり寝ているはずなのに、欠伸を繰り返している。
「みんな、どうしたが」
 ユキオが垣根を抜けてこちらにやってきた。なぜか気まずくて、「なんでもない」と、とっさに返してしまった。
「なあ、この離れに住んでるの、ジッサンだろう」
「そうだよ。いなかった?」
 師匠に訊かれて、ユキオはのん気にそう答える。
「いざなぎ流の太夫をしていたのかな」
「う~ん。まあそうじゃけんど」
 初日の夕飯の最中、いざなぎ流のことを知りたい、という話題になったとき、この家のだれもそんなことを言わなかったではないか。それどころか、ジッサンはほとんど寝たきりだ、みたいなことを聞かされた。このことから導き出されるのは……。
「ちょっと、最近ボケが来ちゅうみたいでね」
 言い辛そうに、ユキオは顔を掻いた。
 やはりそうか。わけのわからないことを言っていたのは、そのせいなのか。
 そう思ったところで、待てよ、と思う。あの鏡のなかの紙で出来た赤ん坊や、動く紙人形は、どうなるんだ。全員で幻を見たというのか?
 師匠のほうを見たが、なにか考え込んでいるような様子だった。
「朝ごはん、食べんかね」伯母の声が母屋のほうから響いてきた。
みんな顔を見合わせ、そそくさと離れの敷地から出る。
 伯父夫婦と俺たち4人、そしてユキオとハツコさんの8人で食卓を囲み、焼鮭と川海苔と卵焼き、という献立の朝ごはんを食べた。
「ちくと午前中用事があるき、昼過ぎやったら送っていっちゃお。それまでゆっくりしよりや」
 伯父のその提案を聞いて、俺たちは揃って師匠を見た。なんだかよくわからないが、気持ちの悪いことが起きているのだ。早く退散するに越したことはない気がする。街までの運転手ならユキオだっている。今日は土曜日だ。本人も、そのつもりで来てくれたのではないだろうか。
 しかし師匠は、「お願いします」と言って伯父に頭を下げた。その隣でkokoさんは、「わたしの卵焼きが1つ少ない」と言ってむくれている。
なにが起きているかわかっているのだろうか。
kokoさんは、「ネズミが取ったんじゃないの」とからかうユキオの皿から、卵焼きをひとかけら奪って食べた。
 京介さんはその騒動にも無反応で、ただ黙々と箸を動かしていた。相当しんどそうだった。やっぱりすぐに帰ったほうがいいのではないだろうか。そう思って師匠を見たが、同じように無言で焼鮭に箸を伸ばしている。
 みんな、本当になにが起こっているのか、わかっているのだろうか。
 並べられた朝ごはんは7人分。ちゃぶ台には8人。
そのうち、俺たちと一緒に食卓を囲んでいるハツコさんは、紙でできていた。
 ハツコさんによく似た等身大の紙人形が、でこぼこした顔の前で、やはり紙でできた箸を動かしている。そちらを見ないようにしていたが、視界の端に入るたびに、食べているものを吐き出してしまいそうになる。
 伯母夫婦とユキオには見えていないか、まったく反応はない。だからこそ俺は叫び出せないでいた。なんだこれは? 昨日の悪夢の続きが、唐突に始まっていた。師匠たちは気づいているのか。空間がぐにゃぐにゃと曲がるような錯覚に陥りながら、俺は朝ごはんをかき込んだ。
「ごちそうさま」
 みんなほぼ同時に食べ終わり、箸を置いて手を合わせて席を立つ。伯父夫婦は台所のほうへ。そして俺たち仲間4人とユキオは庭のほうへ向かった。紙でできたハツコさんも台所へ行こうか、一瞬迷う仕草をしたあと、すこし遅れて庭のほうへとやって来た。
「先生から言われたがよ。もう1回つれて来るようにって」
 庭に出てから、ユキオがそう切り出した。
「どうしてだ」
「よくわかんらんがやけど、このままじゃ、やばいとか、なんとか」
 歩きながら、師匠はそれを聞いてまた質問を投げかける。
「ジッサンが黒い仮面を持ってた。知ってる?」
「ああ、じじい面かな。十二のヒナゴの、じじい面」
「十二のヒナゴって、なんだっけ」
「ん。なんか、よくわからんけど、そう言うなあ」
「いざなぎ流にまつわる面なんだな」
「そう。うちの集落にもあるよお。鬼みたいな面が。まあ、守り神みたいな面やにゃあ。このうちにはジッサンが持ってきた、じじい面とばばあ面があるはず。ホントは神社とかに祀ったほうがいいんじゃろうけど、ジッサンが後生大事に手放さんらしい」
 守り神か。昨日はまるで祟りを成すものであるかのように、禍々しく見えたが。
 じわじわと、後ろからついてくる紙のハツコさんの気配を背中に感じながら、玄関のほうへ歩く。師匠たちは本当に気づいているのか。俺が、なんとかしないといけないのだろうか。
「すみません。また車借ります」
 師匠が家のほうに声を上げる。「ええよ。鍵はついちゅうき」と返事が返ってくる。
「もう行く? じゃあ、オレ、またバイクで先導するき」
 ユキオはそう言って走り出した。俺たちもまた伯父の車に乗り込む。運転席には師匠。助手席に俺。後部座席にはkokoさんと京介さん。ハツコさんの席はない。それでも閉じられたドアに向かって紙の手を伸ばしてくる。いきなり、京介さんが手を外に伸ばしたかと思うと、手のひらに魔法のようにライターを取り出した。そしてハツコさんに火をつけたのだ。
 一瞬の出来事だった。紙でできたハツコさんは燃え上がり、その場に崩れ落ちた。ドス黒い煙が上がって、やがてそれも薄れていった。あとには、燃えカスだけが残った。
 車を発進させながら、師匠は言った。
「これは、このままじゃ帰れないな」
 俺は、この村へ来るときに幻視した、無数の顔のことを思い出した。道路ぶちに様々な顔が浮かんでいて、そのどれもが、まるで帰れ、と言っているようだった。今度はそれが、別の言葉をいっせいに語りかけてくる。
(帰さない)(帰さない)(帰さない)
…………
頭を振って、我に返る。我に返って、吼えた。
「なんですか、今のは!」
 白昼に、紙でできた人間が、歩いていた。現実感のない異常な出来事に、今、自分が本当に目覚めているのか疑わしくなる。思い切り頬をつねったが、痛みはリアルだった。
「うるさい」
京介さんに怒られた。「頭に響く」
「とにかく、これは人間の仕業だ」と師匠は言った。「だれが仕掛けているのかわからないと、どうしようもない。わざわざ呼びつけるってことは、ユキオの先生がなにか教えてくれるだろ」
 そうだ。今はそれに賭けるしかない。
ユキオのバイクに先導され、昨日と同じ道を通って山の奥へと向かった。舗装がボコボコになり、斜面から崩れてきた岩の欠片が散らばっている道路を、ひたすらに進む。
生い繁る木立の間の道をくねくねと曲がるたび、同じ景色がもう一度やってきたように思えて、ぞくりとする。けれど、山道から出られなくなるという昨日の怪現象の再現は起こらず、ユキオのバイクも見失わないまま先生の家に到着した。
山の中腹にある一軒屋で、近くにほかの家は見当たらない。ただでさえ秘境のような田舎なのに、そのなかでもとくに辺鄙な場所だった。
昨日と同じように、広い庭には鶏が数羽、垣根のなかでうろうろしている。大きな木が2階建ての日本家屋に寄り添うように伸びていて、なかなか風格のある佇まいだった。
ユキオがバイクを置いた庭の隅に、並べて車を停めた。車から降りた4人とユキオ、合わせて5人で玄関の前に立つ。外から声をかけると、入りなさい、という返事があった。
「お邪魔します」
 玄関で靴を脱いでいると、ユキオの先生が厳しい顔をしてやって来た。そしてなにも言わず、昨日と同じ客間へ案内された。
 テーブルを囲むように配置された座布団の上にそれぞれ腰を下ろす。師匠が口を開こうとしたが、その機先を制して先生が言った。
「うちのは、実家に出払っている。茶は出せん」
 そうして背筋を伸ばしたまま腕を組み、俺たちの顔を1人ひとり睨むように眺めた。
「ユキオ。お前はいね」
 急にそう言われたユキオは驚いた顔をした。しかし、3回ほど頷いて、「送ってきたばあやき、用事もあったし、ほいたら帰るわ」
 そう言って、下ろしたばかりの腰を上げた。先生の険しい顔と口調に、戸惑った様子だった。
「じゃ」と言って部屋を出ていくユキオを見送ったあと、俺たち4人と先生は視線を交わした。
やがて、先生は師匠の顔をじっと見つめたまま口を開いた。
「やっかいなことになったようだな」
「ご忠告どおり、すぐにいななかったからですかね」
 師匠は、この期に及んでまだ軽口を叩いている。
「昨日から、山が騒ぎゆう」
 先生は窓のほうに目をやる。つられて俺もそちらを見るが、障子は閉まったままで、外の明かりを感じられるだけだった。ただ、その重々しい口調に、さっきまでの浮き足立っていた心が、少し落ち着いた気がした。
 先生は山が騒いでいる、と言っていたが、あたりは嫌に静かだった。物音がしない。山深い土地の最奥に取り残され、そのまま世界に忘れ去られていくような気がする。
「お訊きしたいことが、いくつかあるのですが」
 師匠がそう言うと、先生は深く頷く。
 それから師匠は、初日にあった四つ辻に埋まっていたなにかのことから始まり、今朝までに起きたことを順に説明していった。
先生はじっと聞いていたが、ジッサンの離れで起きた現象の下りになったところで急に立ち上がり、戸棚から縄を取り出して部屋の四隅を覆うように張り巡らせ始めた。
結界だ。京介さんが手伝おうと立ち上がりかけたが、「座っておれ」と言われる。kokoさんは退屈そうな顔のまま、やりとりを聞いているのかどうかもよくわからない様子だった。
「それで」
 作業をしながら先生に促され、師匠は事情を説明し終えた。先生はビタリ、と自分の顔を手のひらで叩くと、そのまま頬をしごくような仕草をして、ため息をついた。その様子を見ながら師匠は言った。
「正直、信じられません。いざなぎ流が、いかに古い陰陽道などの作法を今に伝えていたとしても、こんな風に現実的な現象を次々に起こすなんて」
 俺は思った。そうだ。この村がいくら辺境にあろうが、都市部とも道路で繋がっている、地続きの世界のなのだ。生きたまま異境に迷い込んだわけではないはずだ。それなのに、こんな信じられないことが立て続けに起こるなんて。
「年寄りは、よう言う。昔の太夫は偉かったと」先生は述懐するように、師匠に答えた。
「鎮めにしても、祈祷にしても、今の太夫よりずっと偉かった。時代が変わったのだ。スソはなぜ生まれる? 妬むからだ。恨むからだ。憎むからだ。なにより、足らぬから。
里から離れたこんな土地だ。人は飢(かつ)える。そのためなら他人のものでも奪う。そしてその悪意から身を守ろうとする。
犬神の幣がないのはなぜだ、と訊きよったな。犬神は、人が他人を妬み、うらやむ気持ちを読み取って、勝手に祟るケモノだ。一度術が成れば、もはや本人にも統べることかなわぬ。家に筋としてつき、女子が生まれれば7匹増える。嫁入りすればその家にもつく。幣は、返せぬときに、封じるためのものだ。犬神のごとき下品な術は太夫ならば返す。容易に返せぬほどの障りが、いかに多いか、幣の数を見ればわかろう。
かつての太夫は、日々生まれる無数のスソと、それともつれた魔物や、神の眷属たちを鎮め、祓い、封じてきた。今は時代が違う。こんな山の年寄りにも年金は払われる。みな、にこにこしておる。飢(かつ)えることはない。太夫も必要とされなくなる」
 見よ。
 先生は、部屋の四方を囲う注連縄を指さす。いや、その注連縄についている紙細工を。それは人を模した人形だった。ジッサンの部屋で見たものとよく似ている。
「この幣は、十二のヒナゴと言う。太夫を表すものだ。かつて家祈祷(やぎとう)のような大きな太夫ごとには、十二人の太夫が必要とされた。今では土地に人も減り、スソも減り、太夫も減り、十二人もの太夫が揃うことはもはやない。その足らぬ太夫の代わりなのだ」
「十二のヒナゴ?」
 師匠が首をかしげた。俺もその言葉には聞き覚えがあった。たしか、ユキオがジッサンの仮面のことをそう呼んでいた。
「昔の太夫には、今とは比べ物にならぬほどの力があった。異なる集落の太夫同士が、験力を比べ合うようなことになれば、式王子を打ち合い、大岩を砕き、火の玉を降らせ、天変地異もかくやという力を出したと伝えられてきておる」
 先生は庭の方向の障子をちらりと見た。
「今では、土木作業に発破を、火薬を使う。かつては、太夫が担ってきたことだ。験力で岩を動かすのだ。それどころか、山つやし、と呼ばれる法もあったそうな」
「やまつやし?」と繰り返した師匠に、先生は言った。「山をつやす、つまり山を崩す法術だ」
 それを聞いて、あまりのスケールに唖然とする。恐ろしい力だ。
「しかし、それは伝承のなかにしか存在しない、過去の太夫の力でしょう。今起こっていることは、なんなのです」
 師匠の問いかけに、先生はまた深くため息をついた。
 しばしの間、沈黙が訪れる。俺は師匠と先生のやりとりを、息を飲んで見つめている。京介さんも同じようになにも言わず、ただじっとやりとりを眺めていた。kokoさんは相変わらず退屈そうな表情で、座布団のほつれを弄っている。
 その沈黙のなか、俺はある違和感を覚えた。さっきからの静けさに、なにか不思議な感じがしたのだ。その静けさ自体が気持ち悪いのではなく、なんと言ったらいいのか、なにか見落としているような気がするのだ。なんなのだろう、これはいったい。
 俺のその思考を、先生の言葉が遮る。
「留喜(とめき)さんはかつてはよい太夫じゃった」
「ジッサンのことですか」と師匠が確認する。先生は頷いた。
「占いが得意で、クジや、米占(ふまうら)などではなく、今はほとんど絶えてしまった梓(あずさ)を使う人じゃった」
 クジというのは、数珠を使った占いのことのはずだ。割と一般的で、俺も見たことがある。なにかを占いたいとき、その善し悪しや成否を、握った数珠玉の数の奇数偶数で判別するのだ。『梓』というのは聞いたことがなかったが、恐らく弓を使った占いなのだろう。
「だが、太夫は本来『はねる』ものだ。占いは『うける』もの。太夫はあまりに受けては続けられぬ」
 先生のまぶたが重く下がる。
「弟子が受けてしまうようなら、師が太夫をやめさす。留喜さんの太夫の許しは、祖父の袈裟鶴(けさづる)さんが与えたのが最初じゃったそうだが、梓を覚えたのは年を取ってからじゃった」
「許し、というのは聞いたことがあります。師が弟子に太夫の名乗りを許すことですね」
「そうだ。太夫は、複数の師につくことが認められちゅう。病人祈祷が得意なもの、家祈祷が得意なもの、取り分けの得意なもの。太夫も様々じゃき。許しはそれぞれにもらう。
留喜さんがスソを受けてしまうようになったとき、やめさせる師はもうこの世におらんかった。今はもう太夫ごとはできんじゃろう」
 俺はユキオが、ジッサンのことを、「ボケが来ちゅうみたいでね」と言っていたことを思い出した。それも、『うける』ことが度重なったせいなのだろうか。
「師につくということは、ただ作法や術を習うということではない。もちろん、祭文を受け継ぐこともあるが、師につくということの本当の意味は、師の御子神(みこがみ)を受け継ぐということじゃ」
 ミコガミ。その言葉を聞いて少し緊張した。
(やはり、たいしたみこがみをもっておる)
 あのジッサンの部屋で、紙人形……太夫を模した十二のヒナゴがそう喋っていた。御子神とはいったいなんだ? そしてあの言葉は、明らかに師匠に向けられていた。
 俺はそっと師匠の顔を窺う。師匠は紙人形のその言葉を、もう一度先生に繰り返した。
「御子神とは、守護霊や祖霊神という意味ですか」
「少し……違うな。先祖が子孫や身内を見守ってくれる、というものとは違う。御子神は、迎えるものだ」
「迎える?」
「たとえば、家の主人が死んだあと、墓に葬られている間、霊は死で穢れている。年月が経ち、相応しい時期にその霊を墓から起す。これが荒人神(あらひとがみ)だ。まとわりつく死の穢れを落とすため、『取り上げ神楽』で祝う。これで荒御子神(あらみこがみ)となる。さらに数年を経て『迎え神楽』を催し、そうして初めて御子神となるのだ」
 先生は手のなかに数珠を握り込んで、目を閉じる。
「太夫といえど、人は人。本来魔物や神々の眷族と対等に渡り合えるはずもない。太夫は御子神の力を借りて祈るのだ。カミとなったかつてのヒトの力を借りて。力のある人ほど、力のある御子神となる。死んだ太夫は、とても力のある御子神となるがじゃ。障っておる魔物がおれば、『奥の山の知三郎をつれてくるぞ』と脅す。魔物退治の得意だった太夫は、死しても魔物を『はねる』、力の強い御子神となる」
 チッ、チッという音がして、先生の手のなかで数珠が動く。指で玉を数えているようだった。
「太夫は、死んだ師を御子神として迎え、太夫ごとにその力を借りる。やがて弟子を取り、己が死したときには、また御子神として弟子に力を貸す。そうして連綿と受け継いできた太夫の系譜が、次代の太夫を守る。1人の太夫の後ろには多くの太夫が御子神となって付き添うものだ」
 俺は目を擦った。
 厳かに語る先生の背後に、陽炎のようなものを見た気がしたからだ。錯覚か。それとも……。
「よい太夫は、師の家に挨拶に行くことを欠かさん。複数の師を持つものは、酒を持って、家々を回る。ただの付け届けではない。師を守る先代、先々代の御子神たちに酒を捧げるためなのだ。もっとも、飲むのは師じゃがな。
自分の生家にも回る。母の実家、母の母の実家。先祖の墓。ゆかりの神社、地元の祭り……。 この地の様々な御子神に力を貸してもらうため、わらじをすり減らして歩くのだ」
「でも、ちょっと待って下さい」
 じっと聞いていた師匠がそこで口を挟んだ。
「御子神というのが、ただの守護霊的な概念ではないということはわかりましたが、僕が言われた、『やはり、たいしたみこがみをもっておる』という言葉は変ではないですか」
 チッ、と数珠を繰る音が止まった。
 先生は深い皺を眉間に寄せ、ゆっくりと目を開いた。
「僕に守護霊がついているにしても、それは『取り上げ』とか『迎え』とか、そういういざなぎ流の正しい手順を踏んだ御子神ではないはずです」
 師匠の言葉に俺は頷いた。そのとおりだと思う。
「そうだ。御子神ではないものを御子神と呼んでおるからこそ、恐ろしいのだ」
 先生は、数珠を俺たちの前にかざし、「半だ。応と出た」と続けた。
「ただでは済まんぞ。わしでも恐ろしい」
 そう言って、また外を見た。少し障子が暗くなっている。日が翳ってきたようだ。
「わしらは、子どもの時分から、見知らぬ墓や石を拝むなと教えられてきた。この世には、やおよろずの神がおわしまし、その眷属や、魔物、けもの、悪霊……目に見えぬ無数の存在が満ちておる。人に悪い影響を与えるものも多い。ミテグラに封じたスソは消えておらぬ。山に埋め、石で蓋をしたミテグラの、その石を、それと知らずに手を合わせればなんとなる? 起きてくるぞ。起きてくるぞ。スソが拠り所を求めて、すがりついて来るぞ」
 ぞくりとして、思わず身をすくめた。先生の喋り方が、まるで子どもを脅すときのような他愛ない声色だったにもかかわらず、とても恐ろしく感じた。
「川スズレ、山スズレのまといつく岩に祈れば、なんとする。知らず、長縄の祠を拝めばどうじゃ。ただれたシソクの埋まる窪に一夜を過ごすか? ヒトの霊すら、祝って祝って、ようやっと御子神と成すのだ。穢れたものにすがってはならん。わからぬものに頼んではならん。祈ってはならん」
 俺はそれを聞いて、ヤツラオの墓を思い出した。祖母が言っていたことと同じだ。祈れば、起きてくると。一緒にヤツラオの墓へ行った京介さんをチラリと見たが、寝ているわけでもなさそうだったが、いつの間にか目を閉じていた。目を閉じて、静かに呼吸をしていた。まるで、最後の力を蓄えているかのようだった。
「太夫になってからも、師にきつく言われる。御子神に祈るのは大事だが、由来のわからぬ祠や墓や堂に祈ってはならんと。もつれるからだ」
 もつれる……聞いたぞ。その言葉は。
「ジッサン……留喜さんは言っていました。僕らに呪いを仕掛けているのは、もつれ太夫だと」
 師匠がすぐさま問いかける。
「太夫のなかには、おるのだ。力をつけたいあまり、由緒ある御子神だけではなく、山野の鬼神、眷属、悪霊、魔物にまで祈るものが。そうなれば、もつれてもつれて、もはや助からぬ。悪鬼外道となるほかない」
 もつれる、とは穢れた存在が人にまとわりついた状態のことを指すのだろうか。それも、複雑に絡みつき、外すこともできない状態のことを?
「古来よりも、太夫の力は落ちた。今の太夫が御子神となっても、昔の偉い太夫のそれとはちごうちゅう。わしのかつての師が太夫ごとをするときにその背後に感じた大きな力は、今のわしにはない。御子神となった師よりも、師の師のほうが強いということじゃろう。わしも弟子はおるが、どれほど力を貸せるかわからぬ。だが、もつれた太夫にまといつくものは、どれほど古く、どれほど恐ろしいものなのか、想像もつかん。起こしてはならぬものまで起こしたもつれ太夫ならば、なにをなしてもおかしゅうはない」
 また、先生が障子に目をやった。
 ずん、と辺りが暗くなった気がした。いや、錯覚ではない。本当に暗くなっている。師匠とkokoさんも異変に気づき、ぎょっとして外を見た。
「なんだ」
 師匠が立ち上がり、窓のほうへ駆け寄ると、障子を開け放った。
 カン、という音がして、縁側の外の光景が目に入る。
「霧だ」
 師匠が呆然と呟く。庭の向こうには濃い霧が立ち込めていた。
 まだ正午にもなっていない時刻だというのに、さっきまでの晴天が嘘のように一変していた。山の天候は変わりやすいというが、こんなに急に分厚い霧が出るものなのだろうか。
 太陽の光は遮られ、雨の日のように視界が暗い。見たこともないような濃霧だった。
「うそ」
 今まで、どこか他人ごとのようだったkokoさんが、初めて怯えた表情を見せた。庭の隅に停めた伯父の車が、目を凝らさないと見えないほどだった。俺も目の前の事態に足がすくむ。
「そのもつれ太夫はいったいなにをしようというんですか。ジッサンは、『おのれのしんずのかみが呼ばわったのだ』と言っていました。しんずのかみとはなんですか」
 師匠の言葉にも焦りが見える。
「神頭の神とは、かみのあたまの神と書き、御子神などの、その人の後ろにいる存在のことだ」
「ようするに、僕にとりついている霊ってことですか」
「みこがみ、と呼んだのであろう。『それ』が。そのもつれ太夫は、起こしてはならぬ死霊や鬼神、魔物まで、御子神と呼んで喰らおうとしておるのだ」
 師匠にとりついている霊だと? そう言えば、俺はこれほど近くにいたのに、今までその気配を感じたことはなかった。師匠と守護霊の話などもしたことはなかった。
「僕についている霊を、取り込もうとしているってことか」
 師匠は頭をカリカリと掻いた。
「くれてやるか」と先生が訊ねた。師匠は睨むように言った。「いやだ」と。
「僕になにがついてるのか知らないけど、そんな変人にあげたくない」
「変人か」先生はなにがそんなにおかしかったのか、破顔した。
「こんばんは」
 ふいに、庭のほうから女性の声がした。先生の奥さんが来たのかと思ったのも一瞬のことだった。霧のなかから、紙でできた人間が歩いてきたのだ。
「こんばんは」
 繰り返すその声は、いくつもの人間の声が折り重なったような不気味な声だった。紙でできた体は張りぼてのようにしか見えないが、それがまるで生きているかのように歩いてくる。
「そうですねええそうですねええここはきのねのばんのあさ」
 紙人間はわけのわからないことを言いながら近づいてくる。声は女性のようだったが、体と顔はおぞましいことに、俺の伯父にそっくりだった。
 硬直した俺のすぐ後ろを京介さんが駆け抜け、部屋の棚からはみ出ていた木刀を掴んで身構えた。得物として目をつけていたらしい。あっという間もない出来事だった。そしてそのまま庭に駆け下りて、紙人間を木刀で袈裟斬りにした。
 紙人間はばさばさと音を立てて、無数の紙の切れ端になって宙を舞った。体は消えてなくなったが、声だけがその場に残って、キキキキキという頭に響くような笑い声を立て続けた。
 ふいに肌寒さを覚えた。いや、もう次の瞬間には身を切るような冷気を感じた。
 なんだ。なにが起こっている?
京介さんは、庭の向こうに立ち込める濃霧に向かって木刀を上段に構えたままだ。家のなかでは、俺や師匠が部屋の真ん中に集まって身構えている。
洒落になってない。洒落になってない。俺はガタガタ震えながら師匠の服の端を掴んでいた。
「来よったな」
 先生が緊張した声でそう言うと、部屋の隅の箪笥から木の箱を取り出した。俺たちの目の前でそれを開け、中の物を取り出す。出てきた物を見て、ぎくりとする。
 それは奇怪な面だった。目は細く、口元は小さく、表情はない。頭は剃髪をしているようだったので、僧形というのかも知れないが、黒い塗料がところどころ剥げたその姿は、焼け爛れた人の顔のように見えた。
「それは?」
「十二のヒナゴじゃ」先生は師匠にそう答えた。
十二のヒナゴ? それは十二人揃わない太夫の代わりに飾る、幣のことではないのか。いや、そう言えばユキオもそう呼んでいた。ジッサンがかぶっていた『じじい面』という面のことを。
「十二のヒナゴは太夫の使う神霊じゃ。面のこともそう呼ぶ。かつては集落ごとに、十二の面が伝わっておった。今では欠落し、散逸して、十二面揃っておるところは少なかろう。この山も、かつては集落と呼べるものがあったが、今ではこの家だけだ。残っておる面もこれ1つのみ」
式食い面じゃ。
先生はそう言って面を両手で抱えた。
「十二のヒナゴは己に向けられた式王子を防ぐものだ。式を食い、太夫を守る」
 そう言いながら、強張った表情で凍えるように息を吐き出した。
「強い面ほど起きてこん。わしもこれをかぶるはいつ以来か」
 先生はその式食い面と呼んだ僧形の面に向かってなにごとか唱えてから、一息にかぶった。
頭の後ろで麻の紐を結び、ふう、と息を吐く。そしてそのまま俯いたきり、動かなくなった。
 ギャーッ、という恐ろしい悲鳴が上がった。俺たちは全員、庭の外へ振り向く。
 霧のなかから、鶏の首が転がってきた。2つ、3つ……。庭の垣根のなかにいた鶏の、すべての首が切り取られ、放り投げられたのだ。
 京介さんが、身構えながらも少しずつあとずさりを始めた。浮き足立った俺は、はあ、はあ、という自分の息遣いがいやに大きく聞こえるのが、気持ち悪くなった。
「キョースケ、あぶないよ」
 kokoさんが声をかける。師匠は「先生」と呼びかけた。
「頭が上がらん」
 先生は俯いたままビクとも動かず、そう答えた。ふざけている場合ではない。本当に頭が上がらないのか。面や、先生に触っていいのかわからず、俺はうろたえた。師匠も躊躇している。
「どうした」
 京介さんが木刀を構えたまま、こちらをちらりと見て訊いてくる。
「先生!」
 師匠がもう一度強く呼びかけたが、返事はなかった。気温がさらに下がり、真冬のような寒さになって来ている。霧もさらに濃くなったようだ。
 先生抜きでこんな状況を打破できるわけがない。ゾッとして血の気が凍る。
「だめだ……一度脱ぐ」
 先生がようやくそう答えた。息も絶え絶えのような声だった。しかし、その言葉のあとも、先生はまったく動く気配がなかった。
「まずい。脱がせろ」
 師匠がそう言って、後頭部の紐に手をかけた。その次の瞬間だった。
 いきなり先生が顔を上げた。のっぺりした僧侶のような顔が無表情に俺たちへ向けられる。
『こうなれば、さて、なんとする』
 不自然な言葉だった。そんな不自然な言葉が仮面の下から聞こえてきた。
「おまえ」
 師匠が絶句してあとずさる。俺も、すぐ隣にいたkokoさんを庇って先生から離れた。
『太夫など、とるにたりぬ。さて、まれびとよ。みこがみくらべとまいろうか』
 仮面からくぐもった声がした瞬間、部屋のなかのどこからともなく、白いものが湧いてきた。
「うわっ」
 思わず叫んだ。
 足元に白い小さな生き物がまとわりついている。ネズミ? いったいどこから? それも1匹や2匹ではない。次から次へと湧き出てきて、部屋の畳の上を縦横無尽に走り回っている。
「犬神?」
 師匠が呻いて、その白い生き物を蹴り上げる。ジッ、と短く鳴いて、それは柱にぶつかり、群のなかに落ちた。
 kokoさんが凄まじい悲鳴を上げて師匠に抱きついた。そういえば以前、ネズミが怖いと言っていたのを聞いたことがあった。
「おい。おい! なにか覚えてないのか」
 師匠はkokoさんを問い詰めるようにそう言ったが、彼女はわめくばかりでパニック状態だった。師匠はkokoさんの予知能力まがいの力のことを言っているのだったが、ここでの滞在の間、彼女のそれはずっと機能していないようだった。
 昨日の夜、俺はkokoさんがぼそりと、「なんでなにも覚えてないんだろう」と首を傾げているのを見た。絶望的な状況に、俺もパニックを起こしそうになる。
「くそっ」と言いながら、師匠が首元から自分の服に手を突っ込み、紐のようなものを取り出した。ここへ来る前の電車のなかで、チラリと見えたものだ。アクセなどと言っていたが……。
 手に掲げたその紐の先には、なにか尖った骨のようなものが付いていた。そしてそれを握り締めたまま、白い生き物が蠢く床に向かって振り下ろす真似をした。
 その瞬間、海が割れた。そう思えるように白い生き物の群が逃げた。「おら、おらぁ」と叫びながら、師匠はその骨のようなものをかざしてぐるぐると走り回った。
 白い生き物は、波が引くように去っていった。現われたときと同じように、どこへともなく消えて行ったのだった。
「これか? 狼の牙」
 師匠は興奮しながら、俺の視線に答える。「もしものときに、犬神に効くかなと思って」
 もともとただの旅行だったはずなのに、なにを思ってそんなものをこの人は!
 そんなことを言おうとしたが、消え去ってはいない異物の視線に気づいて、息を飲む。
『朽ちよ』
 僧形の仮面がそう言った瞬間、狼の牙は黒くなった。そして師匠の手のなかでぼろぼろと崩れ落ちていった。師匠がうわっ、と言ってそれを投げ捨てる。
『まだ起きぬか。みこがみは』
 師匠はkokoさんに抱きつかれたまま、じりじりとあとずさる。そして俺のほうを見て、「逃げるぞ」と言った。
 縁側から外へ走り出た。俺もそれを追う。靴を履いていないが、構ってなどいられない。
師匠は外にいた京介さんに、「車へ走れ」と叫ぶ。
 視界の効かない霧のなか、4人がほぼ同時に庭の隅に停めてあった車にたどり着いた。
 運転席に師匠、助手席に俺。後部座席に女性2人。来たときと同じ体制で車に乗り込み、すぐにエンジンをかける。いや、かけようとした。エンスト? 師匠が焦ってもう一度エンジンをかけ直そうとする。俺はそのとき、自分のすぐ隣の視界に違和感を覚えた。
なぜ、これがここにあるんだ? ぼんやりとそんなことを思った。
見たもののことを深く考える間もなく、「かかった」という師匠の声に我に返った。エンジンが力強い振動を起こし、サイドブレーキを解除する。ライトをハイビームにして走り出そうとしたが、霧のなかでまた立ち往生した。
 霧が濃すぎる。ハイビームにしても視界が効かない。数メートル先もおぼつかない状態だった。これではへたに走ると、山の斜面から落ちるかも知れない。それを想像してゾッとする。閉じ込められた。閉塞感に体が締め付けられるようだ。
 ケタケタケタ。
ケタケタケタ。
…………。
霧の中から得体の知れないものの声がする。いったいどうなっているんだ。
そうわめきたい衝動に駆られる。いや、そうわめいたのかも知れない。もうわからない。バックミラーに、京介さんが口元を押さえて屈んでいるのが映る。眠っていない疲労に加え、この緊張感に体が耐えられなくなったのか。
「本当になにもわからないのか!」
 師匠が苛立って吼える。kokoさんが怯えたような声で、「わからない」と答える。
「くそう」と呻いて、師匠が車を降りた。
「どうするんですか」と泣きそうな声で俺が訊くと、「仮面を奪う」と答えて師匠は家のほうへ走っていった。
そうだ。先生を正気に戻さないとどうにもならない。
 しかし、うまくいったとしても、どうにかなる気がまったくしない。先生が式を食う面と呼んだ強力な面をかぶってなお、その力をあざ笑うかのように意識を乗っ取られたのだ。
 昨日の夜ジッサンの部屋で、同じ十二のヒナゴと呼ばれる太夫を模した幣も、その支配を奪われたではないか。
 魔を退けるあらゆるものが、まったく効いていないのだ。先生が言ったように、起こしてはならないものまで起こしたということが、どれほどの力を秘めているのか、想像もつかない。
 霧のなかを走り、玄関から上がり込む。それも、あがりかまちに脱いでいた靴をわざわざ履いてから、土足で家のなかに上がった。同じように靴を履いた京介さんに師匠は目配せをする。
「なにをしてくるかわからない。突っ込むから、なにかほかに出てきたら援護しろ」
 京介さんは命令口調にムッとしたが、木刀を握ったまま頷く。俺もその横で、なにか武器になるものはないかと探した挙句、なにを動転してか、靴べらを握ってそのあとに続いた。
 師匠が一気に駆け出す。廊下を駆け抜けて、客間に飛び込む。いた。僧形の仮面をかぶった先生が、さっきと同じ格好で部屋の中ほどに座っている。師匠は怒鳴り声を上げながら駆け寄る。
 ドシン、という鈍い音がして、師匠が仮面に頭突きをするようにかきついた。すぐさま仮面を引っぺがすかと思ったが、なぜかそのまま動かなくなった。
 先生と同じように意識を乗っ取られたのかと疑ったが、師匠は「くそう」と言って仮面を両手で掴んだ。まさか、外せないのか? そう思ったが、違う。頭突きをしているように、自分の額を仮面の額にあて、強く押し付けている。
「なにしてるんです!」
 思わず後ろから叫んだが、さらに後ろからkokoさんに言われた。
「変なことは仮面を乗っ取られる前から始まってる。本体を叩かないと終わらない。これだけ凄い力だと、近くにいる可能性が高い」
 あれだけ退屈そうにしていたのに、状況を俺よりも把握していた。改めてkokoさんの鋭さを垣間見た気がした。しかし、その言葉の意味を考えて、驚く。
繋がろうとしているのか!
 絶句する。師匠は、どこからともなく仮面にまで伸びている何者かの意識の糸を、探ろうとしている。自分の霊感を信じて。しかし、恐ろしい。危険すぎる。
「代わりにやる?」
 kokoさんがそう言う。俺はかぶりを振る。京介さんは少し離れて身構えているが、息が荒い。
「というか、遠くにいてこれなら、もう終わり。どうしようもない」
 kokoさんがそう言った瞬間、部屋の気温がさらに下がった。真冬などという、生易しいものじゃなかった。張りつくような冷気が仮面から噴き出してくる。皮膚が痛い。歯を食いしばった師匠の横顔が白くなっていく。
 仮面はなにも喋らない。
「どこにいる!」師匠が何度目かのその言葉を搾り出した。唇の端が切れて、血が滴った。
 吹雪のような風が吹いた。目を開けていられない。手で顔を防御し、その風がやんだあとで目を開けると、師匠が仰向けに倒れようとしていた。倒れながら、仮面を右手で跳ね飛ばした。
先生の体がびくりとする。仮面の下の顔は目を閉じていて、意識がないように見えた。そのまま先生は後ろに倒れ込む。
 師匠に駆け寄ると、仰向けに倒れた状態で、「屋根の上だ」と目を剥いたまま言った。まるで感電したかのように、体が硬直していた。
 さっきまでの冷気が、溶けるように霧散していく。
 京介さんが縁側から外へ駆け出した。俺はうろたえたが、kokoさんが師匠の上半身を抱き上げるのを見て、京介さんのあとを追った。
 京介さんはまた霧のなかを通って、家のすぐ横にあった木の下に走り込むと、枝に手をかけて登ろうとし始めた。家は2階建てだが、居間のある棟は平屋だった。その屋根に登ろうとしているのだ。
「ハシゴ!」と俺は叫んで、庭の隅に立てかけてあったものを探す。たしかに見たはずだ。
あった! すぐに掴むと、木の下に戻る。
手のなかから、「貸せ」と京介さんに奪われた。京介さんはハシゴを木の下から屋根に立てかけ、木刀をベルトに挟んで登り始めた。慌ててハシゴの下を支える。上に、なにがいるんだ。
ガクガクと、ハシゴを掴む手が震える。見上げると、京介さんがハシゴを登り切って、屋根の上に足を踏み出した。瓦がガコガコと音を立てる。
 俺は続けて登ろうか迷ったが、逆にその場を離れて屋根の上を見ようとした。霧に包まれているが、京介さんの姿は見えた。そして、その向こうに立つ、かすかな人影も。だれかいる!
「京介さん!」
 俺の声に、わかっている、というように後ろ手を振って見せた。俺は足元にあったテニスボールほどの大きさの石を拾い、援護のためにいつでも投げられるよう身構える。
 屋根の端に立つ京介さんに、人影が近づいてくる。霧の向こうにその姿が見えてきた。
 鬼だ。赤い憤怒の顔をした鬼だ。
 いや、それは仮面だった。
『おまえも、おもしろい』
 恐ろしい声がビリビリと響いてきた。先生の仮面の下から聞こえてきたのと同じ声だ。
 鬼の周囲の霧がどす黒く変色していく。毒を思わせる禍々しさだった。しかし、京介さんは間髪いれず、不安定な屋根の上に足を踏み出し、仮面に木刀を打ち下ろした。
 ガツンという音が聞こえ、仮面が落ちた。黒い霧が飛び散る。鬼の面の下から出てきたのは、ユキオの顔だった。
 やっぱりそうか。居間に通された直後に感じていた違和感。静か過ぎたから。外の音がほとんど聞こえなかったから。つまり、ユキオが帰るバイクの音がしなかったのだ。
マフラーをいじっているのか、ユキオのバイクの音はうるさかった。いつもその音でわかった。なのに、先生に帰れと言われた後に、バイクは走り出していなかった。ユキオはまだ先生の家にいたのだ。さっき車に乗ったときに、すぐ側に停めてあったバイクがそのままだったのを見た。あれも錯覚などではなかった。
 なぜユキオが? 少し考えて、すぐに答えにたどり着く。
「ユキオだ。こいつも先生と同じ状態だ」
 屋根の上から京介さんが叫ぶ。
 そうだ。ユキオも乗っ取られていたのだ。自分の住む集落にあるという、十二のヒナゴの鬼の面をかぶることで。先生と同じだ。しかし、ここへ来るときに面は持っていなかった。バイクのシート下の収納に隠していたのか。なぜそんなものを持ってきたんだ?
思考がぐるぐると回る。
いったいいつから操られていたのか? 今朝伯父の家に来たときには、すでに相手の手の内だった可能性が高い。みんなで花火をした昨日の夜、ユキオは顔を出さなかった。そのときか。つまり、俺たちと一緒に先生の家から帰ったあとだ。そうなると……。 
俺は興奮した。そうなると、こういうことだ。
先生が仮面に意思を乗っ取られる前から霧は出ていて、怪異は始まっていた。だから、仮面を通して力が発現しているだけではなく、本体の力がこの周囲に作用しているはずだと、そう考えて師匠は、繋がっている先を探った。
しかし、先生が仮面をかぶる前から、ユキオがこうしてここにいたのだとすると、話が違ってくる。霧が出てきてからの怪異は、ユキオを操っていたからできたことではないのか。 
では、仮面を2つとも撃退した以上、もう怪異は終わる? 終わるんじゃないか?
「おい、起きろ」
 京介さんが倒れかけたユキオを支えて、頬を叩いている。
「どうなった」
 師匠がkokoさんに支えられて外に出てくる。俺の横に並んで屋根の上を見上げた。白かった顔色に、血色が戻りつつあった。
「ユキオです。仮面をかぶっていました」
 俺の説明を聞いて、師匠は納得したように頷く。
「先生は?」
「大丈夫だ。今は眠っているだけだ」
 じゃあ、ユキオも眠っているのだろうか。本当にこれで終わったのかも知れない、と安堵しかけたそのとき、ズシン、という振動を感じて振り返った。
 地震かと思ったが、反射的に振り返ったということは、その振動には方向性があるのだった。
 俺は、先生の家の垣根の向こうに不思議なものを見た。
 般若だ。般若の顔が、宙に浮いている。
 隣で身構えている師匠の顔色が、変わる。
 霧のなか、垣根の上に般若の白い面が浮遊していた。いや、目を凝らすと、面だけではなかった。体も浮いている。昨日の晩、ジッサンが身に着けていたような袴姿だった。
 しかしそれは仮面以外、着物も手足も紙でできているのだった。ハツコさんや伯父に似た不気味な紙人形とは違う。そのことを、震える肌で感じる。仮面だけは本物だったからだ。
 終わっていない。絶望感に力が抜けそうになった。
あの高さでは京介さんの木刀も届かない。俺は、とっさに手に持っていた石を投げつけた。
全力で投げたにもかかわらず、石は力ない放物線を描いて垣根の手前で落ちた。ごく自然な物体の動きに見えたが、全力で投げつけた俺には信じられなかった。
ズシン……。
また振動が響いた。般若の仮面の背後からだ。
「うそだろ」
師匠が呆然と呟く。kokoさんは師匠の後ろに隠れた。俺は棒立ち状態だった。
 ズシン……。
 白い霧のなか、垣根の向こうになにか大きい影が見える。頭らしい輪郭がぼんやりと見えるが、その位置は宙に浮かぶ仮面よりもさらに高い。そんな影がひとつ、ふたつ、みっつ……。
 次々と、霧の向こうから影がこちらにやってくる。
 あきらかに人の形をしていない影もある。なにか恐ろしい存在なのだということは、直感でわかる。わかってしまう。ヤツラオの墓だという巨大な石が脳裏に浮かぶ。祖母に、そんなものがこの村にはたくさんあると、聞かされた思い出も。
ズシン……。ズシン……。
 ズシン!
 地面がはっきりと揺れ、ハッとしてそっちを振り向いた。仮面の浮かぶ垣根の向こうではない。山の中腹にある先生の家の下には山道が通っていて、その家の敷地を迂回するように、さらに奥へと道は伸びている。
山道の向こうは崖になっていて、山々の間の谷があった。俺たちの真横、道路を隔てた崖の向こうに突然、巨大な影が現われた。大きい。大き過ぎる。まるで谷の間にもう1つ山が現われたようだった。それがこちらに近づいてくる。それも2階の棟ごしに迫ってきている。
 死ぬ。頭にその言葉が浮かび、体が動かなくなる。
『こうなれば、さて、なんとする』
 宙に浮かぶ般若の仮面が、さっきの先生のときと同じ言葉を、同じ声色で喋った。
『まれびとのなかのまれびとよ』
 師匠がガタガタと震えている。俺も、kokoさんもだ。京介さんも屋根の上で立ち尽くしている。その手の木刀は力なく下ろされている。もう限界だ。どうしようもない。
夢であってくれ。今はまだ体のどこも痛くない。夢であって欲しい。限界だ。死ぬ前は案外、こんな気持ちなのかも知れない。ああああああ、もう終わりおわり、おわりおわり、あれもこれも夢で……。
 カン。
 乾いた音がした。
般若の面の額に、なにか生えている。いや、弓矢だ。矢が突き立ったのだ。いったいどこから? 紙の体がカサカサと揺れる。
般若の額にヒビが入り、そこから割れていく。割れながら、言葉を発した。
『これは、いったい』
その声が、震えたような抑揚を帯びている。般若の回りに、キラキラと光る粒子のようなものが見える。それが螺旋を描くように周囲を回り、般若の顔の表面がぼろぼろと崩れていった。
『みこがみ、これがみこがみ……これほどのものか。これは、おまえの』
 般若の鋭い視線が、俺の、いや俺の隣に向けられる。
『ああ、朽ちる、朽ちる』
 があっ、という空気が押し出されるような声がして、紙でできた体の右半分が消失した。
 まるで、バクンと空間に食われたかのようだった。
『なんだ、この闇は』
 その言葉を最後に、般若はもう喋らなくなった。首から上が、目に見えないなにかにばくりと食われて消えたからだった。次の瞬簡には残りの体もすべて食い取られるように消失した。
 目の前の光景に、ただ見ていることしかできなかった。
怪異が、もっと恐ろしい怪異に飲み込まれた。そうとしか思えなかった。
霧のなかのうつろな無数の影たちが揺れながら、恐ろしい声を上げ始める。苦痛とも、嘆きとも思える、ぞっとするような声。そんなものが霧のなかに共鳴しながら満ちていく。
聞いているだけで寿命が縮むような気がして、俺は耳を塞いだ。
 やがて霧が、晴れていく。光が空から降ってきて、霧のなかの影たちは、そんなもの初めからいなかったかのように消えていた。太陽の下に、すべてが戻ってきた。
師匠は呆然と立ち尽くしている。kokoさんは師匠の背中から離れた。まるで怯えたように。
「忘れていたわけだ」
 kokoさんがそう呟いたのが聞こえた。どういう意味なのか。ただその瞬間の、師匠を見つめる、まるで憎むような瞳が印象に残った。

「5年前だ。荒御子神の取り上げをするため、ある地主の墓に出向いた。いずれ村の議員選挙に出たいというその孫に頼まれて。だが、荒人神を招いても招いても出てこん。歌で喜ばせても舞で喜ばせても。墓には霊がおらんかったのだ。すでにだれかに取り上げられておった。やってはならんことだ。生前に偉業を残したものの墓から、他人が勝手に霊を取り上げるなど。
それからだ。そんなことが何度もあった。御子神に祀るにはまだ早い、死んだばかりの太夫の墓までやられた。わしらは怒った。太夫には太夫の掟がある。だが、だれがやったかわからずじまいだった。
そやつは人の墓だけではなく、触ってはならん魔物や鬼神の祠を起こし、山野に眠るヤツラオの墓まで起こして回っていた。恐ろしいことだ。どれほどもつれておったか。……恐ろしい」
 客間で、先生が呟く。怪異が去り、ようやく落ち着いて先生とユキオを起こせたのだ。
「僕を囮にしたんですね」
 師匠が冷たく言い放つ。
そうか。昨日は取りつく島もなかったのに、今日になってわざわざ呼んだのはそのためか。
 先生はなにも言わず、表情を硬くするだけだった。
「そのもつれ太夫はもう死んだがやろうか」
 ユキオは今日のことを覚えていなかった。昨日の夜、俺たちのところに遊びにこようとして家を出るときに、紙でできた人間に抱きつかれたのだそうだ。そこからの記憶がなかった。
「わからぬ」
 先生は重々しく言った。
「もういね」
 師匠と、俺たちにまたその言葉が向けられた。言われるまでもない。京介さんは疲労の限界を超えて目が充血している。喋る気力もないようだ。もう昼か。すぐに戻って、伯父に車で送っていってもらわないといけない。
それからほどなくして先生の家を出た。
「ちくと待て」
 車に乗り込もうとしたとき、先生が険しい顔で声をかけてきた。
 俺たちが振り向くと、先生は少し躊躇したようだったが、怯えと、忌まわしいものを見るような複雑な表情を浮かべ、吐き出すようにして言った。
「おまん、どんな生き方をすれば、そんなしんずのかみがつく」 
 師匠の目をじっと見つめてそう言うのだ。
「さあ。そんなもの、いるんですかね」
 師匠はただそう言って目をそらし、運転席に乗り込んだ。
 バタン、という音ともに、さまざまなものを招いた俺の田舎への旅が、その扉を閉じた。

 その帰りの電車のなかで京介さんはずっと外を見ていた。眠気が限界を突破し、大量のミントガムを噛み続けている。師匠とkokoさんは互いにもたれ合って寝ていた。それを見ながら俺は、あの時たしかに見た、弓矢と、光と、闇のことを考えていた。

参照元:https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=21100952

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-師匠シリーズ