師匠シリーズ

【師匠シリーズ】pixiv 『毒 中編』 3/3『もう死んでる』

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『毒 中編』 3/3『もう死んでる』

3 もう死んでる

 突然真っ暗闇になったことで、そこかしこから息をのむような気配がする。私も驚いた。無意識に、テーブルの端を掴んでいた。
 天井に小さな光の粒が現れた。それはまたたくまに頭上を覆うように広がり、夜空が生まれた。
 プラネタリムだ。そういえば、部屋の四隅に、なにか黒い機械が設置されていた。あれがそうだったのだろうか。
「あら、綺麗」
 マダムの声がした。
 たしかに綺麗だった。でも、こんなものを見せて、どうしようというのだろう。
天井で輝く星々のなかに、薄っすらとした緑色の線画が現れる。それは、見覚えのある動物などの形をしていた。その上に、白い文字で名前が表示される。
おひつじ、おうし、ふたご、かに、しし、おとめ、てんびん、さそり、いて、やぎ、みずがめ、うお。
黄道12星座だ。横に長い楕円形をした宇宙を、右から左へ横断するように、12の星座が並んでいる。
どこからともなく、ゾディアックの声が聞こえる。
《皆様につけさせていただいたお名前の、星座たちが並んでおります。一直線ではなく、波打つように見えますのは、中央のラインが天の赤道、そしてそれを春分点と秋分点の2箇所で、黄道が跨いでいるためです》
 プラネタリウムに、宇宙の中央を割るように真横に延びる赤い線と、その上下で揺れるように並ぶ12星座に沿った、黄色い線が補足で現れる。
 どこかで見たことがある図だ。
 また、緑色の線が描画された。かなり大きい。かに座、しし座、おとめ座、てんびん座のあたりに渡って、細長い生き物が現れる。それは巨大な怪獣のように見えた。
《これは、うみへび座です。星座のなかで、もっとも広い領域を持つものです。英語では、ハイドラと言います。どこかで聞いたことがお有りでしょう。馴染みのある古代ギリシャ語では、ヒュドラと呼ばれます。ギリシャ神話に出てくる、とても有名な怪物ですね》
 ヒュドラ。私の記憶の片隅に、なにか嫌な感じのする重いものが湧いて出るような感覚があった。あれは、まだ暑い、夏のころだ。
 プラネタリムを見上げたまま、抑揚のないゾディアックの声を聞く。
《ヒュドラは大変強い毒を持っていることで、知られています。ヒュドラはアングモアの魔王に遣わされて、地上を荒らしまわっていましたが、やがて勇者リュケイオスに倒されました。リュケイオスはそのヒュドラの毒を使って、ほかの多くの怪物を倒したといわれています》
 そこで、天井の星の光が弱くなり、かわりに、私たちの囲むテーブルの上に、光が集中しはじめた。
 SF映画で見たホログラムのように、なにもないテーブルの上に、映像が浮かび上がる。周囲から、「オオッ」という声がした。それは、装飾のついた豪華なカップに見えた。カップのなかには、液体が満たされているようだった。
《それが、ヒュドラの毒です。多くの怪物を屠った、神話のなかの猛毒。毒物に造詣の深いかたがたも、この実物はご覧になったことはないでしょう》
 ハハハ、と笑う声がする。紳士だろうか。
《神話という、物語のなかの毒だからです。人間の生み出した想像の産物です。しかし、ヒトの想像力は、ときに、有りもしないものを、本当に存在したものよりも、長く後世に伝えることがあります。おかしなことではありません。過去から未来へ連綿と続く、神話の世界においては、これは実際に有ったものだからです。エリュマントスの猪を倒し、ケートスを倒した、恐るべき毒。いま私たちの目の前に現れたこの杯のなかの毒も、のちの世界のなにものかの記した記録のなかでは、投影された映像ではなく、実在しているかも知れません。この世界は、無数の可能性を持った、パラレルワールドでできている。パラレルワールドの確定者であり、観測者たる人間にとって、実に都合よく出来ているこの宇宙の法則は、そうでなければ観測者が存在できないという逆説的な理由により定められる、人間原理的ランドスコープのなかにあります》
 淡々としたゾディアックの言葉は、不思議なリズムを刻みながら、私の頭をかき乱した。なんだこれは。同じようなことを、京子が言っていたような、気がする。
 なにか嫌な予感がする。ぞわぞわと、浮き足立つ気持ちが、体を駆け巡っている。
《ごらんなさい。この聖なる毒杯を。観測と互換する想像力が、無数の可能性の世界を、確定させる。あなたの頭脳は、頭蓋という密室のなかに閉じ込められている。光の届かない部屋のなかで、脳は視神経から送られてくる信号をとらえ、あなたに幻を見せる。嗅覚受容体からは、活動電位による匂いを、内耳神経の興奮は音を、皮膚の受容体からは圧力や振動を、味覚受容体からは膜電位の活性化により、5つの味を、それぞれに受け取り、密室のなかに、世界を、再構築する》
 ぐらん、ぐらんと、世界が揺れる。天の星はすべて消え、目の前の杯だけが、たしかなものとして、そこにあった。
《脳は孤独です。それゆえ幻を愛している。信じている。世界がそうであるようにと。とても、他愛なく》
ギィーンンンン…………。
頭を締め付けるような金属音がした。
すべての光が消え、やがて音も消えた。
なにもない、真っ暗闇のなかに、私は取り残される。
暗い。
寒い。
なにも、ない。
そう思った瞬間、綺麗な黄金の杯が、現れた。
目の前、ではない。
どこだ。どこにあるんだろう。
たしかにあるのに、位置がつかめない。目で見ているわけでもない。物質的な空間ではなく、どこかよくわからないところにあるようだ。ただたしかなことは、それは真んなかに、この私の世界の、中心にあるということだけだった。
頭の……なかに?
「あっ」
 眩しさに目がくらんだ。
 店内の明かりがついたのだ。暗闇に慣れた目が、その明かりに拒否反応を示している。手で顔を覆って、私は唸った。
「なんだこれは」
 怒鳴り声が聞こえる。パイシーズの声だ。
「もう茶番はたくさんだ」
 椅子が倒れた音がした。指の間から、薄目を開けると、パイシーズが立ち上がり、カウンターのほうへ歩み寄っている。
「この野郎」
 カウンターの前に立っていたゾディアックに、パイシーズがつかみかかるのが見えた。
「やめろ」
 とっさにそう叫んでいた。
 頭のなかの杯が、消えていなかったからだ。目の前の光景に、想像上のものを重ねることができるように、黄金の杯はたしかにここにあった。
でもそれは、日常で浮かべるイメージとは、かけ離れた実在感で、かつ、けっして自分の自由にはならない存在の強固さで、ここにあるのだ。
 そして、やっかいなことに、それは、恐るべき毒で満たされた杯だった。
 私の制止になど構わずに、パイシーズはゾディアックのマントの胸元をひねりあげて、怒鳴る。
「私はな、おまえが毒を飲む会なんていう胡散臭い組織を作って、人体実験まがいのことをしているのを聞いて、潜り込んだんだよ。おまえ、笹原悠真(ささはらゆうま)を知ってるな。ここの会員だった男だ。2年前、おまえに毒を飲まされて死んだ、笹原だ」
 そう言いながら、ぐいぐいとゾディアックの体を、カウンターに押しつける。
《およしになったほうがいい》
 胸元を捕まれながらも平然とした様子で、仮面の下から変声機越しの声がする。
《そんなふうに、頭を振るのは》
「なにがだこの野郎。催眠術か、これは。このペテン師が。インチキだろうが、なんだろうが、おまえがやってることは立派な犯罪なんだよ」
「よせっ」
 私はもう一度叫んだ。
 パイシーズはまるで頭突きをするように、顔を仮面におしつけてすごんでいた。女性ながらすごい迫力だった。他の会員たちも、うろたえながら立ち上がって、その成り行きを見ているだけだった。
 次の瞬間だった。
「ウグッ」
 パイシーズが呻いた。
「アガ……ガ……」
 ゾディアックのマントを掴む手の力が抜けていくのがわかった。
 その格好のまま、頭だけが天を仰いでいる。
「……てめェ。なニ……しやガッた……」
 マスクに開いた目の穴から、血が流れてきたのが見えた。その血が、頬を伝って、足元にポトポトと落ちていく。
 次の瞬間、パイシーズが床に崩れ落ちた。血が、バシャンと跳ねるのが見えた。
 私は思わず目を閉じた。だが、顔を伏せることはできなかった。
 毒で満ちた杯が、頭のなかにあるからだ。パイシーズは、それを傾けたせいで、毒が頭のなかに撒けたのだ。そのことが、この目に見なくてもわかった。
「さくらさん!」
 連れの男、キャプリコーナスが叫んで駆け寄る。
「おまえ、さくらさんまで!」
《まで?》
 ゾディアックが首を傾げる。思わず、ヒヤリとした。とうの主催者の頭には、あの杯が入っていないのだろうか。
「俺は笹原悠馬の、お、弟だよ。おまえの人体実験の材料にされて、こ……コンクリートと一緒に溶けて混ざった、あんな、残酷な……ざ……ざんこく……」
 最後は言葉にならない嗚咽だった。
 あっ。
 止める間もなかった。キャプリコーナスは振り向くと、うつ伏せに倒れて痙攣しているパイシーズを助け起こそうとして、屈み込んだ。
 そして、ウッ、と呻いたかと思うと、自分の顔と頭を交互に触りながら、「ああああああ」とわめいた。そして、目元と口元から血を滴らせながら、倒れた。
 店内には、倒れた人間からかすかに聞こえる、ううううう、という、断続的なうめき声だけが響いている。
 私は、壁際で立ち尽くす京子のそばに近づいて、その手を握った。
「大丈夫か」
「……ええ」
 京子の色白の顔が、いつになく白く見えた。
「とんだ騒動がありましたが、これはすばらしいですな」
 紳士が、ゆったりとした口調で言った。
「ええ。こんなものは、はじめてよ」
 マダムがどこを見ていいのか、わからない、という様子で視線を虚空にさまよわせている。
「あー、びっくりしたなぁ」
 大柄な青年は、動悸を止めようとするように、胸を抑えている。
 ハゲがつまらなそうに言う。
「しかし、これでは飲めませんよ」
 頭の上を探るように、手を振り回している。
 なんだ、こいつらは。
 私は信じられないものを見る思いだった。目の前で人間が2人も血を吐いて倒れたのだ。どうして、そんなに平然としていられるんだ。
 京子が、私の手を握り返しながら、口を開いた。
「いまのは、この会のルールに違反しているのでは? 『ルール2。この会の参加者は、提供されたものを摂取するかどうか、自由意志により判断するものとする』だったかしら。彼女たちは、自由意志で摂取していない」
 京子の抗議に、ゾディアックは淡々と返答する。
《毒は杯に入っています。気化するものでもありませんし、安全です。それを本人のミスでどこにこぼそうが、私の関知するところではありません》
「詭弁ね」
「詭弁かどうかはともかく、このままでは飲めないのはたしかだな」
 紳士が不満げな口調で言った。
《では、そろそろ片付けましょう》
 ゾディアックがそう言った瞬間、また店内の明かりが消えた。
 真っ暗な闇のなかで、あの金属が鳴り響いた。
ギィーンンンン…………。
 私は思わず耳を塞いでいた。
 気がつくと、照明がついていて、かわりのない店内の様子が見えた。
 杯が、消えている。
 消えてしまった今では、頭のなか、としか表現できない、あの場所から。
 私は両手で自分のこめかみのあたりを覆った。
 なんだったんだ、あれは。幻覚だと言われたらそうなのかも知れない。でも、たしかに、さっきまで、それは存在していた。
 床を見ると、倒れた2人はそのままだった。ピクリとも動かず、もう呻き声も聞こえてこない。
《さて、私は、倒れられたかたがたを、治療しなくてはなりません。本日の会合は、これでお開きとさせていただきます》
 ゾディアックの言葉に、常連たちから拍手が上がる。

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「最後のは素晴らしいな。もっと研究して、よりよいものを見せていただきたいものだ」
 紳士の言葉に、ほかの3人が頷いている。
 彼らは、クロークからそれぞれ外套を取り、ゾディアックに挨拶をして、なにごともなかったかのように、店から出て行こうとした。
 京子がその背中に、言葉を投げつける。
「あのヒュドラの毒杯が手に取れたら、あなたがたは飲んだのかしら」
 一番うしろにいたハゲが振り向いて、「もちろん」と言った。
「神話に伝えられる、歴史的な毒だ。味見くらいしてみたい」
「それでもし、死んだら?」
「運命だったということだろう」
 ハゲは、ハンチング帽子を被り、マスクを取ると、目元が見えないよう、すぐにサングラスをしながら、軽く会釈をした。
「では、ごきげんよう」
「そんなもの、運命なものか」
 私は、去っていく彼らに叫んだ。もう、だれも振り返らなかった。
《いかがでしたか、はじめて参加されたご感想は》
 残っているのは、私と京子と、この頭のおかしい集まりの主催者だけだった。
京子は、それには答えず、うつ伏せに倒れているパイシーズの体の下に手を入れた。まったく抵抗なく、ひっくり返されたその姿は血まみれで、顔や皮膚に生気が感じられなかった。
京子が血のついたマスクを取る。その下から現れた顔は、たしかに、どこかで見たことがある気がした。
「やっぱり。昔テレビのローカル番組に出ていた、占い師よ。天道さくら、とかいったかしら。最近は見なかったけど」
 あ。
 それで思い出した。
 私が占星術を習っているアンダ朝岡という、占い師のおばさんの店で、チラッと見たことがあった。たしか、昔の弟子だと言っていた。店の奥でなにか話していたが、どこかよそよそしいような雰囲気だった。覚えているのはそれだけだ。
 彼女は、さっき、ゾディアックに詰め寄っていたときに、なにかわけのわからないことを言っていた。笹原悠馬という男が、殺されたとかなんとか。
 私は、額を押さえた。毒が回ったわけではないが、頭が痛い。もうたくさんだ。こんなことは。
「救急車を呼ぶ」
 私は短くそう言った。ゾディアックは首を振る。
《私の持つ、解毒剤でなければ助かりません》
「じゃあ救急隊員にすぐそれを渡せ」
《いまここにはありません》
「無駄よ」
 京子が言った。「もう死んでる」
 倒れた2人の首筋を触りながらそう言うのだ。私は足が震えた。
 なんなんだ、これは。人が、目の前で死んだ?
 私の脳裏に、夏に見た、女の子の死に顔が浮かんだ。ゴミ袋のなかに、その小さな顔が土気色をして覗いていたのだ。
「こんなとき、あなたはいままでどうやって処理してきたのかしら」
 京子が立ち上がって、仮面の人物を真正面から見据えた。
《よく効く解毒剤があります》
 ゾディアックは、死んでいる、という京子の言葉を無視して、そう繰り返した。
「京子、帰ろう」
 こいつは、おかしい。仮面の縁を飾る黒い模様が、いつのまにか大きくなっているような気がする。目のところに開いた小さな穴の奥から、潤んだような黒い瞳が、こちらを見ている。
これ以上もうこいつに、関わらないほうがいい。
そう思ったが、私の口は、意思に反して開いていた。
「ギリシャ神話のヒュドラを退治したのは、ヘラクレスだ。さっきおまえが言っていた、勇者リュケイオスなんてやつじゃない。それに、ヒュドラは、蝮の女エキドナと巨人テュポンの間に生まれた怪物だ。その、アングモアの魔王だとかいうやつの手下なんて話は、はじめて聞いたぞ。たしか、女神ヘラが、ヘラクレスを倒すために育てたんじゃなかったか。どうして、そこだけ、デタラメなんだ」
 私は、夏に起きた事件で、ヒュドラについて調べたのだ。そもそもそれを私に教えたのは、京子だった。京子も、こいつがおかしなことを言っていたのは、気づいていたはずだ。
 こんな調子では、さっきまで毒についてあれこれと薀蓄を語っていたことも、どこまで本当なのかわからない。今日出されたいくつかの毒も、本当に、説明のあったその毒だったのか、信用できない。
 口にしなくてよかった。改めてそう思った。
 仮面が、下を向いた。かすかに震えている。
笑っているのだと気づくまで、少し時間がかかった。
《いいえ》
 ゾディアックは、俯いたまま首を小さく振った。
《ヒュドラを倒したのは、リュケイオスです。ミュケナイの王アーマリオスと、妃ユラの息子。そういう神話が残っています。少なくとも……》
 仮面が、顔を上げた瞬間、また店の明かりが消えた。
《私の知っていた世界では》
 その瞬間、天井に、星が現れた。プラネタリムがまた作動したのだ。空に散りばめられた小さな星たちが、キラキラと光っている。
黄色い線で示された黄道の周囲の星を囲むように、緑色の線が空に絵を映し出す。
さっきまでの黄道12星座とは、ほとんどが違っていた。
なんだこれは?
私は、息をのんだ。
いつの間にか、隣の京子が私の手を握りしめている。
《ごらんなさい。8月のくるみ座や、おおねこ座から、10月のてんびん座のあたりまで伸びる、うみへびの姿を。あれがヒュドラ。7月の星座、まおう座が地上に遣わした悪魔です》
 赤い星がいくつも集まって、不気味な顔のような模様を空に描いている。
《ヒュドラを倒したのは、12月の星座、じゅうし座のリュケイオスです》
 京子の、握る力が強くなる。私も、握り返した。
《おや。銃士座の勇者の名前は、ご存知ありませんでしたか》
 仮面の声が、まるで空から聞こえてくるようだった。
《リュケイオスは、自ら倒したヒュドラの毒で、そのあと魔王アングモアの遣わした怪物たちを、次々と倒しました。ケートスもその1頭にして、最後の使徒です。ケートスは毒を込めた石火矢で心臓を射抜かれ、倒されました。そして空に昇ったのです。11月の星座として》
 プラネタリムが一度消え、全天球ではなく、一部の空を映し出した。細かかった星が、今度は少し大きく見える。そのなかのいくつかの星を緑色の線が結び、しっぽのある不気味な怪物の巨体を、キラキラと映し出している。
《劇団にくじら座という名前をつけたのは、その星座からきています》
 星座の下に広がる小さな世界でいま、姿を見せずにゾディアックは、京子に語りかけていた。
その京子は、目を大きく見開いて、異邦の星々を見つめている。
危ない。
私はそう思った。
こいつは、京子を狙っている。
 だが、私も動けなかった。京子が、繋いでいた私の手を離していた。その手を取って、ここから逃げようとしても、京子は動かないだろう。それが、想像できるのだ。
《この世界の星占いは好きではないでしょう。自分の星座が載っていないから。11月31日に生まれた人間も同じです。クラスメートのだれとも違う星座、そしてだれとも違う誕生日。孤独。疎外感。仲間はずれ》
 近づいてくる。
 暗闇に紛れて、あいつが。
《しかし、そんな日々も、いずれ終わります。この見慣れない世界における、使命を知ったときに》
 ゾディアックの、気配のない声が近づいてきたとき、青い光が放射状に広がった。同時に、ヒィーン、という回転音がする。京子の胸元からだ。
 プラネタリウムに浮かび上がる、くじら座の怪物の心臓が、それと同調するように明滅しはじめた。
《それだ。それが、あなたを、重なり合った2つの世界の間で惑わせている》
 機械の声が、震えて聞こえる。
 そのとき、京子の声が響いた。
「これは、あの地震の夜に、父がくれたものよ。このタリスマンは、いつも私を守ってくれた。私に触れれば、ただでは済まない」
 緊張した声。でも、凛とした言葉だった。
「あなたと、お友だちになれるかも知れないと思ったけど、無理そうね。あなたは、なんというか……。そう、人間ですら、ないみたい」
《きっと、友だちになれますよ。あのクスリは、飲んでくださいましたか》
「飲んでないわ。あれはただの水だった」
 あの千円の瓶のことか。水に見えたが、やっぱりそうだったのか。
「だけど、とても嫌なものが入っている」
 京子の言葉は矛盾している。ただの水だと言ったのに。
《あなたは、どうですか》
 近くで声がした。私の顔のすぐ横で、暗闇のなか、プラネタリムの頼りない光に照らされて、白い仮面だけが宙に浮いているように見えた。
「その子に手を出さないでっ」
 京子が叫んだ。なにか、大きな力に、全身を掴まれたような感覚があった。全身の血の気が引いた。
 心臓を引き抜かれるイメージが、走った。
 絶対に抗えない、破滅のイメージ。
 しかし、次の瞬間、不思議なことが起こった。
どこだかわからない場所で、なんだかわからないものが、急に大きくなっていくような感覚があった。熱を出して寝込んでいるときに感じたような、あの感覚。そして、それが突然、私の胸のなかから噴き出してきた。
その真っ黒なものが、私に迫っていた白い仮面を押し戻した。
ガシャン、という音がした。ゾディアックがカウンターにぶつかったのだとわかった。
その黒いものは私の周囲をくるくると渦を巻くように回っている。
「それは、なに?」
 京子が、驚いた声で私に問いかけた。そんなもの、私だって知りたい。でも、なぜか、懐かしい気がした。
 再び仮面が宙に浮かんだ。また、感情のない機械音がする。
《素晴らしい。それは、あの夜に生まれた力だ。怪物の誕生に立ち会ったあなたに、その一部が残っていたのだ。それがいま、あなたを守っている》
 私の体を巻くように、宙を回っている黒いもののなかに、にび色の魚の鱗のようなものが見えた気がした。
「やめなさい」
 京子が緊迫した声を出した。その声が、私の置かれた状況を示していた。それは守ろうとしている人間の声だった。いま、仮面に狙われる対象は、私になったのだ。
 
ハハハハハハハ

部屋中に、笑い声が鳴り響いた。
宙に浮かんだ白い仮面を縁取る黒い模様が、波打つように激しく動いている。
 私は身構えた。しかし、次の瞬間、聞こえてきたのは、いままでのボイスチェンジャーを通した声ではなかった。『それは、たしかにあなたを守っている。しかし、それは呪いでもある。その力が、あなたに、あなたの望まない悪いものを引き寄せる』
 仮面越しに聞こえてきたのは、静かで、優しげな声だった。
『水槽を買うといい。大きな水槽だ。自分の部屋に置きなさい。それが、きっとあなたを守るでしょう』
 その言葉の最後に重なるように、別の声がした。
《だめだ。水槽を置いてはいけない》
 ボイスチェンジャーの声だ。同じ仮面から、2つの声がしていた。

ハハハハハハハ

 また部屋中に笑い声が響く。ビリビリと体に振動が伝わってくる。
 私は混乱していた。混乱しながら、ただ、呆然と立っていた。
 空に浮かんだプラネタリウムの星が、ますます輝きを増している。しっぽとひれのある怪物の胸の辺りで、心臓の星が激しく輝きながら脈打っていた。その光が大きくなり、目がくらみはじめた。

ハハハハハハハ

 危険だ。でも、逃げられない。
 私は、目を閉じかけた。
 そのとき、突然前触れもなく、すべての光が消えた。空の星は消滅し、完全な暗闇があたりを覆っている。
《なんだ》
 ボイスチェンジャーの声。そして、カウンターのほうに走る足音。
 明かりがついた。マント姿のゾディアックが、カウンターの脇にあった照明のスイッチを押していた。
 明るくなった室内で、京子の胸から出ていた青い光も、私の周囲を回っていた黒いものも、なにもなかったかのように消えている。まるで幻覚を見ていたようだった。
 そのことよりも、私は、部屋の隅を見て驚いた。さっきまでいなかった人間がいるのだ。それは小さな女の子で、黒いコードの束を手に持っている。そのコードは、それぞれ部屋の四隅にあるプラネタリムの装置から伸びていた。
 電源コードか。
 それを壁のコンセントから引き抜いた女の子が、イタズラがバレたときのように目を見開いて、私たち3人を交互に見ていた。
《またおまえか》
 ゾディアックがそう言って、女の子に近づこうとした。すると女の子は、コードを投げ捨ててコートクロークのほうに走り、私のコートの裏にもぐりこんだ。
 ゾディアックがコートを手で押しのけると、奥の壁だけが見えた。女の子は忽然と消えていた。どこにも逃げ場はないのは明らかだったのに。
 すると、今度はカウンターの奥の調理場らしい部屋から、小さな顔がぴょこんとこちらを覗いた。
「Hey! Fucking bastard. Try to catch me!」
 かわいい顔から、口汚い感じの英語が飛び出した。その顔は、どこかで見たことがあるような気がした。
 占い師のアンダたちに出会った夜にいた、あの子だ。
 そう気づいたときには、ゾディアックがカウンターの奥の部屋へ、女の子を追っていこうとしていた。
「早く。逃げるのよ」
 京子が私の手を引っ張った。クロークのほうへ。我に返った私は、コートを手に取り、脇に抱えたままで出口のほうへ走った。
 視界の端に、血を流して倒れている2人の姿が映った。それで、さっきまでここで開かれていた恐ろしい集まりが、現実のことだったのだと思い出した。
 部屋から出るとき、振り返ると、ゾディアックが首を振りながらカウンターの奥から出てくるところだった。
《また逃げられました。あの小さなお客様には、困ったものです。いいでしょう。今夜のところは、これで。あなたがたにも、またお会いすることもあるでしょうから》
 ゾディアックは、こちらを追ってくる様子を見せなかった。
「Fuck」
 カウンターの奥から女の子が顔だけを出して、かわいい声で言った。
 ゾディアックはもうそちらを見なかった。じっとこちらを向いている。ひゅっと女の子は引っ込んだ。
「京子」
 私は前にいた京子の肩を、行け、と押す。
 京子は、その手をそっと上から押さえ、ゾディアックに向かって言葉を放った。
「最後にあなたが片付けた、目に見えない金色の杯の数は、ちゃんと数えたのかしら。足りないと大変だものね」
 ゾディアックの動きが止まる。京子は、いつもの冷たい微笑を取り戻している。
「怪物を倒した、ヒュドラの猛毒なんですから」
私は、驚いて京子の横顔を見た。
「いったい、半数致死量はどのくらいでしょうね。でも、たった1頭しかいない生き物には、使えない基準かしら」
 その捨て台詞を最後に、固まったままのゾディアックを無視して、私と京子は、入ってきたドアから外に飛び出した。
 外はしんしんと冷えている。深夜の寂れた街は静かで、私たち以外、だれの姿もなかった。
 細かな粒の雪が、薄っすらと夜の空を舞っている。
 私と京子は、その音もなく降り続く粉雪のなかを、コートを抱えたままで走った。
 駅が見えてきたところで立ち止まり、顔を見合わせて笑った。2人とも、あの妙なマスクをつけたままだったからだ。
 マスクを投げ捨て、セーターについた雪を払ってから、コートを着た。走ってきたので、体は冷えていない。
 それから、駅前の公衆電話に入り、私が代表して110番通報をした。店の名前を告げ、なかで人が死んだようだ、と言っておいた。こっちの名前は言わずに受話器をフックに戻した。もう関わりたくなかったからだ。
 公衆電話から出ると、京子がコートのポケットに手を入れたままで、私に言った。
「怪物の誕生に立ち会ったって、なあに?」
 私は、その顔を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「おまえも、覗いていたんじゃないのか、あの夜のことは」
 京子は首をかしげている。
「知らないなら、いい」
 思わず突き放した声を出した。なにか嫌な予感がしたからだ。
「そうなの」
 京子は私の顔を見ながら、つまらなそうに言った。けれどその目は、私の瞳の奥にあるものを、探ろうとしているように見えた。

 ◆

 怖い夢を、見ていた気がする。
 私は布団から起き上がった。
 動悸が、呼吸を早くする。
 真っ暗だった。自分の部屋であることを確認する。時計を見ると、夜なかの2時半だった。
 私は、深く息を吸って、吐いた。それから起き上がって、部屋を出て、階段を下りた。台所の電気をつけ、冷蔵庫から水のペットボトルを出して、コップに注ぐ。
 満足するまで喉の渇きを潤してから、2階に戻ろうとすると、居間からなにか聞こえた気がした。
 そのとき、デジャヴのような感覚が、脳でぐるりと回った。これから、なにが起こるか、知っているような気がする。
 私は、そっと居間に入る。
 真っ暗ななかに、キキッ、という小さな声がしていた。部屋の隅にある棚のうえに、布を被せた鳥かごがある。鳥かごのなかには、ピーチという名前の九官鳥がいるはずだった。
「ピーチ?」
 明かりを消して鳥かごに布をかけると、いつもピーチはわりとおとなしく寝ているはずだった。それがいま、布のしたで、なにかおしゃべりをしているようだ。
 これと同じことがあった気がする。
 私は、おさまっていた動悸が、再びはじまるのを感じていた。
 ドクンドクンドクン……。
 その音がいやに大きく聞こえる。
 私はそれに負けまいと、耳を澄ます。
 夜の闇のなかに、声が流れ出した。

…………グソウムドイ……………
…………ユミツカイ………………
…………ゴシキチズ………………
…………ヨルノサンポシャ………
…………ネムラヌウオ…………

ピーチの声だった。でもピーチの言葉ではなかった。

…………グソウムドイ……………
…………ユミツカイ………………
…………ゴシキチズ………………
…………ヨルノサンポシャ………
…………ネムラヌウオ…………

 同じ言葉が、繰り返されている。私は息を殺してそれを聞いていた。
 やがて、ウルルルル……という、喉を鳴らすような声に変わった。ピーチのよくやる仕草だ。
 ホッとした瞬間、布の下から、機械のような声がした。

 …………キイテ、イルナ…………
…………ソコデ……………………

私は身震いして、逃げるように居間を出た。
階段を駆け上り、自分の部屋に入って、鍵をかけた。ドアに背中を押し付け、口元を押さえる。
 期末試験が終わったあと、クリスマスに、ホテルで過ごした夜のことを思い出す。
 あの夜、まどろんでいるときに、恐ろしい夢を見た。どんな夢だったか、いまも覚えている。思い出したくもない夢だった。
 私は、ドアから背中を離し、重い足取りで、さっき起きたばかりの自分のベッドに向かった。
 壁際のタンスの上にあるものを、チラリと見る。クリスマスの次の日に買った水槽だった。なぜか、買わなければいけない気がした。
 いまそこに、なにか見えた気がして、目を擦った。
 なにも入っていない、カラの水槽だ。
 私に、なにか起こっている。それは、体に押された烙印のように、ついて回るものだ。なぜかそう思う。それがわかるのだ。
「京子」
 私は、そう呟いていた。
 私に起きていることを知るには、あいつの力を借りるしかない。そう思った。けれど、それが正しいことなのかは、わからなかった。
 おまえと会ってから、こんなことばかりだ。京子。
 私は、拳を握り締め、やがて行き場のないそれで、自分の額を叩いた。

(『毒』中編 完)

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