●田舎〈2〉 【いざなぎ流】
朝が来た。目を覚ますと、隣で師匠がひどい寝相をしていた。少しほっとする。それから4人と伯父夫婦と合わせて、6人で朝食を取る。なにか足らない気がした。
そうだ。新聞がない。
「ああ、昼にならんと来ん」
そういえばそうだった。俺のPHSも師匠の携帯も通じない、情報を制限された田舎なのだ。 食べ終わって部屋に帰ると、師匠に昨日の夜のことを訊いてみた。
「行ったんですよね、あの京介さんが怪我をした場所へ」
「うん」と師匠は答え、扇風機のスイッチを入れながら胡坐をかいた。
「なにかあったんですか」
「いや、なにもなかった」
煮え切らない答えに少しイラッとする。あんなやり取りをしておいて、なにもないはずはない。
すると、師匠は意味深に目を細め、ゆっくりと口を開いた。
「昼にはあり、夜にはなかった」掘り出されていた、というのだ。
「僕らが気づいたことを、知られたようだな」
言葉の端に、気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「なにが、埋まっていたんですか」
師匠はすぐに答えず、畳の上にごろんと寝転がった。
「犬神を知ってるか」
「聞いたことは、あります」
京介さんが、この旅の前に口にしていたのを覚えている。
「古くは呪禁道の蠱術に由来すると言われる邪悪な術だよ。犬神を使役する人間が 他人の物を欲しがれば、犬神はたちまちにその人に災いをなし、その物を与えるまで止むことはない。犬神は親から子へと受け継がれ、その家は犬神筋とか犬神統などと呼ばれる。犬神筋は共同体のなかで忌み嫌われ、婚姻に代表される多くの交流は忌避される。そのために犬神筋は一族間での通婚を重ね、ますますその《血》を濃くしていく」
師匠は秘密めかして仰向けのまま指を立てる。
「犬神というのはその名前とは裏腹に、小さな鼠のような姿で描かれることが多い。もしくは豆粒大の大きさの犬だとする記録もある。犬神筋はそれらを敵対する者にけしかけ、腹痛や高熱など急激な変調をもたらす。犬神にとりつかれた者は山伏や坊主などに原因を探ってもらい、どこのだれそれの犬神が障っているのだ、と明らかにする。そのあとは、原因と判じられた犬神筋の家へ赴いて……」
「貢物を差し出すわけですか」
口を挟んだ俺に、師匠は首を振る。
「文句を言いに行くんだよ。人の道に外れたことをしやがって、と」
犬神の伝説が息づいているのは、農村地帯がほとんどなのだそうだ。人と人との関わりが深く濃密な、狭い共同体のなかでなにか理不尽な災いが起こった場合、それをだれか特定の人間のせいにしてしまうのは、日本の古い社会構造の歯車の1つなのだろう。
それが差別階級を生む要因にもなっている。ところが師匠は、この犬神筋についてはいわゆる被差別部落民とは少し意味合いが違うと言う。
「犬神筋は、裕福な家と相場が決まっている。それも、農村に商品経済、貨幣経済が浸透し始めたころに生まれた新興地主がほとんだ。土地を持つこと、そして畑を耕すことがすべてだった農村のなかに、土地を貸し、貨幣を貸し、商品作物を流通させることで魔法のように豊かになっていく家が出現する。そしてこのパラダイムシフトを理解できない人々は思う。『あの家が金持ちになったのは、犬神を使っているからだ』と。我々の土地を、財を、貪欲に欲しがり、犬神を使役してそれらを搾取しているのだと。金がないのも、土地がないのも、腹を下したのも、怪我をしたのも全部犬神筋のせいだ、と言うんだ。そう信じることで、共同体としてなんらかのバランスを保とうとしているのかも知れない」
気がふれるということを、昔の人は狐がついたとか、犬がついたとか言うだろう? 師匠はそう続ける。
「これは犬神に限らず、狐憑きも蛇神筋も猿神筋も同じだ。気がふれたフリをするのはとても簡単で、しかもなにが憑いているのかを容易に表現できるからだ。狐なら狐の真似を、犬なら犬の真似をすればいい。そうすれば、憑き物筋という家が存在し、それがほかに害を成しているということを、搾取されている人々の間で再確認することができる」
ようするに「やらせ」なのだ、というように俺には聞こえた。
犬神は、なにかおどろおどろしい存在なのではなく、いや、それ自体が人の心の闇を秘めているにせよ、農村における具体的な不満解消のシステムの1つに過ぎないのだと。そう聞こえたのだった。
気持ちよく喋っていた師匠が、ふいに押し黙る。変な沈黙に息が詰まるような気がした。
俺はその沈黙のなかで、前日にあの四つ辻で京介さんが倒れたシーンと、そのあとに襲われた悪寒が脳裏をかすめ、段々と気分が悪くなっていった。
また師匠がゆっくりと口を開く。
「犬神の作り方として伝えられる記録に、こんなものがある。まず、犬を土中に埋め、首だけを出して飢えさせる。そして飢えが極限にきたところで餌を鼻先に置き、犬がそれにかぶりつこうと首を伸ばした瞬間にその首を鉈で刎ねる。《念》の篭ったその首を、箱に納めて術をかけ、犬神とする。そのとき、残された胴体は道に埋めたままとし、その上をなにも知らない人々に毎日踏みつけられることで犬の《念》は継続し、また強固なものになっていく。その道が、往来の多い四つ辻であれば、なお理想的とされる」
「うっ」
思わず口を押さえた。嫌な予感が頭の中でパチパチと音を立てているような気がした。
ユキオがバリバリと派手な音を立てて原付に乗ってやってきたのは、朝の十時過ぎだった。
「おー、リュウ。お出迎えとは珍しいにゃあ」
そう言いながら、軒先に座っているリュウの頭を撫でた。俺も朝方、飯を食べにノソノソと犬小屋から這い出てきたリュウの顔をじっくりと観察したが、記憶のヴェールは厚くかかったままで、「自信ないけど、リュウらしい」という程度のことしか感じられなかった。
「じゃあ、さっそく行こう」
ユキオが原付で先導し、俺たちは師匠の運転で伯父に借りた車に乗ってついていった。
最初、京介さんが運転席に乗ろうとすると、師匠が「初心者マークはおとなしく後ろに乗ってろ」というようなことを言って、「そっちも大した腕じゃないくせに」と言い返され、険悪なムードになりかけたことを言い添えておく。
ユキオの「先生」は、本当に学校の先生だったらしい。ユキオは小学校のころに教わったことがあるそうだ。定年になり、自分の子どもたちが独り立ちすると、山奥に土地を買って住まいを構え、奥さんと2人で静かに暮らしているとのことだった。
「こんな田舎で公務員なんてやってると、デントーってのを守る義務から逃げれんがよ」
出がけにユキオはそう言ったが、神楽を習っていること自体はまんざら嫌でもない様子だった。
「先生はちょっと気難しいき、変なこと言うても気ぃ悪うせんとって下さい」
俺は幼いころに見た、白装束の太夫さんの神秘的な姿を思い浮かべた。
車は一度国道に出てから川沿いを走り、再び山側へ折れるとそこからは延々と山道を上って行った。道は悪く、割れた岩の欠片のようなものがアスファルトの上のそこかしこに転がっている。
「これって落石じゃないのか」と師匠はぶつぶつ言いながらも慎重に石を避けていく。
昨日より幾分日差しは穏やかで、車の窓を開けると風が入ってちょうどいい涼しさだ。
ふいに山の斜面に蛇の黒い胴体を見た気がして身を乗り出したとき、後部座席のkokoさんが口を開いた。
「バイクから、離れないほうがいい」
さっきまで隣の京介さんを意味なくくすぐって騒いでいたのに、一変して真剣な響きの声だった。思わず前方に視線を移す。
ユキオを見失いそうになっているのかと思ったが、そうではなかった。どういう意味だったのだろうとkokoさんの方を振り返ろうとしたとき、不思議なことが起こった。
ユキオの原付が、加速した様子もないのにスルスルと先へ先へと遠ざかっていくのだ。
坂道でこっちの車の速度が落ちたのかと思ったが、そうではない。速度メーターは同じ位置を指したままだ。なにが起こっているのか理解できないうちに車は原付から離され、ユキオの白いヘルメットはこちらを振り向きもせずに曲がりくねる山道の奥へと消えていこうとしていた。
「アクセル」
京介さんが鋭く言ったが、師匠は「踏んでる」とだけ答え、真剣な表情で正面を見据えている。
こちらが遅くなったわけでも、原付が早くなったわけでもない。俺の目には道が伸びていっているように見えた。周囲を見回すが、同じような山中の景色が繰り返されるだけで、いったいどこが『歪んで』いるのかわからない。
そうしているうちに完全にユキオの原付を見失った。道は一本道だ。追いつくまでは、このまま進むしかない。師匠は一度ギアを落としたが、回転音が派手になるだけで効果がない。
「まずいなあ」 ギアを戻しながら呟く。
「これって、なんの祟り?」
師匠の軽い調子に、京介さんは「知らない」と突き放す。
俺は今起きていることが信じられずに、ひたすら目をキョロキョロさせていた。まだ午前中の早い時間帯だ。すべてが冗談のように思える。
「実にまずい」
前方に目を向けると、道がますます狭くなっているような気がした。カーブもきつくなっていて、フロントガラスの向こう側の景色はいちめんに屹立する木、木、木。
緑色と山の黒い地肌が壁となって迫ってくるかのようだ。
ギリギリ2車線の幅が、今は完全に1車線になっている。ガードレールも消え去ってしまった。右側は渓谷だ。転落したらまず、命はない。反応を見る限り、俺が見ているものをほかの3人も見ているのは間違いない。
集団幻覚? そんな言葉が頭をよぎる。しかし、車のアクセルの効果までそんなものに束縛されてしまうのだろうか。
「なあ」と師匠がkokoさんに呼びかけた。「これって、夢じゃない?」
kokoさんは首を横に振る。師匠は少し経ってから頷く。奇妙なやりとりだ。
「なにかほかに異変が起きてくれれば、ヒントになるんだけどな。たとえば木の枝に」
人間が吊り下がっているとか……。
ささやくような師匠の口調に、思わず身をすくめた。
本当に周囲の山林のなかにそんな不気味な光景が現れるような気がして、チリチリとうなじの毛が逆立つ。前へ伸びる道と後ろへ伸びる道。その両端が、曲がりくねる山のどこかで繋がっているようなイメージが頭を掠め、ゾクリとした。
師匠は迫ってくる鋭いカーブに際どくハンドルを切り続けている。まるで、停まることを恐れているようだった。
異変、異変。そんなフレーズが頭のなかで繰り返されていると、視線のなかに見覚えのあるものがチラッと映った気がした。山の斜面に目を凝らすが、それはあっと言う間に通り過ぎる。
少しして、前方にもう一度同じものが現れた。それを見た瞬間俺は叫んだ。
「蛇が!」
師匠が見事な反応でブレーキをかける。車はカーブする斜面に擦りそうになりながら停まった。
京介さんが後部座席のドアを開けて飛び降りる。そしてすぐさま木の根っこをよじ登り、山肌に横たわった黒い蛇の姿をとらえた。俺たちも車から降りて近づく。
見ると、その黒い頭には長い釘が深々と突き通っている。頭から顎まで貫かれて地面に縫い付けられ、蛇は死んでいた。丈の短い草のなかにのたうつその体が、地下水のように湧き出たどす黒い血のように見える。京介さんが右手の指を絡ませ、その釘を抜いた。
その瞬間、上空から。
上空から、としか言いようがない場所から耳をつんざく様な悲鳴が聞こえた。男とも女とも、そして人とも獣ともつかない声だった。
しかし次の瞬間、説明しがたい感覚なのであるが、一瞬にしてそれが幻聴だとわかったのだった。そしてなにか目の前の光景が今にもペロリと裏返りそうな、そんな不気味な予感に襲われる。ざわざわと木の枝が鳴って、俺は足を棒のように固まらせていた。
「車に戻れ」という師匠の声に我に返ると、逃げ込むように助手席に飛び乗った。
シートベルトをする暇もなく、車は急発進する。そして次のカーブを曲がるや否や、ユキオの原付が目の前に現れた。遠ざかっていく前となにも変わらない様子で山道を走り、白いヘルメットがゴトゴトと揺れている。
道もいつの間にか元の幅に戻り、ガードレールもところどころ凹みながらも、ちゃんと両側にある。俺は言葉を失って、首をゆるゆると振る。まるで緑色の迷宮に閉じ込められているようだった間、時間がまったく経過していなかったかのように、すべてはすっきりと繋がっていた。
まるで白昼夢のような出来事に呆然とする。
「やってくれたな」師匠が深く息を吐いて、背もたれに体を預けた。「今のが、人間の仕業とは」
言葉の端からゆらゆらと青白い炎が立つような声だった。
京介さんのほうを見ると、さっきの蛇に打ち込まれていた釘を手にしている。
「持っていろ」
そう師匠が言ったとたん、京介さんは窓からそれを投げ捨てた。
「おい」怒るというより、ため息をつくような調子で師匠が咎める。
京介さんは、「よけいな物がよけいな物を招くんだよ」と言って横を向いた。
師匠は恨めしそうに、バックミラーを睨んでいる。前を行くユキオがハンドルから片手を離し、山側を指さした。
もうすぐ目的地だ。ということらしい。まもなく俺たちは山のなかにぽつんと立つ一軒家にたどり着いた。伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。広い庭に鶏を飼っている。
ユキオがヘルメットを脱ぎながら家に向かって「せんせー」と声をかけ、俺は後ろから近づいてその耳元に小声で訊ねる。
「さっき、俺たちの車を見失わなかったか」
「いや」とユキオは怪訝そうに首を振る。
そうだろうとは思った。おそらくあれは、俺たちの霊感に反応したのだろう。ユキオにはなにごともない山道にすぎなかったはずだ。
だが、俺たちが狙われたのは明らかだった。なにか、「警告」じみた悪意を感じたからだ。それは、京介さんが足から血を流したあの四つ辻で感じたものと、同質のものだった。
俺は師匠の顔を見たが、首を横に振るだけだった。なりゆきにまかせよう、というように。
「電話しといた例の人たちです」
ユキオが玄関のなかに体を入れながら、奥に向かって言葉をかける。やがて返事があって、俺たちは家のなかへ招き入れられた。畳敷きの客間に通され、その整然とした室内の雰囲気から正座して待った。廊下がきしむ音が聞こえ、白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。ユキオの小学校の先生だったというので、もう少し若いイメージだったが、七十に届こうという歳に見えた。先生は客間の入り口に立ったままで室内を睥睨し、胡坐をかいているユキオを怒鳴った。
「おんしゃあ、どこのもんを連れてきたがじゃ」
「え」と言ってユキオは目を剥いた。俺は驚いて仲間たちの顔を見る。
先生は険しい表情のまま踵を返すと、足音も乱暴にその場から去ってしまった。
それを慌ててユキオが追いかける。残された俺たちは呆然とするしかなかった。しかし師匠は妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。
「あの爺さん、どこのモノを連れてきたのか、と言ったね。そのモノはシャと書く『者』じゃなくて、モノノケの『物』だよ」
あるいは、オニと書く『鬼(モノ)』か……。そう言いながら師匠はくすぐったそうに身をよじる。
京介さんがその様子を冷たい目で見ている。やがてもう一度襖が開いて、先生の奥さんと思しきお婆さんが静々と俺たちの前にお茶を並べてくれた。
「あの」
口を開きかけたとき、先生がユキオを伴って眉間に皺を寄せたまま現れた。入れ違いにお婆さんが襖の向こうに消える。座布団をスッと引き寄せながら、先生は俺たちの前に座った。ユキオも頭をかきながらその横に控える。
「で」
先生は、深い皺の奥から厳しく光る眼光をこちらに向けて口を開いた。
「先に言うちょくが、わしは本来おまんのようなもんを祓う役目がある」
その目は師匠を見据えている。
「その上で訊きたいことというがは、なんぞ」
師匠は怯んだ様子もなく、あっさりと口を開いた。
「いざなぎ流の勉強を少し、させてもらいました。密教、陰陽道、修験道、そして呪禁道。それらが渾然一体となっているような印象を受けました。なかでも陰陽道の影響がかなり強く出ているようです。明治3年の天社神道禁止令と、その後の弾圧から土御門宗家はもちろん、有象無象の民間陰陽師も息の根を止められていったはずですが、この地ではどうしてこんな現実的な形で残っているのでしょう」
先生は表情を崩さずに、「知らん」とだけ答えた。
「まあいいでしょう。法律の不知ってやつですか。そういえば『むささび・もま事件』ってのも舞台はこのあたりじゃなかったかな。……話がそれました。ともかくいざなぎ流はこの平成の時代に、未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを真剣に行っているばかりか、《式》を打つこともあるそうですね」
「式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり」
「まあ付け焼刃なのは認めますが。僕が知りたいのは実は犬神筋についてなのです」
「わしらには関係ない」
先生は淡々と返す。
「まあ聞いてください。ご存知でしょうが、犬神筋というのは四国に広く分布する伝承です」
師匠は正座したまま語った。
曰く、犬神を祓うことのできるわざの伝わる場所には、それゆえに犬神が社会の深層に潜む余地があるのだと。ましてそんな技法が日々の生活のなかに織り込まれているこの地では、犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。
「ここに来る途中、頭を釘で貫かれた蛇を見ました。明らかに呪いをかけるための道具立てです。もし仮に、だれかの使っている犬神の、その胴体を埋めてある秘密の場所を見つけられてしまったとしたら、そのだれかはいったいどうするのでしょうか」
師匠の言葉が途切れた瞬間、みんなの手元の湯飲みが一斉にカタカタと鳴り始めた。
地震かと思い、とっさに電灯の紐を見る。紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子紙もかすかに振動していた。こぼれたお茶の雫を京介さんが指ですくい、じっと見つめている。
俺はどうやらただの小さな地震らしいと思ったが、得体の知れない不安に胸が騒いだ。
揺れが収まってから、先生はゆっくりと口を開いた。
「いね」
え? と問い返す師匠に、「帰れ、という方言です」と俺は耳打ちした。
「それは、この地を去るほかないということですか」
師匠は立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。サーッと木が擦れる心地よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。縁側の向こうでは、庭につくられた垣根のなかで鶏が地面をついばんでいる。
その様子を見ながら、師匠がボソリと言った。
「全然騒ぎませんでしたね」
さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。たしかに鶏の騒ぐ音はしなかった。
「なんとかなりませんか」
師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。ユキオはオロオロしている。
「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。フィールドワークのために郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。そんな部外者も、みんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」
魔物ときたよ。師匠は声にならないほどの声でこぼし、また顔を上げた。
「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために『幣』という紙細工を作るそうですね。魔群というんですか。川ミサキだとか、水神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。それぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。ヤツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえばずいぶん可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」
師匠は障子を閉めた。一瞬室内が暗くなる。
「犬神の幣がないのはどうしてですか」
だれの気配とも知れない、ハッとした空気が漂う。俺は固唾を飲んで師匠を見た。
「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れない。あるいは見落としかも知れない。でもどこか引っかかるんです。犬神は深く土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。いざなぎ流によって祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」
先生は師匠の視線をそらすように天を仰ぎ、深くため息をついた。
そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。
「わかりました。いにますよ」
いにますって、使い方合ってるよね。
師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出ていってしまった。残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。
出されたお茶にだれひとり手もつけないままに、退散する羽目になるとは思わなかった。そのとき、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。
帰れと言われた去り際にそんな下品なことをするなんて、京介さんのイメージとはズレがあり、奇妙な行動に思えた。すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。
「貸してるタリスマンは持ってきたか」
俺が首を左右に振ると、京介さんはひとりごとのように、「気をつけろよ」と言って部屋から出ていった。俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。
冷たかった。思わず手を離す。出されたときはたしかに湯気が出ていた。間違いない。
あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みのなかのお茶は冷えきっていた。まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。
「あれは地震じゃないな。家が揺れたんだよ」
先生の家をなかば追い出され、俺たちは庭先に停めていた車に乗り込んだ。
「犬神という言葉に明らかに反応していた」
こいつは、なんとしても探し出さないとな。
師匠はエンジンをかけながらそう言う。しかし京介さんのきっぱりした声が、それを遮った。
「待った。探し出してどうするつもりだ」
一連の出来事は普通じゃない。ありえないようなことが立て続けに起きている。へたに首を突っ込みすぎると、危険だ。
師匠は目の前に並べられるそんな言葉に薄ら笑いを浮かべて、「怖いんだ」と煽るようなことを言う。京介さんは刺すような視線を向けると、「そうだよ」と言った。
コンコン。
車の窓をバイクにまたがったままユキオが叩いた。ウインドを下ろすと、「さっきはすまざった。先生、今日は機嫌が悪かったみたいじゃき。でもこのあとどうする? ゆかりの史跡とかやったら案内するけんど」と首を突き出した。
少し考えてから、京介さんは「それと、ほかにいざなぎ流に詳しい人がいたら紹介してほしい」と言った。
「ああ、ヨシさんやったらたぶん家におるき、いってみようか」
俺は思わず師匠を見たが、思案気な顔をしたあと「1人で戻ってるよ」と言った。バイク貸してくれる? とユキオに声をかけて、運転席から降りた。
なにも言わず、京介さんが入れ替わりに運転席に座る。助手席に乗り込みながらユキオが、「あの家にとめといてくれたらいいスから」と、なぜか申し訳なさそうに言った。
「僕がいないほうが、話を聞けそうだしな」
じゃ、部屋で寝てるから。師匠はそう言って手を振った。
そのとき、ズシンという軽い振動がお尻のあたりに響いた。思わず周囲を見回す。師匠が音のしたらしい山の上の辺りを睨むように見上げている。ユキオは今思い出したという表情で、ぼそりと言った。
「そういえば、先週から発破やってるなぁ」
それを聞いて京介さんが、ニヤっと笑いながら言う。
「たしかに地震じゃないな」
師匠は口を歪めて、なにも言わずにバイクにまたがった。
それから俺たちは太夫をしているヨシさんというおじいさんの家にお邪魔して、いざなぎ流のあれこれを聞いた。
ヨシさんは愛想のよい人で、ユキオの先生とはえらい違いだったが、肝心な部分の説明ではするりと焦点をぼかすようにかわし、結局その好々爺然とした姿勢を崩さないままに、俺たちの知識になにひとつ価値のあるものを加えてはくれなかった。
「……それで、神職の太夫さんとわが流の太夫を区別するときは、博士(はかしょ)というがよ」
そこまで語ったところで家の電話が鳴り、ヨシさんは中座をするとしばらくしてから戻って来て、これから出かける旨を俺たちに伝えた。
「ありがとうございました」
とりあえずそう言って立ち去ったものの、不快というほどでもないが、やはり肌触りの悪い場の空気に、自分たちは余所者なのだということを、また思い知らされただけだった。
それを感じているユキオもまた、ますます申し訳なさそうな表情になり、そのあと案内してもらったいざなぎ流ゆかりのスポットでも、たいして得られるものはなかった。
ただ、地元の記念館で、いざなぎ流の幣を実際に見ることができた。ミテグラ、と言って輪の形にした藁の上に、紙でできた人形――幣をいくつも置いて、祈るためのものもあった。
いざなぎ流にはスソ(呪詛)という概念があり、それはよく耳にする『呪い』とは少し違う。人間同士が口論などをして生まれる恨みつらみや、嫉妬などのヒトに向けるマイナスの感情のことだ。
それは意図して相手を害しようとするものではなく、そういうマイナスの感情を持った時点で、向けられた相手になんらかの害をなすという、いわば本人にもコントロールできないものなのだ。生霊の概念に近いかもしれない。ただ、スソにはヒトの生むそれらだけではなく、広く死霊や祖霊、山や川の魔物や神の眷属たちから発生する『障り』『祟り』なども含まれる。
ミテグラは、そのスソを封じるためのものだ。しかし、スソは本来ヒトの生んだものや魔物や神霊が生んだものが複雑に絡まりあって存在しており、封じる前にそれらを性質ごとに分離する必要がある。それが『取り分け』と呼ばれる儀式だ。
いざなぎ流の太夫はさまざまな方法でその取り分けをおこない、返すべきは返し、祀るべきは祀り、それでもなお残ったスソをミテグラに封じて川に流すのだ。あるいは山や河原に埋めることもある。埋めた場合は、そのあとも注意が必要で、埋めた場所を踏んでしまったり、雨でミテグラで出てくるようなことがあると、またスソは復活し、災いを成す。
記念館のガラス越しに、そんな説明を読んだ。
京介さんは、自分の手を見て気持ち悪そうな顔をした。昨日、川で遊んでいたときに、石にへばりついていた白い紙を手に持ってしまったのだ。師匠が「よくそんなの触れるな」と言っていたが、やはりあれは幣だったのだろう。
だれかのスソを封じた紙。川で見えた、水中から伸びるあの白い手はそのスソに関わるなにかだったのかも知れない。そう思って、ゾクリとした。
「ふん」と言って京介さんはズボンのポケットにその手を突っ込んだ。
なんだかどっと疲れが出て、俺たちはとりあえず家に帰ることにした。
くねくねと山道を登り、ようやくたどり着いて車から降りると、ユキオは庭先に停めていた自分のバイクにまたがり、「仕事、少し残っちゅうき」とやはり申し訳なさそうに去っていた。
家に入ると「おそうめん食べんかね」と伯母にすすめられ、「氷乗っけて」という俺の注文の通りキンキンに冷えたそうめんが、すぐにちゃぶ台に並べられた。
師匠を呼ぼうとして部屋を覗いたが、扇風機の首を振らないようにした状態でまともに風を浴びながらそれでも寝苦しそうに掛け布団を抱きしめて眠っていた。
昨日の夜中に1人で村のなかを探索していたようなので、疲れているのだろう。そっとしておいて、京介さんたちと3人でそうめんを食べた。
蝉の鳴き声のなか、軒下の風鈴が鳴り、少し遅れて頬を撫でる風が心地よい。そうめんを食べ終わると、まだ日は高かったので、寝ている師匠を残して外に遊びに行った。
ダム湖があるので、そこへ行ってみようということになって、また伯父に車を借りた。京介さんの運転だ。少し走ると山が開けた場所に、濃い緑色の水がなみなみと溜まっているのが眼下に見えてきた。
「大きいねえ」
kokoさんがそう言って、後部座席の窓から顔を出す。
「このダムの底に沈んだ集落もあったそうですよ」
少雨が続いて水位が下がってくると、昔の建物の跡が見えることもあるそうだが、俺も見たことはなかった。
「あそこが蛇島です」
ダムのなかにぽつんと浮かんでいる、小さな島を指さして言った。
「なんで蛇島? ヘビがでるのか」
京介さんにそう訊かれて、「たぶん」と答える。だんだん思い出してきた。ユキオとも自転車でこのあたりをよく遊んでまわったものだ。
ダム湖の周囲を車でひと通り回っていると、ふいに京介さんがなにか感じたように首を傾げた。
「こっちはなにがある?」
三叉路になっているところで停車し、山側の老杉の木立が繁るカーブの先を指さして言った。
「行き止まりだった気がしますけど」
標識もなにもない。ひょっとしたら、このまま進んだ道とまた合流するのかも知れない。京介さんは少し考えてから、カーブのほうへハンドルを切った。そのまま少し行くと、なにかの倉庫らしい建物を過ぎた辺りで、やはり行き止まりになってしまった。
「ちょっと、いいか」
京介さんはその道が尽きた行き止まりに車を停め、山のほうへ登る木立の隙間へ足を踏み入れた。きちんとした道ではないが、人が通るような跡があった。地元の人が山菜でも取りに入っているのだろう。
「マムシが出ますよ」
あとから追いかけながら、僕はそう言った。京介さんは「気をつける」とだけ答える。
kokoさんも車から降りたが、ぽつんと立ってこちらを見ているだけだ。生い茂る草をかき分けて進んでいると、急に寒気に襲われる。これか。京介さんが反応したものがわかった気がした。
見えたわけではなく、感じたのだろう。
「なんだこれは」
草が切れて、少し広い場所に出たが、そこには大きな石が横たわっていた。自然石というには少し妙だった。この村に来るまでに見た、川にゴロゴロと転がっていたような大きな石が、ふいに山中に現われたのだ。だれかが、ここまで持ってきて置いたような作意を感じた。こんな大きな石を運ぶなんて、かなりの人数じゃないと無理だ。いったいこの石はなんだろう、と思いながら石の周囲を眺めていると、京介さんが「墓だ」と言った。
墓? なんの墓だ。
墓石にしても大きい。大き過ぎる。しかも戒名もなにもない。ただの横たわっている石なのだ。 しかしたしかに、そう言われると墓であるということがしっくりくるような気がするのだった。
「あ」
思い出した。昔、祖母に聞かされたことがあった。ひょっとしてこれは……。
「ヤツラオの墓かも知れません」
「ヤツラオ?」
「八つの面(つら)の王と書く化け物ですよ。たしか蛇神の一種だったかと」
祖母は教えてくれた。この村の山中にはヤツラオの墓が沢山あると。どの墓も大きく、そして大きい墓ほど恐ろしいヤツラオが眠っていると。
「ヤツラオ、ね」京介さんは石を撫でようとした。
「ちょっと待って下さい」
とっさにそう言うと、京介さんはビクリとして手を止めた。
祖母は言っていた。ヤツラオの墓に出くわしても、手を合わせたり祈ったりしては駄目だと。起きてくるから、と。
京介さんにそう説明すると、気持ち悪そうな顔をしたあと、「戻るか」と言った。得体の知れない寒気を背中に感じながら2人で元来た道を戻った。
「好きよね、ほんと」
戻ってきた俺たちに、kokoさんがぼそりと言った。
役場の近くの商店でアイスを買ったあと、トンボがやたら飛んでいることにkokoさんが喜び、指を天に立ててそこに止まらせようとやっきになっていた。黄緑色なので、ギンヤンマだろうか。
3人並んで指を立てていたが、結局1匹も止まってはくれなかった。
そうしてしばらく遊んだ後、伯父の家に帰った。日が暮れかけていた。
置いていかれた師匠がむくれているかと思いきや、伯父の家では師匠を中心に将棋大会が盛大に開かれていた。
「強いな、この兄ちゃん」
近所のおっさんが縁側に陣取って、師匠と盤面に相対している。それを伯父や近くの集落の大人たちが取り囲んで見ていた。
聞くと、目が覚めたあと、置いていかれたことを知って腹を立てていたが、暇つぶしに伯父に誘われて将棋を始めたら、気がつくとこうなっていたそうだ。
どうやら娯楽のないこの村では、将棋がオールタイムベスト級の遊びらしく、みんなたしなんでいるのだが、指すメンバーも毎回同じであり、強い弱いのヒエラルキーが完全にでき上がっていた。そこに、外から思いのほか強い指し手が現われたことによって、大騒ぎになったようだ。
「ああ! 負けた」
おっさんが悲しげな声を上げた。それを受けて、だれかが「栃ノ木の作次郎さんを呼んでこにゃ」と言い、「いや、ここはワシがもう一番」などと言ってワイワイと騒いでいる。
その輪のなかで、師匠がなんとも言えない疲れた表情を浮かべて、こちらにS.O.S.サインを送ってきていた。勝ち過ぎて、やめるにやめられなくなっているらしい。
「頑張って」と両手の拳を胸の前で握るサインを送り、俺たちは自分の部屋に逃げ込んだ。
結局、その騒ぎは晩の8時過ぎまで続き、うちはもう晩御飯だから! と、とうとう怒った伯母のひとことで、蜘蛛の子を散らすようにみんな退散して行った。
遅い晩御飯を、またあの大きなちゃぶ台を囲んで食べ終わると、ふらふらと自分の部屋に戻ろうとする師匠を押しとどめて、さっき商店で買い込んで来た花火をやりに庭に出た。
打ち上げ花火は迷惑だろうと思って、手で持つタイプの花火ばかりを買った。ヒグラシがまだひっそりと鳴いている夜の闇のなかで、赤や緑の綺麗な火花を見つめていると、なんとも言えないノスタルジックな気持にひたることができた。
白い煙の向こうに、ノースリーブのTシャツに着替えた京介さんがいて、その横ではワンピース姿のkokoさんが、線香花火のパチパチと爆ぜる玉を奪おうとして近づき、逆に自分の分を取られて悲しんでいる。
午前中になんだか気持ちの悪いことが続いて、すっかり気分が重くなっていたが、穏やかなうちにこの田舎暮らしも終われそうだった。
俺たちの花火を縁側で見ていた伯父夫婦に、「明日帰ろうと思います」と告げる。
「まだいいのに」と引き止められたが、京介さんのことを考えると明日が限界だった。彼女は、たぶん眠っていない。自分の部屋でしか眠れない体なのだ。慣れてる、と本人は言っていたが、今夜で2日徹夜することになる。もうドクターストップだった。
でも、楽しそうでよかった。
師匠に背後からスニーカーへの花火攻撃を食らい、反撃のため3つ同時に手持ち花火に火をつけて、追いかけ回し始めたのを見ながら、そう思った。
◆
何時だろう。
目が覚めて、高い天井をぼんやりと見ていた。部屋の柱時計の音が規則正しく聞こえてくる。
トイレではなさそうだ。俺は自分が目覚めた理由を考えた。
そうだ。なにか音を聞いたような気がする。
むくりと起きる。隣の布団を見ると、また昨日と同じように師匠がいなかった。少し、嫌な予感がした。またバイクの音を聞いたのだろうか。腕時計を見ると、深夜2時半過ぎだった。
いや、違う気がする。
立ち上がり、縁側のほうへ行ってみる。昨日は京介さんがそこで座って煙草を吸っていたが、今日はその姿もない。キョロキョロとしたあと、縁側の外にサンダルがあったのでそれを履いて、庭に下りた。
花火の棒がいくつも刺さったままのバケツの横を通り、嫌に静かな夜の空気に耳を澄ませる。家を外から眺めるが、みんな寝静まっていて、明かりは見えなかった。足音を忍ばせて、玄関のほうに回ってみるが、師匠も、京介さんの姿もなかった。今度は逆に敷地の奥のほうへ回ってみると、垣根のなかに腰の高さほどの木戸があった。
行ったことはないが、この向こうはたしか、ジッサンが暮らす離れがあるはずだ。
そっと木戸を押して、その先へ進む。虫の声がかすかに聞こえてくる。月明かりに目を凝らしながらゆっくりと進んでいくと、垣根の向こうに平屋の建物が見えてきた。
ぞくりとした。
なんだ、あれは。
離れのそばの中庭に、白い袴を着た人物がいた。その人物が、くるくるとその場で円を描くように歩いて回っている。頭には冠から紙を裂いたようなものが無数に垂れていて、顔が覆い隠されている。くるくると体が回るたび、その紙が揺れて、一瞬、その向こうの顔が見えた。
その瞬間、鳥肌が立った。
真っ黒で、巨大な頭をした、まるで鬼のような顔が確かに覗いたのだ。
思わずあとずさり、自分のサンダルが石を噛んでジャリ、という音を立てるのを聞いた。ギクリとしたが、袴の人物はこちらを見ることもなく、そのまましばらくクルクルと回っていた。やがて立ち止まり、持っていた紐……いや、もっと太い、数珠のようなものを両手でまさぐっていたかと思うと、1つ、2つと大きく頷き、離れの玄関のほうへ歩き始めた。
引き戸をガラリと開け、その姿が建物のなかに消える。俺は今見たものがなんなのかわからず、その場で立ち尽くしていたが、不意にどこからともなく声をかけられて、飛び上がりそうになった。
「こっちだ」
そう聞こえたほうへ目をやると、垣根と建物の間の暗がりのなかにだれかがいて、こちらを手招きしている。ドキドキしながら目を凝らすと、師匠だった。恐る恐る近づいていくと、その後ろには京介さんもいた。
「なんなんですか、あれは」
小声でそう訊くと、「話に聞いてた、ジッサンだろう」と師匠が返事をする。「ほとんど寝たきりみたいなことを言ってたのに、元気じゃないか」
妙な物音がするから目が覚めて、ここへ来てみたらあの不気味な顔の人物がいた、というのだ。俺の少し前に目が覚めたらしい。京介さんのほうは、昨日と同じように起きていて、庭で煙草を吸っていたら、やはり物音に気づいて様子を窺いにきたということだった。
「太夫の格好だ。ジッサンは太夫をしていたんだな。だけどなんだあの仮面は」
「仮面?」
そうか。あれは仮面か。そう言われれば見たことがあった。近くの神社でお祭りをしたとき、だれかがかぶっていた気がする。だが、あんな恐ろしい仮面だっただろうか。
「しっ」
京介さんが口に手を当てる。思わず耳を澄ますと、離れのなかから人の声が聞こえてきた。唸っているような不気味な声だった。そろそろと建物に近づき、耳をそばだてる。
『
ききょうを かやし ごぞうを けりわり ちばなを さかさん ごどろいごどろい
くちなし かやし ごぞうを さきわり ちばなを さかさん ごどろいごどろい
おだまき かやし ごぞうを かきわり ちばなを さかさん ごどろいごどろい
しゃくなげ かやし ごぞうを たちわり ちばなを さかさん ごどろいごどろい
…………
』
なんだ、この歌は。
ぞわぞわと、締め付けられるような悪寒がする。そのおどろおどろしい言葉の響きに、耳を塞ぎたくなる。
太夫ごとじゃないぞ。これは。
そう直感する。神を祝い、祭り、スソを取り分け、祓い、封じる。そんな呪文ではない。それがわかるのだ。今までに聞いたことのない悪意を感じる。
むかし、むかし、祖母に聞かされた話が唐突に脳裏に蘇った。
(裏式をうつ太夫もおる)
いったい、どんなことを聞かされたのか、もはや覚えていないが、その『裏式』という言葉の響きがまざまざと蘇ったのだ。
(式をうつこともあるそうですね)
(式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり)
同時に師匠とユキオの先生との会話を思い出した。そうだ。式だ。いざなぎ流には、唱えごとの先に、式王子という呪術があるのだ。自然発生的に生まれる『スソ』とは異なり、意図してヒトがヒトに災いをなすための『因縁調伏』という呪いが存在する。それを成すのが式王子のなかの外法、『裏式』だ。
そうだ。間違いない。太夫のなかでも、強く戒められるはずの、恥ずべきわざだ。師匠が、『犬神の幣がないのはどうしてですか』と訊いたとき、先生は視線をそらした。それは、古くは呪禁道を祖とする邪悪な呪法、犬神の法を成すのは、太夫にほかならないからではないか。
『裏式』としてだ。そしてその効果を最大限に発揮させるため、呪いを祓えないよう、あえて幣を伝えていないのではないだろうか。
そこまで考えてハッとする。リュウだ。リュウは裏山の大杉の根元に埋められた。ジッサンによって。生きていた。生きていたのに、埋められた。それでは、まるで犬神を作るための……。
「おかしいぞ」
俺が悲鳴を上げて逃げ出しそうになった瞬間、師匠がぼそりと言った。
「順序が、おかしい」
そう言って額に手を当てている。京介さんと俺は、2人してその様子をまじまじと見ている。
と、いきなり、師匠が動いた。
「失礼!」
大声でそう言って、玄関の引き戸を開け放ったのだ。建物のなかからの声がピタリと止まる。
あまりに驚いて思わず硬直した。そんな俺を置いて、さっさと師匠は建物へ入っていった。
「無作法を承知で失礼します。先日よりこちらでお世話になっている者です。あなたは今、だれに裏式を返そうとしたのですか」
裏式を、返す?
室内から聞こえてくる師匠の言葉の意味がわからず、その場にただ立ち尽くしていたが、京介さんに肩を叩かれる。
「こい」
そう言って無理やり引き戸のなかに引っ張り込まれた。
狭い室内には、色とりどりの様々な道具が鈴なりになっていて、低い天井を覆うように注連縄がぐるりと張られている。注連縄には白い紙で切り出された人形が一辺あたり3つ。全部で十二体飾られていた。そのなかに、鬼のような仮面の人物が座っていて、師匠と相対していた。
「し、知らぬ」
仮面の人物はしゃがれた声で返事をしたが、その声はうろたえたように震えていた。
「いや、文献で読んだことがあります。『かやしのかぜ』ですね」
師匠は一歩踏み出して訊ねる。
返(かや)しの風だって? 師匠の言葉にピンとくるものがあった。それは、こちらに向けて打たれた式王子を、相手に返す呪法のことではないか。
「あなたはジッサンですね。今の歌は、呪いの言葉である裏式の呪文を逆から読んだ、『逆さよみ返し』だ。そうでしょう? ききょう、くちなし、おだまき、しゃくなげ……季節の順番が逆だ。夏から春へ向かっている。これは、相手を呪う裏式ではなく、それを跳ね返す、返(かや)しの風なんだ」
師匠はそう捲くし立てると、仮面の人物に詰め寄った。
「だれなんです。裏式を仕掛けてきているのは」
「う」
その人物は呻いたかと思うと、仮面を自らの手で外し、唾を飛ばした。
「もつれ太夫じゃ」
仮面の下は男。それも八十歳を越えているであろう老人だった。
どこか祖母の面影がある。やはり、祖母の兄だというジッサンなのだろう。
「おのれの、しんずのかみが、よばわっておる!」
ジッサンはそう言って、師匠の頭を手に持った棒のようなもので叩いた。
ふいをつかれた師匠はそれをまともに食らって怯んだ。
「よせ」京介さんが2人の間に割って入る。
「痛ってぇ」
師匠は殴られた頭を手で押さえ、血が出ていないか確かめている。
「恐ろしい。恐ろしい」
ジッサンはそう言って頭を抱えた。
「返せぬ。返せぬ」
そう言って、震える手で前方にあった鏡を指さした。大きな鏡が、柱に立てかけるようにして置かれていたのだが、そこに変なものが映っていた。
師匠とジッサン、京介さんと俺。その4人のちょうど真ん中に、赤ちゃんがいるのだ。
いや、よく見るとそれは紙でできている。紙でできた赤ん坊。なのに、血が通ったような血色をしている。その赤ん坊が、でこぼこした顔をこちらに向けて這いずりながら近づいてきている。
ぎょっとして部屋のなかを見たが、赤ん坊などいない。しかし、鏡のなかには、いる。それも徐々に近づいてきている。ヒトを模しているが、ヒトではないもの。酷くおぞましかった。
顔が近づいて、鏡に、触れる。そう思った瞬間、京介さんがジッサンから取り上げた棒で鏡面を突いた。
ばりん、という音がして鏡は割れ、柱にぶつかって裏向きに倒れた。
次の瞬間、えええええええええええ、という声がして、鏡が起き上がろうとした。鏡が、起き上がろうとしたのだ。
今度は師匠がそれを踏んづける。そして、どうしよう? という表情でそのまま固まる。こっちを見られても、どうしようもない。カタカタと師匠の足の下で鏡が揺れている。俺は目の前で起こる信じ難い出来事に、膝が笑ってまともに立てないような状態だった。
「見ろ」
京介さんが棒を振り上げ、注連縄の一片に向けた。師匠と俺の視線もそちらに向く。
見ると、注連縄に飾られた紙人形の1つ、がかすかに動いている。顔だ。紙人形の頭の部分には目と口を模した穴が開けられていて、その口が意思を持ったようにパクパクと動いていた。
(ようやく、とっくりと、みられた)
(やはり、たいした、みこがみを)
(もっておる……)
紙人形の口元がそう動いている。読唇術などできないのに、直接頭のなかに言葉が入ってくる。奇怪な現象だった。だれも動けない。紙人形だけが笑うように喋っている。
(まだ、おきておらん)
(もうすこし、てじゅんが、いるか)
(…………)
そこで紙人形は口を閉じた。
死んだ……。
なぜかそう思った。さっきまで擬似的な命を持っていたものから、その命が抜け落ちたような気がしたのだ。次の瞬間、戸が開く音がした。ぎくりとしてそちらを見る。
「ねえ、みんなこっち?」
kokoさんが恐る恐るこちらに顔を覗かせていた。
「消えた」
師匠が鏡から足をどかせる。しかし、鏡はびくりとも動かなかった。ジッサンは頭を抱えたまま、怯えたような呻き声を上げ続けている。京介さんは青白い顔をして棒を床に放り投げた。
「もつれ太夫って、なんです? しんずのかみって?」
師匠がそう訊いても、ジッサンは答えず、いきなり顔を上げたかと思うと、「いね」とわめいて師匠の体を押した。
「いね」
そう繰り返しながら、有無を言わせず俺たちを玄関へ追いやった。離れから追い出された俺たちの後ろで、引き戸が乱暴に閉められる。
俺はさっき起きたことに対する恐怖心がまだ去っておらず、ばくばくとしている胸を押さえながら、「どうしましょう」と師匠に問いかけた。
なにか恐ろしいものに狙われているということだけはわかったのに、それが何者なのかわからない。川へ向かう途中の四つ辻に埋まっていたなにか。ユキオの先生の家へ向かう途中に陥った、緑の迷宮のような現象。
それらもすべて、同じものが関わっているということだけは感じられた。なにか、人知を超えた恐ろしい存在が。そして恐らく、狙われているのは師匠だ。ジッサンはそう言ったのだ。
「しっ」
師匠はそう言って周囲の気配に神経を集中する。あたりはまだ深夜の闇のなかで、遠くから湧き水のさらさらと流れる音が聞こえていた。
なにに狙われているのかわからない以上、対処法がない。逃げるべきなのかも知れないが、山のなかのこと、こんな夜中にどこへも行きようがない。追い詰められたような感じがして、息が苦しかった。新たになにか起こりそうな気配がないことを確認したあと、師匠の提案で自分たちの部屋に戻ることにした。とりあえず眠り、朝まで待つのだ。
そうして4人で母屋に戻り、師匠と俺の部屋にkokoさんの布団を持ってきて、3人並んで床に就いた。部屋の外では京介さんが起きている。「どうせ寝られないし」と言って見張りを引き受けてくれたのだ。
これで2徹目に入るという寝不足に加え、信じられないようなことが起こって、相当に疲労しているのは明らかだったが、師匠は「頼む」と言って眠りについてしまった。
青白い顔で京介さんは頷き、襖を閉めた。
1人にこれほど負担を強いるのは心が咎めたが、師匠の無情に見えるその言動の裏に、『あとは任せろ』という言葉を聞いた気がして、黙って従った。
明日、いったいなにが起こるのだろうか。
「よくわからないけど、おやすみ」
kokoさんだけは妙に能天気な声で欠伸をして布団をかぶった。